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【要約と感想】菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』

【要約】アリストテレスの狙いは「徳の論理的基礎づけ」ではなく、「道徳的発達論」にあります。

【感想】ニコマコス倫理学は教育学の本だったのか! という、目から鱗を落としてくれた本。続編の『政治学』がほとんど教育学の本であることについては私も声高に主張したわけだけど、そんな牽強付会な私ですらニコマコス倫理学を教育学の本とは読んでいなかった。なんたる不覚。アクラシアをめぐる考察を発達論的に読むとニコマコス倫理学の構造が分かりやすくなるとは、言われて初めて気づいたけれども、言われてみれば「そりゃそうだ」って感じだ。

しかし『ニコマコス倫理学』に対する私の感想文を読み直してみると、教育に関わるところにはしっかり反応していて、徳に対する教育可能性とか習慣づけの意味についてはちゃんと引用してあったりする。それにも関わらず、全体を通じて教育学として理解する視点を持ててないとは、いやはや、先入観って怖いなあ。

ともかく、教育学者の私としては、本書を「完成した人格を対象とした倫理学の論理的基礎づけ」ではなく「人間の教育可能性の追究」として読む態度に、激しく同意なのだった。自分の不明を明確に認識させられた点で、読んで良かった一冊であった。『ニコマコス倫理学』本体も読み直さなくては。

菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』勁草書房、2016年

【要約と感想】アリストテレス『政治学』

【要約】国家の形には様々ありますが、いずれにせよ、国家の目的としていちばん重要なのは教育であり、そして国家を維持していく手段としていちばん重要なのも教育です。

【感想】タイトルは「政治学」となっているけれども、教育思想の本として読むわけだ。
というのも。ニコマコス倫理学で一人の人間の幸福について考察したアリストテレスは、その興味関心と結果を引き継いで、人間の集団である国家へと議論を展開していく。さすがアリストテレスだけあって、多様な国家の形態を緻密な議論の運びで縦横無尽に検討していく。しかしアリストテレスの議論は、最終的に教育へと着地するのだ。教育は「目的」と「手段」の二つの意味で、国家にとっていちばん重要なものとされている。

まず、アリストテレスは国家の存在意義について検討し、社会契約論的な見方を明快に切り捨てる。アリストテレスによれば、お互いの利益を図るために作られた国家など、形式的に成立しているだけの、まがいものの国家に過ぎない。ほんものの国家は、ただの互助団体や軍事同盟などとは全く違うものである。国家は国民を幸福にするために存在するものでなければならない。そして幸福とは、ニコマコス倫理学で既に明らかになっているように、徳に満ちた生活を送ることだ。つまり国家とは、ただ人々が「生きる」ために存在するのではなく、人々が「善く生きる」ために存在しなければならないのだ。そして、「善く生きる」ことを知るためには、教育を受けなければならない。ただ単に「生きる」だけなら、食料や住居など生活必需品が行き渡るように工夫するだけでよい。しかし「善く生きる」ためにはそれだけでは不十分で、人々が「徳」について自覚を深めなければならない。だからほんものの国家は、国民の「徳」を呼び覚まし、ほんものの幸福な人生を与える。国家の本質は、教育機能にあるのだ。
そんなわけで、本書の解説も「それなら国は簡単には何団体と呼んだらよいか。敢えて言えば、優れた意味において、「教育団体」である。従って国はその国民のいろいろな徳の涵養を第一の、主要な任務としなければならない。」(460頁)と言っている。
ただし、ちなみにこの場合の教育とは、我々がすぐさまイメージするような学校教育を指してはいない。アリストテレスがイメージしているのは「社会教育」である。実際、アリストテレスが生きた時代には、中等教育は存在していなかった。教育=人間形成は、実際の社会の中で行われる。だから社会教育の具体的な手段が真剣に議論され、その際に「法律」が大きな問題となるわけだ。さらにちなみに言えば、ルソーが『エミール』の中で「ほんものの市民教育は失われ、二度と復活しない」というようなことを言っているが、おそらくギリシア時代に行われていた「法律を土台とした社会教育」のことを指していると思われる。

