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プラトンの教育思想―善のイデアを見る哲学的対話法―

ソクラテスは教育で、プラトンは教育「論」

 このページでは、プラトンの教育論について考えていきます。
 ちなみに、ソクラテスについては彼の行った「教育」について考えるのに対し、プラトンについては彼が語った教育【論】について考えます。「教育」と「教育論」では、考えるべきことは全然違ってきます。というのは、「教育」は現実に行われた取り組みを指しますが、「教育論」の方は現実に行われるかどうかに関係なく頭のなかで考えられた思想を指すからです。実際に行われた「教育」と、頭のなかで構想された「教育論」では、評価する観点がまったく変わってきます。

ソクラテスの教育との比較

 ソクラテスとの比較で、まず事実として重要なのは、ソクラテス本人が自分の「教育論」をなに一つ残していないということです。ソクラテスは文章を書き残していないので、彼が何を考えていたかを本人の口から聞くことは、残念ながら絶対にできません。ただし、彼が実行したことについては、他の人が書き残した記録から推測することができます。特にプラトンが書き残した記録には、ソクラテスの言動が活き活きと描写されています。ソクラテスの人となりまで眼前にまざまざと思い浮かべることができるような、超一級品の文学作品です。プラトンの作家としての力量がズバ抜けていたことが分かります。が、逆に言えば、どこまでが実際にソクラテスが行ったことでどこからがプラトンの創作なのか、見極めることはとても難しいわけです。

プラトンの教育と、教育論

 一方、プラトンが実際に行った「教育」についても、そこそこ記録が残っています。プラトンは「アカデメイア」という学園を作り、そこで弟子たちを育成しました。プラトンが亡くなった後もアカデメイアは存続します。様々な史料が残され、そこで実際に行われていた教育の姿をある程度は再構成することができます。
 が、このページではアカデメイアで行われていた教育については直接触れません。考察の対象にするのは、プラトンが実際に行った「教育」ではなく、彼が構想した「教育論」です。

プラトンの教育論(本筋)

 そんなわけで、さっそくプラトンの教育論について確認していきましょう。プラトンはたくさんの本を書き残していますが、教育論に関しては、特に『国家』という本と『法律』という本が重要です。ただし、内容を精査すると、お互いに矛盾するような記述も多く、全体的・統一的・総合的に理解するのはなかなか厄介です。ということで、細かい矛盾には目をつぶって、まずは大雑把にプラトンが本当に言いたいことを理解することに努めてみましょう。

教育とは知識の獲得ではない

 まずプラトンは、教育に関して世間の人々が抱いている勘違いを糾弾します。世間の人々は、教育を「知識の獲得」と勘違いしています。当時、ギリシアでは自分を教師と称して、お金をとって教育をする人々が活躍していました。彼ら自称教師のことを「ソフィスト」と呼びますが、プラトンは彼らの教育を徹底的に批判します。ソフィストたちがやっているような、人間の外側から知識を注入しようとする試みを、プラトンは断じて「教育」だとは認めません(518B)。では、プラトンが主張する本物の教育とは何でしょうか?

哲学的対話法

 結論だけ示しておくと、プラトンが言う本物の教育とは、「哲学的問答法」です。この学問だけが人間を「確実な知識」へと導いてくれます。他の学問では、「確実な知識」へと辿り着くことは絶対にできません。
 しかし問題は、この教育の真の姿である「哲学的問答法」というものが具体的にどのようなものであるかが、プラトンの記述そのものからは分からないというところにあります。手がかりはたくさん与えられているので、少しずつ確認していきましょう。

「確実な知識」を求めて

 まず、先に「哲学的問答法だけが人間を確実な知識へと導いてくれる」と書いたわけですが、そもそも「確実な知識」とはどういうものでしょうか。実はプラトンは「確実な知識とは何か?」という問題に徹底的にこだわっていて、まずはこれを明らかにしないと彼の教育論そのものを理解することができません。
 まずプラトンが否定するのは「感覚」です。感覚を通じて「確実な知識」に到達することは絶対に不可能だと、繰り返し主張しています。例えば同じ対象を見るにしても、見る人の精神的状態が違っていたり、あるいは部屋の明るさなど環境が異なれば、人に与えられる感覚はまったく違ってきます。条件が違えば変わってしまうような曖昧なものを「確実な知識」と呼ぶわけにはいきません。
 つまりプラトンが言う「確実な知識」とは、どんなに環境や条件が変わろうが、場所や時代が違っていようが、絶対に変わることのない知識のことです。平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わらない知識、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わらない知識こそが、追い求めるべき「確実な知識」です。

数学の重要性

 そんな時代や場所によって変わらないような「確実な知識」が本当にあるのか?と聞かれたら、自信を持って「ある」と言いましょう。たとえば、「三角形の内角の和は二直角と等しい」という事実は、平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わりませんし、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わりません。「数学」の知識は、場所や時代によって変わることがないものと言えそうです。ということで、プラトンは「数学」を極めて重要視し、最終目的である「哲学的問答法」に到達する前に必ず「数学」を修得するべきことを主張しました。プラトンの言うことに従うなら、数学が理解できない人に学問をする資格はありません。
 (そして、このようにプラトンが数学を重視することに対して、ピュタゴラス派が極めて大きな影響を与えただろうことが指摘されています。たぶん、そうでしょう。が、このページでは検証しません。)

数学に足りないもの

 しかしプラトンは、数学では最終的な「確実な知識」には手が届かないと言います。確かに数学的な手続きを踏んでいけば、一つの決まったゴールに辿り着くことができます。数学の「手続き」や「ゴール」にはまったく問題がありません。問題は、「スタート」にあります。どうしてその「スタート」で良いのか、数学そのものは決して答えてくれません。確かに、いったん「スタート」が正しいと認めてしまえば、あとは決められた手続きに従えば一つの答えを出すことができます。が、しかし、その「スタート」そのものが正しいかどうかは、数学そのものの手続きでは決して分からないのです。
 たとえばユークリッド幾何学は、まずいくつかの定義と公準と公理を無条件に承認するところからスタートします。いったん定義と公準と公理を認めてしまえば、あとは手続きに従っていけば必ず一つの決まった答えに辿り着くことができます。しかしそもそも最初に承認した定義と公準と公理が本当に正しいかどうかは、ユークリッド幾何学の手続きでは確認することができません。そこは無条件に「信仰」するしかありません。プラトンはそれを問題視したわけです。本当に正しいかどうかを自分で確認してもいないものなんか、無条件に信じることなどできない、ということです。

演繹と前提さかのぼり法

 数学の方法とは、「演繹」です。ある前提が与えられると、そこから論理的な手続きを正確に辿りさえすれば、確実に真理を導き出すことができます。真理を導く手続きに「感覚」の手を借りる必要は一切ありません。「感覚」を必要とせずに真理を導き出せるところに、数学の素晴らしさがあったわけです。ところがこの「演繹」という手続きを進めるためには、まず何らかの前提が必要となります。まずは前提が与えられなければ、演繹という手続きを始めることすらできません。無条件な「前提」を必要とすることが数学の弱点だと、プラトンは見なします。「本物の知識」に辿り着くためには、「前提」そのものが正しいかどうかを確認するために、数学の「演繹」とは違う手続きが必要となります。その手続きをプラトンは「仮設廃棄」と呼びます。
 数学は何かを「仮設」するところから議論を始めるけれども、しかし本物の知識に辿り着くためには、その仮設を廃棄して、さらに根源的な仮設へと遡っていく必要があります。そうやって次々と仮設を廃棄していって、もうこれ以上は遡れないというところまで辿り着いた時、そこが究極的な出発点となるはずです。これは「演繹」という手続きとは、まったく反対の手続きです。一般的には「演繹」の反対は「帰納」ということになっていますが、プラトンには通用しません。プラトンにとっては、「演繹」の反対は「仮設廃棄」です。私個人は「仮設廃棄」という言葉よりも「前提をさかのぼる」と言ったほうが分かりやすいので、そう呼びます。「演繹」という言葉も分かりにくいので、「前提から引き出す」とでも呼びましょうか。

