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阪大の出題ミスについて教育学者として思うあれこれ

2018年1/6、大阪大学が「平成 29 年度大阪大学一般入試(前期日程)等の理科(物理)における出題及び採点の誤りについて」を公表した。 この問題に対する反応が、物理学者と教育学者とでかなり異なったことが気になったので、思ったことをつらつら記す。

大学関係者として

まず、不利益を被った学生たちは、本当にかわいそうだ。大学側として誠実な対応をするのは当然だと思う。再発防止のための取組みも真剣にしていかなければならない。
そしてこれは阪大だけの問題ではない。「他山の石」という言葉もあるが、全ての大学関係者が気持ちを引き締めなければならないと思う。

尾木直樹の発言に対する違和感

それはそうとして、気になったのは物理学者と教育学者で、問題に対する反応がかなり違ったことだ。まあ、教育学者と言ってもサンプルは尾木直樹だけではあるが。彼は「被害学生には何の落ち度もない」と言っていて、それ自体はその通りだと思う。私もそう思う。ただ、阪大の対応が「初歩的」で「杜撰」で「謙虚さが欠落」と言っているのには、違和感を持つ。なぜなら、本当にそう言い切れるためには、出題をなぜミスしたかの具体的な検討が必要なはずだが、彼はその作業をまったく行っていないからだ。内容そのものを完全にスルーして、「形式的」な問題指摘に終始している。この態度でも、確かに一般的で形式的な教訓を引き出すことはできる。しかし逆に、この問題だけに固有の事象を捉えることは放棄する態度と言える。
一方、物理学者たちはさっそく当該問題そのものの具体的な検討に入った。この問題を単に一般的・形式的な出題ミス問題にとどめず、どのような固有の事情があるかを突き止めようとしたのだ。固有の内容を突き止めようとする物理学者たちの態度と、形式的で一般的な批判で終わる教育学者の態度の違いは、どこから生じるのか。ここが私が持った違和感である。

実際に問題を解いてみよう

まず、教育学者に欠けているのは、当該の物理問題を実際に解いてみようとする態度である。というわけで、私は実際に問題に取り組んでみた。(問題そのものを知らない人は、阪大の公式見解pdfをご確認ください)
問題を見た瞬間、正直、「めちゃめちゃ簡単な問題だなあ」と思った。こんな簡単な問題で解答が3つもあるとは、にわかには信じがたい。数式を使わなくとも、10秒もあれば答えは出る。と思った。

ということで、出した答えは「d=1/2nλ-1/4λ」。両辺を2倍すれば、阪大の当初の模範解答となる。
が、しかし。まさかこんな簡単な問題で紛れがあるはずがない。どこに落とし穴があるかと改めて考え直してみると、私が「音」というものの性質を見落としていることに気づいた。単純に「音=波」と考えてはダメで、波は波でも音は「粗密波」であることを考慮しなければならない。音が「粗密波」であり、音源から360度放射されているを考えると、音叉から出る音はy軸上の正と負で同位相になっているだろう。ということで、改めて考え直すと。

どう見ても答えは「2d=nλ」となる。つまり最初の回答はまちがっていたことになる。
と思った瞬間に、さらに「あれ?」となる。というのは、壁で波が反射する時、粗密波は位相が反転するんだっけ?というのに確信を持てなくなったからだ。位相が反転するなら「2d=nλ」でいいのだが、反転しないなら位相をズラす必要があって、答えは「2d=nλ-1/2λ」とならなければならない。「-1/2λ」をつけるかつけないかを決めるのは、単に波の性質を一般的に知っているだけでは不十分で、「波としての音の本質」というものを理解していなければならないのだ。
ここまで来て、当初抱いた「なんて簡単な問題だ」という感想は見事に裏切られる。実は「音の本質」を聞いてくる、なかなか要点を突いた問題のように見えてきたからだ。実際に問題を解いてみれば、教育学者の方もひょっとしたら違った感想になったかもしれない(変わらないかもしれない)。

では、どこが問題だったのか?

じゃあ、実際のところ、この問題の何が間違っていたのか。それはもはや25年前に受験物理を囓っただけのシロウトには荷が重い。物理学者たちの解説を傾聴するしかない。たいへん参考になったのは、藤平氏の解説である。解説はこちら
正直言ってもはや細かい説明にはついて行けてないのだが、いちおう「点音源」という表現に問題の核心がありそうだということだけは掴んだ気がする。そして「音叉」というものが、理想音源として扱うには地獄のようなものだということも。
つまり、私の理解が正確なら、事は単純な「物理の問題」ではなく、「世界設定」の問題だ。むしろ、単純な「物理の問題」であったら、常識的に考えれば、解決までこんなに時間がかかるわけがない。「世界設定」の問題だったからこそ、解決まで様々な紆余曲折を経なければならなかった可能性はあると思う。いやまあ、教育学者の言うように、単に「杜撰」で「謙虚さが欠落」していた可能性もゼロではないけれども。

物理の日本語問題

ここまで考えて思い出したのが、AIとして東大受験を目指し、偏差値57.1まで行ったという「東ロボくん」のことだ。(参照「「東ロボくん」が偏差値57で東大受験を諦めた理由」)
意外なことに、東ロボくんは数学や物理がけっこう苦手だという。AIなんだから計算は得意だろうと思っていたら、どうやら事はそう単純ではないようだ。AIにとって、日本語問題文の読み取りと理解が、特に物理ではかなり難しいらしい。物理では、問題を解く前に「世界設定」を理解する必要がある。あるいは暗黙の世界設定に乗っかって問題を解く必要がある。どうやら現在のAIでは、この世界設定というものにまだついてこられないようなのだ。ディープラーニングによって地理や歴史の穴埋め問題には簡単に対応できるAIも、世界設定を理解した上で問題に取り組むレベルには届いていないらしい。
となると、「物理」という世界は、人々の一般的なイメージとはかなり異なり、実はあまりにも人間くさい領域ということすら言える。だって、「世界設定」ができるのは人間だけなのだから。私が尾木直樹の発言に抱いた違和感の源は、ここにあるのかもしれない。彼は、なんとなく「物理なんだから答えは一つで間違えるわけないでしょ。指摘されても間違いを認められなかったのは担当者が傲慢だったせいだ」と考えているように見えるのだが、私から見ればそう断言できる根拠はない。これは、AIではまだ理解できない「人間くさい」領域だからこそ起きた問題だったのではないかと思えてくるのだ。
だからといって、もちろん阪大のミスが免罪されるわけではない。再発防止のために、阪大だけでなく、すべての関係者が気を引き締めていかなければならないところだ。