このような教育国家は、おそらくアリストテレスだけのものではなく、東洋にも広く見られる考え方であるように思う。特に儒教的な考えでは、善い君主は同時に善い教育者であらねばならない。というか、「天」から与えられた「道」を人々に指し示すことが君主の役割なのだから、そもそも善き教育者であることは君主であることの必須条件だといえる。そしてそれは「教」という漢字の成り立ちからも伺うことができるだろう。人々を支配するとは、「道」と「教」を手に入れることに外ならない。教育権を放棄した権力などというものは、想像することすらできない。支配するとは、教育するということなのだ。
もちろんこの場合の教育も、我々がただちにイメージするような学校教育のことではない。「宗教」も含め、人間の価値観全体を一つの方向に染め上げるような権力のことだ。「教育」の「教」という漢字が「宗教」の「教」でもあることを想起しなければならないところだ。「教育」は、近代的な感覚では、ただ単に価値中立的な知識を与えることを意味しがちだ。しかしアリストテレスにせよ儒教にせよ、「教」とは価値中立的な知識を機械的に与えるものなどではなく、人の価値観全体を強制的に作り上げる力だ。

だから当然、あらゆる国家を滅亡から救うのは、「教育」以外にはない。国家のあり方に相応しいような形で教育が行われているとき、国家は存続していく。逆に、国家のあり方に逆らうような形で教育が行われるとき、国家は容易に滅亡する。これは「教=人に価値観を植えつける」の定義からして必然的な帰結であると言える。というわけで、教育は国家存在の「目的」であると同時に、国家を保持存続させるために最も重要な「手段」でもある。というわけで、本書の全8巻のうち、最後の第8巻はまるまる教育に関する議論に費やされることとなる。
この教育の議論が、なかなか興味深い。たとえば、どのような順番で教育を行うかという議論では、まず「体育」を施してから「音楽」へ展開するという道筋を示す。この「体育→音楽」という順序にアリストテレスはかなりこだわっているわけだが、事情を知らない人には、どうしてアリストテレスがこんなにも長々と記述するのか理解できないだろう。実はこの論述でアリストテレスが試みているのは、プラトンの教育思想への反駁なのだ。プラトンは『国家』で教育思想を全面的に展開し、そこで「音楽・文芸→体育」という教育順序を示している。アリストテレスは、このプラトンの見解に真っ向から勝負を挑んでいるわけだ。かつての師匠であるプラトンの教育説と勝負するわけだから、自然と熱が籠もる。現在の我々から見ると「体育→音楽」だろうが「音楽→体育」だろうがどうでもいいように思えてしまうわけだが(あるいは「体育と音楽は同時並行でやれよ」などと思うわけだが)、プラトンやアリストテレスにとってみれば、この問題は自分の人間観全体(具体的には肉体と魂の関係をどう捉えるか)の価値を示す試金石となるものなのだ。教育論での勝敗は、思想全体の優劣を決する。アリストテレスが本書の末尾を教育に関する議論に費やしているのは、教育思想こそが哲学大系全体の要石であることを痛感しているからだ。
個人的におもしろく読んだのは、カリキュラム論だ。どのような内容を教えるべきかというカリキュラム論では、素朴な形ではあるものの、教科分類を試みている。アリストテレスは(1)読み書き(2)体操(3)音楽(4)図画というように、全教科を4つの領域に分類する。その上で、特に「音楽」の教育効果に関する具体的な議論が長々と展開される。「音楽」は何のために教えられなければならないのか? この議論は、まさに現代の「カリキュラム・マネジメント」の精神にも通じるような内容となっている。プラトンの音楽教育論と比較しながら読むと、とてもおもしろい。

研究のための個人的備忘録

本書を通じて目立つのは、一貫して「子供」を価値のないものとして理解する態度だ。そしてそれは、「奴隷」や「女性」を価値のないものとして理解する態度と通底している。アリストテレスにとって、「人間」とは「自由のある成人男性」だけなのだ。これはアリストテレスを含め、ギリシア時代の教育を考える上で頭の片隅に置いておかなければならない事実と言える。

