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【要約と感想】若林明雄『パーソナリティとは何か その概念と理論』

【要約】心理学には、人間に共通するものを研究する分野と、個人差を研究する分野があって、パーソナリティ心理学の目的は個人差を研究することです。しかし現実には、研究者の間ですらパーソナリティ概念の定義が共有されていません。あまつさえ、パーソナリティを実体的に理解するような、シロウト同然の研究者すらいます。パーソナリティ心理学を科学的実証的な学問にするためには、パーソナリティを構成概念と理解し、理論の効果と射程距離を確認しながら、個人差の記述や説明として適切かどうかを明らかにするため、不断に研究手法を反省する必要があります。

【確認したかったことで、しっかり書いてあったこと】オールポートはパーソナリティ心理学の元祖のような呼ばれ方をすることがあるが、実際にはその後のパーソナリティ研究に実質的な影響をほとんど与えていない。オールポートの姿勢は、むしろ個人の独自性を尊重する人間学的なものであって、因子分析のように人間を要素に還元していく研究手法には批判的だった。

【感想】パーソナリティ心理学という学問が固有の研究対象と方法を確立するために苦闘を重ねる姿が描かれている。私が専攻する教育学も長らく固有の研究対象と方法を獲得するために試行錯誤を繰り返してきたわけだが、今現在は「そんなものはない」と開き直っている状況に近いので、パーソナリティ心理学が真摯に課題に対峙する姿には頭が下がる思いだ。

若林明雄『パーソナリティとは何か その概念と理論』培風館、2009年

【要約と感想】天谷祐子『私はなぜ私なのか』

【要約】「私」というものに実存的な疑問を抱くのは、小学校高学年から中学校にかけてのことです。全ての人が自我体験するわけではありませんが、一部の人しか体験しないような特別のものでもありません。しかし高校生に上がると、多くの人がその疑問を忘れてしまいます。

【感想】貴重な実証研究だと思った。「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、どれくらいの人がどれくらいの時期に抱き、どれくらい持続してどれくらい影響を与えるのかという、客観化が恐ろしく困難な課題に粘り強く取り組んだ研究だ。結果もなかなか興味深く、とてもおもしろく読んだ。実証的なデータとして、今後も参照材料とさせていただきたい。

が、まあ、疑問なしとはしない。特に、「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、あたかも普遍的な問題として扱っているように見えるのには、問題の本質を捉え損なう可能性があるのではないかと危惧する。というのは、「私」というものが実存的なテーマの対象となるのは、私見では、近代以降のことと思われるからだ。普遍的な問題ではなく、時代に制約された問題だと思うのだ。
たとえば前近代に「私」というものが成立していなかったことは、フーコーとかギンズブルク等の仕事を参照すれば分かりやすい。あるいは、たとえば明治後期以降の日本文学において実存的な疑問は文学的テーマとなり得るように見えるが、明治前期以前の作品に見出すことは難しい。坪内逍遙や幸田露伴や尾崎紅葉が実存的なテーマを扱っているようには見えない。このあたりは柄谷行人あたりも言及していたように思う。
つまり、「私」が統合されて一つであるべきだというアイデンティティの意識自体が歴史的な産物である疑いがあって、これを本書のように人間の普遍的な傾向と前提してしまうと、様々な可能性を見落とす恐れがあると思うわけだ。

