【要約】臨時教育審議会以降の40年にわたる教育改革は一括りで「新自由主義」と呼ばれがちですが、実際には新自由主義という看板でも時期や論者によって中身はまったく違うし、単に批判して切って捨てるだけでは問題は見えてきません。新自由主義は私たちの生活感覚や社会意識に抗いがたい形で忍び込んで根を下ろしているので、自らが拠って立つ戦後教育学の常識を根底から疑うような覚悟を伴う内在的な批判でなければ生産的な問題解決には至りません。正解が見当たらない苦しさの中で、安易に決断したり逃げたりせず、「本来性」から現実を切り捨てるのではなく、身動きが取れない歯がゆい思いをしながらも思考停止に陥らずに堪える粘り強さが今こそ必要なのでしょう。
【感想】モヤモヤしていたことを力強く言語化してくれる本で、とても面白く読んだ。「内なる新自由主義」という観点は、なるほどだ。
いま80年代後半から90年代前半の教育学の本を読むと、驚くほどに無邪気な「内なる新自由主義」を確認することができる。「個性」とか「自由」とか「選択」という言葉を能天気に使いまくっている。当時はそれが管理主義教育を改革する言葉だと思われていたし、福祉国家批判の背景に支えられてもいた。40年経って、ようやくそれらが「内なる新自由主義」だと可視化できるような知恵がついた。
現在は各領域でなし崩しに新自由主義化が進行している。教育産業を含む民間企業が公教育に入り込むのに、もう何の違和感もない。保護者や児童生徒の消費者ムーブも当たり前の前提として学校の業務に組み込まれる一方、PTAは滅び始めている。中学受験が日常化して戦後633学校システムが崩壊し、中等教育から複線化が始まっている。テクノロジーに支えられて個別最適化された学びが実現されつつことに伴い、常態化した不登校が自由と選択の論理で解決されていく。高校授業料の無償化が進むのに伴って公立学校の存在感が低下していく。総じて、教育は「個々人のニーズに応じるサービス」へと突き進んでいる。一方で産業の論理に基づく圧力も高まり、個人主義と資本主義の挟み撃ちで「公共=みんなでつくる生活」の領域が痩せ細る。「こども食堂」が全国的に急速に広がった背景には、公共の領域が痩せ細っていることに対する危機感があるのではないかと思う。
だがしかし私個人で具体的にできることはあまり多くない。本書の言う通り、切って捨てるような批判を垂れ流すのではなく、答えが出ない手詰まり感の状況の中でも粘り強く堪える知恵が大事なのだろう。
【個人的な研究のための備忘録】人格
「人格」に関する言質をたくさん得たので、サンプリングしておく。
「第一に、公教育は、Society5.0を実現し、それを担うための人材を育成するという役割を背負い込む。教育基本法第一条にあるように、本来、教育の目的は「人格の形成」であり、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成である。ここでの「形成者」とは、国家・社会の単なる一員ではなく、主権者や市民として国家・社会に能動的に参画し、共同して創り上げていく主体を意味する。それは、けっして特定の形態の社会像(ましてや経済界や産業界)に貢献し、役立つ「人材」のことを指すのではない。にもかかわらず、文科省が、Society5.0関連で最初に公にした報告書が「Society5.0に向けた人材育成―社会が変わる、学びが変わる」(2018年)と題されていたことに象徴されるように、Society5.0下の公教育においては、教育基本法の教育目的である「人格」や「主体」が蔑ろにされ教育の主人公が子どもではなく、社会像(Society5.0)の側へと転態してしまうのである。」292-293頁
著者は本書で「本来性」を避けると言っているが、教育の目的である「人格」を語るところでは「本来」という言葉を呼び起こすしかなさそうだ。
一方、「エージェンシー」という概念にも触れている。
「エージェンシー」は、OECDの「Education 2030プロジェクト」において注目を集めるようになった概念である。「主体性」と訳されることもあるが、もう少し正確には、「変革を起こすために目標を設定し、振りかえりながら責任ある行動をとる能力」であるとされる。」263頁
個人的に思うのは、OECDが持ち出してきた「エージェンシー」なる概念が、従来使われてきた「パーソナリティ」という概念をズラすように機能しているということだ。これまでならパーソナリティという言葉が選択されていたような文脈で、エージェンシーという言葉が登場する。エージェンシーという概念は、これまでパーソナリティという概念を軸に組み立てられていた社会そのものを溶かしにかかっているような印象があるが、さてどうだろうか。