【子供観】
「従って支配するものと支配されるものとには本性上多数の種類があることになる、すなわち自由人の奴隷に対する支配と男性の女性に対する支配と大人の子供に対する支配はそれぞれ別である、そして魂のいろいろの部分は凡ての人々のうちにあるけれども、しかしそのあり方に相違がある。つまり、奴隷は熟慮的部分を全く持たないが、しかし女性は持っている、けれどもそれは権威を持たない、また子供も持っているが、不完全である。」1260a
「しかし子供は不完全なものであるから、子供の徳も自分と自分との関係に属するものではなく、完全なる者や指導する者との関係に属するものであるということは明らかである。」1260a
「すなわち子供や老人たちは或る仕方で国民だと言わなければならないが、しかし全然条件ぬきにではなく、むしろ附け足しをして、子供の方は「未成年の」国民と言い、老人の方は「男盛りを過ぎた」国民、或は、別のこういう類の「なになにの」国民(というのはわれわれの言おうとしていることは明らかなので、どんな言葉を使っても構わないから)と言わなければならないのである。」1275a
「何故なら国民の子供でさえも大人と同じように国民であるのではなく、一方の大人たちは無条件に国民であるが、他方はただ[国民になり得るという]前提のもとに国民なのであるから。というのは、子供たちは国民ではあるが、しかし「不完全な」国民であるのだから。」1278a

このように子供を価値のないものとみなす態度は、「欲望」にたいする考え方を土台としている。子供は自分の「欲望」に打ち勝つことが出来ないために不完全な存在とみなされるのだ。

【欲望と子供】
「というのは勇気や節度や思慮の何らの部分も持たず、傍を飛ぶ蠅は恐れるが、食ったり飲んだりする欲望が起れば、極端なことさえ何一つせずにおくことはなく、一文のために最愛のものすら亡ぼす者を、しかしまた同様にその心のことでも、子供や気狂いのような風に考えがなかったり、間違っていたりする者を、誰も至福な者とは言わないだろうから。」1323a

そんなわけで、教育の存在意義は、人間の「欲望」を制御するところにある。

【教育と欲望】
「しかしなお、たとい、ひとが凡ての人に中庸を得た財産を規定したにしても、何の役にも立たない。というのは財産よりも欲望を平均化することの方がむしろ必要だからであるが、このことは法律によって充分に教育されたものにとってでなければ不可能なのである。」「しかし、その教育はどのようなものであるだろうか、それを言わなければならない。一つで同じものだと言うだけでは何の役にも立たない。というのは同じ一つのものではあるが、しかしそれは金銭なり名誉なり或はその両方なりを余分に取ることを望む者にするような教育であり得るのである。」1266b
「さらに、また、人間どもの賤しい欲望は飽くことを知らないものである。例えば、初めのうちはただ二おろぼすで充分であるが、しかしすでにそれが伝統的なものになると、常にそれ以上のものを必要とし、遂に無限に進んでいくのである。というのは欲望の本性は無限であって、これを充たすために大衆は生きているのだからである。従って、かようなことがらの源は、財産を平均化することよりも、むしろ策を施してその本性の優れた人々は、これを余分のものを取ることを欲しないような者にし、賤しい人々は、これをそれの出来ないような者にすることである、そしてこのことはこの賤しい人々の数が少く、また不正に取扱われなければ、可能なのである。」1267b