ところで、この問題を受けて。大学入試改革に伴って導入される「思考力・判断力」を問うような「人間くささ」を前面に打ち出した新テストにおいて、どのように評価の 客観性を確保するかは、極めて困難な課題であることが分かる。新テスト導入にはたいへんな混乱が起こることが容易に予想できるわけだが、さて、文部科学省はどう対応するのだろう。人ごとではないので、さらに動向に注意して、しっかり対応していきたい。

さらに、ロンブー淳の青学受験に対し、教育学者として思うあれこれ

有益な批判と温かいアドバイスをたくさんの方々からいただいたので、ありがたく参考にして、改めて書き起こしてみました。

(1)敬称について

結論から言うと「さん」づけはしません。が、それは決して無礼な振る舞いを意図的にしてやろうというわけではないことは、ご理解いただきたいなあと思います。「さん」づけしてなくても必ずしも無礼には当たらないという形式的な理由については、このページの末尾で説明します。
が、より重要なのは本質的な理由です。思ったのは、単に「さん」づけすればいいのかというと、それで納得されるはずがないだろうということです。本当に心がこもっていないのに、表面的に「さん」をつけて誤魔化すのでは、まったく意味がありません。逆に「さん」づけしてなくても、ちゃんとリスペクトしていることが伝わりさえすれば、問題は起きないし、起きなかったはずです。
ですから、本質的な問題は、私が彼をリスペクトしているかどうかについて大きな疑問が持たれているということであって、形式的に「さん」がついているかどうかではありません。で、読み直してみると、いちおう私が彼をリスペクトしていることはちゃんと、しつこいほどしっかり書かれていましたが、ただ抽象的な表現に終始していたことが大きな問題であるように理解しました。そこで、まずそこを抽象的ではなく、具体的な表現で書き起こすのがいいかなと。

ちなみに、それとは別に、漢字を間違えるのは最悪だ! 不快に思われた方々におかれましては、たいへんなご無礼を働いたこと、重ね重ね申し訳ありません。謹んで謝罪申し上げます。
というか、みっともないし恥ずかしい! 大反省。

(2)リスペクト

さて、彼の臨機応変なトーク力や、出演者の持ち味を引き出す司会力、どんな企画にも対応する適応力など、持っている様々な「力」については、ここで改めて私が繰り返すまでもないでしょう。ちなみにこの様々な「力」は、いま教育界で大きなテーマになっている「21世紀型スキル」とか「ソフトスキル」と呼ばれているものを考える上で大きなヒントになります。が、それは後に考えるとして、まず、世間ではあまり言われていないけれども、私が特に素晴らしいと思っている点を明らかにしておきます。
個人的に素晴らしいと思っているのは、城! 城であります。城を前にしたときのはしゃぎっぷりや、武将について語っているときの嬉しそうな顔は、ほんと、人を幸せにします。素晴らしい。特に私のような城マニアにとっては、彼が強調する「守る側の視点」というのが、実に素敵です。城好きはだんだん増えてきたけれど、多くは「攻める側の視点」から城のことを考えます。だいたい城に行く時は、しばしば「攻める」という動詞を使いますしね。ですから、彼の言う「守る側の視点」というのは、なかなか一般の人に理解される姿勢ではありません。けれども、これが分かると城というものが一気におもしろくなるわけですよ。こういう重要ポイントが分かっている人とは、ぜひ一緒に城を歩きたい。楽しいに決まっている。
そもそも我々が「城」って言ったとき、世間一般の人が思い浮かべる「城」のことを言ってませんからね。世間一般の人が思い浮かべるのは「城」ではなく、ほぼただの「天守閣」に過ぎません。我々が「城」と呼んでいるのは、ただの「天守閣」なんかではなく、広大な縄張りが張り巡らせられた構造物全体や、あるいはその周辺の城下町や街道をも含めた地域全体を指しているわけですよ。建物なんてもちろん一切ないし、石垣すらなく、土塁や堀などの土木工事のわずかな痕跡しか残っていないような「城」の数々。世間の人は「それ、城じゃなくて、城跡じゃね?」とか聞き返してくるけれど、違うんです。それが我々の言う「城」なんです。
そんな城の魅力を語りながら一緒に歩きたいと思わせる芸能人は、彼の他には春風亭昇太と中島卓偉などの名前を挙げられます。彼らと一緒に行くなら、特に鉢形城とか杉山城あたりが盛り上がるんじゃないかな。杉山城の土塁の屏風折りなんて見たら、絶対にみんなで大はしゃぎだ。超楽しそう。そして彼なら、こういう城の魅力を、ブラタモリ的に、世間の人々にわかりやすく伝えられるんじゃないか。池の水をぜんぶ抜く番組の魅力だって、まあ企画の力が一番ではあるけれども、それに加えて彼が純粋に楽しそうにやっているからたくさんの人に伝わるわけで。そういう資質は、本当にピカ一だ。そういう資質を、城の魅力を伝える仕事に使って欲しいと、心から願ってるわけですよ。

でもそんな彼が受験チャレンジを発表し、受ける大学が青山学院大学だって聞いたとき、「?」ですよ。「?」。なんで青学?

(3)オードリー春日との比較

たとえばロンブー淳の大学受験チャレンジが発表されたとき、
「さあ、果たして淳はどこの大学を受けるのか?」
「奈良大学の受験を決意しました。」
「えっ? 何で?」
「なぜなら城郭研究の第一人者、千田嘉博教授がいる大学だからです。」
だったら、「なるほど、城ね」で、すごく分かりやすいわけです。が、実際は奈良大学じゃなくて、青学でした。なんで青学なのか、その理由は、今に至るまでよくわかりません。まさか、奇妙な走り方を矯正してもらうために原晋監督に教えを請いに行くとかじゃないわけでしょう。しかし、オードリー春日が東大受験を発表して、しかもけっこう多くの人が彼のチャレンジと春日のチャレンジの比較をして、しかもネット民たちが平気で「春日の方がすごい」とか言いだし始めたときに、私のモヤモヤ感の源が明らかになりました。
確かに、偏差値だけで比べるのなら、東大受験を目指す春日の方がすごいかもしれません。でも春日の場合は、東大に入って能力を伸ばすのが目的ではなく、ビディビルや潜水と同じで、ある決まったルールと基準に則って自分の限界に挑戦することが目的になっています。東大に入ることそのものが目的なのではなく、「入れるかどうかを試す」ことが目的になっています。でも、ロンブー淳の場合、大学受験の目的は、そういうただの「力試し」でしたっけ? 違うでしょと。彼の場合、ただの「力試し」がしたいわけじゃなくて、本気で学びたいと思ったわけでしょ? 「力試し」で東大を受けるのと、「本気で学びたい」から青学を受けるのでは、まるで意味合いが違うのだから、本来は比較不可能なチャレンジのはずです。比べちゃいけないし、そもそも比べられないもののはずです。それなのに、多くのネット民が彼と春日を比較した。あるいは、本来は比較できないはずのものが、簡単に比較できてしまった。ここに違和感の源があります。

