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【要約と感想】諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』

【要約】1970年頃から、子どもたちは決定的に変質しました。教育が行き詰っているのは教師や学校が悪いのではなく、変質した子どもに対応できないのが原因です。
変化の本質は、「近代化」が思わぬ形で達成されてしまったことです。我々教師は子どもたちに近代的自我を持たせることを夢見てきましたが、高度消費社会の到来は予想外の形で子どもたちに「かけがえのない個」をもたらしました。そして確固たる指針を失って個人的な利害にしか関心を持たない教師たちが、その傾向に拍車をかけています。産業社会における近代化に特化してきた学校は、このような形で近代化を達成した子どもたちに対して、もはや無力です。
著者は1960年代には集団主義的な学級経営によって、管理や受験に対抗し、人間形成に関する成果を上げてきましたが、70年以降の変質した子どもに対しては、もうお手上げです。

【感想】近代の断末魔だなあ。いやはや。
ちなみに私は1972年生まれで、高校に入るのが1987年ということで、まさに著者の言う得体のしれないオレ様化した子どもたちのド真ん中に位置するのであった。でも、著者の言っていることはよく分かる。なぜなら、私も本質的には近代主義者だからだ。教育の本質が「自由を強制するというアポリア」であることを自覚する、近代主義者だからだ。教育の本質が「公共性」にあることを信じる、近代主義者だからだ。
しかし著者と違うだろうところは、私(あるいは私と同世代)の場合、もはや近代を続行しなくても問題ないかもしれないと考え始めているところにある。たとえば東浩紀が言う「動物化」とかテクノロジーとは、個々の近代的自我に依拠しなくても近代的システムが成立してしまうという事態を言い表している。東の議論を徹底すると、近代的自我を持てない個体には、もはや持ってもらわなくても結構ということになる。勝手に単なる消費的主体として豚のように楽しく生きていただければいいのである。
とはいえ私個人は、教育学徒だけあって、そこまで割り切れないものを抱え込みながら近代と対峙しなければならない。著者が「近代の終わり」を明確に見据えながらも、それでもアポリアの渦中でもがき続けるのは、「それが教師だからだ」としか言いようのない情念が関わってくるように思うわけだ。そういう情念の在り処も窺わせてくれる、なかなか面白い本ではあった。

【備忘録】
近代の終わりに関する議論がとても多い。そしてそれが高度経済成長と関わって70年前後に転換点があるという指摘は、私個人の関心にも示唆を与えてくれる。言質を取っておきたい。まあ、宮台真司が言っていることとほぼ被っているんだけれども、教育関連の文章に明確な影響があることは、確認しておいてたぶん損はない。

【近代の達成と終わり】
「私は高度消費社会と大衆民主主義とを二つながら備えているこの国が新しい「時代」に入りつつあると考えているが、それは「近代」が達成されたと同義である。」(18頁)
「教師が教え、生徒が学ぶという教育の方が危うくなり、生徒の個別的な学びを教師が支援するという怪しげな「個性重視」なるものに文部省は流れつつある。これは「個性」や「個人」にもともと実体的な価値があるということを前提としなければ成り立たない。近代公教育は市民の卵としての無数の「私」を育成するところに、その原基がある。
(中略)もともと、人間は「私」の局面において「外部」を学べるものである、近代の夢は十全な「私」が成熟して「この私」(自立した近代市民)になるということになっていた。
(中略)おそらく、個体の成長のしかるべき時期に「外部」が適切に提示されなかったこと、システム的な「外部」である学校が有効に機能していないこと、高度消費社会からの眼差しが個体に強い「主体」の意識を与えていることが、この国において子どもたちが「私」と「この私」制を簒奪する形で「自己確立」を成し遂げた理由であろう。かくして、日本の普通教育は「時代」に合わなくなってきたのである。
子どもたちの変容に適合すべく、「個性重視」のソフトな教育や学校が耳ざわりよく語られる。たぶん楽天主義者は「近代」そのものの確実性や普遍性に寄りかかっている。これらの問題はことによると「近代」そのものの宿痾かもしれないのにである。」(51-52頁)
「時代の子としての高校生たちは七〇年以降の高度成長経済の進行のなかで、内部に社会性を持った個人としての硬質さをどんどん欠いていったように、私には見えました。」(245頁)