人々の欲望をコントロールし、国を存続させるためには、教育を最重要の仕事として認識しなければならない。

【国家の仕事としての教育の至高性】
「このことによってまた、ただ言葉の上でなく、いやしくも真の意味で国と呼ばれるものなら、徳について意を用いるところがなくてはならぬということも明らかである。というのはもしそうでなかったら、この共同体は一つの軍事同盟体であることになるからであるが、それは他の互に離れている軍事同盟体にくらべて、[その同盟者は離れず接しているので]その他のものとはただ場所によってのみ異なっている。また、もしそうでなかったら、法律は契約であることになり、ソフィストのリュコプロンが言ったように、ただ双方に対して正しいことを保証してやる証人であることにはなるが、しかし国民を善き者や正しき者にすることは出来ないことになる。」1280b
「国とは氏族や村落の完全で自足的な生活における共同である、そしてかかる生活は、われわれの主張するように、幸福にそして立派に生きることである。従って国的共同体は、共に生きることの為ではなく、立派な行為のためにあるとしなければならない。」1281a
「しかし国制が存続するために、私の語った凡てのことのうちで最も重要なことは、今日凡ての人々に軽んじられているけれど、それぞれの国制に応じて教育がほどこされることである、というのはもし国制の精神によって習慣づけられ教育されていなければ、例えばもし法律が民主制的なものなら、民主制的に、もし寡頭制的なものなら、寡頭制的にそうされていなければ、その法律が最も有益なものであり、凡ての国民によって是認されたものであっても、何ら益するところはないからである。」1310a 以下も教育について語られる。
「ところで立法家が特に努力を致さなければならないのは、若者の教育についてであるということを、とやかく問題にする者はひとりもいないだろう。というのは実際国においてそのことが為されないならば、国制は害われるからである。何故なら国民はそれぞれの国制に応じて教育されねばならないからである。何故ならそれぞれの国制に固有の性格がその国制を維持するのを常とし、またもともとその国制を作り出すものだからである。」1337a
「また政治家はいろいろの生活と行為の選択に関しても同様でなければならない、というのは国民は事業と戦争とを行うことが出来なければならないが、しかし一そう多く平和と閑暇とに生きることが出来なければならないからである。また生活に必要なことや有用なことを為さなければならないが、一そう多く立派なことを為さなければならないからである、従ってこれらのものを目標にして、国民がまだ子供である時にも、また教育を必要とするその他の年齢にある時にも、教育をほどこさなければならない。」1333a-b

アリストテレス/山本光雄訳『政治学』岩波文庫、1961年

覚え書き:第2回パーソナリティ心理学会コロキウム2「道徳×パーソナリティ」

日本パーソナリティ心理学会主催のコロキウム「道徳×パーソナリティ」(2018年3/30、於東京家政大学)に、教育学代表の話題提供者として出席してきました。以下、ごく簡単な覚え書きとして、私が抱いた感想について記します。

認知発達と進化心理学の観点

話題提供として、私が教育学代表で「教育学における人格概念」についてレポートした他、藤澤文先生(鎌倉女子大学)が認知発達の観点から、川本哲也先生(東京大学)が進化心理学の観点から報告を行いました。

認知発達の点で印象に残ったのは、教員養成における道徳教育の授業に心理学の成果がほとんど反映されていないという現実でした。道徳教育の教科書にはピアジェやコールバーグの発達段階理論は載っているものの、それ以降の心理学領域での発展は反映されません。特に認知科学の領域はめざましい成果を挙げているように思うのですが、道徳教育の実践に反映されないのはとても勿体ないと思います。
まあ、実際に大学の教員養成課程で道徳教育の授業を心理学理論の専門家が担当することは滅多になく、多くの大学で退職校長先生など実務経験者が担当しているという現実においては、最新の心理学の成果は浸透しにくいだろうとは思いますけれども。とはいえ、文部科学省が道徳教育を変えるんだと旗を振っているにも関わらず、しかし大学の授業の中身に最新の心理学や認知科学の成果が反映されていかない現実を見ると、教員養成制度の在り方についていろいろ考えさせられます。
と言いつつ、私自身の認知発達に関する知識だって、ピアジェ、ワロン、ヴィゴツキーあたりで止まっているんですけれども。私自身の勉強不足を認識・反省し、知識をアップデートする必要を切実に感じる良い契機となりました。21世紀スキルについて批判的に理解するためにも、最新の認知発達理論の要所を押さえておく必要があります。勉強しろよ>俺。

