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【要約と感想】『「ゼロトレランス」で学校はどうなる』

【要約】間違った指導法「ゼロトレランス」のせいで、子供は不幸になり、教師は疲弊し、保護者の不信は高まり、学校はめちゃくちゃになります。

【感想】最近、大阪のある高校が行った、黒髪指導に名を借りた人権侵害が大きな問題となった。詳細は分からないので事件そのものに対するコメントは控えるが、世間の人々が漏らした感想はなかなか興味深かった。けっこう多くの人が「80年代の管理教育じゃあるまいし、21世紀になって時代遅れな」という感想を述べていたのだ。そういう感想を抱いた人は、本書を読めばきっとガッテンボタンを連打することだろう。報道の通りなら、あの学校の姿勢が「ゼロトレランス」だ。

ゼロトレランスは、トレランスがゼロということ。トレランスとは「寛容」という意味で、つまり「寛容をゼロにせよ」ということだ。要するに、学校という教育の場にあろうが、「教育的な配慮」を一切おこなわず、問答無用で機械的に罰を与えよという姿勢を指す。これは80年代のアメリカで誕生した治安政策に由来するが、現在の日本(あるいは世界)では新自由主義的な経済至上主義の下で、競争原理の信頼性を確保するために導入されているようだ。

しかし、ゼロトレランスが仮に大人の世界の治安対策として適用可能であったとしても、これを「教育」や「学習」の場面に無条件に持ち込むことが極めて異常なことはすぐにわかるはずだ。ゼロトレランスが子供から奪うのは、試行錯誤の機会や、多面的に物事を見る観点を身につける機会や、安心して成長できる雰囲気だ。要するに「人格の完成」へと向かう教育の機会そのものが剥奪される。学校にゼロトレランスを導入するなら、そこが「学校」と呼ばれる必然性はもはや存在しないといってもよいだろう。そこは「教育の場」ではなく、「人材培養工場」だ。

「社会に開かれた教育課程」によって「資質・能力」を身につけさせようとする新学習指導要領が狙っているのも、まさに学校を「教育の場」ではなく「人材培養工場」にしようということなのかもしれない。
「競争」の原理を突き詰めていくと何が起こるかは、姉歯一級建築士事件とかJR西日本福知山線事故とか近年の様々なデータ改竄事件などを見ても明らかだと思うのだが、ああいう事案に共通する「過度の競争によって引き起こされる人心荒廃とモラル低下」がゼロトレランスの強化で解決できるなどと考えているとしたら、お目出度いとしか言いようがない。

横湯園子・世取山洋介・鈴木大裕編集『「ゼロトレランス」で学校はどうなる』花伝社、2017年

【要約と感想】東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション』

【要約】東京大学教育学部が付属校と一緒に、総力を結集して挑んだカリキュラム改革の理念と実践記録。

【感想】個々の論文は、それぞれとても参考になる。言語力育成や、学校図書館利用や、ライフキャリア・レジリエンス教育や、シティズンシップ教育や、哲学教育など、具体的な実践の試みは、どれも興味深く読める。時間をかけて工夫して授業を作り上げていった様子がわかって、頭が下がる。

が、執筆者のスタンスは、もちろん全員一致しているわけではない。「社会に生きる学力」という本書を貫くはずの理念に対して根本から疑念を呈している論文がいくつかあって、なかなか面白かった。
たとえば金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」(123-135頁)は、「社会に生きる学力」が単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧し、教師に期待されるのは産業社会を超えるビジョンを示す力であると言う。また牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」(195-208頁)は、学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧する。このような危惧の根底には、文部科学省がどんなに綺麗事のキャッチフレーズを持ち出そうとも、現今の教育に期待されているのが結局は産業社会に資する人材を供給すること、という認識がある。そして、『学習指導要領』がそういう国是を疑いもせずに大前提にしているという認識がある。

本書のところどころで婉曲的に言及されるが、『学習指導要領』というものに法的拘束力があり、現場の教師の創造性に一定の枠を嵌めている現状においては、本当にカリキュラムをイノベーションすることなどできるわけがない。本書のような創造的な取組みが行われることでハッキリと浮かび上がってくるのは、教育行政の分権(個々の学校の自由なカリキュラム構成権や教科書採択権などを想定)という条件が欠けているところでカリキュラム・イノベーションを云々しても、最初から限界が見えているということだ。各学校は、あらかじめ文科省に枠組みが決められた範囲の中で、抜本的な解決には程遠い細々とした創意工夫を積み上げていくことしかできない。
しかし難しいのは、教育行政の分権を進めたところで、結局は新自由主義的な大枠の下、教育がglobal economyの荒波かlocal communityの狭い利害関心に取り込まれてしまい、一人ひとりの子供の個性を尊重して自己実現を目指すものとなるのかどうかという危惧が拭えないというところだ。果たして「社会に開かれた教育課程」は、どのように一人ひとりの「人格の完成」と結びつくのか。