善のイデア

 このように、前提から結論を引き出す数学の手続きとはまったく反対に、前提をさかのぼっていくのが哲学的対話法という手続きです。そしていったん遡りはじめたら、究極的な始原に辿り着くまで遡りつづけなければなりません。プラトンの言うところによれば、この究極的な始原こそが「善のイデア」ということになります。
 ということで、結論だけ言えば「善のイデア」を認識することが教育の目的ということになるわけです。が、どのように具体的な哲学的対話を通じて「善のイデア」に到達するのか、それはプラトンの著作そのものから端的に引用することはできません。ここは、プラトンの著作の全体から総合的に感得すべきものということになるでしょう。事ここに至れば、もはや、プラトンの著作すべてが総合的に「教育」なのだと言うしかないところであります、恐縮です。

国家の存在意義としての教育

 ここまでして教育に注意しなければならないのは、プラトンにとっては、教育こそが国家が存在する理由だからです。国家は、ただ人々を生存させるために存在しているわけではありません。人々を善い人生へと向かわせるために存在しています。教育をしない国家は、国家としての存在価値がないわけです。
 しばしばプラトンの著書『国家』の主題は何かについて議論されることがありますが、私に言わせれば、その主題は「教育」で間違いありません。なぜなら、理想の国家について論じることはすなわち理想の教育について論じることだからです。教育に触れずに国家について語ることなど、プラトンには想像もできないことです。国家のあり方と教育のあり方は一体となって構想されなければいけません。その姿勢は最晩年の著作であろう『法律』でもまったく変わっていません。

プラトンの教育論(脇筋)

 さて、以上、プラトン教育論の本筋を確認したわけですが、この本筋から様々な教育的見解が派生します。脇筋とはいえ、教育論として無視できない内容が満載ですので、確認していきましょう。

体育と音楽・文芸

 さて、プラトンが数学を重視していたことはすでに確認しましたが、数学を学習する前の小さな子供たちには、まず体育と音楽・文芸を課すことを提唱しています。まず最重要ポイントは、「体育」といっても、体力を養うことを目的としていないということです。プラトンが「体育」を重視するのは、それが体力や健康の増進に役立つからではなく、「魂」を養うことに大きな意味があるからです。
 プラトンによれば、人間の魂は3つの部分が組み合わさってできています。すなわち、「理知的/気概的/欲望的」な部分です。この魂の部分のうち、「欲望的」な部分が突出するとケダモノのようなダメ人間になってしまいます。「理知的」な部分と「気概的」な部分が協力して「欲望的」な部分を押さえつけることで、立派な人間になることができます。そして数学は「理知的」な部分を成長させるのに大きな役割を果たすのですが、小さな子供にはまだ数学を理解することは不可能です。そこで、まずは「気概的」な部分を成長させ、これに「欲望的」な部分を押さえ込ませようとするわけです。この「気概的」な部分を成長させるために必要なのが、「体育」ということになります。だから「体育」とは体力や健康のために課すのではなく、魂の「気概的」な部分の成長のために課すべきものとなるわけです。
 しかし「気概」的な部分が突出して成長すると、単に粗野で乱暴な人間になってしまいます。これはプラトンの望むところではありません。そこで、「気概」的な部分を穏やかに落ち着かせるために、「音楽・文芸」を課すことにします。というわけで、この「音楽・文芸」も、単に子供を趣味人にするために課すわけではなく、「魂」の調和のために必要な学科ということになります。
 プラトンは、子供たちの魂の調和を図るために、まず「音楽・文芸」を課して気概的部分を手懐け、その後に「体育」によって気概的部分を発達させようと主張します。こうして気概的部分が調和的に発達して欲望的部分を押さえつけることに成功した後に、満を持して数学の勉強に入ろうというわけです。

エリート主義

 しかし、気概的部分が調和的に発達すれば問題ありませんが、うまくいかない場合もあるのではないでしょうか? プラトンは、うまく成長しなかった子供は、どんどん教育から脱落させていきます。欲望的部分が優位になってしまった人間は、それに相応しい低レベルな仕事に従事させればいいのであって、さらに高度な勉強をさせる必要はないというわけです。
 そんなわけで、プラトンの教育とは、万人に平等に与えられるものなどではなく、落ちこぼれを次々と排除して、最終的にエリートを選抜するものです。恐ろしいことに、この落ちこぼれの排除は、赤ん坊の誕生直後どころか、男女の結婚の過程から開始されます。赤ん坊は、誕生直後に精査され、ダメな赤ん坊は無慈悲に排除されます。ダメな赤ん坊が生まれてこないように、男女の結婚や性交渉も厳しく制限されます。プラトンの教育は、「優生主義」を背景にして成立しています。だから「数学なんてわかんない」なんてプラトンに言おうものなら、人間失格扱いになること間違いありません。

男女平等

 しかし逆に言えば、体育と音楽・文芸によって気概的部分を手懐け、さらに数学の学習にも素質を示すようであれば、男女の性差など問題になりません。優秀な女性は、とうぜん男性と混ざって高等教育を受けるべきだという話になります。プラトンが「理性」という観点から男女を完全に対等な存在と見ていることは、彼の教育論を考える上で重要な論点となります。

有害な物語の排除

 さて、小さな子供たちの教育を、まず音楽・文芸から始めるべきことは先ほど確認しました。どのような音楽・文芸を子供に与えるべきかについて、プラトンは極めて長い議論をしています。簡単にまとめると、教育にとって有害な物語は子供たちから遠ざけるべきだという議論です。人生経験が豊富な大人にとっては娯楽的作品であっても、何でも素直に受けとってしまう子供に対しては有害な影響を与えてしまうことがあると、プラトンは言います。具体的には、神々に関する物語が問題となります。
 このように有害な物語を排除しようとするプラトンの姿勢は、もちろん後の人々から批判の対象となりますが、彼の教育論を考える上で一つの重要な論点となります。

自由と遊び

 さて、音楽・文芸と体育の課程を終えて素質があると認められた子供たちは、次に数学の勉強をすることになるわけですが、ここでプラトンは学習を強制するべきではないと主張します。子供たちの自発性に任せて、遊ぶように学習させるべきだと言います。理由は主に二つあって、一つは強制的に学習させられても身につかないという実践的な理由です。もう一つは、最終的に哲学的対話法を身につけなければならない人間にとって、強制されて学習するなどということはあってはならないという理念的な理由です。このあたりは、近年の学習指導要領の「新学力観」にも通じる論理で、彼の教育論を考える上で一つの論点となります。

実用主義の排除

 そうして子供たちは数学の学習を始めますが、プラトンが注意するのは、その数学が実用的なものではあってはならないということです。具体的には、商売に役立つために数学を身につけるわけではないということです。数学はあくまでも普遍的な知識への到達を目指し、魂を向上させるために身につけるべきものです。
この姿勢は最晩年の著作『法律』まで貫かれていて、数学だけに限った話ではなく、プラトンにとっての教育とは決して職業に就くための知識や技術を身につけるものではなく、「人間」となるための「普通教育」です。
 この実用主義・職業教育の排除は、近代的な普通教育の理念を考える上でも一つの論点となります。