それから進化心理学については、25年ほど前に読んだ竹内久美子の本のデタラメさ加減のせいで悪い印象しかなかったわけですが、今回の話題提供を受けて冷静に考えてみれば、デタラメなのは竹内久美子であって、進化心理学そのものはしっかりした学問であるという当たり前のことが分かります。進化心理学が挙げる諸成果は、他の学問からはなかなか出てこないだろうものが多くて、新鮮で興味深いです。とはいえ、Eテレでやっていたダイアモンド博士シリーズ等を見て思ったことですが、進化論から演繹された人間論の体系は、人文科学に携わる者としては素直に受け取れないということは否定しません。以下、川本先生個人に対する批判ではなくて、一般論であることを前置きしまして。生物学の成果を人間論にまで演繹するとして、人間の行動のどこまでを「動物」の範囲で理解し、どこからを「文化」の領域として理解するか、その境界線についての原理的・方法論的な反省が欠けているときには、出てきた成果を「人間論」として全面的に受け入れることには懐疑的でありたいと思っています。この境界線について生物学者が原理的・方法論的に反省を加えている極めて素晴らしい例は、ポルトマン『人間はどこまで動物か』に見られると思っています。(えっと、川本先生に反省が欠けていると言っているわけではなく、あくまで一般論であることについては、繰返し強調しておきますよ。)
その上で、道徳教育がパーソナリティの変容に影響を与えないだろうという進化心理学の成果は、現実の教育に何らかの形で反映していっていいだろうと思います。カリキュラム全体の構想や学校運営の在り方に対して抜本的な反省を加えるための良い素材になると思います。道徳教育なんかやっても何も意味がないという意見は、一部の教育学者や教育関係者などによって昔から現在にかけて途切れることなく主張されてますけれども(それこそ福沢諭吉あたりから)、科学的な根拠があるかないかで説得力はまるで違ってきます。

私の報告についての補足

私は、教育学がどのように「人格」概念とか「人格の完成」を扱ってきたかについて報告しました。パーソナリティ心理学との違いを際立たせようという意図もあって、「人格」の本質は「自由」であり、かつ「個性」と対立するような普遍的概念だとする見解を強調しました。

ただ、いちおう補足しておくと、『教育実践要領』や『期待される人間像』に見られるような、「人格」の本質を「自由」であると強調するような表現は、社会主義に対する警戒心と対抗意識を背景として登場したものであって、実は価値中立的な態度ではないだろうと思います。教育基本法制定に深く関わった田中耕太郎も共産主義に対して露骨な嫌悪を表明しており、「自由」を強調すること自体が実はイデオロギー的な態度であったことは、時代の背景として踏まえておく必要があると思います。(そしてそのイデオロギー性の指摘は、1980年代以降の新自由主義が強調する「自由と自己責任」論にもそのまま当てはまるわけですが)。まあ、「自由」を強調する発言者の意図がイデオロギーに染まっていることが「自由」そのものの価値を損ねるわけではありませんけれども、テキスト読解の際には少々引いた地点から眺める必要があります。ある文書を時代の文脈から切り離して価値中立的なテキストとして理解することには常に危険が伴うわけで、それは教育基本法の「人格の完成」も逃れられない、テキスト解釈の一般論ではあります。教育基本法の「人格の完成」という文言は、その時代の政治・社会・経済・思想的背景の中において、田中耕太郎という個人の想いが込められた、極めて個性的な表現だと思っています。「人格の完成」という文言を金科玉条の如く無批判に受け入れることに対しては、懐疑的であるべきだと思います。あるいは、現代において「人格の完成」という言葉を錦の御旗の如く使用している文章を見つけたら、内容はかなり怪しい主張になっているはずなので、眉に唾をつけて読むべきだと思います。

フロアからの質問にありました、「人格」という言葉ではなく「人間性」という言葉のほうがより適切だったのではないかという指摘は、田中耕太郎という個人の思想を読み解く上で極めて有効な切り口になります。なぜ田中耕太郎は「人間性」という言葉ではなく「人格」という言葉にこだわったのかを掘り下げていくと、教育基本法の言う「人格の完成」が本当に狙っていたものがかなり明瞭に見えてきます。彼は、立法・行政・司法の三権分立に「教育」を加えて四権分立にしようとする理念というか野心というか見通しを持っていました。独立した力としての「教権」を確立する上で、「人格の完成」という言葉は極めて重要な役割を果たすことが期待されているはずです。そしてそこで言われる「人格」とは、パーソナリティ心理学が扱うパーソナリティとは似ても似つかないものであることが見えるでしょうし、そして似せる必要がそもそもないものであることも見えてくるだろうと思います。それは客観的で中立的で科学的な言葉ではなく、国家体制に関わってくることが期待されている言葉です。そういう意味では、「人間性」という言葉のほうが価値中立的でありそうだという見解は、まさにその通りであると思います。