(4)数字で比べられない力

そもそも、淳の持ち味は、世間的なモノサシでは測ることができず、数字に変換なんかできない力にあるわけですよ。たとえば、二人を走らせたら、確実に春日が勝つでしょう。おそらくあらゆる身体能力の数値では春日の方が上でしょう。勉強させても、春日が勝つでしょう。数字に変換できるスペックで言えば、春日の方が上なわけです。じゃあ、だからといって、今の淳のポジションを春日に代えれば、番組はもっとおもしろくなるのか? と聞けば、誰だってそのおかしさに気が付きます。彼らの価値は、そもそも数字に変換できるものではないからです。
まあ、芸能界は、あらゆる能力を視聴率という数に変換して、一律のモノサシで評価を下す世界でもあるわけですが、少なくとも彼らはその世界での競争を、身体能力とか偏差値などという数字上の優劣で勝ち上がってきたわけではないはずです。自分の個性や持ち味は何で、自分はどんな武器を持っていて、その武器をどこでどう使ったらいいかという、そういう工夫を重ねて、努力を積んで、知恵を絞って、自分を信じてキャリアを積み上げてきたはずです。そしてその力は、これからの不確かな時代を生き抜くのに絶対に必要な力であり、芸能界だけではなく全ての人に必要な力です。
一流大学を出さえすれば人生バラ色だなんて時代は、とっくに終わっています。いまや、誰もが身体能力とか偏差値とかいう比較可能な数字ではなく、自分だけが持っている武器を磨きながら戦うことが必要な時代になっています。わかりやすい数字に変換できる力に頼ることができず、自分だけが持っている武器を自覚して磨き上げることで今のキャリアを築きあげた彼の才能と知恵と努力は、変化の激しい21世紀を我々が生き抜くための極めて優れたモデルになるはずです。そんな力を持っている人間が、細々とした知識を持っていないくらいで、自分の子供の教育を見てあげられないなんてことは、ありません。英単語の一つや二つを知っているよりも、はるかに人生で重要なことを彼は知っているはずだからです。自分を信じて戦っている父親の背中を見て、子供が何も感じないわけがありません。

(5)教育の本質

「教育の本質」とは何かということについて、古来ギリシア時代から「その人が本来もっている可能性を引き出すこと」と考えられてきました。しかし今、教育とは、人間が持つ多様な力を数字で比較できるもの(学力とか偏差値とか呼ばれる何か)にせっせと変換し、本来は比べられなかったものを比較可能なものに落とし込み、優劣をつけて選別するものと考えられています。ただそれは本来「選抜」と呼ばれる機能に過ぎず、教育の本質とは違っているものです。「選抜」の発想に取り付かれた人は、彼と春日を簡単に比較します。しかし教育を「その人が本来もっている可能性を引き出すこと」という本質的な観点から考える人は、彼と春日のチャレンジを比較することをバカバカしいと思うはずです。
が、私が違和感を持ったのは、今回の受験チャレンジが、本来は誰とも比較できない個性を持っていた彼を、わざわざ人と比べられるフィールドに引っ張り出しただけに過ぎないのではないかというところです。比べてはいけないものを、わざわざ比べられるものに変換しているだけではないかということです。彼を単なる「選抜」の世界に押し込んだだけで、教育の本質が見失われているのではないかという危惧です。
彼本人の「学びたい」という気持ちは尊いもので、それを否定したいわけではないことは、もう分かってもらえていると思います。私が言いたいのは、同じ「学ぶ」にしても、単に「選抜」の世界に押し込めるのと、教育の本質を大切にするのとでは、まるで意味が違うということです。仮に同じように受験にチャレンジするにしても、さらにそのプロセスをバラエティ番組として編成するにしても、もっと彼の個性や持ち味を大いに発揮できるようなやり方があるはずです。そして私は教育学という学問をやっているので、その可能性がかなり明瞭に見えた気がしました。しかもその可能性は、他の多くの若者が抱える課題をも明らかにしてくれます。だから、見解を述べたわけですが、その内容は前の文章に過不足なく書かれているから、繰り返しません。

(6)春日に対するフォロー

ちなみに春日も、彼が持っている自分だけの武器を磨きながら戦っているのであって、そしてそこが彼の魅力だと認識されているはずで、単なる数字に変換されるような能力だけで評価されているわけではないはずです。彼の場合は、ナンバーワンを目指すことを通じてオンリーワンを掴もうとするという、なかなか困難な道を進もうとしています。それは純粋に凄いなあと思います。が、まあ、彼が合格すると他の受験生が不合格になってしまうという受験の場合は、彼一人だけを応援するわけにはいきませんけれども。

(7)青学に対するフォロー

青学の史学科の先生方も立派な業績の方ばかりで、別に奈良大学に劣るということを言いたいのではありません。ただ、近世農漁村史や中世交通史の専門家の方も城郭研究についての指導は問題なくできるでしょうが、それでも城郭研究の第一人者につくのとはやはり違うわけです。数字で比べて優劣がどうこうという話ではなく、個性とマッチングしているかどうかという話です。
まあ、中世交通史を通じて、たとえば武田信玄や上杉謙信の軍道について詳しくなるのも、おもしろそうではあります。

 

 