学問の総合

 これまで「数学」と無造作に言ってきましたが、プラトンの言う数学は我々の考える数学とは範囲や内容が少しズレているかもしれません。プラトンは数学を、(1)算術(2)幾何学(3)立体幾何学(4)天文学というふうに発展していくものと構想しています。これは単純に見れば、一次元→二次元→三次元→円運動というカリキュラム構想となっています。
 そしてすべての課程を終えた際には、それらの学問をバラバラで雑多な知識として考えるのではなく、統一的・総合的に学問を把握することを求めています。単なる知識の習得ではなく、原理の理解を要求していると言えるでしょう。そうでなければ、次のステップである哲学的問答法を始めることなどできません。
 この論点は、学習指導要領の言う「深い学び」という言葉にも通じるものであり、彼の教育を考える上でも一つの論点となります。

まとめ:ソクラテスの教育との違い

 以上、プラトンの教育論について確認してきました。私が個人的に思うところでは、重要なのは、枝葉末節にとらわれず、まず論理の根幹をしっかりと把握することです。決定的に重要なのは、「善のイデア」に対する理解です。そして、それを踏まえると、雑多に伸びているようにしか見えない枝や葉についても理解することは容易であるように思います。逆に言えば、「善のイデア」について把握する前に細々とした論点に手を出しても、おそらく何も分からずに終わります。
 ちなみに、「善のイデア」の理解とは、教科書に書いてあることを頭で理解するような、そんなレベルの話ではありません。最終的には「生き様」の問題となります。ささっとレポートを書くためにインターネットを検索しまくっている限り、一生かかっても「善のイデア」を理解することはないでしょう。(まあ、理解しなかったところで、日常生活では何の問題もありませんけどね。なぜなら、プラトンの理屈では、理解するのは一握りのエリートだけで充分なのだから…)

ソクラテスとの比較

 で、ここがソクラテスと決定的に違ってくるところかもしれません。ソクラテスの行動を見る限り、彼にはエリート主義というものが見当たりません。老若男女、どんな人間に対しても分け隔てることなく接しているように見えます。ソクラテスは、誰でも必ず「人間並の知」には辿り着くことができると考えているように見えます。ただし、ソクラテスは「人間の知」と「神の知」を厳密に分けて、我々が到達できるのはしょせんは「人間の知」に過ぎないと自覚すべきことを唱えます。ソクラテスが言う「人間並みの知=無知の知」は、知ろうと思えば知ることができるような知識について語っているのではなく、人間の力では絶対に到達することが不可能であるような、原理的で絶対的な「無知」を相手にしています。人間がたどり着ける最高の知とは、「どんなに頑張っても絶対に知り得ないことがある」ということを知っているということです。
 それに対してプラトンは、「神の知」にまで到達しようと試みているように見えます。哲学的問答法は、そのための手段です。しかし問題は、本当に我々の力で「神の知」に到達できるかということです。これがおそらくソクラテスの言うとおり原理的に不可能であったことは、20世紀になってヒルベルトやフレーゲやラッセルやゲーデルら数学者の仕事によって明らかになっていくことでしょう(ただし「人間の知」を「有限の立場」と同じと見なすかどうかなど、なかなか厄介な話ではありますが……)。

参考文献:プラトン教育論の先行研究

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 プラトン『国家』の主題が教育にあると断じており、とてもありがたい本。著者は日本の道徳教育を作り上げる際にも大きな役割を果たしており、その理論的な土台としても注目される。

稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』
 プラトンの教育論をどのように実際の道徳教育に活かすかという課題に果敢に挑戦している。

ネトゥルシップ『プラトンの教育論』
 プラトン『国家』の中に雑多に散らばっている教育論を統一的に理解しようとしている。

参考文献:プラトンの著作

 教育に直接関係するのは特に『国家』と『法律』だが、教育が主要テーマでないものであっても、その対話形式自体がすでに教育だったりするので侮れない。また内容的にも一貫して「知識とは何か」がテーマになっており、著作すべてが教育に関係しているとも言える。中でも『ゴルギアス』『プロタゴラス』『メノン』は、ソフィストを相手にしながら「本物の知識」とは何かを追究しており、教育論を考える上では外せない。さらに『テアイテトス』は産婆術についてのまとまった記述があり、プラトンの教育論を考える上でも重要な本となっている。まあ、全部読んでおこうということだな。

『ソクラテスの弁明・クリトン』
『パイドン』
『饗宴』
『ゴルギアス』
『プロタゴラス』
『パイドロス』
『メノン』
『国家』
『テアイテトス』
『法律』

参考文献:プラトンに関する先行研究

 『国家』はプラトンの著作の中でも特に重要なものと衆目が一致しており、先行研究も多い。そして『国家』の本質を教育論と見なさない立場であっても、もちろん教育を無視して『国家』を語れるわけがない。以下の文献は、教育そのものを追究課題としているわけではないものの、プラトンの教育論を考える上で参考になるような様々な視点を与えてくれる。

内山勝利『対話という思想』
納富信留『プラトン 理想国の現在』
納富信留『ソフィストとは誰か』
サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】フレーベル『フレーベル自伝』

【要約】自分自身を一つの統一された生命と捉える傾向のある私は、断片的な知識を伝達するだけの旧来的教授に馴染めず、生徒が自発的に活動して生命力を発揮する新たな発展的教育を目指しましたが、世間には理解されませんでした。

【感想】まあ、体系的にまとまった著作ではなく、公開されることを前提としていない手紙の草稿だけあって、読みにくいことこの上ない。繰り返しや重複も多く、理解不能な晦渋な言い回しばかりで、とてもではないが学生には勧められない。

とはいえ、ある程度の知識と経験を持って臨めば、得られるものは以外と多いかもしれない(と覚悟して付き合うしかない)。
まずは、全体として陰鬱な印象を受ける抽象的な言葉の羅列の中で、フレーベル自身が創造的な授業をする光景が具体的に描かれている表現に出くわすと、かなりホッとする。フレーベルは自身が行う地理の授業で、従来の詰め込み型の指導ではなく、生徒の自発性を尊重する活動を試みる。授業はうまくいき、生徒の保護者からの称賛だけでなく、学校の上司からも褒められ、なおかつ生徒自身の熱心な活動そのものに喜びを見出している。フレーベル自身もこの授業の成功をそうとう誇りに思っているようで、文章から喜びが沸き立ってくるようだ。フレーベルがただの批評家ではなく、誠実な実践家であったことを示す、読み応えのある文章だと思った。

またあるいは、フレーベルが繰り返し繰り返ししつこく「生命」と「統一」への志向性を表明することに関して思ったのは、いわゆるアクティブラーニングと呼ばれる教育関連諸技術の根底に、こういった「生命の統一」への志向性が据えられるべきだということだ。フレーベル自身もアクティブラーニング的な授業を成功させているわけだが、彼はただの教授テクニックとしてアクティブラーニングを導入したわけではなく、自分自身の内側から滲み出てくる生命の統一への志向に促されて教授改革へと向かっていった。フレーベルの教育思想の根底には常にこの「生命の統一」への憧憬と確信が据えられており、いわゆるアクティブラーニングもそこから生じる必然的な系に過ぎない。こういった「生命の統一」への志向性が欠けているとき、どれだけ表面的な技術を磨いたとしても、授業の本質は何も変わらないのではないかとも思う。

