「教育」タグアーカイブ

【要約と感想】岡田敬司『共生社会への教育学』

【要約】異文化接触という概念を教育学に全面的に持ち込んだとき、教育を語る言葉をどのように書き換えることができるかと試みました。すると、教育にとって近代的な概念であった「自律」という概念を、ポストモダン的な「共生」概念へ繋げるようにアップデートするという成果が挙がりました。

【感想】「共生社会」に対して具体的なビジョンを得られるかと思って読み始めたら、全然そういう本ではなかった。極めて論理的な、教育哲学ド真ん中の本だった。

教育哲学ド真ん中というのは、教育にとって本質的な「自律」という概念や「自律性の立ち上がり」という課題を、何の衒いもなく真正面から扱っているからだ。特に著者が主張したいのは、どうやら「自律」という概念が普遍性を持っているものだということだ。だから「自律」が近代特有のものではないことを証明したり、あるいは中産階級に固有ではなく労働者階級にも本質的なものであることを証明したり、あるいは脳神経的な決定論に抗して自由を確保したりと、「自律」概念に四方八方から襲いかかる敵をバッタバッタと倒していく。著者は「領域横断的」な記述スタイルであることを負い目に感じているようだが、まあ、そもそも「自律」概念に襲いかかってくるものが領域横断的なものだから、撃退するために領域横断になるのは仕方がないと言える。

そして結論から言えば、ボロボロになった「自律」概念を救う味方として、「共生」概念が登場したわけだ。「共生」とか「異文化接触」という味方をつけることで、「自律」概念は再生する。まあ、従来から「他者性」との整合性という観点から取り組まれていた課題でもあるけれども。そのビジョンは、なるほどと思う。ビジョンを具体化するお手並みについては、多少性急さを感じるところもあったけれども。

性急という点で特に気になったのは、「個人」と「社会」を無媒介に類比で捉える手法だ。これはスペンサーなりドイツ国家学なりに見られるような、社会を生物学の類比で捉える発想と紙一重だ。紙一重どころか、重なり合っているとすら言えるか。社会を生物学的な類比で把握する発想は、プラトン『国家』以来の思考の伝統ではあるが、個人と社会を無媒介に類比することの危険性は広範囲に気づかれているはずのように思う。この危険性に対する構えが見えにくいところが、気になった。特に教育を語る際には、それが個人と社会の接点であるがゆえに、そうとう気を遣わなければならないところだと思う。まして、個人レベルなら「歓待」できる人びとが、社会レベルになったら拒絶して恥じないような世の中である時には。
まあ、敢えて意図的にそうしている可能性もあるので、読者の方の読解力が問われるところではあるかもしれない。

岡田敬司『共生社会への教育学 自立・異文化葛藤・共生』世織書房、2014年

【要約と感想】苅谷剛彦『教育再生の迷走』

【要約】第一次安倍内閣が行った「教育再生」は、まったくワケがわからないものに終わりました。迷走としか言いようがありません。

【感想】本書の元になる記事が連載されていたのは、第一次安倍内閣が教育再生を謳って改革に取り組んでいたときで。単行本になったのが、安倍政権が倒れた後で。著者は、めまぐるしく移り変わる教育改革があまりにも根拠を欠いていることに呆れ果てているわけだが、まさか10年後にこんなことになっているとは、予想できなかっただろう。予想できなかったのは、まったく著者のせいではなく、お釈迦さんでも気づくめえ、ってところだけど。

とはいえ、本書はまだ古くなっていない。まず勉強になるのは、文部科学省が行っている「全国学力調査」に対する批判だ。悉皆調査になんの合理性もないにも関わらず、なぜ文科省は悉皆調査を強行するのか。しかもそうまでして行った調査をどうして実際の政策に反映させないのか、などの問題がよく分かる。