高校生の変質を「70年」という具体的な年代を出して、資本主義の変質という下部構造から理論化してくれているのは、私個人の理屈にとってはとても都合がいい。

また、時代がどうかというよりも、近代教育に本質的なアポリアに対する意識がとても高いところは実に興味深い。この原理を自覚していない人は、世の中にとても多い。

【近代教育の本質的なアポリア】
「教育は子どもに文化伝達をしながら、将来主体的人格として「自立」することを期待している。」(23頁)
「冷静に考えればわかるように、生徒は学校では明らかに「文化伝達の対象」であるが、「主体的な人格」は学校を出てからそうなるべく想定されていることであり、そこに時間差があるといってよかろう。また、すでに「主体的な人格」になった者が「文化伝達の対象」であるはずがない。」(24頁)
「とりわけ、教師の側が「主体的人格としての子ども」の側面を重視することは、教師の個々の知性や人格によって生徒たちに「価値」を教え込もう、教え込めるという思い上がりと錯覚を生じさせる。」(29頁)
「学校では何ごとか意味のあることをなそうとすると、必ず「近代」になってしまう。」(165頁)
「近代公教育の学校は、「未開」である子どもを啓蒙して、近代社会の市民・生活者たるべく育て上げることを目的としている。」(166頁)
「親は子どもが言うことを聞くように育てながら、いずれ言うことを聞かなくなるように育てなければならない。」(231頁)

ちなみに諏訪は「教育活動(生徒にとっては学習活動)においては「文化を伝達する」プロセスと、「生徒が自立へ向かう」プロセスが同時的に進行している。どちらか一方だけがなされているわけではない。」(25頁)というが、これがまさしくヘルバルト(教育学の父)が言った「教授(instruction)があって教育(education)があり、教育があって教授がある」という洞察であることは自覚されているだろうか?

そして近代教育のアポリアの焦点となるのは、近代的自我を支える「特異点」である。この特異点への言及も、興味深いところではある。諏訪は絶対的に「外」や「上」など外部からもたらされると決めつけているが、実はそれこそが諏訪の論理構成全体の鍵を握っている。諏訪のこの認識と論理が正しいかどうかが、彼の教育論を批判する上での決定的な要点となる。逆にいえば、この急所を認識しないで批判しているとしたら、ほぼ間違いなく的外れということだ。

【特異点】
「「神を畏れなくなった」ということは、「個」が自立したのである。正確には、「個」が自立したと錯覚しはじめたのであり、「個」が現実において生活している「共同社会」を対象化しはじめたのである。(中略)要するに、高度消費社会と大衆民主主義社会と情報化社会が「新しい個」を分泌しはじめたのである。」(113頁)
「私たちは「個」が自立するためには「外」なる「上」なる「普遍」が必要であることを知らなかったのである。」(115頁)
「「個」が主体となるためには、一度「個」を超える超越系に征服されなければならない。そのためには、個体が本源的に持っている自己中心性が完全に「外」から「上」から否定される契機が必要である。」(202頁)

個人的には、「特異点」は「特異点」でありさえすればいいので、論理的にはそれが必ず「外」や「上」からもたらされる必要はないと思える。まあ、「特異点」は外や上から与えるのが一番「らくちん」なのではあるだろうが。しかし、「内」や「下」から特異点が立ち現れる可能性は、模索してもいい。

そして著者は、近代が終わって教育がどうなるかという予見も示している。

「前期近代型の公教育システムはそこからはみだし、落ちこぼれる生徒を作り、それは個人の責任ではなくシステムに問題があるとされているが、後期近代型の個性尊重システムは、個人の逸脱を許さないものになろう。つまり、これこそ超「近代」の理念に沿った「構築」なのである。」(167頁)
「いま文部省が押し進めている教師の意識改革は、本来教育的意味合いを持っていた「近代前期」的な要素を洗練させて「近代後期」的なものにすることである。」(167-168頁)

なかなか鋭い指摘だと思う。1998年段階でこれをしっかり予見できていたことに驚くが、まあ、宮台も言っていたことではあった。ともかく、いわゆるインクルーシブ教育等は、この方向(個人の逸脱を許さない)での構想ではあるだろう。あるいは苫野一徳が目指すのも、この近代後期的な構築ではある。いちおう、それが悪いと言いたいのではない。私個人としても、「事ここに至れば、選択肢はそれしかないだろうなあ」というところではある。

ところで、「見る/見られる」の非対称性というメガネ論的にも興味深い文章も記録しておきたい。

「日本は近代になって一度だけ「見られる」側から、「見る」側にまわろうとして致命的な大失敗をした。」(206頁)