いろいろ考える材料を与えてくれる本ではあります。

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年

【要約と感想】齋藤孝『新しい学力』

【要約】文部科学省の方針には疑問を感じます。確かに時代は急激に変化しており、問題解決能力の育成は必要です。しかし、それは従来からの地道な学びの過程を否定しては成立しません。もっとも重要なのは、物事をやり遂げる意志の力であり、総合的な人間力です。

【感想】ざっくり言えば、文部科学省の学習指導要領改訂の方向性に疑問をぶつけている本だ。著者は昨今流行している21世紀型の教育(問題解決学習やアクティブ・ラーニング)に疑問を呈し、伝統的な教育は意義を失っていないと主張する。その根拠は大まかには4つある。
一つ目は日本の現状の学力(PISA調査による)がそんなに低くないという事実。あるいは最先端の教育方法を導入しているわけではない(と著者が言う)東アジア諸国の学力が一様に高いことである。旧式の教育のほうが学力がついているのではないかという疑問を著者は述べている。
二つ目は、日本の歴史に照らしてみて、明治維新にしろ戦後復興にしろ、中心となった有能な人材は古臭い教育によって作られたという事実である。著者は、時代の変革者であった福沢諭吉や渋沢栄一の人格の土台を作ったのは漢学の素養であったと言う。古臭い「型」の教育は現代においても有効だと主張する。結果、結論において「素読」を声高に主張することとなる。
三つ目は、かつての同じような試みがことごとく失敗しているという認識である。デューイの新教育も数年で終わっているし、大正新教育も限られた範囲での流行に過ぎなかった。あるいは近年の「総合的な学習の時間」も無残なことになっている。これらの同様事例の失敗から何も学んでいないのではないかという指摘である。
四つ目は、著者自身の経験から、子供たちを放任したら自主的に勉強することなどあり得ず、一定程度の強制の下で知識をしっかり身につけなければ問題解決もイノベーションも起こらないという主張である。総合的な人格の土台が作られていない限り、問題解決的な学習をやっても身につかないと言う。結果、精神論的に「意志」を涵養することの重要性を説くこととなる。教師にとって大事なのは「情熱」を伝えることだと言う。

まあ、その主張それぞれだけ見れば「そうかもね」となりそうだが、ちょっと吟味してみると、いろいろ怪しいところが出てくる。
たとえば著者が「伝統的な教育」と言ったとき、そこに福沢諭吉や渋沢栄一を例として持ち出すのは適切ではない。文部科学省が転換しようとしているのは、福沢や渋沢の後に明治政府が導入した「19世紀型の一斉教授法」である。福沢や渋沢が受けていたのは「17~18世紀型の個人教授」である。時代遅れと問題となっているのは、産業革命によって初めて登場した安価で即席に大量の労働者育成を目論んだ「一斉教授法」の延長にある教育であるはずだ。これをひっくるめて「伝統的な教育」と呼ぶのは、明らかなミスリーディングだ。「伝統的な教育/産業的な教育/ポスト産業的な教育」を明確に分類した上で議論を進めなければならない。
あるいは、東アジア諸地域が日本と同じような「伝統的教育」に終始しているという認識は、本当か? 確かに1990年代まで、東アジア諸国は日本の近代化モデルを参照していたかもしれない。しかし冷戦崩壊後のグローバル化の急速な流れの中、東アジア諸国はもはや日本をモデルとはしていない。東アジア諸国はいち早く21世紀型の教育に転換したとの指摘は多方面でされているはずだ。日本は、世界的な流れから取り残されて、「ガラパゴス化」していると認識した方が良い。その上で、その是非を考えなければならない。教育の世界でいつまでも日本が東アジアの中でリーダー的な存在だと思っていると、客観的な世界情勢を見失う。本書の見方も、危ういように思う。40人学級のような時代遅れなことを続けながら、精神論で片がつくと思っているなら、たぶん、日本はもう一度負ける。

まあ、著者が言いたいことはわからなくもない(私も文部科学省の方針に全面的に賛成のわけではない)し、教育に対する熱意や情熱自体を否定するものではない。著者が大学で行っている実践には、学ぶべきものがたくさんある。今は、多方面から知恵を出し合い、実践を積み重ねていくしかない。

斎藤孝『新しい学力』岩波新書、2016年

【要約と感想】今井むつみ『学びとは何か』

【要約】知識とは断片的な情報の集積ではなく、それぞれの要素が有機的に関連したシステムです。だから人間は断片的に知識を身につけることができず、一定のスキーマ(思考の全体的な枠組)を背景にして知識を組み入れていきます。個々の知識を組み込む際にスキーマそのものを更新していくのが良い学びです。誤ったスキーマに固執すると、学びは成立しません。

