「心理学」タグアーカイブ

【要約と感想】高橋惠子『子育ての知恵―幼児のための心理学』

【要約】子育てに関して、世間ではいい加減なデタラメが流布しています。子育ての責任を家族が専ら負うべきだという意見には、何の根拠もありません。特に、母親との愛着形成が将来を決定するなどという母親偏重説は、実証的に否定されています。そんなものは18世紀頃に人工的に作られた物語に過ぎません。
また、「幼児期決定説」は実証的には確認されていません。愛着形成が幼児期にのみ可能だという証拠もありません。子どもを保育園に預けても、母の手で育てても、育ちにたいした違いは確認できません。
大事なことは、子どもを一人の独立した人間として扱うことであり、同時に大人も一人の人間として充実した生き方をすることです。家族が子育てで特別にがんばる必要はありません。そして子育てを家族の自己責任にするのはもはや無理なので、社会全体で育てていくという意識を持つことが大切です。

【感想】私個人にとっては、とても勇気が出る本であった。子どもが愛着形成をするときに、母親が重要なわけでもなく、実の親である必要もなければ、幼児期に達成しないと手遅れになることもない。この知見は、とてもありがたい。無用なプレッシャーを受けて苦しんでいる子育て世代全体にとっても、勇気が出る本なのではないだろうか。
そして子育てを家族の自己責任とするのではなく社会全体で担っていく必要があるのだという視点にも、膝を打つ。まさにその通りだと思う。家族を孤立させず、子どもたちを社会のネットワークに組み込んでいく仕組み作りが、今後ますます重要になっていく。
私も微力ながら頑張りたいと思う。

高橋惠子『子育ての知恵―幼児のための心理学』岩波新書、2019年

【要約と感想】星一郎『アドラー心理学で「子どものやる気」を引き出す本』

【要約】子育てに悩むお母さんに向けて、アドラー心理学の知見を背景とした具体的なアドバイスが記されています。最大のポイントは、お母さんもお子さんも「自分を好きになること」です。

【感想】意外なことはあまり書かれてはいない。あるいは、同じようなことはアドラー心理学を特に学んでいなくても言える。まあ、子育ての方針に悩んで迷って藁をも掴む思いに駆られて自分を見失っている親には、距離を置いて一息つき、いったんクールダウンさせてくれる良い本なのだろう。
とはいえ、頭で理解したとして、具体的な実践に移すとなると、まず自分自身をコントロールする作法から身に付けないと、なかなか難しいかもしれないなあとは思うのだった。そしてそれができるなら最初から苦労しないという。

【個人的研究のためのメモ】
「人格」に関するいくつかの用例をピックアップしておく。

「アドラー心理学では、前者のようなほめ方はあまりよしとしません。「いい子」というのは子どもの「人格」への評価であって、お手伝いという行動そのものに対する称賛ではないからです。」(39頁)

「さきほど、親は子どもを叱るのではなく、子どもに意見を言うことが大切だとお話ししました。その場合に、忘れてはならないことがあります。それは、子どもの人格自体を責めてはいけない、ということです。」

フロイト精神分析学は、「人格」を「近代的な個」としては理解せず、さらに細分化(自我・エス・超自我)した。「人格」そのものに焦点を当てていかない。またあるいはユングは「人格」を「近代的な個」としては理解せず、さらに大きなもの(共同的無意識)へと溶解させた。「人格」そのものに焦点を当てていかない。それに対してアドラー心理学は、人間をindividual=不可分な「個」として理解しているようだ。引用したところにも、そういう理解の一端が見られるように思う。「人格」という近代的概念と最も親和的な体系であるように見えるが、さて。