なるほど。これはメガネ弁証法に対しても示唆を与えてくれる観点だ。勉強になった。

諏訪哲二『ただの教師に何ができるか』洋泉社、1998年

【要約と感想】木村育恵『学校社会の中のジェンダー―教師たちのエスノメソドロジー』

【要約】学校がジェンダー構造を再生産するという指摘は行なわれてきました。教育へ男女機会均等は実現しているにも関わらず、現実には男女で学業達成に大きな差が生じます。この原因が学校教育による「性役割の社会化」にあることは明らかになっています。本書が目指すのは、性役割再生産メカニズムに対して教師文化がどのように関わっているかです。それによって、個々の教師の意識を超えて、学校教育全体が担う「隠れたカリキュラム」を浮き彫りにし、自覚的な実践に繋がることを期待します。
具体的なアンケート調査や観察によって分かったことは、教育現場に相変わらず「性別特性論」が根強く、ジェンダーに関する議論や実践に停滞と揺らぎをもたらしていることや、学校段階や教科によって実践に偏りがあることです。教師集団自体に性別役割分業やジェンダー秩序が持ち込まれているとともに、他学級の実践や事情に介入しにくい教師集団の閉鎖的特質と官僚的集団同調圧力の下で教師個人の個性的な実践が行なわれにくいことが根本的な問題です。逆に言えば、教師同士のタテ・ヨコの関わりを持ちやすい教師文化を醸成すれば、ジェンダーに関する教育実践が深まっていくだろうと期待できます。
また、教員養成や研修において男女共同参画が大きなテーマとなっていないことも分かりました。理論と現場が乖離している原因はこのあたりにもありそうです。

【感想】「性別特性論」が極めて根強いのは、学生の様子を見ても伺える。「ピュシス=自然の法/ノモス=人為の法」の区別がまったくついていないし、区別をするという観念自体が存在していない。「人為の法」を人為と思わず「自然の法」だと誤認することは、単にジェンダーの問題だけでなく、民主主義(社会契約論)を成立させる際にも極めて大きな障害となる。なかなか厄介だなあと思う次第。

木村育恵『学校社会の中のジェンダー―教師たちのエスノメソドロジー』東京学芸大学出版会、2014年

【要約と感想】佐藤佐敏『学級担任これでいいのだ!先生の気持ちを楽にする実践的教育哲学』

【要約】先生が一人で頑張ってもうまくいくわけないし、逆に頑張らなくてもうまくいくことが往々にしてあるので、そんなに肩肘張らずにいきましょう。個性なんて、ないならないで困らないし。自己実現も、別に求めなくていいんじゃない? 一貫性なんて、そもそも無理。最初から「無理」って言っとけば、子どもも先生も楽になりますよ。

【感想】これ、「哲学」じゃなくて、「エッセイ」だなあ。まあ、別にどっちでもいいんだけど。
感心したのは、教育のサービス化という厳しい現実から「教師の勤労意欲が大事だろ」(155頁)という命題を導き出す流れ。いやほんと、まさにそれ。もっと声を大にして言っていただきたいし、主張していきたいところなのだった。

【個人的研究のためのメモ】
人格とか個性とか、用法サンプルをいろいろ収集できたのだった。

「師弟の間に甘い時間が流れます。しかし、教師はそれに酔ってはいけませんよね。人格の完成を目指すのが教育です。子どもとの距離の近さに不感症になってはいけません。」(56頁)

お、こういう文脈で「人格の完成」(教育基本法第一条)が使用されるのか、とニヤリとしたのだった。生徒が先生のことを忘れるくらいが「人格の完成」の目指すところという、なかなか含蓄のある話だ。
またあるいは「個性」について。

個性を煽られたくないのだ(個性という概念の弊害)
一九九〇年代から最近まで、「個性の伸張」が大きな教育課題でした。
学校はこぞって「個性を伸ばす教育」「を生かす教育」といった研修主題を掲げていました。(中略)
しかしながら、最近個性を伸ばすことの弊害もまた指摘されるようになりました。(中略)
これまで私たち教師は、子どもたちに対して「自分らしさを大切に」「あなたの持ち味を活かして」と語ってきました。実は、私もそう語ってきました。それがかえって子どもたちを息苦しくしているとなると、大変に難しい時代に入ったと言えそうです。
自分らしさを追究して途方に暮れている子どもがいたら、「個性なんて、いらないよ」(ちょっとオドけて)「だいたい、先生であるオレ自身、個性なんてないから」「オレみたいな先生、世の中ごまんといるしね」と言ってあげたいものです。」(123-126頁)

まあ、ナルホドねという感じではある。が、哲学的に言えば「個性」という概念を極めて表層的に捉えている言葉ではある。とはいえ、著者が悪いというよりは、日本全体が「個性」という言葉を薄っぺらく表層的なものにしてしまった結果とも言えなくはない。21世紀初頭の「個性」をめぐる雰囲気を言い表わしている文章として、なかなかいいサンプルなのかもしれない。