さらに、「私1」と「私2」という記述について。私自身の理解によれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、人間存在に対する「形式/内容」の峻別に対応していると思われる。または「人格/個性」の概念的区別と言ってもいい。私の理解では、このような「形式的な人格」と「内容的な個性」の峻別は、近代(市民社会と資本主義と国民国家)を成立させる上でどうしても必要なフィクションだ。近代を成立させるためには、個人差の内容を完全に捨象して全ての人間を同一の単位と見なす必要がある。侍と農民を区別するような身分制においては、近代の政治と経済は作動しない。全ての人間を形式的に平等な「一」と見なすことで、初めて近代の政治と経済は正常に作動することができる。しかしそれは逆に、近代を成立させるために、人々に対して「形式的な人格」と「内容的な個性」を峻別させるような有形無形の圧力が具体的に加えられるということでもある。この圧力が「私1=形式的な人格」と「私2=内容的な個性」をズラし、「私(形式的な人格)はなぜ私(内容的な個性)なのか」という疑問を生じさせる。「私はなぜ私なのか」という疑問を生じさせるメカニズムは、近代という時代が人々に加えている圧力の存在を抜きにしては見えてこないのではないか。
著者も「あとがき」において、「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」(169頁)と言っている。それ自体は問題ない。というか、近代という時代では当たり前の想定とも言える。が、それを「結論を出してしまった」と言ってしまうのは、正直、ちょっとどうかと思った。そこは結論どころではなく、考察のスタート地点に過ぎないだろう。この問題の本質は、「どうしてそういう仮定が必要なのか?」というところにあるはずだ。私の理解では、そういう「仮定」が必要なのは、それこそが近代という時代を成立させている鍵だからだ。だから、その仮定の土台を掘り下げていけば、近代という時代の本質を捕まえることができるはずだ。スタート地点に立っただけで、その下に豊かな鉱脈が眠っていることに気がつかず、「折り合い」がついたと言われても、私としては「もったいない」としか言いようがない。

もう少し敷衍してみれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、文法で言うところの「主語/述語」の違いに対応する。英語で言うと「I/me」の区別となる。ジェームズが言うような「I/me」の区別は、文法的に言えば「主語/述語」の区別となる。そしてこれは、哲学的に極めて重要なテーマだった。たとえばプラトンやアリストテレスは、主語がどうして主語なのかを追究している。述語としての「私」は現実的に多様であるのに、どうして主語としての「私」は同一性を保持できるのかという問題を、彼らは追究した。プラトン(特に後期)は自我同一性が厳密に成立するのは神だけだとしつつ、人間は神と獣の中間の「エロス的主体」として自我同一性が成立すると言ったし、アリストテレスは「神」の概念を追究する過程で、神とは「常に主語であり、決して述語にならないもの」というようなことを言った。本書が言う「私1=主語」の同一性が成立するのは、プラトンやアリストテレスの論理で言えば「神」だけなのだが、彼らはその地点から人間の同一性の根拠をさらに掘り下げていった。西洋において近代が成立したのは、主語の同一性を対象として考察を積み重ねたプラトンやアリストテレスの伝統が土台にあるからかもしれない。
かたや日本語の場合、主語の「私」も述語の「私」も同じ「私」として表記される。あるいは、主語を表記すること自体を避ける傾向にもある。「私1」を「主語」として理解した場合、日本においてはそもそも「私1」を成立させる言語的条件が歴史的に存在していなかった可能性があるのではないか。
だとしたら、本書が検討していたのは、実は人々の自我体験ではなく、近代西洋語の影響によって変容を被った後の「日本語の主語=述語の関係構造」だったのではないか。特に日本語における「主語」というものの機能と働きが大きく変化したことによって、前近代には起こりえなかった「I/me」のズレが生じたという事態を浮き彫りにした研究だったのではないか。「主語としての私の単一性」と「述語としての私の多様性」が言語的な矛盾として意識されるのが小学校高学年から中学生にかけてということだったのではないか。問題の本質は「心理」ではなく「言語」ではなかったのか。

が、まあ、そのあたりは私の仕事として追究すればいいところではある。本書の丁寧な実証研究に意味がないということではない。参照に値する貴重な本であることに変わりはない。

天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年

【要約と感想】小塩真司『はじめて学ぶパーソナリティ心理学』

【要約】血液型性格診断は、デタラメです。性格と血液型の間には、何の相関も発見されていません。
現代のパーソナリティ心理学は、人を「類型」に分けようとするのではなく、複数の「特性」のセットによって個人差を測定しようとする科学です。「何を測るか」とか「どうやって測るか」とか「本当に測定できているのか」について、科学的な手続きを経る作法に則っています。
そういう観点から言っても、血液型性格診断は、デタラメ極まりないインチキです。滅ぶべし。

【感想】初心者の大学生が読むようなテキストなんだけど、個人的にパーソナリティ心理学をしっかり押さえる必要が生じつつあるので、まずは初歩からしっかり学ぶ。
本書は、初学者向けの教科書として、例が豊富で、読み物としてもおもしろく、わかりやすい。初学者にはとてもいい本だと思う。血液型性格診断のバカバカしさに対する批判は、論理的に明快かつ感情的に痛快だ。おもしろい。