まあ、この本だけでフレーベル思想の全体像を掴むことは難しいので、諸々の研究書にあたって勉強するべきなのであった。

【個人的備忘録】アクティブラーニング
「私はまた地理の教師としてこの機会を利用して、生徒に土地の表面の状態を直感させ理解させ、このようにして得た直感に地理教授を結び付け、そしてそこから地理教授を出発させた。」「学校取材の第一回公開審査の際、私は幸福にも――この最初の試みはひどく多くの不完全な点を含んでたにも拘らず――ただに出席した両親達の満場一致の賛成だけではなくて、更に特に私の上役の人々の賛成を得た。そして人々は言った。「地理は須くこのやうに教えるべきだ。少年は遠方に行く前にまずその郷土を知らなければならない。」生徒は実際町の周囲のことを恰かも家庭の自分の部屋のやうに熟知し、そして迅速に且つ適切に周囲のあらゆる地面の状態について答えた。この授業こそ私が後年十分改訂して、現在まで多年の間応用して来た授業の源になった。」(85-86頁)
「その際私は審査の人々を十分満足させる結果を得て喜んだだけではなくて、私の生徒が愉快に熱心にまた自発的に活動しているのを見た。」(87頁)
「成績そのものよりもむしろ私の善良な意志と火のような熱心とのために与えられた好意ある親切と獲得した好評とが私を鼓舞して、愈々深く教授の本質のなかに深入りさせた。併し一つの大きな学校の組織された全体は鞏固な形式があり、確実な・承認された・外部的に予じめ時間と目標とを規定し得るような課程を有ち、而も総ては時計仕掛けのように互いに噛み合っていなければならない。ところが私の流儀はただ目覚めた生命と目覚めた精神とだけを要求した。」(87頁)
「即ちこれまでの教育方法、殊に単に伝授的で単に外面的歴史的に伝達する基礎学校乃至練習学校の教授法は、一層高い真実の認識に対し、精神的の洞察に対し、将来の真の科学的陶冶に対し、本質直感に対し、従って真の知識に対し、知識における真理に対し、感応を鈍くし、否なそれのみか、私は率直に言いたいのであるが、此等に対して破壊的に影響している。
だから私はこれまでの基礎的な練習教授はその改良されてるものでも全く反対にされなくてはならない、即ち発生的発達的というような全く反対の方法で行われなくてはならないということを、今も確信しているがその時確信した。だから私は私の欲するものが抑々何であるかと尋ねる人には次の如くに答えた。
「今日一般に教育及び教授の部門において行われているものと全く反対のもの。」」(179頁)
「あらゆる現象と存在、従ってまた直感や認識や知識の出発点は実行であり行為である。
だから真の人間教育即ち発展的の人間教育は実行若しくは行為から始まり、実行若しくは行為のうちに芽生え、そこから成長し、そこに基礎を有たなくてはならない。」(185頁)
【個人的備忘録】統一への志向
「当時私の念頭に浮んだ最高原理は次のものだった。総ては統一である。「総ては統一に基づき、統一から出発し、統一に向って努力し、統一に至り、そして統一に還る。」
統一におけるこの努力と統一に向ってのこの努力とは、人間生活における百般の現象の基礎である。併し私の内的直感と外的認識、表現と行為との間には一箇の大きな深淵があった。
だから教育及び教授に依って人間のために生ぜしめねばならない・また生ぜざるを得ない総ての事柄は、人間のうちに・また人間がそのうちに生起する諸関係のうちに・更には人間の必然的の発達段階の本質のうちに必然的に規定され、また与えられると私には思われた。
人間が此等の関係を尊重し、認識し、それに通暁し、且つそれを概観するように教育される時、彼は教育されまた教授されるのだと私には思われた。」(99頁)
「併し私はまた人間は絶対的な統一を認識することが出来るものであり、事物及び現象の多様性を統一のうちに認識することが出来るものであり、この統一のうちに事物及び現象の多様性が不断に発展して行くものである、ということを洞察した。そして私がこのようにして人間の生活と活動と思考と感情と表現との諸現象の多様性を、人間の存在と本質との統一のうちに明らかにし、且つそれを意識した時、私はまたもや教育問題に向った。」(125頁)
「ところが更に進んで、このような生活に依って人類そのものは真にその本質において、自己をあるがままに認め、あるべき姿として認め、一つの大きな全体生命として認め、従ってこの教育は人間を真の人間へ、即ち人間の本質を自己のうちに発展させそして自己から生活し出すような人間へ教育しようとするのであるから、これはまた真の人類学校とならなければならなかった。而も私の始めた教育活動こそは人間をその本質のあらゆる方面とあらゆる関係とからりかいしなければならなかった。即ち――土地として――或いは自然物乃至地上物として――人間として――意識的なまた思索的な生類乃至理性的な生類として――そして神の子として理解しなければならなかった。」(187頁)

フレーベル/長田新訳『フレーベル自伝』岩波書店、1949年

【要約と感想】ペスタロッチー『隠者の夕暮・シュタンツだより』

【要約】教育というものは、相手が身分の高い人だろうが賤しい人だろうが、同じものであるはずです。なぜなら、教育とは人間をつくる仕事だからです。すべての人間は、その本性の奥底に、共通する素質と力を持っているはずです。

【感想】特定の身分や職業に即した教育を否定し、人間すべてに通じる普遍的な教育を目指したという点では、たしかにルソー『エミール』を引き継ぐものと言える。ペスタロッチ自身も若いころに『エミール』を読み込んで、大いに影響を受けている。
ただし、決定的な点で、ペスタロッチーの言っていることはルソーの主張とは異なっているように読める。

決定的な相違の一つ目は、「神」の位置づけだ。ルソーは、自然科学の見識が深まれば、必然的に内部から神の思想に至ると考え、早期からの宗教教育を戒めた。いわゆる「理神論」である。
しかし一方ペスタロッチーの考えでは、神に対する畏敬の念こそがすべての教育活動の基礎とならなければならず、早期からの宗教的心情陶冶は必須となる。
つまり、ルソーは人間の普遍性の根拠としておそらく「理性」をイメージしているが、ペスタロッチーは「理性」というよりも「信仰」を共通イメージの基礎に置いているように見えるわけだ。

もう一つの決定的な相違は、「君主」の位置づけだ。ルソーは、社会契約論の主張者だけあって、彼の体系のなかで「君主」というものが占める位置は大きくない。というか、フランス革命の理論的根拠となるくらい、反王権的だ。
一方、ペスタロッチーは君主の教育権を最大限に確保しようとしているようにみえる。それは「父権」の絶対的な位置づけにも相通じる。家父長制的なのだ。ペスタロッチーは「国民を教化して彼の本質の浄福を悦楽するようにするためにこそ、人民の長たる父があるのだ。そしてすべての国民は家庭の浄福を悦楽することによって、君主の親心に対する子としての純粋な信頼のうちに安らい、そしてその君主が子たちを教育し向上させて、人類のあらゆる浄福の悦楽に到らせる父としての義務を果たすことを期待している。」(30頁)と主張する。ここだけ読むと、パターナリズムの思想であるように理解できてしまう。
なんにせよ、自分の主人は自分だけというルソーからは逆立ちしても出てこない言葉であることは間違いない。

また、現代的な感覚で読むと、ペスタロッチーが体罰を肯定する文章(75頁)には困惑させられる。しかもその体罰肯定の根拠として、肉親の愛情に基づいた暴力は許されるという理屈を持ち出されると、困惑を超えてドン引きしてしまう。解説の長田新は、ペスタロッチーだからこそ体罰も許されるのだと擁護するわけだが。いやいや、ペスタロッチーだから許されるなんてことがあるわけはなく、単に220年前だったから大目に見られただけのことと理解するべきところだ。

そんなこんなで、書かれたものだけから判断するかぎり、完成度にしても人間教育への洞察にしても、どうしてもルソーのほうに軍配を上げざるを得ないというのが正直なところではある。
とはいえ、難しいのは、書き遺した断片からペスタロッチーの全体像を判断してはいけないというところだ。というのも、彼の真骨頂は「実践」にあるからだ。一方のルソーは、言っていることは立派ではあるが、やっていることはゴミのようだ。実践的に見た場合、圧倒的にペスタロッチーのほうを尊敬せざるをえない。