星一郎『アドラー心理学で「子どものやる気」を引き出す本―”本当に響く”ほめ方、叱り方、励まし方』三笠書房、2016年

【要約と感想】佐藤淑子『日本の子供と自尊心―自己主張をどう育むか』

【要約】これからの教育は、子どもの自尊心(セルフ・エスティーム)を育んでいく必要があります。自己主張やセルフ・エスティームの発達には、母子関係のあり方が大きく関わってきます。「ほめる」ことの重要性を今まで以上に意識しましょう。
しかし性差や文化的背景の違いによって、親のしつけや学校教育が子どもに与えるメッセージも異なっています。たとえば、母親と娘の情緒的な関係性から、女性の自己主張は男性と比較して幼少期から抑えられる傾向にあります。
また日本では、「甘え」が許される親しい関係性では自己主張ができますが、「そと」では自己主張ができません。「会話」ができても「対話」ができないのが問題なので、これからは「対話」の機会を増やして自己主張のトレーニングをしていきましょう。
が、そもそも根本的に「自己/社会」の関係性を考慮すれば、セルフ・エスティームが高い低いの問題ではなく、柔軟性やしなりの強さが決定的に重要になってくるでしょう。これからの時代を生きる能力を育むためには、セルフ・エスティームの育成が土台とならなければなりません。

【感想】心理学の知見と比較文化史的な知見を組み合わせた論考で、興味深く読める。「ほめて伸ばす」ことの論理的な意味がよく分かる。まあ、結論そのものは、俗流教育論がさんざん言っていることとそう変わらないようには思う。世間の感覚を学問的に裏付けたというものではあるかもしれない。

【この本は眼鏡論に使える】
二項対立を乗り越えて自我のバランスを保つという観点は、眼鏡論に対しても大きな示唆を与えるように思った。例えば平木が対人行動を「非主張的/攻撃的/主張的」と3つに分けた見解は、眼鏡弁証法における「即自的な眼鏡/対自的な眼鏡/即且対自的な眼鏡」に対応するように思う(64-65頁)。

非主張的攻撃的主張的
引っ込み思案強がり正直
卑屈尊大率直
消極的無頓着積極的
自己否定的他者否定的自他尊重
依存的操作的自発的
他人本位自分本位自他調和
相手任せ相手に指示自他協力
承認を期待優越を誇る自己選択で決める
服従的支配的歩み寄り
黙る一方的に主張する柔軟に対応する
弁解がましい責任転嫁自分の責任で行動
私はOKでない、あなたはOK私はOK、あなたはOKでない私もOK、あなたもOK

平木の言う「非主張的」は、眼鏡をかけた自分に対して自信が持てない状態に当たる。そして「攻撃的」は、眼鏡を外して周囲にちやほやされている状態に当たる。最後に「主張的」は、様々な葛藤を経て再び眼鏡をかけ直した状態に当たるわけだ。
この「ほんとうのわたし」を取り戻すという眼鏡弁証法のプロセスは、本書の認知心理的な観点からも記述されているところだ。

「自己主張するには自己の判断が必要であり、そのうえで自己決定し自分の意思を表明する。このようなプロセスは自己意識を鮮明にするし、自分らしさの模索を促していくだろう。自己は、意識や行動をつかさどる「主体としての自己(I)」と、自他にみられている「客体としての自己(Me)」に区分される。自己主張するIとセルフ・エスティームを内包するMeの相互作用は、自己形成の一つの側面を映し出している。」68頁

「眼鏡をかける」という判断を行ない、自己決定するのは眼鏡少女自身である。そしてその判断と決定の積み重ねが「自分らしさ」の形成へと繋がっていく。そしてそれこそ少女マンガ(特にオトメチックまんが)が目指した「ほんとうのわたし」だ。
あるいは167頁で語られている「相互依存/独立」の二項対立を超えて「情緒的相互依存:自立ー相互関係的:自立的・関係重視自己観」へという理解も、眼鏡弁証法構造に極めて親和的である。「単なる自己主張ではない自立性と、単なる順応ではない協調性とを組み合わせた「自立的協調性」」(171頁)とは、眼鏡っ娘が最終的に目指す姿であろう。

そんなわけで、本書が言う「自己/他者」の弁証法構造自体は私が従来から眼鏡弁証法として主張してきたものではあるが、認知心理の世界でも同様の理解があることを知り、たいへん心強いところである。本書から得た知見は、個人的な研究視点として積極的に取り入れていきたい。