佐藤佐敏『学級担任これでいいのだ!先生の気持ちを楽にする実践的教育哲学』学事出版、2013年

【備忘録と感想】全国私立大学教職課程協会「第39回研究大会」

2019年5/25・5/26に大阪ガーデンパレスと近畿大学で開催された全国私立大学教職課程協会「第39回研究大会」に行ってきたので、備忘録がてら感想を記す。(土曜日には授業があるので、残念ながら5/25のシンポジウムは参加できず)

昨年までは「再課程申請」に備えた情報交換と対策に全面的に精力を割いていたが、無事に切り抜けた(?)今年は、少し落ち着いて、地に足をつけて今後の教員養成のあり方を振り替える感じになっていた。特に個人的に関心があったのは「教職課程コアカリキュラム」のあり方だったわけだが、分科会への参加人数を見ても、全体的に関心を持たれているような雰囲気ではあった。そんなわけで分科会2と10に参加してきたのだった。

第2分科会「大学における教員養成と教員育成指標・教職課程コアカリキュラム」

「教職課程コアカリキュラム」と「教員育成指標」との関係等について報告と議論があった。質疑応答では「コアカリキュラム」に議論が集中し、「教員育成指標」に対しては相対的に関心が持たれていなかった。まあ、コアカリに対しては直前の再課程申請で嫌な想いをさせられており、当然の反応であるとはいえる。とはいえ、個人的には、教員育成指標は長期的にボディーブローのように聞いてくるような気もしているのだった。

さしあたって結論としては、今のところ各自治体が定める「教員育成指標」が大学の教員養成に直接的な影響を与えることはないし、教育委員会としてはそうするべきだとも考えていないようではあった。逆に言えば、文科省が主張する「養成・採用・研修の一体化」がまるで貫徹されていないということでもある。
まあ、現実的に考えれば、教員養成指標に基づいた大学での教員養成には無理がある。すべての自治体の多様な要請を満足させる教員養成など、物理的にできるわけがないのだ。そういう現状を踏まえて、教員採用試験の全国共通問題という話も出てくるのだろうけれども。

現実的な問題は「教職課程コアカリキュラム」のあり方だ。報告でも、開放性原理との関係や、行政の介入に対する懸念が表明された。私の個人的な実感としても、事前の説明では「コアカリは参考程度」と提示されていたにも関わらず、大学内のシラバス作成の実務では「コアカリに示された内容を100%組み込むように」と指導されて、「話が違う」と思わざるを得ないのであった。まあ、組織に属する身としては、指示に従うしかない。
しかしこれはもちろん大学事務が悪いわけではなく、「再課程申請」に絡めて打ち出してくる行政当局の圧力の前では、空気を読んで「忖度」するしかないわけだ。敢えてコアカリを無視するという選択肢は、大学事務にはありえない。ここであえて開放性の原理や教育基本法第16条を踏まえて「行政の責任と限界」を思いつく動機は、教員の中にはあるだろうが、事務にはないだろう。
そんなわけで、教員の内に「これは教育と行政の原理に照らして間違っている」と思う人がいたとしても、大学全体として再課程認定に通るために事務方は全力を尽くしてコアカリ導入に努力を傾けるのであった。

しかし一方で、努力むなしく、教職課程から脱落した大学や学部・学科がある。身近なところでもいくつか聞いた。そして将来の日本の教育にとって極めて危険だと思ったのは、理科や工業や情報といった、科学立国を目指す上で必須の学科ほど脱落しているようだったからだ。将来、日本が科学的に没落したとき、教職課程コアカリキュラムと再課程認定は天下の大愚策であったと総括されることになるだろう。
このような危機的な状況の中で、理科や社会といった教科にもコアカリキュラムを導入しようとするのは、愚策の中の愚策であるようにしか思えない。誰にでも分かる簡単な論理だと思うのだが、果たして行政の論理や如何に。