本人の著作から思想構造を再構成しにくいので、ペスタロッチーについて語るのはなかなか厄介だなあと思う次第である。特に『隠者の夕暮れ』は、若くて本格的に教育事業にとりかかる以前の著作であることと、ドイツ語本文の校訂の問題が重なって、解釈が難解である。
が、授業ではしっかり扱わざるを得ないので、各種研究書で補足するのであった。

【個人的備忘録】自然や生活による陶冶
教育方法として決定的に重要なのは、ペスタロッチーが「生活」や「自然」による陶冶を尊重したことにある。この意識は、本書の端々から感じとることができる。
とはいえ、自然や生活による陶冶は既にルソーによって主張されているところだし、さらにロックも生活習慣重視の姿勢を見せているし、さらに遡ればアリストテレスの習慣形成論にも行き当たる。ペスタロッチーの思想がなにに由来し、どこがオリジナルで、類似思想とどこがどう異なっているかは、思想史的に解明すべき課題になる。

「わたしは事物のもっとも本質的な関係を人間に直感させ、健全な精神と天賦の知力とを発達させ、そしてなるほど人生のこのどん底に塵芥に埋もれているようにみえはするが、しかしこの環境の泥土のなかから浄化されると、明るい光で輝き出す諸力を刺激するために、生活そのものからくるもろもろの必要ないし要求が、どれほど多く寄与するかということを知った。」(51頁)
「しかも大抵彼らは、何ら人為的の方法によらず、ただ子供を取り巻く自然や、子供の日常の要求や、いつも活溌な子供の活動そのものを、陶冶の手段として利用しようとする思想も嫌えば、またその思想を実現することも嫌っていた。ところがわたしの企図を完全に実現する基礎をなしているのが、まさに右の思想だった。」(53頁)

ペスタロッチー/長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波書店、1993年<1779,1799

【要約と感想】ジャン・ジャック・ルソー『エミール』

【要約】あなたがたが教育と思っているものは、まるで教育と呼ぶに値しません。だからわたしが本物の教育というものをお目にかけてみせましょう。教育とは、「人間」をつくるものなのです。

【感想】まあ、まずは「すげえな」としか。すげえ本だ。すげえ。カントが夢中になってむさぼり読んだのもよくわかる。
 しかし一方、この作品の凄味が分かるためには、そこそこの知識と経験が必要なのかもしれない。知識や人生経験に乏しい学生にいきなり本書を読ませても、断片的なことはわかったとしても、本書が主張したい本質の全体像は理解できないだろうと思ってしまう。実際、わたし自身にしても、学生のときにに読んだ印象と、大学院生のときに読んだ印象と、いま実際に学生を教える身になってから読んだ印象とは、まるで異なる。学生や大学院生のときに読んだときにも確かにそれなりに感慨を持ったわけだが、いままた改めて読み直してみて、その時とはまったく異なる新鮮な印象を持つ。そういう本だ。さて、次の機会に読み直したときにも新鮮だろうか?

 まず本書の主張で決定的に重要なのは、本書が「人間の教育」を全面的・包括的に打ち出した点だ。「人間の教育」とは、ある特定の職業や特定の身分にとっての教育ではなく、あらゆる人間にとって共通する普遍的な教育のことだ。ここが決定的に新しい。(もちろんコメニウスの「あらゆる人にあらゆることを教える」というテーゼは議論の対象になるが、ここではスルー)。この「人間の教育」という視点が、たとえばジョン・ロック『教育論』には存在しない。ロックが打ち出した教育とは、あくまでもロック自身が所属する階級である「紳士」の在り方に即した教育だった。その教育は貴族にも役にたたないが、一方で貧乏人にも役にたたない。ロックが目指した教育は、決して普遍的な教育ではなく、特殊な人間をつくるための特殊な教育だ。そしてそれはそれで、まあ問題はない。ロックは最初から「人間の教育」など夢想しない。(ただしもちろん『人間知性論』で示されるタブラ・ラサは普遍的な人間を想定した観念に見えるが、ここではスルー)。が、ルソーは「人間の教育」を夢想する。ルソーが本書で示したのは、あらゆる身分とあらゆる職業に共通する普遍的な「人間の教育」だ。この「人間」をつくるという姿勢が、本書を感動的な作品に仕立てる一番の出発点であることは間違いない。ロックの教育論には、感心することはあっても、感動することはない。が、ルソーの作品は、感動を引き起こす。特定の集団を扱っているだけに過ぎないか、人間そのものを扱っているかが決定的に違うのだ。まずここを理解できないと、本書の全体的な趣旨を読み取れない。そしてこの最重要ポイントを理解することが、残念ながらなかなか難しい。なぜなら、現在の教育が「人間をつくる」というよりは、ある特定の条件の下で役に立つ特殊な才能を持った人材をつくろうとするものである傾向が強く、「人間をつくる」ことが実際にどういうことかを経験的に理解しにくいからだ。だから繰り返し主張しなければならないのは、特定の人間をつくるのではなく「普遍的な人間をつくる」ということの決定的な意義と重要性だ。本書は「人間をつくる」ことを高らかに歌い上げたことに、決定的な存在意義がある。「子供の発見」というものは、そこからこぼれ出たオマケに見える。
 (ただし補足しておくと、この場合の「普遍的な人間」が「性別」を不問に付しているかどうかが、かなり怪しいことには留意しておく必要がある。ルソーの言う普遍は、性別を超えていないかもしれない。彼は明らかに「男性」を想定して「人間」と言っているように見える。現代の我々は、ルソーを乗り越えて、性別を超えた普遍を意識する必要がある。)

 さて、ほんものの教育というものが「人間をつくる」ことだということになれば、次はその具体的な方法と実践の話をしなければならない。ルソーは、エミールという架空の少年を設定し、生まれたときからから結婚までを一人の家庭教師として導いていくことになる。エミールを教育する方針として掲げられるのが、「消極教育」というスローガンだ。だから教員採用試験対策でも、「エミールと言えば消極教育」というふうに暗記させられるわけだ。しかし教員採用試験対策本などで解説される「消極教育」が、ルソー本人の語る本来の「消極教育」の精神をいかに貧弱に矮小化していることか。いや、私自身が授業で解説しようとしても、どんなに上手に再現しようとしても、貧弱に矮小化せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。「消極教育」という概念は、なかなか一言では語り尽くせない、極めて奥が深いものなのだ。
 たとえばルソーが「消極教育」を主張する背後には、「人間の欲望」というものに対する徹底的な哲学的考察が控えている。ルソーは、人間の欲望はどこからどのように生じ、どのような影響を我々に及ぼすのかを徹底的に考察する。その結果として、人間の「自然」が問題というよりも、人間の「社会」のほうに根本的な問題があることを明らかにする。人間に欲望が生じるのは自然なことであって、我々がコントロールできるものではない。我々がコントロールできないものとは、うまくつき合っていくしかない。しかし残念ながらうまくつき合うことは不可能だ。なぜなら社会の中にいるかぎり、人間の欲望は「自然」から離れ、手のつけられないものになっていくからだ。人間が「欲望の奴隷」ではなく「自分自身の主人」となるためには、「自然」とうまくつき合う一方で、「社会」からは距離を置かなければならない。だから最初の教育は、社会によって行われるのではなく、自然によって行われなければならない。「消極教育」とは一切の教育的行為を否定したものではなく、従来行われてきた社会による教育には消極的になる一方で、自然による教育は積極的に行おうという意図を持っている。
 「自然による教育」とは、自分の肉体を自分の意志通りにコントロールする技術であったり、外界の情報を正確にインプットするための感官の訓練であったり、自分が持っている力を最大限にアウトプットするための訓練であったり、自分の意志ではどうにもならない因果関係に対する理解を深めたりすることであったりする。この訓練のためには、本はまったく必要がない。ルソーは12歳までは本を読ませるなと主張する。また、ロックが強調した「習慣」も退ける。その代わりに「実物」による教育の重要性を強調する。実物に対応する正確な「観念」を持っていないのに空疎な「ことば」だけ覚えても、何の意味もないどころか有害である。自分の五感で自然を感じたことがない人々に「自然」ということばをぶつけても、なにも響かない。子どもは大量の空疎なことばを記憶するよりも、まず初めに少量でいいから正確な観念を持つべきだ、というのが「自然による教育」の主張である。教員採用試験の解説本で触れられる『エミール』の内容は、ほぼここまでだろう。