が、まあ、いろいろ疑問に思う点も、なくはない。けれど、それは著者の記述に対する疑問ではなく、パーソナリティ心理学という学問そのものに対する違和感だと思う。以下に疑問を連ねるが、それはパーソナリティ心理学に対する批判ではなく(もちろん門外漢で初学者の私が批判できるわけもない)、私自身が今後の学習過程で誠実に取り組んで明らかにすべき課題を備忘録的に記すものだ。と、お断りして。

疑問に思うのは、まず「特性」というものが現実の正確な写像たりえるのか、かなり怪しいことだ。本書も、特性を記述する因子が実体なのか構成概念なのかについて、けっこう突っ込んで記述しているところだが。特性因子の抽出には統計学的な根拠があるし、手続き自体の根気強さには関心するんだけれども、ただ、その手続きを経て明らかにしていることは、実は言語そのものの意味構造なのであって、個々の人間のパーソナリティを実際に構成する因子が抽出できている客観的な保証は一切ないように見える。そういう問題意識から振り返ると、言語の特性を抽出してそれを現実の写像と見なす素朴な態度は、いわゆる「言語論的転回」以前の状況にあるように見える。もっと言うと、特性因子の組み合わせによるパーソナリティ記述は、現実を反映しているわけではなく、パーソナリティ心理学という領域でしか通用しない「言語ゲーム」を強化しているだけではないかという疑いが強まってくる。具体的には、統語論のような操作に終始しているような印象を受ける。言語を介している限り、そのゲームの外部には決して出ることはできない。一般的に言って、言語が現実の写像であるかどうか、何の保証もない。そして、この「言語論的転回」という世界史的思想傾向にも関わらず、それに対する反応がまったく見えないのは、そこそこ気になるところだ。脳生理学等を通じて外部の現実と接続していると見なす立場もあるのだろうけれども、それでも生物学的な諸要素とパーソナリティ心理学の諸因子はアナロジーで結びついているだけで、一対一の写像関係を実証する科学的根拠はないように見える。複雑な生理的過程をたった5つの因子で説明し尽くせるとは、にわかには信じがたい。5つの因子で説明できるように見えるのは、現実を正確に反映しているからではなく、言語ゲームとしての完成度が高いということの表れに過ぎないのではないのか。

もう一つの課題は、歴史的なメタ視点だ。大きな歴史の流れを考えてみれば、パーソナリティ心理学が目指している「個人差の測定」は、そもそも前近代にはまったく必要とされない欲望だ。というのは、前近代においては、ある人間に対する評価は基本的に身分によって決まるのであって、パーソナリティが意味を持つ余地はほとんど残されていないからだ。具体的には、農民と侍の個人差を比較しても、まず何の意味もない。農民と侍の間に「人間」として共通しているものが想定できないからだ。共通しているものがないもの同士を比較することはできない。で、市民革命以後、政治的に「自由」と「平等」を達成し、経済的に資本主義が世界のオペレーション・システムとなってメリトクラシーが世界を覆ったとき、初めて全ての「人間」を共通の能力を持つものとして把握する土俵が形成され、個人差を測定しようという欲望が発生する。近代によって「人間」という観念が成立しなければ、人々を比較しようとする欲望が発生することはない。私の現在の理解から言えば、パーソナリティ心理学を必要とする欲望の土台は、歴史的に形成されたものであって、普遍的なものではない。
となると、逆に言えば、近代が終わったとき、その欲望も大きく変化すると予想される。たとえば、あまりにも個人差が激しくなりすぎて、同じ「人間」としての共通基盤が失われたと感じられるときには、個人差の測定に対する興味は喚起されなくなるはずだ。人間が個人差を測ろうとする欲望を持っていることは、実は全ての「人間」に共通の基盤があるという信念が成立していることの証拠であるとも言える。「科学の普遍性」という大義名分の裏に、近代という時代の関心と制約が伴っていることは、疑ってかかりたい。