そんなわけで、私の報告は、教育学で言う「人格」が、パーソナリティ心理学の言う「パーソナリティ」とは全然違っていることを強調しましたけれども、それは「教育学のほうが正統なんだから、こっちに合わせろ!」と主張したいわけではありません。むしろ教育学で言う「人格」は時代背景やイデオロギーに規定されて登場してきたものであって、けっして価値中立的なものではなかったことを併せて示そうという意図を込めていたつもりです。上手に説明できたかどうかは、心許なくて、恐縮であります。

国家主義的な価値から社会経済的な価値へ

というわけで、3人の話題提供の範囲はそうとう広がって、指定討論者の渡邊先生がどうまとめるか大変だなあと思っていたら、鮮やかなお手並みで、びっくりしました。全体的にたいへん示唆的な内容でしたが、中でも特に印象に残ったのは、「パーソナリティの価値化:非認知能力の浮上」と「徳性から能力へ:国家主義的な価値から社会経済的な価値へ」というお話しでした。

「パーソナリティの価値化」という点については、当然、企業で使える人材イメージの変化が背景にあるわけです。単に勉強ができるだけの人間が会社で使えないことに多くの人が気がついて、使えるか使えないかは頭がいいかどうかに加えてパーソナリティの在り方にポイントがあると考えられるようになりました。となると、これまでの教育では社会に有能な人材を送り出すために「知能の測定」の確度を上げていけばよかったのが、これからは「パーソナリティの測定」の確度を上げていかなければならなくなったわけです。企業で役に立つ人材を送り出すために、教育では知能や学力の測定に加えてパーソナリティの正確な測定が切実に求められるようになり、それに伴って、パーソナリティ心理学に大きな期待がかかるようになります。企業が求める人材の変化は、文部科学省が言う「学力」の定義の変化にも反映してきています。かつての「学力」は勉強ができるかどうかだけを問題にしていましたが、1990年代以降の「新学力観」は「関心・意欲・態度」というパーソナリティ領域に踏み出しています。この教育の世界で進行した「学力の定義の変化」と、渡邊先生が指摘した「パーソナリティの価値化」は、同じ根っこを持っているように思います。

それから、心理学におけるパーソナリティの意味はもともと法学や教育学と変わりなかったのが、1930年代アメリカの社会経済的な背景でオールポートやキャッテルから変わっていったという指摘も示唆的でした。個人的には、1920年代(30年代じゃなくて)アメリカの社会経済的背景と1960年代日本の社会経済的背景はかなり似ているように思っています。で、教育学における「人格」概念も、高度経済成長後に大きく変化しているのではないかという気がしています。たとえば話題提供でも示した中央教育審議会「期待される人間像」は1966年に出たものですが、ここで示された国家主義的な「人格=自由」観は60年代後半に急速に萎んで、70年代以降は社会経済的な価値へと装いを変えていくように見えます。直感的な感想で、まったく実証的な根拠はありませんけれども。とはいえ、1930年代アメリカの変化と60年代日本の変化の類似を考えることは、何かしらの示唆を与えてくれそうな予感はします。

また、「パーソナリティのリアリティ」という言葉は、なかなか含蓄が深いなあと思って聞きました。「パーソンのリアル」という次元ではなく、「パーソナリティのリアリティ」という次元を扱っているという自覚と、その領域を豊かにすることの意味を考えることが、これからますます重要になるのではないかと。
教育の領域に我田引水すれば、「教育をする」ということに執着するのではなく「教育的である」ことの現実的な意味を考えることの重要性と言いかえることができるかもしれません。道徳教育に関しても、子供に対して道徳教育を施す方法や効果について云々するのではなく、大人自身が「道徳的である」ことの現実的な意味を考える重要性、と言いかえられるかもしれません。

AIによるパーソナリティ予測

せっかくなので、コロキウム3「AI×パーソナリティ」で紹介された「文章によるパーソナリティ予測」をしてくれるサイトに上の文章を入力してみたところ、以下のような結果が出力されてきました。なるほど。