(補足)「さん」づけしなくても礼儀を欠いていない理由

で、「さん」づけに関してですが。以下、やや学術的な記述になることをお断りしておきます。
まずポイントは、言葉というものは2種類にわけられるということです。W.J.オングによれば「話しことば/書きことば」という区別。あるいはバーンステインによれば「限定コード/精密コード」という区別です。結論から言えば、「話しことば」とか「限定コード」を使ってコミュニケーションしているときは間違いなく「さん」づけをするべきでしょうが、「書きことば」とか「精密コード」を使ってコミュニケーションしているときには、むしろ「さん」づけをすることは多くの場合で不適切になります。で、問題になった文章は、徹底的に「精密コード」で読まれることを前提とされた文章です。ですから、そこで「さん」づけをするわけにはいきません。
だから、「精密コード」に慣れている人は、私の文章に「さん」がついていないことをまったく問題にしないわけです。いっぽう「限定コード」でコミュニケーションが行われていると認識している人にとっては、同じ文章を見ているにもかかわらず、許しがたい無礼と傲慢に見えるわけです。
この態度の違いが出てくるのは、「文脈」の中で「人格」というものをどう扱うかということに関する違いが理由となってきます。「限定コード」においては、目の前にいる人格とコミュニケーションする際に、言語以外のあらゆる情報(表情や身振りなど)を活用し、「文脈」を形成していきます。言葉はコミュニケーション全体の中で、ごく一部でしかありません。コミュニケーションを成立させるためには、自分と相手の表情や身振りなども含めた全人格的なリソースを尊重する態度が必要になります。目の前の人格を全体的に尊重していることを示すために、「さん」づけは効果があります。
しかし一方、「精密コード」においては、相手の身振りや表情などのリソースを利用することを一切期待せず、ただ言語と論理の積み重ねによって、具体的文脈に依拠しない客観的な記述を作り上げます。その際には、相手の人格を論理展開に巻き込まないような配慮が必要となります。名前は、行為や言葉が帰属するラベルのようなものとして、基本的に人格とは切り離されて流通する必要があります。そういうとき、具体的には、「さん」づけをしないことが、相手の人格への配慮となります。行為や言動に対する客観的記述が、ダイレクトに人格の評価へと結びつかないための配慮です。
しかし、私が「精密コード」としてコミュニケーションされることを期待して「さん」を抜いた文章は、「限定コード」として読まれたときには、無礼で傲慢で上から目線のものだと理解されることになります。
というわけで、あの文章は、「精密コード」の様式について馴染みがない人からは憤慨される可能性が極めて高いということになります。じゃあ、「限定コード」に変えればいいかというと、話はそういう問題ではありません。「精密コード」でコミュニケーションするべきか「限定コード」でコミュニケーションするべきかは、「何を伝えるか」という内容に依存します。あの内容は、どうしても「精密コード」で書かれなければならないのです。そんなわけで、憤慨されるリスクを認識しながらも、それでも決して「さん」づけするわけにはいかないのです。

で、ここまで書いても、精密コードに馴染みのない方の違和感は拭えていないはずです。しかし精密コードに慣れている人は、なんでこんなに分かりきった当たり前のことを言うのかと思っているはずです。そういうものなんです。分からない方々には、「私にはさっぱり理解できないけれども、そういう世界もあるんですね」という感じで受け取ってもらうことを期待するしかありません。言ってみれば、宗教が違えば何を正しい礼儀とするかの基準が違ってくるようなもので、私にとってはあの文体が最大限の礼儀を尽くしているのだとしか説明のしようがないんです。恐れ入ります。

ロンブー淳の青学受験に対し、大学教員として思うあれこれ

いろいろ思ったのと、目の前の学生が抱える困難や課題とかぶったので、記す。

消費としての受験

ロンドンブーツ淳が来春に青山学院大学を受験するそうだ。彼個人のチャレンジそのものに対しては、特に応援しようとも思わないし、かといって特に批判をする必要も感じない。彼に限らず、一度目標を定めたからには、受験生はみんな人事を尽くして頑張ろう、としか言いようがないところだ。

とはいえ、教育学を専攻とする大学教員として、彼のチャレンジがプロジェクト化されていることに対しては、思うところがないわけではない。
まず率直に思うのは、合否も含めた受験のプロセス全体が「商品」として娯楽消費の対象となっていることについて。淳のチャレンジに限らず芸能人の受験物語一般に言えることだが、別に番組に編成せずとも勝手に受験すればいいだけのものが、消費の対象としてプロジェクト化される。ネットでの炎上を含む賛否両論の意見も消費の要素としてパッケージに組み込まれる。チャレンジ表明から合否判定まで一連のパッケージ全てが娯楽商品として消費し尽くされることが期待されているわけだが、残念ながらプロセスそのものに教育の本質に触れるものが何一つ存在しないことに対し、教育に携わる者としては苦々しく思わざるを得ない。
が、他の芸能人受験プロジェクトにも言えることではあるが、ただの消費を超えて公共的に教育的価値を生産する営みに昇華する可能性がないわけではないとも思うし、その可能性を追求することは番組自体も興味深いものに仕上げていくはずだ。それができないとしたら、ただありきたりの受験ストーリーしか想像できない制作者たちが勉強不足なのだろうと思う。というか、いま、単に芸能人が頑張って勉強して大学に入りましたって、そんな企画を誰が喜んで観るのだろう。どうせ作るのなら、この時代とこの人間でしか作れないような、教育的価値を生み出すような企画であってほしい。
以下、教育に創造的な価値をもたらすという観点から、少し考えてみたい。