→読むべき本:平木典子『アサーション・トレーニング―さわやかな<自己表現>のために』、辻平治郎『自己意識と他者意識』、岩田純一『<わたし>の世界の成り立ち』

佐藤淑子『日本の子供と自尊心―自己主張をどう育むか』中公新書、2009年

【要約と感想】オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』

【要約】心理学は人の心を一般的・抽象的に分析の対象として満足するのではなく、具体的な個人の心理を全体的に理解する総合的な手法の発展に努力するべきです。そのためには質問紙法と統計処理による特性の抽出では不十分です。一人の人間を全体的・総合的に理解するために、心理学は科学的手法の限界を越えてあらゆる手段を利用し、心理学の範囲を拡大していかなければなりません。

【感想】オールポートの仕事に関する教科書的な説明は、実際に本人の著作を読んでみるとまるで見当外れであることがよく分かる。一般的な心理学の教科書では、オールポートは「パーソナリティ心理学」の提唱者とされていて、彼の仕事がそのまま現在の特性論に引き継がれていっているような書き方になっていることがあるが、この本を読むとまるで正反対であることが分かる。オールポートの仕事は現在のパーソナリティ心理学の主流には引き継がれていないどころか、彼の意志と真逆の態度が幅をきかせていると言うことすらできそうだ。

オールポートは言う。

「心理学は一般性を求める法則のすき間からどこかへ、日常われわれが知るような個別の人間を失ってきた。」(475頁)

大学の心理学の授業の冒頭で心理学の先生が言いがちなセリフとして、「心理学を学んだところで、誰か特定の人の心理を理解することはできません」という類の言葉があるわけだが、もしも本当にそうだとしたら、いったい何のために心理学は存在しているというのか。オールポートの不満の源は、おそらくそういうところにある。どれだけ心理学を究めたところで、自分の目の前の一人の人間が分からないのであったら、その学問に何か意味はあるのだろうか。その疑問に対して「目の前の人間の心が分からない心理学にも存在意義はある。科学として一般的な人間の心を分析する心理学だ」と主張する立場はあるだろうけれども、オールポートはそう開き直りたくないわけだ。一人の人間を全体的・総合的に理解できてナンボ。そこから出てきたのが、抽象的・一般的・分析的な法則定立的心理学を超えて一人の人間の心理を具体的・全体的・総合的に理解しようとする特性記述的なパーソナリティ心理学だったということだろう。

そういう意図から、オールポートは先達の遺産を縦横無尽に博捜し、一人の人間を理解するための手法を吟味しまくる。よって、本書は一般的な心理学の範囲を超えて、哲学や文学や歴史学を視野に収めるような、極めて浩瀚なものとなった。この過程で、教科書に必ず掲載される「パーソナリティの定義」が導き出される。一般的な心理学の教科書では「定義」の結果しか抜き出してこないことが多いが、先達の遺産の博捜過程という美味しいところを全部そぎ落としてしまう、もったいなさすぎる愚行であるように思う。確かに個々の事例は古くなっていて、もはや参照には値しない部分が多いのも分かる。しかし彼が「パーソナリティの定義」を行ったのは、如何ともしがたい心理学の主流に対する批判を意図していたのであり、その批判精神そのものがいちばん重要なのであって、結果として表現された「パーソナリティの定義」自体は副産物程度の扱いで十分だろうと思う。そして彼の心理学に対する批判意識そのものは、おそらく現在でも有効だ。いや、ビッグ5みたいな数値的処理で以て最終的な解決なのだと主張して憚らない人々が出てきてしまう現在だからこそ有効とすら言える。古くなっていない。

とはいえ、じゃあ具体的にどう研究するかという時に、確固とした方向は実は見えてこない。本書では具体的にゲシュタルト心理学等の動向に期待が込められていたわけだが、もちろん最終的な解決策として提示されていたわけでもない。
彼自身が示している方向は、もはや通常の心理学の範囲を遙かに超えて、一人の人間そのものを理解するための学問となっている。オールポートは言う。