 が、ここはまだ『エミール』の三分の一の地点にすぎない。むしろここ(岩波文庫の翻訳だと中巻)からが本番である。教員採用試験解説本の類は、『エミール』の一番美味しいところを完全に無視していると言ってよいだろう。
12歳を超えたエミールは、決定的な転換点を迎える。いわゆる「思春期」に突入したのだ。本書は「子どもの発見の書」とも言われているが、より根本的には「思春期を発見した書」と言ったほうがいいかもしれない。思春期に突入した彼は、自分の人生を決定的に規定するであろう2つの課題に直面する。その課題とは、一つは「宗教」であり、もう一つは「性」である。12歳まで行ってきた「消極教育」は、実は、この2つの困難な課題を乗り越えるための入念な準備に過ぎなかったのだ。
 「宗教」という課題に取り組んでいるうちに、ルソーの筆は滑りに滑る。もはや主人公であったはずのエミールすら出てこない。ひたすら人生にとって「宗教」が持つ意味を考えまくる。ルソーが信じているところでは、信仰心は外から与えられても何の意味もなく、自分の内側から滲み出てこなくてはならない。だから子どもが自分自身で神について考えはじめる前に宗教的な観念を外側から与えようとすることは、無駄であると同時に有害なことだ。ルソーが信じるところでは、「自然の教育=消極教育」が順調に進んだ先には、必ず「神」が現れる。外側から神の観念を強制的に与えなくとも、「自然の教育=消極教育」を進めていけば、必然的に子どもの内側から神の観念が湧き上がってくるはずなのだ。それはすべての「観念」を究極的に一般化し、存在全体を「唯一の観念」にまとめ、絶対的な抽象である「実体」に辿り着いたときに発生する事態だ。だから逆に言えば、12歳までの「自然の教育=消極教育」の段階では、子どもに空疎なことばを持たせることを徹底的に戒め、堅実な「観念」だけを持たせるようにしなければならないのだ。ルソーが信じるところでは、「実体」という哲学的裏付けのないただの空疎なことばとして「神」を知ったとしても、人生にとっては何の意味もない。なぜなら、人間の「自由」というものの尊さを根本的に理解し実感することは、空疎な「神」の理解からは不可能だからだ。ほんものの「自由」を理解するためには、ほんものの「神」を知らなければならない。
 ここまで来なければ、「消極教育」という主張でルソーが本当に狙っていたものは見えてこない。ルソーは単に物知りをつくるための教育をしたいわけではなく、「ほんものの人間」をつくるための教育を描こうとしている。ルソーが言う「消極教育」とは「ほんものの人間=神への信仰を通じて真の自由を知る者」をつくるための準備期間であり、手段であり、理論的前提である。「消極教育」そのものが目的なのではない。教員採用試験解説本の類では「消極教育」そのものがルソーの教育の眼目であると言って、ルソーの主張の決定的に重要な論理を歪めているように見えるわけだが、まあ「宗教」とか「神」とかには踏み込めないので、仕方がないといって許すべきところかどうか。

 が、まだ『エミール』は終らない。クライマックスは、まだ先にある。ルソーが「宗教」以上に熱心に考察を加えているように見えるテーマが、「性」だ。ルソーは、延々と「恋愛」や「結婚」や「子作り」について議論を続ける。さすが全フランスを泣かせた恋愛小説「新エロイーズ」の作者だけあって、ルソーの恋愛描写は極めつけの甘美な文章で読者の心に迫る。別冊マーガレットでもこんなにピュアな恋愛は語れないんじゃないかというくらいの純粋さ。当然のことながら、教員採用試験の解説本の類には、恋愛に関する話なんか微塵も登場しないし、ましてや性教育に関わるエピソードなど完全にスルーされる。この恋愛と性教育に関する下りは、ルソーがどれだけ女性に酷い目に遭わされたのだろうと心配になるくらい、女性の扱いが酷い。女性が読むととてもガッカリしそうなエピソードで満載だ。まあ、時代の制約というものもあるのだろう。とはいえ、現代の教育を考えても、「性」というものの扱いは、極めて厄介な問題を伴っている。この厄介な問題に対して、ルソーが逃げることなく真っ正面から原理的に取り組んだことは記憶しておいていいかもしれない。「性」の様々な誘惑を乗り越える際にも、「消極教育」で培った資質と能力は役にたちまくるのだった。彼の言う「消極教育」は、恋愛教育や性教育にも貫かれて見事な体系を構成しているのだ。

 恋愛教育が完了すると、いよいよ総仕上げとして「市民教育」が行われる(この市民教育に突入する前のエミールと恋人ソフィーちゃんの別れのシーンは、なかなか感慨深く読める)。この市民教育、形式的にはヨーロッパ教育伝統のグランドツアーになるわけだが、実質的な内容は「社会契約論」だ。『社会契約論』という本は、『エミール』と同じく1762年に出版された。『エミール』にも社会契約論の要約みたいなものが書き連ねられている。だから、ルソーの『社会契約論』という政治思想と『エミール』という教育思想は密接にリンクしていると捉える識者がいるわけだ。私もご多分に漏れず、その一人だ。何人かの研究者は『社会契約論』と『エミール』の断絶面を強調する傾向にある。もちろん全部が全部重なっているわけなどないわけだが、私から見れば、政治思想と教育思想の表裏一体・首尾一貫性は疑うべくもないルソー思想の特徴であるように思われる。
 特に私が思うのは、「一般意志」という「社会契約論」の根幹をなす概念とエミールとの関係だ。ルソーは、エミールという少年を「人間」に教育すると言って本書を書き始めた。ルソーの言う「人間」とは、軍人でもなければ僧侶でもなく、法律家でもない。特定の職業のための教育をしようというわけではない。ルソーがつくろうとしている人間は、極めて「抽象的で一般的な人間」だ。このように育てていた架空の少年エミールとは、実は一般意志を擬人化したものではなかったか。あるいは、ルソー自身が「一般意志の擬人化」を考えるまでもなく(あるいは考えているようには実際に読めないわけだが)、しかし、なんの特定の職業にもつかず特定の故郷を持たない抽象的な人間を想定したなら、それは結局は「一般意志の擬人化」のようなものになるのではないだろうか。エミールとは、論理必然的に、ルソーの考えた社会契約論的な世界の「中」で生きる人間(個別具体的な人々)ではなく、社会契約論そのものを生きる人間(一般的・抽象的な人間)にならざるをえなかったのではないか。まあ、このあたり、「一般意志」とはなにかという極めて厄介な問題と触れるので、なかなか迂闊なことは言えないわけだが・・・

 で、市民教育が終って、最後の最後、家庭生活指南の下りには、盛大にドン引きしてまうわけである。まったく、侮れない作品である。

研究のための個人的備忘録
【個人的備忘録】子どもの発見
「人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念をもっているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えない。かれらは子どものうちに大人を求め、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。」(上18頁)