(1)「センター試験」廃止のタイミング

このプロジェクトの興味深いポイントの一つは、淳がAO入試ではなく、センター試験による受験を目指していることだ。よく知られているはずだが、センター試験は2020年1月の実施を最後に廃止され、2021年1月からは新しい「大学入試共通テスト」が開始されることになっている。この新テストのモデル問題が先日公表され、なかなかの攻撃的な変化に多くの受験関係者が驚いたことは記憶に新しい。
この大学受験制度の変化の背景には、文部科学省が進めている教育そのものの大改造がある。文部科学省は、ここ30年ほどの間、大量の「知識」を暗記一辺倒で溜め込むような旧来の教育をやめて、知識を柔軟に活用して実生活を豊かにしていくために実質的な「能力」を育てる教育に転換しようとしてきた。そして大学入試が知識の暗記量を問うような旧来型のままでは、どんなに文科省が笛を鳴らしたところで、高校や義務教育の授業が変わるわけがない。実際に、文科省の教育改革はなかなか軌道に乗る気配を見せなかった。そこで文科省はセンター試験を廃止して新たなテストを作り、大学受験の在り方を変えることで、高校の教育や勉強の在り方を実質的に改革しようとしたわけだ。
こういう経緯で登場する新たな「大学入試共通テスト」は、従来のセンター試験とはかなり様子が異なっている。例えば数学では、単に公式の暗記量や計算するスキルが測定されるのではなく、表やグラフから客観的にデータを読み取り、論理的に推論を働かせて、妥当な結論を導き出す「言語能力」が測定されるような問題となっている。ただ闇雲に公式を暗記したりドリル問題を繰り返して計算スキルを鍛えるだけでは解けないような問題となっているのだ。こうなると、高校や義務教育における授業や受験勉強のあり方も抜本的に変わらなければならなくなる。家庭での自主学習の在り方も大きく変わっていくだろう。少なくとも文部科学省はそう期待している。
このように知識観や教育観の転換が具体的に目に見えてきたタイミングで、ロンブー淳のチャレンジは企画された。しかし一方で世間の人々の反応を見ると、賛成にしても反対にしても、あるいは淳自身も含め、多くが19世紀的な古い知識観や教育観に染まっており、新しいテストや教育の革新性に気がついていない様子が分かる。聞くところによると、彼は自分の子供の教育に責任を持ちたいという動機で大学受験を決意したそうだが、残念ながら彼の子供が大学受験をする頃には、受験や教育に関する環境は決定的に変化している。旧来型の知識観や教育観を転換しない限り、彼の思いが真剣であろうとなかろうと、残念ながら実を結ばない可能性は高い。逆に、旧テストでは良い点が取れない淳が、実は新テストでは高得点を叩き出す可能性もある。新テストは知識の量を測るのではなく、思考力と判断力という「能力」を測るから、知識の有無が決定的な戦力の差にならない可能性があるわけだ。
彼のチャレンジがこのような知識観や教育観の転換を人々に開示する契機になればなかなか面白いと思うし、企画もその方向に持っていけば普遍的な教育的価値を生み出すことができたかもしれない。

(2)大学政策の転換

また、淳のチャレンジは、大学そのものの変化の時期に当たっている。大学関係者の間では広く知られているのだが、文部科学省は2016年から国立大学を機能別に3つのタイプに分類した。すなわち(1)卓越した教育研究タイプ=16大学(2)専門分野の優れた教育研究タイプ=15大学(3)地域貢献タイプ=55大学である。ぶっちゃけて言えば、世界に通用する人材を輩出することが期待されるグローバル大学と、職業訓練的な機能が期待されるローカル大学との差別化が図られたわけである。勉強が苦手な学生は、わざわざ無理してグローバル大学に入って人生の役に立たない教養を身につける必要などなく、ローカル大学に行って仕事に困らない程度に専門的なスキルを身につけてもらうだけでよろしい、ということだ。要するに大学は最高学府として教養を身につけるところではなく、職業訓練施設へと成り下がる(あるいは時代に合わせて機能進化する)のである。
この国立大学の改革は、もちろん私立大学の在り方へも影響を与える。ただでさえ若年人口の減少に直面して大学経営の戦略的改革が求められる昨今、私立大学は生き残りをかけて文部科学省の政策動向を注視している。そんな中で、国立大学の差別化が断行されたわけだ。少子化と大学改革の大波の中、私立大学は受験生を獲得するために、自分の大学の「個性」や「持ち味」とは何かということについて、これまで以上に真剣に考えざるを得ない状況にある。その行き着く先は、乱暴にまとめれば、国立大学と同じような、大学間の差別化だ。グローバル人材育成を担って人格と教養の形成を重視する卓越した大学と、本来なら大学ではなく専門学校と呼ばれるべき職業訓練的な施設へと二分化することだろうと、容易に予想できる。
こういうふうに大学に変化が求められるのは、日本社会の「働き方」が大きく変わったためでもある。かつて日本の高度経済成長期には、新卒一括採用+企業内教育+年功序列給与体系+終身雇用という働き方がモデルとされていた。かつての企業は大卒の新入社員を一括採用してから自社内で訓練することを前提としており、学生が大学で高度な専門知識を獲得することは特に期待していなかった。学校は教育機関としてではなく、素材の選別濾過装置として期待されていた。企業が「学歴」というラベルに期待するのは、有名大学に入れたという「素材」としての潜在能力である。企業が必要とする具体的スキルは自社内研修で身につけさせたので、採用に当たっては潜在的な学習能力こそが決定的に重要であり、入った大学で実際に何を勉強し何を身につけたかについて興味を持つ理由がなかった。
しかしバブル崩壊+リーマンショック以降、企業が自社内教育で社員を育成する余裕と能力を失って、手のひらを返したかのように、即戦力としてすぐに活躍できる実践的スキルを持った人材を大学に求めてくるようになってくる。学生が在学中に資格取得に励むようになるわけだ。また、企業組織の変化に伴って雇用の在り方自体も大きく変化しつつある。これまでの企業は、正社員が人事異動を繰り返しながら様々に多様な業務を総合的・多面的に抱えることを前提に、メンバーを固定した終身雇用を目指してきた。このメンバーシップ型雇用は、企業内教育が機能している時には、時代の変化に対応して社員を再訓練することで業務形態を変更できる。しかし企業内教育機能が低下した現在では、メンバーとして固定されない非正規雇用が入れ替わり立ち替わり個別に専門特化した作業を分担しつつ、少数の正社員が業務管理する形態へ変化しつつある。ジョブ型雇用では、時代の変化には、正社員に対する教育ではなく、派遣労働者の切り替えで対応する。
ということで、これからの企業が必要とする人材が二極化することは、容易に想像できる。乱暴にまとめれば、知識基盤社会に対応して柔軟なマネジメントができるグローバル人材(正規雇用の対象)と、個別スキルを身につけて必要な時に必要なだけ分担作業がこなせる即戦力人材(交換と切り捨てが可能な非正規雇用の対象)である。大学の二極化は、この雇用形態の二極化に対応する。
淳のチャレンジは、まさに大学政策が転換するタイミングで行われる。このチャレンジは、大学の機能分化という観点から振り返ったとき、一つの示唆を与えてくれる可能性はある。たとえば、もしも大学が単に即戦力人材を供給するだけの職業訓練的な施設だったとしたら、彼はわざわざそこを目指すだろうか? 彼はわざわざ苦労して苦手な勉強を頑張り、批判まで浴びながら、何を期待して大学に入ろうとしているのだろうか? 彼が大学に期待しているものを適切に言語化することは、大学という施設の社会的機能を考える上で何かしらの公共的な意味を持つかもしれない。企画としては、受験に向けて努力を重ねる淳を映すよりも、「どうして大学に行きたいのか。苦労してまで行きたい大学というところは、本当はどういうところか」について真剣に考えさせた方が、教育的価値という点では意義が大きかっただろう。