パーソナリティ心理学の発生が19世紀末というのも、示唆的だと思う。たとえば人間を統計的に把握しようという欲望は、19世紀から広範囲に見られるようになる。ドイツでは「道徳統計」の集計が行政の仕事となり、フランスではデュルケームが統計による世界把握の手法を推し進めた。(統計的に世界を把握しようとする欲望が、同じ時期に発達した熱力学と何らかの関係があるかどうかについては個人的に興味があるが、それはまた全然別の話になる)。大雑把には、統計という手法に拠って立つパーソナリティ心理学の展開も、この19世紀からの統計的世界把握への欲望と軌を一にしているように見える。このあたり、知能測定が優生学と結びつきながら現実の政策に影響を及ぼしたことが歴史学で研究されているわけだが、もうちょっと広い文脈においても、近代が喚起した欲望とパーソナリティ心理学の志向は親和性が高いように思える。個人的な関心から言えば、その欲望と志向は「個性」という概念に集約していくと理解しているわけだが、どうか。私自身が追求すべきテーマとして、興味が尽きないところである。いろいろ調べたい。
(そういう意味では、数ある初学者向けのテキストから本書を選んだのは、副題が「個性をめぐる冒険」となっていたからなのだが、残念ながら本文中で「個性」という概念が具体的に検討されることはなかった。まあ、だからといって不満というわけではない。)

こういう他領域の原理についての疑義は、いまだに学問固有の対象と手法が確立されていない「教育学」という領域に関わっている人間が胸を張って口にすることではないんだけれども。まあ、教育学という学問が近代特有の欲望に拠って立っていることを自覚してしまうからこそ、パーソナリティ心理学という学問領域に対してもそういう不安を投影してしまうということなのかもしれない。この課題に自覚的であることは、教育学とは何かという問題を考えることでもある。たぶん、そういうことだ。

【眼鏡学に使える】
本書で学んだ観点は、眼鏡学にも大いに応用できると思った。特に「類型」と「特性」の区別は、方法論として頭に留め置くべきものだと思う。眼鏡っ娘を「類型」としてではなく「特性」を通じて把握することは、おそらくとても重要なことだ。眼鏡っ娘を「類型」として把握し続ける限り、浮上の目は出てこないようにも思う。
そうは言っても、だがしかし。眼鏡っ娘が「類型」として把握されてしまうのは、そもそも眼鏡というものが「かけている/いない」という二元的な性質を持つからでもある。この眼鏡の二元的性質は、現象学的に眼鏡を理解するときに「本質」として顕れるものと思われる。眼鏡っ娘が「特性」ではなく「類型」として把握されやすいことのは、現象学的に興味深い現象と言える。

小塩真司『はじめて学ぶパーソナリティ心理学―個性をめぐる冒険』ミネルヴァ書房、2010年

【要約と感想】板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』

【要約】「私」というものは他者や環境との関係があって初めて生じるものです。人間の幼児には、他者(無生物を含む)の行動に対して合理的な意図や関係性を見出す認知機能が生得的に備わっていて、この機能の発達が「心」の発生(=メンタライジング)に関わります。

【感想】人間は幼児期から「心」を認識している可能性があることを、興味深く読んだ。本書に記述された実験に関する報告を信用するなら、人間は様々な対象に「心」を見出す傾向が生得的に備わっているようだ。実験の妥当性を高めるための工夫がいちいちおもしろく、読み物としても楽しい。

ただ、本書に限ったことではないが、心理学や認知科学に対して一般的に疑問を思ってしまうのは、観察された現象を本当に「心」という言葉で呼ぶのが妥当かどうかということだ。原理的に言えば、観察者が持っていた「心」という概念を観察対象に適用して「心」の存在を証明することは、帰納的な推論ではなく、「循環論法」に陥っているのではないか。たとえば、動物実験で観察されたものを「心」と呼ぶのは、単なる擬人化ではないかとも疑ってしまう。観察で見出された現象は、本当に「心」というカテゴリーで処理するのが一番適切なのだろうか? まあ、そんなことはライル等が既に言っていることだけれども。