それから、学習指導要領の「履修」と「修得」の違いについては、いやあ、目から鱗だった。落第させた学生から「ちゃんと授業に出ていたのにどうして単位くれないんですか?」とクレームを頂戴する理由が、よく分かった。「修得」しなくても「履修」さえしていれば単位がもらえるという学校文化に浸かっていたんだから、仕方ないかもね。

そして、「ポジティヴ・リスト」と「ネガティヴ・リスト」という概念について。教育がなんでもかんでも抱えてしまうのは、あれもやれこれもやれという内容を、資源配分や効果や合理性についての配慮を欠いたまま、すべてリストに載せてしまうポジティヴ・リストの発想が原因だ。教育はむしろ、「なにをやってはいけないか」というネガティヴ・リストの発想で組み立てないと、おかしなことになる。このあたりの思考様式や考える枠組みは、とても参考になる。

苅谷剛彦『教育再生の迷走』筑摩書房、2008年

【要約と感想】藤田英典『義務教育を問いなおす』

【要約】小泉政権が進めた新自由主義的な教育改革のせいで、日本の義務教育は滅びつつあります。なんのビジョンもなく学校や教師をやり玉に挙げるマスコミも、最悪です。義務教育を立て直すための特効薬はありません。地道で漸進的な改善を粘り強く続けるのが一番です。

【感想】著者の他の本と同じところは、新自由主義的な競争至上主義による改革(特に学校選択制)への批判と、日本の教育の優秀性を根拠とした「ゆとり教育」に対する疑義、日本の地政学的位置に即した系統的な教科学力の重要性の主張、展望としての共生的原理の称揚といったあたり。

この本独自の特徴は、義務教育に対してかなり踏み込んだ法的・原理的な論理を展開しているところだ。教育社会学が手を突っ込まないような領域、たとえば教育行財政理論とか、教育権論とか、内的事項外的事項区分論とか、子どもの権利条約とか、親の教育要求などに踏み込みつつ、「教育の公共性」について持論を述べていく。教育社会学者というより、教育学者のようだ。その意味で、タイトルに偽りない。

最終章の「未完のプロジェクト」という言葉には、少し目頭が熱くなってしまった。多くの学者が近代の終焉を宣言する中、まだまだ近代で頑張ろうという人は、ちゃんといるのだった。我慢して踏みとどまるべきか、軽やかに一歩前に出るのか、方針に迷ったときには思いだしていい本なのかもしれない。

藤田英典『義務教育を問いなおす』ちくま新書、2005年

【要約と感想】小川正人『教育改革のゆくえ―国から地方へ』

【要約】政治主導の教育改革によって、これまであり得なかったような改革が次々と実行されています。地方分権化は進んでいますが、小泉改革によって義務教育費国庫負担金を三分の一に切り下げたのは、なんの根拠もない、愚かな行為でした。政治主導というなら、国際的にも最低レベルの公教育費を反省し、誰もが安心して子どもを預けることができるような公教育を整備するよう、政治の責任を果たすべきです。

【感想】現在進行形で、政治主導の教育改革が盛んな御時世になっている。その発端が中曽根康弘の臨時教育審議会にあり、本格化したのが小泉政権以降であることについては、衆目が一致している。本書は、自民党一党体制において族議員が教育政策に影響力を持っていた時代から、政治主導の教育改革に切り替わる流れを、文部科学省(旧文部省)の官僚の証言を交えて、分かりやすく描いている。

その変化は、具体的には地方分権という形で進行している。悪化した国の財源を改善するために、地方に権限を移譲しつつ、国家財政をスリム化するという方向だ。地方分権化によって市町村教育委員会や各学校の裁量権が増えること自体は、子どものためには良いことかもしれない。しかし、実際に発生したのは、義務教育費国庫負担金の国負担割合の切り下げだったり、就学援助補助金の打ち切りだったりした。その結果、教員給与が切り下げられ、非正規雇用(非常勤講師や臨時任用)が増加し、自治体間の格差が拡大することとなった。教育を悪い方向に曲げてしまったとしか思えない。