(3)進路指導

このように「どうして大学に行きたいのか」を真剣に考えるのは、高校では「進路指導」が担うところだ。本来なら、進路指導の過程で、子どもたちはしっかり自分の個性と適性を見つめ直し、将来の希望と自分の能力をすりあわせ、現実的で具体的な進路を選んでいくことが期待されている。しかしよく指摘されているように、この進路指導がなかなかうまく機能しない。中学や高校は、自分の進学実績を上げたいために、生徒の個性や適性ではなく、単に偏差値だけを見て安易に大学進学を進めることすらある。生徒の方も、自分の個性や適性と向き合う作業が不足している時、進路を決める時に判断基準として偏差値を頼るしかない。こうして偏差値だけで進路を決めると、往々にして入学した後に後悔することになる。自分の個性と適性に合っていないのだから、うまくいくはずがない。高校や大学で中退が多いのは、1年生の4月~5月と言う。つまり入学してすぐにミスマッチに気がつくわけだ。偏差値を決定的な判断基準として進路指導を行っている限り、進路指導の段階でミスマッチに気がつくことなどありえず、このような不幸は永遠に繰り返されるだろう。私が実際に目にする学生の中にも、進路指導の不備によって発生したミスマッチに苦しんでいる者が多い。かわいそうなことだ。
文部科学省も当然このような現象には気がついており、10年前から本格的に「キャリア教育」というものを学校現場に導入している。自分の個性と適性を見すえた上で、現実的な進路選択をできるように指導しようということだ。このキャリア教育の導入は、もちろん前述した働き方の変化にも対応している。何の考えもなしに漠然と進学するのでは、もはや時代の変化についていけないのである。いまや大学に入る時には、どのようなキャリア展望を持って、自分のどのような能力を伸ばし、どのような知識や技能を身につけるのかという、具体的なイメージが求められているわけだ。その判断の材料とするために、各大学にはアドミッション・ポリシー、ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシーの策定と公開が義務づけられている。学生は単に偏差値で大学を選ぶのではなく、自分の個性を踏まえてキャリア展望を持ち、各大学の個性と持ち味を見極めた上で、進路を判断することが求められているのだ。
はたして淳は、自分のキャリア展望を見すえて青山学院大学のポリシーを確認し、他の大学のポリシーと比較検討し、熟慮を重ねた上で現実的な進路として大学進学を決意しただろうか。はなはだ怪しいわけだが、それ自体は問題ない。多くの現役高校生だって、そうだろう。だから企画としては、単に淳の受験勉強の展開を映すよりは、彼が自分のキャリア形成を踏まえて各大学のポリシーを比較検討しながら進路を真剣に考えるプロセスを映し出した方が、教育的価値としては意味があっただろうし、「どうしてわざわざ嫌な勉強をしてまで大学に行かなければいけないのだろう」と悩んだり迷ったりしている多くの中高生には大きな意味を持ったはずだ。

(4)リカレント教育

さて、このような社会の変化の中、今後の大学の在り方について模索が続いている。たとえば、いまは高校を卒業してからすぐに大学に入学するのが一般的だと考えられているが、これを改めて、社会人が大学に入りやすくしようという議論が続いている。あるいは、北欧で見られるように、高卒で働いて一定期間を経過してから大学に入るのが一般的になるよう制度改革をしようという議論もある。いわゆる「リカレント教育」に関する議論である。淳のチャレンジは、このリカレント教育に対する一般的関心を高める契機になってもよい。
リカレント教育を推進するべき理由は様々に挙げられている。単に「勉強したい人が勉強したい時に勉強できるように」という私的消費を進める立場もあるだろうが、それを超えて、社会的に意義がある制度改革と捉える方がいいだろう。たとえば、ジョブ型雇用に変化した社会では、知識基盤社会の進展と企業のグローバル戦術の展開によって、企業に必要される即戦力の個別スキルはめまぐるしく変化する。そして企業はもはや自社内教育を行わないから、社会が必要とする個別スキルを付与するための教育訓練は、大学が担当することが期待される(あるいは高校は普通科から総合性へと変化していく)。しかし大学で行われる即戦力養成は、高卒人材だけを対象とするわけにはいかない。身につけた専門スキルが時代の変化の中で賞味期限切れとなって仕事を失ってしまった人々が、教育訓練の対象となるはずだ。失業者の職業訓練を、これまではハローワークとそれに付随する施設が場当たり的に担当してきたが、リカレント教育が一般的になれば、今後はその機能を大学が総合的に担うことができるようになるかもしれない。
またあるいは、知識基盤社会に対応して企業をマネジメントするグローバル人材としても、めまぐるしく変化するビジネス環境に適応するためには、一定程度の実務経験を積んだ後に、改めて総合的に教養をアップデートする必要に迫られる場合が増えてくるだろう。具体的な実務経験を経たからこそ意味のある学びというものは、必ずある。同じ事を学ぶにしても、社会経験のない人間が学ぶのと、ある程度の社会経験を積んだ人間が学ぶのとでは、受け取り方はかなり違ってくるはずだ。半年や一年といった短期間のアップデート用としても、大学は期待に添えるような組織になっていかなければならないかもしれない。
リカレント教育といっても、制度的に言えば、大学入学には特に年齢制限があるわけではないので、今のままでも可能であるとは言える。とはいえ、企業による新卒一括採用が常識的にまかり通る社会のままでは、リカレント教育は一般的にはならないだろう。リカレント教育が一般的になるためには、企業の雇用体制や採用形態が変わって転職や中途採用が容易になると共に、退職して学業を続けるための経済的・心理的な負担を緩和する体制が必要となるだろう。現在、25歳以上で大学に入学する者は、日本では2%程度だが、OECD加盟諸国平均では20%を超える。一概に外国の制度が良いというわけではないが、働き方そのものにおいて日本型雇用が粉砕されている場合、大学の在り方だけ日本型のままで済んでいいとは思えない。淳のチャレンジが、25歳以上の大学入学を当たり前と思える世の中への一歩となってくれるとよいと思う。
ただし問題となるのは、リカレント教育を担う組織として大学が適切な施設かどうかということだ。単に職業訓練であれば、文部科学省管轄の施設ではなく、これまでのように厚生労働省管轄のハローワークやその付属施設で行ってもいいはずだし、他の選択肢だってあるだろう。もしもリカレント教育を大学で行うのであれば、そこには厚生労働省の管轄や他の形態では実現できないような、何らかの機能や価値を期待されていると考えていいだろう。そう考えた時、淳が大学で勉強したいとして、どのような知識や技術を習得し、どのような能力を伸ばすのか、具体的なイメージを伴って言っているのかどうか、疑問が生じる。はたして彼の学びたいという欲求は、大学でなければ叶わないのだろうか? 知識だけなら、林修や池上彰の番組から習得することだってできるはずだ。Siriやgoogleだって、聞けば教えてくれる御時世だ。大学に行かなくとも、いくらでも学ぶことはできる。自分がどのような知識や技術を具体的に身につけようとしているのかをイメージできていないのに大学に行こうとしているのであれば、その目的は何かを学ぶことではなく、単に学歴という肩書きを手に入れたいだけではないかと勘ぐることもできる。それは大学教育を単に私的消費として理解する姿勢でもある。