具体的には、そこで見出されているものの本質は、「心」と呼ぶより、「一」と呼ぶ方が適切ではないだろうか。あるいは、もっと正確には「生命の単位としての一」と呼ぶべきかもしれない。人間は「私」だけを環境から切り出しているのではなく、様々な「一」を環境から切り出している。あるいは他の動物も。だから、人間が生得的に持っている認知傾向とは、「心」を見出す能力というより、「多」から「一」を切り分ける高度な能力ではないのか。まあ、「心」を見出すから「一」を切り分けられるのか、「一」を切り分けてから「心」を仮託するのか、鶏と卵の関係のようなものではあるが。ともかく、最初から「心」の存在を仮定するのではなく、「一」というものを仮定しても、同じ現象がまったく別の論理で説明できてしまうはずだ。このあたりは後期プラトンやアリストテレスがそうとう厳密に手がけているところではあるが。そして古代哲学の論理によれば、「一」から様々な概念が演繹される。たとえば、首尾一貫性という概念であり、アイデンティティという概念であり、あるいは「存在」という概念だ。プラトンやアリストテレスはそこまで言っていないが、実は「心」という概念も「一」から演繹されるものではないのか。そう考えると、「心」とか「アイデンティティ」とか「首尾一貫性」というものは付属的な属性に過ぎず、本質は「一」であると見なすのが適切ではないのか。そしてそう考えても、本書で示された現象は全部きれいに説明できてしまう。

じゃあ、そもそも「一」とは何だと聞かれたら。そんなものは「認知の特異点」であって、それがあるから他のあらゆるものが説明できる認知の底であって、外部からは説明のしようがない何者かとしか言いようがない。どうして「私」が「一」なのかは、誰にも説明できない。それは目の前の「眼鏡」がどうして「一」なのか説明できない(こんなにたくさん部品があるのに、どうして「一」と呼べるのか?)のと同様のことだ。「私」や「眼鏡」を「一」と認知することで、初めて世界が成り立つ。「私」を認識する前に「一」を認識していなければ、世界は立ち上がらない。人間(あるいは他の動物)の生得的な認知の基礎は、そこにあるのではないのか。アリストテレスも、数字は「二」から始まるのであって、「一」は数字ではないと言った。「一」とは数字を成立させるための「認知の特異点」として特別な対象であって、数字のような形式的操作の対象には納まりきらないということだと承知している。「心」というものも現在では実験など形式的操作の対象となっているが、それを成り立たせる根底にはもっと別の根源的な何か、具体的には「一」というものが前提されねばならず、それこそが人間の認知の基礎的で生得的な条件となっているのではないか。まあ、そんなことはアリストテレスやカントが既に言っているのだが。ただ、AIにできないのは、「心」を持つことよりも前に、「一」を認識することではないか。人間は、自分や他人を「一」と認識できるほか、自分よりも小さなもの(たとえば指とか足とか髪の毛とか)も「一」と認識できるし、自分よりも大きなもの(たとえば「家族」とか「民族」とか「国家」とか「地球」とか「世界」)をも「一」と認識できる。そして「一」と認識したものに対して、頼まれもしないのに「心」を仮託する傾向にある。AIは、「心」を生む前に、まず「一」を認識することができない。ここに「生命」と呼び習わされてきた何かの本質があるのではないか。

まあ、本書を読みながらそんなことをつらつらと考えたのだが、もちろんこれは私の問題であって、本書が扱わなければならない問題ではない。

【眼鏡学に使える】
「視線」に関する記述は、眼鏡学的な観点から、興味深い。

「目は心の窓」。いみじくも古人がこう表現したように、他者の心を最もよく反映するのは、視線かもしれない。「私」が最初に出会う他者の心は、他者の目に凝縮されていると言ってもいいだろう。たとえば、視線は、他者が何を見ているかを単純に示すものである。(126頁)

「視線」を可視化するのが眼鏡というアイテムである。つまり他者の眼鏡を外すという行為は、他人から視線を剥奪することの象徴であり、端的に主体性を否定することを意味する。眼鏡を共有する行為は、視線を共有することの象徴であり、生死を共にする共同体の一員であることを保障することを意味する。この「視線」に関する観点は、マンガ作品分析等で極めて多大な示唆を与えてくれる。

板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書、2006年