また、教育委員会の改廃論を伴いながら、地方教育行財政制度の再編成も進行中だ。本書発行時点ではまだ地教行法の弾力化に過ぎなかったったが、いまや教育委員長が廃止されて教育長に一本化されるところまで来ている。ここで終わるとも思えない。こうして教育が政治の論理に巻き込まれるようになった結果、教育の自律性や専門性が軽視され、私的サービスの一部門とみなされる傾向が助長されるようになる。相対的に政治から独立して働いていた教育の論理が、政治の動きと密接に連動するようになる。そのこと自体は、ひょっとしたら教育を良くするチャンスなのかもしれないが、悪くすると教育がめちゃめちゃになる可能性もある。かなり分が悪い岐路に立っている感じがする。

無責任な印象論で教育を引っかき回すだけの政治主導に陥らず、教育の専門性を着実に活かすための制度にするにはどうしたらいいか、いまこそ広範な知恵が必要な時だ。本書は、民主党政権時代に書かれたために個々の具体例は古くなっているが、教育行財政制度に関する様々な知恵と選択肢を見せてくれる点においては、まだそんなに古びていないと思う。(ただ、教育委員会と学校運営協議会制度の改変に関しては知識をアップデートしておいた方がいいかもしれない。)

小川正人『教育改革のゆくえ―国から地方へ』ちくま新書、2010年

【要約と感想】小玉重夫『学力幻想』

【要約】学力の問題をしっかり考えるためには、それが単に教育実践に限った話ではなく、高度に政治化していることを理解する必要があります。その自覚が欠けていたので、学力低下論争はつまらないものになりました。学力が政治化していることを理解するためには、「子ども中心主義」と「ポピュリズム」を反省するところから始めなければなりません。そして、「教える」ということの復権と、「大人になること」の明確化が、学力の政治化に対応する鍵となります。

【感想】さすがに凡百の学力低下論からは一線を画していて、単に学力について論じるのではなく、どうして学力が問題になるのかという状況と歴史的経緯をメタ的にすっきりと切り分けてくれる。学力が問題になっているということそのものが問題なのであって、そのメタ認識を持たないままで学力論争自体に突入していっても得るものは極めて少ないことを教えてくれる。

大雑把に言えば、学力が問題になるということは、社会そのものが根底から変化していることを示す徴候だ。これまで問題なく通用していた学力観が社会の変化によって賞味期限切れを起こし、学校や公教育の新しい形が模索されていることのサインだ。しかしその根底的な社会変化を問わずに単なる学力問題へと矮小化してしまう現象を、著者は「学力幻想」と呼ぶ。

「学力幻想」を引き起こしている原因として、著者は「子ども中心主義」と「ポピュリズム」を問題にする。その問題を克服するためには、教える側の公共性の論理を立て直すと共に、「大人になるとはどういうことか」について新しい基準を打ち立てることが鍵になると言う。

教える側の公共性の立て直しについては、教師の専門性と同僚性という概念が焦点になるのだろう。「大人になること」については、実践的には18歳成人の問題とも絡んで、子どもと大人の境界線の再構成の在り方が焦点となる。ここに著者がライフワークとしているシティズンシップ教育が、問題解決の鍵として立ち上がってくる。

あと、「学力の市民化」ということに関しては、ヘルバルトが言っている「多方の興味」とカブっている感じはした。「できることと考えることの区別」は、いわば「専門教育/普通教育」の違いに帰結するはずだ。具体的な教授方法に関しても、ヘルバルトの言う「多方の興味」がぴったり当てはまる。ここは新しい概念を作って屋上屋を架すよりも、教育基本法や学校教育法にある「普通教育」という概念をシティズンシップと関連させて復権する方がわかりやすい感じもした。

小玉重夫『学力幻想』ちくま新書、2013年