(5)教育の公共性

現在の教育は、私的消費という側面が強く押しだされ、公共性という観点が退いている。教育とは、社会の役に立つ人間になる(公共の利益)ために受けるのではなく、自分自身が得をする(私的受益)ためだけに受けるものという考え方が一般的だ。教育を私的に消費するとは、自分が一人で努力して学歴を獲得したのだから、獲得した成果は自分の利益のためにしか使わないという考え方である。その私的消費の考えが推し進められると、大学で獲得した知識や経験は個人の成功だけに貢献するものと理解され、広く社会に還元されるべきものとは見なされなくなる傾向を助長する。もっと極端になると、大学で具体的に「何を学んだか」よりも、高い給料とステータスを誇るための「ラベルとしての学歴」をありがたがる傾向を助長する。私的消費の行き着く先は、もはやラベルを獲得することだけが目的となってしまい、そこで何を学ぶかには何の関心も持たれなくなった大学の姿である。
淳のチャレンジに対して危惧するのは、大学教育がそういう私的消費として理解されている恐れが強いところである。その傾向は淳や番組スタッフだけではなく、淳を応援する人にも見られるし、批判する人にも見られる。日本全体がそういう傾向にある。それはそう理解する人が悪いというよりも、80年代後半の臨時教育審議会答申や、00年代の小泉改革によって日本社会全体が教育の私的消費を推進する方に加速していることに原因があると言える。新自由主義によって現出した自己責任社会に適応し生き残るためには、もはや公共の利益のことなどには目もくれず、教育を私的に消費して自分のキャリアをアップさせていくしかないのかもしれない。
しかし淳のチャレンジには、私的消費の観点を乗り越える可能性が残されている。彼には純粋に「学びたい」という気持ちが芽生えただけで、具体的にどんな能力を伸ばすのかについてのイメージが伴っていないとしても、それは単に大学で具体的に何を学べるか(あるいは何を学べないか)について分かっていないだけかもしれない。そして、純粋に「学びたい」という気持ちが芽生えたなら、それは純粋に尊重され、保障されるべきだ。あるいは、奪われていた可能性としての「大学生活」というものを取り戻したいという動機であっても、構わないだろう。仮に大学という施設で学ぶことの本質的な意味が分かっていなかったとしても、結果として「大学では何が学べ、何が学べないか」を学べるだけで、何かしらの意味を生み出せるかもしれない。
さらに、彼が実際に大学で学び、獲得した知識や経験を自分のためだけに消費するのではなく、社会全体に広く還元したときには、決定的に私的消費を超えたと言える。自分の成功のためだけに学ぶのではなく、社会をより良いものにするために学んで伸ばした能力を活用することができたとき、教育は公共的になったと言える。もともと教育とは「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という公共の精神を体現したものであったはずだ。大人たちはよってたかって一人の子供を育て、一人前になった子供は社会の利益のために能力を発揮する。我々は自分一人だけの力だけで一人前になったのではなく、様々な人の支えによってここまで来たのだという自覚が、公共性を支えていく。教育の私的消費が進むことによって、自分一人だけの力で成長したという慢心が助長され、能力を社会に還元しようとする意欲が減退し、公共性の基盤が掘り崩され続けている。どこかで歯止めをかけないと、きっと取り返しがつかないことになる。既に手遅れかもしれないが、それでも教育に携わる者として、言わざるを得ない。
淳は、青山学院大学に入学できたら、しっかり学び、学んだ知識や経験を社会に還元してほしいと願う。たとえば林修先生の番組では、単なる茶々入れではなく、もっと意義のあるコメントをすることができるようになるだろう。あるいは奇妙な論文を書いた大学の先生を紹介してイジる番組では、実はその先生の仕事が学問の世界でどういう意味を持っていたかについて、もっと広い視野から意味のある言葉を発することができるようになるだろう。またあるいは、城に関する番組でも、さらに学術的な番組で活躍ができるようになるだろう。大学で学んだことが仕事に還元されたとき、教育が娯楽として消費されることを超えて、あるいは教育を私的に消費することを超えて、教育が公共的に意味のあるものとなる。かもしれない。

ちなみに青山学院大学には岩下誠という教員がいるので、合格したら、ぜひ彼の授業を取っていただきたいと思う。

※12/30:誤字脱字等修正。
※1/4続編:「さらに、ロンブー淳の青学受験に対し、教育学者としておもうあれこれ
※1/14追記:彼がどうして大学に行きたいのか、どういう知識を身につけどういう能力を伸ばしたいのか、説明されている記事がアップされた。単に合格するかしないかという力試しだけだったら教育的価値を見いだしにくいわけだが、この記事のように自分のキャリア展望を踏まえた上で「どうして学びたいか」という理由を説明する言葉であれば、これからの時代を生き抜くためのヒントとして価値がある。「ロンブー・田村淳は「ギリギリを歩くため」44歳で大学を受験する
※3/4:結果を受けて、追記。「ロンブー淳の青学受験に対し、城マニアとして思うあれこれ

【要約と感想】岩波講座教育_変革への展望1『教育の再定義』

【要約】近代を支えてきた原理が、グローバル化とポスト産業主義化の流れによって、急速に崩れています。それに伴って、従来の教育学の分析枠組の有効性は失われています。現実には、臨時教育審議会以降の新自由主義的政策によって教育格差が拡大し、公教育の基盤が掘り崩され続けています。この危機を克服するために、教育や教育学にできることはたくさんあります。本巻の役割は講座全体の大まかな見取り図を示すことであって、具体的な論理展開は第二巻以降に委ねられます。