自己主張が強く、協調性が低いのだった。ははは。
これ、実はパーソナリティ診断に使えるだけでなく、文章そのものが人に与える印象を客観的に自己点検するためにも有用なシステムなのではないかと思えてきました。たとえば「この文章、自己増進も変化許容性も弱いのか」って気づきのために使うとか。論文を書いたらちょっと使ってみることにしよう…。

【要約と感想】広岡義之『教育の本質とは何か』

【要約】教育とは、代替不可能な人格同士が出会い、お互いに自分自身の生き方や在り方を変容させて自己実現に向かう、一回限りの繰り返し不可能な出来事です。

【感想】まあ、「社会に開かれた教育課程」とか「カリキュラム・マネジメント」といった文書の束を浴び続ける日常の中、たまにこういう本に触れると、ささくれ立っていた心が本当に和む。本書は、ボルノー、ブーバー、フランクル、林竹二、森有正といった面々の思想を解説しながら、教育とは単なる知識の詰め込みに関わる技術ではなく、人格と直接関わり合う実存的で臨床的な営みであることを説いていく。OECDのキー・コンピテンシーや今時学習指導要領の「資質・能力」など、普遍的な能力を育成するのが教育の役割だと断定して憚らない主張が跋扈する世界的な趨勢の中、こういう代替不可能な一回性の「出来事」としての教育を前面に打ち出す主張を見ると、とてもホッとする。とはいえ、教科書として使用すると、amazonレビューに代表的に見られる酷評を喰らうことになるらしい。彼らの間には一回限りの出会いは発生しなかったようだ。世知辛い世の中ではあるが、それもまた教育の姿だと本書にも書いてあるのだった。

広岡義之『教育の本質とは何か-先人に学ぶ「教えと学び」』ミネルヴァ書房、2014年

【要約と感想】プラトン『国家』

【要約】「正義」とは何であるかを考えた本です。
国家にとっての正義とは、上に立つべき人がちゃんと上に立ち、下にいるべき人がしっかり下で従っている状態を指します。上に立つべき優秀な人とは、哲学者のことです。同じく、正義の人とは、上に立つべき知的要素がしっかり上に立ち、下にいるべき欲望がきちんと下で従っている状態を指します。逆に、下にいるべき欲望たちが思考や行動を支配した状況を「悪」と呼びます。
哲学者になるためには、感覚で捉えられるようなものは捨てて、思考だけが把握できる対象=イデアを捉えなければなりません。そうしてイデアを把握する哲学者は、正義そのものであり、最高に幸せな人間となります。

【感想】政治学や教育学の、押しも押されぬ大古典。内容に対して私が言うべきことは、ほぼ何も残されていない。

とはいえ、いくつか気になることはある。たとえば、社会契約論について。プラトンは明確に社会契約説を否定している。しかも歴史的に否定したのではなく、倫理的に否定している。社会契約論が本当に仮想敵としなければいけないのは、王権神授説のような代物ではなく、プラトニズムではないのか。

これはもちろん民主主義にも当てはまる。プラトンは民主主義を明確に倫理的な意味で否定している。しかも民主主義の根幹である「多様性」そのものを倫理的に否定する。プラトンは、単一性や単純性や純粋性といった「自己同一性」を最大の根拠として、民主主義の多様性を倫理的に非難する。この単一性や単純性や純粋性といった観念は、現代では民族の単一性・単純性・純粋性という「ナショナリズム」の形で先鋭化している。民主主義が本当のラスボスとすべきは、目の前に見えるナショナリズムではなくて、背後に控えているプラトニズムであり、「自己同一性」という概念そのものではないのか。

個人的には、本書は、政治学や教育学の古典であるよりも前に、「自己同一性」という概念が持つ魅惑と恐ろしさを疑いのない水準で浮き彫りにしたところに意義があると思っている。