「それぞれのパーソナリティは、それ自体一つの法則なのだと(非常に正確に)いうことかできる。それは、各人の一生は、もし十分に理解されれば、それ自体が規則正しい必然的な発達過程を表わしている、ということを意味している。」
「法則性というものは頻度や画一性によるのではなく、必然性によるものである。それぞれの人の一生には、他の人の一生とは異なった必然的構造がある。」(476頁)

なるほど、法則定立的学問としての心理学を批判した先には、煎じ詰めていけば、どうしてもこういう結論が待っているだろう。オールポートの問題関心から言えば論理必然的に落ち着くところに落ち着いたと言えるわけではあるが、それでも本当にそれでいいのだろうか?とも思ってしまう。一人の人間を理解することがとても大切であること自体に異論があるはずもないが、ただ、その作業を学問的な手続きとして遂行しなければならないかどうかに対しては疑問が生じる。一人の人間をしっかり理解すると言うことは、学問的なプロセスを通じてではなく、ひとりひとりの人間が「生活」を通じて誠実に行っていくべきことではないのだろうか。学問にできることは、誠実な義務をサポートするための知恵を増やしていくことくらいだろう。学問そのものの手続きが一人の人間の必然的構造を明らかにしても、興味深いものにはなるだろうが、特別な意味があるかと言われると疑問なしとはできないだろう。

しかしこのあたりは、オールポートが著作の冒頭でディルタイの名前を出していることもあって、心理学を超えて人文科学全体に通じるような根が深い問題に繋がっていく。彼は問題提起でこう言っている。

「ディルタイとシュプランガーにより主張された二つの心理学(分析的と記述的)の場合、区別はあまりにも峻烈であった。二つの方法は、重複するもの、相互に助け合うものと見なす方がはるかに役に立つ。」
「個人に関する完全な研究は、両方法を含むであろう。」(18頁)

オールポートは、分析的な学問に偏った現状に対して鋭い批判を向けるために、ことさら記述的な手続きの重要性を称揚したとも言える。
分析的と記述的という二つの方法を「含む」ような、あるいは「相互に助け合う」ような方法で研究ができることは確かに理想的なのだろうが、具体的にどうすればいいのかはなかなか見えてこないところではある。心理学だけの問題ではなく、私が専門とする教育学でも極めて切実な問題である。

*6/11追記
分析的と記述的という2つの学問の区別は、しかしよくよく思い返してみれば、アリストテレス(ニコマコス倫理学)が言う「学=エピステーメー/知慮=フローネシス」の区別に直結する話ではなかったか。(このあたりはディルタイやシュプランガーの所論をしっかり確認しないと迂闊なことになってしまうわけだが…)
もしも「分析的/記述的」が「学/知慮」の違いに対応しているとするなら、アリストテレスの議論に従えば、それらの間にはそもそも重なる部分などまったくなく、完全に別の領域として扱うべきだという話になる。なぜなら、「学」とは普遍的で必然的なものに関わる理性の働きである一方、「知慮」とは「他のものでもあり得るようなもの」に関する判断力の問題であって、そもそも相手にしている対象が違っているからだ。「分析的/記述的」は、単なる方法の違いなどではなく、対象とするもの自体が異なっているわけで、そうだとしたら方法論の次元でどれだけ工夫したとしても根本的な解決などつくはずがない。
仮に「学/知慮」を繋ぐものがあるとしたら、これもアリストテレスに従えば「直知=ヌース」というものしかない。アリストテレスによれば、「学」のスタート地点にある根本命題は決して「学」そのものから導き出されるものではなく、「学」の外からもたらされる。「学」を成立させるには絶対に必要であるにも関わらず「学」自体からは絶対に導き出せないものを与えてくれるのが「直知」である。そして同様に、「知慮」を成立させるためには「究極的な個=絶対に二度とは繰り返して発生しない独自の事象」を認識することが必要となるわけだが、それを可能にするものこそが「直知」である。そんなわけでアリストテレスの議論に従えば「直知」こそが「学/知慮」を繋ぐものではあるわけだが、その「直知」なるものは「学」でもなければ「知慮」でもない、なにかまったく別の人間の能力に由来するものであって、オールポートの言う「分析的」であろうが「記述的」であろうが、学問的な手続きからは決してもたらされないものである。それこそ日常生活のなかで人々が普段から何気なく使用している「相手を理解する人間の力」としか呼ぶことができないものなわけだが、この「直知」の作用を「学」だろうが「知慮」だろうが学問の用語に翻訳することは、アリストテレスの所論に従う限りでは、最初からそもそも原理的に不可能なことである。カテゴリーがそもそも異なっているのだから、可能性自体がそもそもゼロなのだ。オールポートの狙いは、アリストテレスの所論を踏まえるならば、実は最初から原理的に不可能なものだったと言うしかない。
だとすれば、オールポートがするべき具体的な作業は、個々の心理学の業績を吟味することではなく、「学」と「知慮」が原理的に橋架可能であることを論理的あるいは具体的に示すことであったはずだ。「理想ではないもの」を羅列して批判するのではなく、どうしたら理想(「学」と「知慮」の橋架)を実現できるかを論理的に示すことであるはずだ。そしてその点に関し、本書に消化不良感が漂うことは否定できないわけだが、そもそもそんなことは「原理的に絶対不可能」である可能性をまず吟味すべきではないのか。
まあ、「個/普遍」は、心理学にかぎらず、きわめて根本的な問題ではある。オールポートの仕事は心理学という方法論から改めて「個/普遍」の問題を照らし出したものと理解すべきなのかもしれない。そして結局はアリストテレスの掌の上で踊っていたということが改めてわかっただけなのかもしれない。