とはいえ、分科会の報告から離れて、個人的に思うところもなくはない。昨今、「多様な背景を持つ人材によって教職員組織を構成」するための制度設計が検討されつつある。具体的には、いちど社会人を経験した人々に教職に就いてもらおうという話になる。現在は、大学で教員養成して、新卒で教員採用される形が一般的ではある。が、社会人経験者の教員も徐々に増えつつある。
そして一方、経団連だけでなくトヨタなども「終身雇用」の見直しを表面化させている時代だ。職を失う40代・50代はこれからますます増えるだろう。教員を目指す社会人経験者が増えるプッシュ要因は、おそらく今後も強まり続けるだろう。だからこそ、教員を目指す社会人が増えるようにプル要因を強めていけば、「多様な背景を持つ人材によって教職員組織を構成」することは、個人的には、比較的容易ではないかとも思ってしまうわけだ。たとえば、教員採用年齢制限の引き上げ、退職後(または在職中)の教員免許状取得の容易化(たとえば教職大学院を活用したリカレント教育の推進)、学級経営をやらずに教科教育だけ行える簡易免許の発行(および養成年限の短縮化)等は、プル要因となるだろう。
……まあ、教員採用のあり方を想像したら、非正規雇用の常態化が容易に思い浮かぶところでもあり、なかなか怖いことにもなりそうではある。

第10分科会「教職課程コアカリキュラムに関する私立大学教職課程担当者の意識と今後の課題」

コアカリに対するアンケート結果が分析されていて、なかなか興味深く報告を聞いた。おおむね肯定的な人が多いようで、率直に言って、個人的にはびっくりしたのであった。教育原理的には極めて酷い話だと思っていたのだが、まあこれも時代なのか。

実務的におもしろかったのは、他の大学の再課程申請で、文科省がどういうところに対して指導したかが具体的によく分かったところだ。(1)コアカリのキーワード明示(2)ICTの活用(3)チーム学校(4)教育の思想・哲学では具体的な人名、ということだ。私の担当が指導されなかったのは、シラバスにしっかりルソーとかペスタロッチーとか載せていたからなのであった。いやはや。そんなことくらいで授業の質は変わらないんだけれどもなあ、というのが授業担当者の率直な思いではある。
ともかく、「本質」を見るのではなく、単に表面的なキーワードで検索しているだけであろうことが推測されるところではある。まあ、本質を探るのは文科省の方々にとっても大変な作業なので、キーワード検索して指導するしかないのだろうが、AIでも使って効率よくやっていただき、もっと本質的なところにリソースを割いていただければ、というところだ。教員の働き改革はもちろん結構なことだが、官僚の方々にも働き方改革の恩恵がありますようにお祈り申し上げる次第だ。

研究大会「新教職課程カリキュラム運営の課題―現在と将来見通し―」

本務校の授業の関連で、配付された資料を見ることしかできないが。

他の大学の先進的な取り組みには、頭が下がる。特にこれからは「学校インターンシップ」の導入が一つの焦点になってきそうだ。
それから、「養成・採用・研修の一体化」の具体的な姿が、大阪府の取り組みから伺えた。「キャリアステージ」を0期から4期の五段階に分類し、大学の養成課程を終えた段階を0期とすることで、養成・採用から研修を経てキャリアを積み上げていくコースが見えやすくなる。その際、「教員育成指標」にはロールマップとして機能することが期待される。この有機的な構造には、なるほど、とは思った。
とはいえ、「開放性」との論理的関連や、「個性的な教師」との整合性がどうなるかは、大問題だろうとも思った。

そんなわけで、教員の養成・採用・研修のあり方に対して、これまでの常識が通用しなくなるような時代に突入しそうな感じが漂っている昨今であることを再確認した研究大会であった。恐ろしい制度改革に突入する可能性も考慮して、身構えつつ、成り行きは見守っていかなければならない。

【要約と感想】岩本茂樹『先生のホンネ―評価、生活、受験指導』

【要約】先生の言動の裏には、教師それぞれの経験と職員室内外の権力構造が潜んでいます。服装や髪型に関するわけの分からない校則を押しつけたり、生徒を一面的に判断したり、やたら部活動に熱心だったり、進学率ばかり気にしたり、成績で依怙贔屓するのには、それなりの構造的な理由があります。「理想の先生」なんて現実にはあり得ないので、潔く諦めて、目の前の偶然的な出会いを大切にして、関係を築き、お互いに成長していきましょう。

【感想】大勢のキャラクターが関わる一つの事件を多面的に見ることで、物事の真相が徐々に見えてきそうになりつつ、逆に全体像が見えなくなるという展開が、『藪の中』を想起させる構成となっていたわけだが、著者自身が後書きでそれを狙ったと書いていた。なるほど。教師がいかに教員同士の権力関係の網の目に捕らわれながら行動決定し、目の前の学生の個性を蔑ろにしているかが浮き彫りになる、とてもよい手法だと思った。
しかしまあ、「学生のため」という大義名分を振りかざしながら逆に自分のメンツを通していないか、私自身も自分の言動をふりかえらなければならない。いやはや。

岩本茂樹『先生のホンネ―評価、生活、受験指導』光文社新書、2010年