【感想】まあ、言いたいことは分からなくないし、幼児の母語獲得過程の話は勉強になったけれども(著者が「母語」ではなく「母国語」と言っちゃうところは迂闊なわけだが)。
ただ、肝心の学習論に関しては、常識的な枠組みの範囲内の話かなあと思った。たとえば「学びとはスキーマの更新だ」という命題は、竹内常一の「自分くずしと自分つくり」とか林竹二の「徹底的な吟味による自己否定」など、教育学の世界では連綿と語り次がれてきたものであって、認知科学の言葉で改めて語り直されたものではあるが、内容的な目新しさはない。本書のキーワードである「生きた知識」にしても、認知科学の言葉で語り直されているとはいえ、主張内容自体はデューイが100年前に既に述べていることを超えているような気はしない。まあ、人文科学的な常識に認知科学がお墨付きを与えてくれたと思えばいいのかもしれないが。

また、科学的な認識過程の称揚ぷりには、「今は19世紀末だっけ?」というようなアナクロ感をも覚える。本書に描かれている科学観は、ディルタイ以前のものだろう。たとえば「解釈学」は、本書の立場からはどう位置付けられるのだろうか。あるいはトマス・クーン以前と言ってもいいか。「パラダイム・シフト」という概念を、本書はどう扱うのだろう? 「進化論」の展開過程は、本書のスキーマで扱いきれるのだろうか?
全般的に不満に思ってしまったのは、「学び」と銘打つからには教育学が蓄積してきた知見について少しは触れて欲しいなあと思ってしまったからなんだろう。ピアジェとかブルーナーとか、確かに認知心理学は教育思想に大きな影響を与えているけれども、「学び」という言葉はそこに解消できるものではないわけで。

まあ、一般向けの新書だからこれでいいのかな。学部生が高校までの受動的な学びから脱皮するには、きっと良い本でしょう。

今井むつみ『学びとは何か―〈探究人〉になるために』岩波新書、2016年

【要約と感想】田村知子『カリキュラムマネジメント』

【要約】社会が激しく変化する昨今、カリキュラムをマネジメントしないと、学校はやっていけません。初心者でも簡単に始められるカリキュラムマネジメント分析シート付き!

【感想】極めて具体的で実践的なチェックシートもついていたり、先進的な実践例のどこがどう凄いかも丁寧に解説されていて、さらに理論的な背景もコンパクトに説明されており、どうして今の学校にカリキュラムマネジメントが必要なのかにも現実的な説得力があり、「いっちょカリキュラムマネジメントでもやってみるか」と思っている向きにはとても参考になるのではないか。さくっと読めるし。

で、カリキュラムマネジメントを省略して「カリマネ」と呼ぶことがあるわけだが、本書で「借り真似」にならないようにと釘を刺しているところは、ちょっと笑ってしまった。なるほど。まあ、「借り真似」できるところは積極的に借りて真似するのは別に悪くないことで、要は目の前の子供のニーズをしっかり掴んで適切にアレンジできるかどうかが重要なわけだが。

とはいえ気になることは、やはり教育の目標である「人格の完成」という概念とカリマネとの関連性である。本書にも一ヶ所だけ「人格の完成」に触れられている。具体的には「学校のミッションは本来、各家庭・地域からあずかる子どもたちを、人格の完成と自立した社会の一員としての資質形成をめざして、よりよく成長させることです。そのための主たる手段が授業を中心とした教育活動であり、その集積がカリキュラムなのですから、適切かつ効果的なカリキュラムを編成・実施することは学校の第一の責務です」(11頁)と書いてあるが、本当だろうか? この文章だけでは、カリキュラムマネジメントと「人格の完成」という概念が内在的にどう関連しているかはさっぱり分からない。教育理念不在あるいは教育理念外部丸投げで「学力向上」をひたすら目指す営みだという感想が強くなりつつある。理念不在でいいならそれでいいとはっきり宣言してくれればスッキリするのだが、お題目だけ「人格の完成」に触れるところがモヤモヤ感を増幅させるのであった。カリキュラムマネジメントして社会に開かれた教育課程を編成して資質・能力を身につけさせることが、本当に「人格の完成」と呼ぶに相応しい営みなのか、きちっと説明している論理を見たことはない。まあ、それは本書に要求するべきことではなく、別の人(たとえば教育原理論の専門家たち)がしっかりやるべき仕事ではあるけれども。

まあ、カリキュラムマネジメントに実践的な関心がある人にとって具体的にも理論的にも分かりやすい本であることには間違いがないと思う。

田村知子『カリキュラムマネジメント―学力向上へのアクションプラン』日本標準ブックレット、2014年