 冒頭の有名な言葉である。本書が「子どもの発見の書」と言われる所以もここにある。とはいえ、本書を注意深く読むと、単にロマン主義的に無条件に子どもの価値を称揚しているわけでもないことがわかる。ルソーは、「欲望」と「力」の「関係」を基準として、原理的に子ども-青年-大人の関係を理解している。子どもは一貫して「力」が不足している者として描かれる。そして「力」との関係で「欲望」の扱いが大きな問題として浮上してくる。子どもの在り方は「欲望」との関係で極めてシビアに描かれており、決して無条件に肯定されているわけではない。のちのロマン主義子供観とエミールの立ち位置はまったく異なっている。

【個人的備忘録】欲望と力
「人間は弱いものであるというとき、それはなにを意味するか。弱さということばは一つの関係を、それが適用される者のある関係を示している。必要以上の力を持つ者は昆虫、虫けらでも強い存在だ。力を超えた欲望をもつものは象、ライオンでも、征服者、英雄でも、たとえ神であろうと、弱い存在だ。」「あるがままで満足している人はきわめて強い人間だ。人間以上のものになろうとする人は極めて弱い人間になる。だから能力を大きくすることによって、実力を大きくすることができるなどと考えてはならない。」(上106頁)
「社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。だからこそ人間の欲望はその弱さとともに増大するのであって、大人にくらべたばあいの子どもの弱さもそれにもとづいている。大人が強い存在であり、子どもが弱い存在であるのは、前者が後者よりも絶対的な力をいっそう多くもっているからではなく、前者はもともと自分で自分の用をたすことができるのに、後者にはそれができないからだ。」(上112頁)
「子どもは獣であっても成人した人間であってもならない。子どもでなければならない。子どもは自分の弱さを感じなければならないが、それに苦しんではならない。他人に依存していなければならないが、服従してはならない。もとめなければならないが、命令してはいけない。」(上113頁)

 そして当然のことながら、現代のアクティブ・ラーニングに通じるような文言をいくらでも引っ張ることができる。

【個人的備忘録】実物教授とアクティブ・ラーニング
「わたしはことばでする説明は好まない。年少のものはそれにあまり注意をはらわないし、ほとんど記憶にとどめない。実物!実物! わたしたちはことばに力をあたえすぎている、ということをわたしはいくらくりかえしてもけっして十分だとは思わない。わたしたちのおしゃべりな教育によって、わたしたちはおしゃべりどもをつくりあげているにすぎない。」(上316頁)
「第一に、生徒が学ぶべきことをあなたがたが指示してやる必要はめったにない、ということをよく考えていただきたい。生徒のほうで、それを要求し、探求し、発見しなければならないのだ。貴方方はそれをかれの手の届くところにおき、巧みにその要求を生じさせ、それをみたす手段を提供すればいいのだ。」(上315頁)
「しかし、あなたがたはかれになにを教えることになるのか。それはまもなくかれが自分で学んでしまうことにすぎない。まったく、教えなければならないのはそんなことではないのだ。ある真実を教えることよりも、いつも真実をみいだすにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。」(上370頁)
「かれはその知識においてではなく、それを獲得する能力において、普遍的な精神をもっている。それは開放的な聡明な精神、あらゆることに準備ができていて、モンテーニュが言っているように、教養があるとはいえなくても、とにかく教養をうけられる精神だ。」(上374頁)
「人を教える才能は、弟子に喜んで教えをうけさせることにある。ところで、喜んで学ぶためには、かれの精神はまったく受け身の状態であなたがたの言うことをきき、あなたがたの言っていることを理解するには全然なにもしなくていい、ということであってはならない。教師の自尊心はいつも弟子の自尊心にいくらか余地を残しておかなければならない。わたしにはわかる、わたしは深く考えてみる、わたしは積極的に学んでいるのだ、と弟子が自分に言えるようでなければならない。」(中84頁)
「考えれば考えるほどよくわかってくることだが、そういうふうに慈善心を行動に移し、わたしたちの成功、不成功からその原因についての考察をひきだすことにすれば、青年の精神のうちに育てていくことのできない有益な知識はほとんどないし、学校で獲得することができるあらゆるほんものの知識のほかに、かれはさらにもっと重要な学問を身につけることになる。それは獲得した知識を生活に役だつように応用することだ。」(中92頁)

 そして全編を貫くのは、近代教育のアポリアである「自由を強制する」というテーマなのかもしれない。そしてそれは「社会契約論」のテーマでもあるのだった。

【個人的備忘録】自由を強制する
「わたしは、悪いことをしているときには奴隷だが、後悔しているときには自由な人間だ。わたしは自由だという感じがわたしのうちから消えていくのは、わたしが堕落するとき、肉体の掟にたいして魂が非難の声をあげているのをついにだまらせてしまったときだけだ。」(中150頁)
「わたしは、肉体の拘束から解放されて、矛盾のない、分裂のない「わたし」になるときを、幸福であるために自分以外のものを必要としなくなるときを待ちこがれている。」(中179頁)
「これまでのところ、きみは見かけだけ自由であったにすぎない。まだなにごとも命令されていない奴隷のように、きみにはかりそめの自由があっただけだ。いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい。きみの心情に命令するのだ、おお、エミール、そうすればきみは有徳な人になれる。」(下198頁)
「情念をもつこと、もたないことは、わたしたちの自由にはならない。しかし、情念を支配することはわたしたちの力でできる。」(下200頁)
「自由になるためにはなにもすることはないのだ、とわたしには思われる。自由であることをやめようとしなければそれで十分なのだ。ああ、先生、あなたこそ、必然に従うように教えることによってわたしを自由にしてくれた。」(下254頁)
「自分が完全に自分のものになっていられるところ」(下254頁)
「わたしは、支配と自由とは両立しない二つのことばであって、どんなみすぼらしい家でもその家の主人になれば、かならず自分の主人ではなくなる、ということを知った。」(下254頁)

 ということで、コメニウスやロックには見えなかった「人格の完成」という思想を、ルソーには色濃く読みとることができるのだった。

【メモ】
 ジェンダー論の立場からは、もちろん本書は批判の対象となる。

「有名な『エミール』(1762)のなかで、エミールの相手としてソフィーという女性が登場する。この男女の人間形成に、ルソーはどのような教育論を展開しているのであろうか。(中略)と、男性に奉仕する性としての女性の教育が明記されている。教育を受ける理由も、学習内容も、男性中心の教育論であり、男性のために、男性の都合の良いように女性の教育を位置づけたことがわかる。そうした教育は、女性にとって自らのエンパワーメントにはなり得ていなかった。」亀田温子「ジェンダーが教育に問いかけたこと」『ジェンダーと教育』26頁

【参考】
西研『NHK「100分de名著」ブックス ルソー「エミール」自分のために生き、みんなのために生きる』NHK出版、2017年

ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』上、岩波書店、1962年<1762年
ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』中、岩波書店、1962年<1762年
ジャン・ジャック・ルソー/今野一雄訳『エミール』下、岩波書店、1962年<1762年

【要約と感想】ジョン・ロック『教育に関する考察』(教育論)

【要約】教育で大切なのは、知識を与えることではなく、良い習慣の形成です。いったん良い習慣さえつけることができれば、知識の習得など後からいくらでも簡単に取り返せます。が、逆はありません。良い習慣をつけるためには、子供を学校に通わせるのは愚かなことで、優れた家庭教師に指導を任せるのが良いでしょう。特に息子を紳士として育てたいのであれば、社会で役に立たないラテン語の暗記や作文なんかにつき合っている暇なんかないので、子供が社会に出たときにどういう能力が必要かを考えて実践的な躾をするべきです。