【感想】久々の岩波講座「教育」で、講座全体の基調を示す第一巻なわけだけど、全ての論者がグローバル化と新自由主義政策に対する危機感を共有しつつ、従来の教育学の枠組みを脱構築する必要性を訴える。公教育が極めて危険な状況にあるというシビアな現状認識と、だからこそ根底から変革するチャンスでもあるというポジティブな未来志向も共通しているように見える。その道筋が大文字の「私」にも「公」にも回収されない新しい「公共性」を立ち上げることにあり、その実現のためには様々な回路を通じて政策に実際的な影響を与えなければいけないという見通しも共有されている。現状分析に関する具体的な記述の細部に違和感がないわけではないが、大雑把な見通しに対しては基本的に反対できないというか、大学で教員養成に携わる立場としては「やむなし」という感じで、現実的にはその方針を承認してテーブルに着くしかないように思える。

ちなみに違和感の源は主に2点ある。一つは、「教育の再定義」というタイトルを掲げるなら、教育基本法第一条「人格の完成」の有効性が失われたかどうかについての教育哲学的な考察が必要だと個人的には思うわけだが、誰もその作業に手をつけていないこと。もう一つは、ポスト産業社会化に当たって「知識」を生産する人材養成が必要になることが全ての論者の前提になっているが、個人的には「ものづくり」を舐めているとどこかでしっぺ返しを喰らうんじゃないかと思ってしまうことだ。
この二つの個人的感想は、結局は「人/物」を峻別したカント哲学的な枠組みの中にあって、自分で言うのも何だけれども19世紀的と言えば19世紀的ではある。19世紀に確立された近代原則のド真ん中には「人格」という概念が鎮座していたはずだ。その近代原則の賞味期限が切れたというのなら、少なくとも「人格」という概念や教育基本法第一条「人格の完成」のどこがどう無効になったのか、教育原理的に明らかにする手続きは必要だろう(このあたりは今井康雄氏のテリトリーではあるが編集委員じゃないんだね)。この作業を欠いて、「人格」という言葉を教育の中核に残し続ける限り、いくら近代が賞味期限切れを起こしたと言い続けても、いつまでも教育は近代であり続ける。それでいいなら、いいんだけれども。

そんなわけだが、とりあえず小異を捨てて大同につくべき時代ではあるので、教員を目指す学生には積極的に(あるいは無理矢理にでも)読ませて、現状認識を共有させていこうかと思う。

岩波講座教育_変革への展望1『教育の再定義』岩波書店、2016年

【要約と感想】三宅ほなみ監訳『21世紀型スキル―学びと評価の新たなかたち』

【要約】産業社会から知識社会に変化するので、これまでの学校教育は役に立たなくなります。知識社会に対応するため、教育は21世紀スキルを育成しなければなりません。21世紀スキルは、テクノロジーの圧倒的な発達を背景にして評価システムが画期的に進化することを前提に、授業の中に評価システムを埋めこみ(結果ではなくパフォーマンスを重視した形成的評価)、目標から授業をデザインするのではなく、個々の子どもたちが創造的に知識を生産してゴール自体を変更し(創発的アプローチ)、多様な他者と協働的にコラボレーションすることで身についていきます。

【感想】まあ、言っていること自体は分からなくもない。現代は、明らかに根本的な変化の過程にある。かつて農業社会から産業社会に生産様式が変化した際には、封建社会から市民社会へという政治様式の変化に伴って、徒弟制から学校教育へ教育様式も変化した。現在の学校システムは、明らかに近代(産業社会+国民国家+資本主義+民主主義)をサポートするために機能している。だからもしも産業社会が終わるのであれば、学校システムの有効性も崩れる。そのこと自体には、多くの人がとっくに気づいている。問題は産業社会から知識社会への変化に対応するような代替的な教育システムの具体的構想が極めて難しいことで、本書はその課題に対して一定の回答を示したものと言うことはできる。そういう意味では、かなり頑張っていると思う。勉強になるところも多々あった。私自身の授業-評価改善のために参考になるところも多い。

だが、読んでいて気持ち悪いのもまた確かである。私が馴染んできた教育学の本とは、まるで違うものになっているのだ。まず文体が気持ち悪い。教育学の本ではなく、まるでアプリケーションの付属説明書を読んでいるかのようだ。英語からの翻訳文体という事情はあるのかもしれないが、それにしても奇妙な文体だ。

おそらく文体の気持ち悪さと連動しているのだろうが、気になるのは、「人格の一貫性」とか「アイデンティティ」という近代教育の根幹に関わる部分に一切の関心が払われていないところだ。むしろ一貫性やアイデンティティは、意図的に排除されているとも読める。本書の立場では急激に変化する社会に柔軟に適応することが重要なのであって、人格の一貫性とかアイデンティティとかいったものに執着するのはむしろ適応障害と見なされそうだ。またあるいは本書の立場は、「個の尊厳」を軽視し、コミュニケーションやコラボレーションやネットワークといったものを重視する。それはテクノロジーの発展によって、個体を「スタンド・アローン」ではなく、ネットワークに接続された「端末」として想定するのと同様のことだろう。そして彼らの文体の気持ち悪さは、文章をプロトコルとして扱うことに由来している気がする。そして「人格」そのものも、人間の尊厳の源として尊重すべき不可視の対象ではなく、測定し評価し開発して活用すべき操作可能な資源と見なされている。この人間観の違いこそが、気持ち悪さの根源にあると思う。

しかし翻って、この「人格」という概念自体が近代に由来するものとすれば、知識社会の到来に伴って近代の有効性が崩れるとき、人格概念の意味もまた土台を失う。「人格」概念は、前近代の身分制や封建制を克服する中から説得力を持った。はたして、近代の終焉と共に「人格」概念も捨て去られる運命を辿るのかどうか。「人格の尊厳」ではなく「ネットワークの尊厳」となるのかどうか。
あるいは、21世紀型スキルというものが具体的にわかりにくいのは、仮に知識社会では「人格」概念が無効だとして、その代わりとなる有効な概念が示されていないのが原因なんだろう。逆に言えば、「人格」を代替する概念を発見すれば、21世紀型スキルに説得力が生じ、近代が終わる。個人的には、それは「環境」と呼ばれている言葉から芽が出てくるような気がしているが、どうか。

P.グリフィン、B.マクゴー、E.ケア編/三宅ほなみ監訳、益川弘如・望月俊男編訳『21世紀型スキル―学びと評価の新たなかたち』北大路書房、2014年