もちろん教育について無視するわけにもいかないので、それについてはこちらへ。→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【この理論は眼鏡論に使える】人間の魂を三要素に分割する考え方は、眼鏡っ娘が登場するマンガを分析する際に、大きな理論的武器となる。プラトンは、一人の人間を「知的/勇気/欲望」の3つの要素に分割した上で、知的な部分がほかの部分を従えることこそが「正義」であると主張した。そしてそれは国家においても同様であり、知的な人間がほかの人間を従えるのが「正義」ということになる。それは一つの物語においても当てはまる。一つの物語に登場するキャラクターそれぞれに魂の三要素「知的/勇気/欲望」を割り当てる。すると物語で展開されるキャラクター間の葛藤は、一人の人間のなかで繰り広げられる魂の葛藤と相似するものとなる。そして「知的」な人間が上に立つことが、プラトンによれば「正義」なのだ。知的な人間とは、もちろん眼鏡をかけた者のことである。

*9/22追記
「眼鏡っ娘」がただの「眼鏡をかけた女」とは異なるという事態を、本書は端的に示している。国家の指導者となるべき哲学者を教育するエピソードにおいて、プラトンは数学教育の重要性を説く。そこで彼は「一」を認識することが真理を見抜く知性の土台を作るとして、こう言う。
「もし<一>というものがまさにそれ自体として、じゅうぶんに見られ、あるいは何かほかの感覚によってとらえられるものであるとしたら、ちょうど指の場合について行っていたのと同じように、それは我々を実在するものへと引っぱっていく性格のものではないことになるだろう。けれども、もしそれが見られるときにはいつも、何か反対のものが同時に見られて、一つとして現れるのに少しも劣らず、またその反対としても現れるということになるのであれば、これはもう、その上に立って判定する者が必要となるだろう。」(524d-525a)
プラトンが言う「何か反対のもの」とは、「一」に対して「多」が現れることを意味する。人間は「人間という一」であると同時に、「二つの眼と二つの耳と二つの手と二つの足などなどの多の集合」でもある。我々はどうして人間を「一人の人間」として認識し、「二つの眼と二つの耳と…の集合」としては認識しないのだろうか。これが「一と多」に関わる認識論的問題である。プラトンは様々な物事を「多」ではなく「一」として認識することこそが真理を認識する知性の役割だと言う。知覚だけでは、見えるのは「二つの眼と二つの耳と…の集合」だけであって、ここから必然的に「一人の人間」という認識は生じない。知覚に加えて知性の働きがあってこそ、初めて「一人の人間」という認識が生じる。
これは明らかに、「眼鏡っ娘」を「眼鏡っ娘」として認識する事態を指し示している。もしも単に知覚だけなら、そこにいるのは「眼鏡+娘」という「多の集合」に過ぎず、「一人の眼鏡っ娘」を認識することはあり得ない。そこに「真理を見る知性」の働きが加わることによって初めて「一人の眼鏡っ娘」を認識することが可能となる。逆に言えば、「眼鏡と娘という多の集合」から「一人の眼鏡っ娘」を見抜くことこそが知性の働きであって、真理への道筋ということである。

またプラトンは「一」と「多」についてこうも言う。
「じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じる玄人たちにしても、彼らは、<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば、彼らのほうはそのぶんだけ掛けて増やし、<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ」(525d-e)
これは、愚かな非眼鏡勢力がしばしば「眼鏡を外した方が美しい」などという馬鹿げた戯言を発することに対する批判である。プラトンが言う「<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる」とは、本来は「一人の眼鏡っ娘」であったものを言葉の上だけで「眼鏡と娘という多の集合に分割しようと試みる」ことを意味する。それは極めて愚かな行為であって、心ある眼鏡勢力はプラトンの言うとおり「一笑に付して相手にしない」ことが必要だ。眼鏡勢力が気をつけるべきは、「<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心する」ということだ。もちろんこれは、「眼鏡っ娘」が眼鏡を外して「眼鏡と娘の多の集合」に成り下がらないように用心するということを意味する。なぜなら「眼鏡っ娘」という「一」にこそ真理が宿るのであって、「眼鏡と娘の多の集合」には知性のかけらも存在しないからである。そもそも「割って細分」とは眼鏡を否定する暗喩であり、「掛けて増やす」とは眼鏡を肯定する暗喩である。眼鏡を掛けて「眼鏡っ娘を増やす」ということこそ、真理へと到達する道筋なのだ。

プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈上〉、岩波文庫
プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈下〉、岩波文庫