【感想】実際に読んでみると、教員採用試験用の参考書等に書かれているような解説とはずいぶん違う内容であることが分かる。たとえば参考書の解説では「タブラ・ラサ(白紙説)」というキーワードを伴って教育万能説を主張したような紹介をされることが多いわけだが、ロックは実際には子供たちの持ち前の特徴や個性は教育では変えられるものではないと主張している(79頁、151頁)。本文の中で「白紙」に触れる際も、積極的に教育万能説を説くために持ち出すわけではなく、単に「そういう仮定を置いて書くしかなかった」という言い訳として出てくるに過ぎない(333頁)。また、教員採用試験では定番となっている教育名言として「健全な身体に宿る健全な精神」という言葉が挙げられることが多いし、実際に本文冒頭でこのセリフが出てくるけれども、作品全体の趣旨から言えばそれほど重要な意義を持っている言葉というわけでもない。ロックが本当に言いたいことは、もっと他のところにある。

 ロックが言いたいのは、「教育」と「学習」は違うということだ(現代のことばに言いかえると、「性格形成」と「知識習得」は違うというようなニュアンス)。世間の人びとは、愚かにも、大量の知識を脳味噌に叩き込むような「学習」こそが重要であると勘違いしている、とロックは言う。そんな勘違いによって、子供たちの貴重な時間を無駄にするだけでなく、人生そのものを無駄にしていると非難する。世間の人びとがやらせている「学習」は、ただ子供たちを勉強嫌いにさせ無力感に陥らせるという逆効果をもたらすに過ぎないと言う。ロックは、子供たちに「学習」させる前に大人がするべき大切なことがたくさんあると主張する。重要なのは、子供の無邪気さや純粋さをそのまま保ちながら、興味や好奇心を刺激して、良い習慣や態度を形成していくことである。そのためには、子供の「自由」を尊重するべきであり、具体的なテクニックとしては「遊戯」を有効に活用することを推奨する。いったん良い習慣形成=教育に成功してしまえば、「学習」させることは極めて簡単な仕事になるらしい。学習へ向かう姿勢や態度を形成する「習慣」をつけることこそが、ロックの言う「教育」である。

 というふうに、ここまでくると、2017年版学習指導要領に見える学力観にかなり親和的であるように見えてくる。学習指導要領では、学力の要素として「自発的に学ぶ習慣」を極めて重視している。学ぶ姿勢や態度を学ぶことによって、生涯学習社会と知識基盤社会に適応していこうという考え方である。もちろんロックは生涯学習なんてまったく考えていない(当時は大人になれば学ぶ必要などない)わけだが、「自発的に学ぶ習慣」さえ身につけてしまえば知識は後からいくらでもついてくるという発想は学習指導要領の発想とまったく同じだ。そのうえ、本書にはアクティブ・ラーニング的な手法の萌芽を確認することもできる。先生が一方的に講義しても学習効果は上がらず、生徒自身に話をさせることが勉強や知識を愛好させる上でも、道徳性を身につける上でも高い効果を発揮すると、ロックは主張している。

 このように現代の学習指導要領とロックの教育論の内容の親和性が高いので、その類似性に目を奪われて、思わず「ロックはアクティブ・ラーニングの祖だ!」とか「現代にも通用する!」なんて言ってしまいそうになるけれども、それは少々軽率かもしれない。というのは、ロックがどうしてアクティブ・ラーニングっぽい教育論を主張したのか、彼が生きた時代の構造と背景をしっかり考察することで、実は現代との類似性が見えてくるはずだからだ。学習指導要領とロックの主張が表面的に似ていることに注目するのではなく、学習指導要領を産みだした現代社会とロックの主張を産みだした当時のイギリス社会の類似を見透しておく必要があるわけだ。
 さて、現代とロックの時代が似ているのは、社会構造が急激に転換して、従来の知識観・教育観が意味をなさなくなってきていることだろうと思う。イギリス名誉革命の時代に生きたロックは、まさに「市民」の立場を代表している(ロック自身はその立場を「紳士」と呼んでいる)。従来の支配者層である王や貴族に代わって、紳士(あるいは市民)と呼ばれる新しい階層が時代の主役に躍り出た。この新しい時代の寵児が必要とする教育は、もちろん従来の王や貴族が必要とした教育とはまったく異なるものとなる。ロック自身も、紳士の教育と王子や貴族の教育は異なるべきであると本文中に明確に述べている(333頁)。たとえば、それまでの王子や貴族に対する教育では有効であったラテン語が、紳士に対してはまったく無意味なものになる。紳士にとって必要なのは実業社会で実際に活躍することができる実力であり、実力を確実に養成する実践的な教育である。名誉や教養によって人の上に立つ貴族とは力の発生源が根本的に異なっている以上、教育も決定的に異なるものとならなければならない。だからロックは、王子や貴族を育てる方法ではなく、あくまでも「紳士」を育てる教育について記述したのだった。そしてそれは「人間一般」を育てる普遍的な教育でもない。ロックは自分が属する階級であり、これからの時代の主役である「紳士」の教育の有り様を祖述することに関心と使命を持っていたわけだ。彼のアクティブ・ラーニングは、そういう紳士教育の実際的な要求から生じたものであって、単なる机上の教育論から出てきたものではない。
 ひるがえって、現代の学習指導要領を見てみると、もちろんそこには社会構造の転換が如実に反映している。その具体的な特徴は当然ロックの時代とはまったく異なるわけだが、これまで通用した教育が通用しなくなって新しい教育の形が切実に必要とされているという点で、形式的には類似した状況にある。ロックも、現代社会も、従来型の教育では通用しない新世界で活躍できる自発的で主体的な人間を作ろうとしている。これまでのマニュアルが通用しなくなったとき、おそらく人は「真の実力」というものの教育を夢想する。

 まあ、教員採用試験対策で「ロックの教育論といえばタブラ・ラサと紳士教育」などというふうにひたすら暗記して、教員になってから絶対に現場で使えないような死んだ知識をむりやり脳味噌に詰め込むような姿勢が、まるでロックの精神と反していることだけは確かである。

 あと、「習慣」の形成を重要視する教育論は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』などでも主張されているような西洋古代からの経験主義的な伝統をおそらく正統に引き継いでいるだろう。そしてこれが「教育=習慣/学習=個別知識」の二項対立的観点の基礎的な土台となっているであろうことは、備忘的にメモ。

【個人的備忘録】新学力観を想起させる文章の抜粋
「監督者の重要な仕事は、態度を形づくり、精神を形成することであり、その生徒に良い習慣と徳と知慧の原理をつけ、さらにわずかずつ人間について見識を与えることであり、その生徒に、優れたもの、称賛に値するものを愛好し見習うようにさせ、またその実行に当っては気力、積極性と勤勉さを与えることです。」(138頁)「理性は、もし相談を受けるなら、子供たちの頭に、その大部分は、彼らが生きている限り二度とは思い出さない(彼らがそうする必要がないことは慥かです)ような屑を、一杯詰め込むよりはむしろ、彼らが大人になったとき、彼らの役に立ちそうなものを手に入れることに、子供の時間は費やされなければならぬと忠告してくれるでしょう。」(140頁)「家庭教師と生徒が一緒にいる時間は、講義をしたり、生徒が守り、従うべきことを高圧的に生徒に命ずることですべて費やされてはなりません。生徒の番になると、その言い分を聞いてやり、持ち出されている事柄については、理性的に考えるように取扱えば、諸規則もさらに容易に受け入れられ、さらに深く心に刻まれ、生徒に勉強、知識を好むようにさせるでしょう。」(148頁)

「子供たちが習う作品の大部分を無理やり暗記させられることですが、こういうことはなんら利益になるものではなく、とりわけ彼らがとりかかっている仕事にはなんの足しになるものとも思えません。」(276頁)

「知ることのできる一切のことを子供に教えることではなく、知識に対する愛と尊敬の念を子供の心に起こし、子供にその気があれば、自分自身で知り、向上する正しい軌道に乗せることです。」(305頁)

ジョン・ロック/服部知文訳『教育に関する考察』岩波書店、1967年<1693年