G.W.オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』詫摩武俊/青木孝悦/近藤由紀子/堀正共訳、新曜社、1982年

覚え書き:第2回パーソナリティ心理学会コロキウム2「道徳×パーソナリティ」

日本パーソナリティ心理学会主催のコロキウム「道徳×パーソナリティ」(2018年3/30、於東京家政大学)に、教育学代表の話題提供者として出席してきました。以下、ごく簡単な覚え書きとして、私が抱いた感想について記します。

認知発達と進化心理学の観点

話題提供として、私が教育学代表で「教育学における人格概念」についてレポートした他、藤澤文先生(鎌倉女子大学)が認知発達の観点から、川本哲也先生(東京大学)が進化心理学の観点から報告を行いました。

認知発達の点で印象に残ったのは、教員養成における道徳教育の授業に心理学の成果がほとんど反映されていないという現実でした。道徳教育の教科書にはピアジェやコールバーグの発達段階理論は載っているものの、それ以降の心理学領域での発展は反映されません。特に認知科学の領域はめざましい成果を挙げているように思うのですが、道徳教育の実践に反映されないのはとても勿体ないと思います。
まあ、実際に大学の教員養成課程で道徳教育の授業を心理学理論の専門家が担当することは滅多になく、多くの大学で退職校長先生など実務経験者が担当しているという現実においては、最新の心理学の成果は浸透しにくいだろうとは思いますけれども。とはいえ、文部科学省が道徳教育を変えるんだと旗を振っているにも関わらず、しかし大学の授業の中身に最新の心理学や認知科学の成果が反映されていかない現実を見ると、教員養成制度の在り方についていろいろ考えさせられます。
と言いつつ、私自身の認知発達に関する知識だって、ピアジェ、ワロン、ヴィゴツキーあたりで止まっているんですけれども。私自身の勉強不足を認識・反省し、知識をアップデートする必要を切実に感じる良い契機となりました。21世紀スキルについて批判的に理解するためにも、最新の認知発達理論の要所を押さえておく必要があります。勉強しろよ>俺。

それから進化心理学については、25年ほど前に読んだ竹内久美子の本のデタラメさ加減のせいで悪い印象しかなかったわけですが、今回の話題提供を受けて冷静に考えてみれば、デタラメなのは竹内久美子であって、進化心理学そのものはしっかりした学問であるという当たり前のことが分かります。進化心理学が挙げる諸成果は、他の学問からはなかなか出てこないだろうものが多くて、新鮮で興味深いです。とはいえ、Eテレでやっていたダイアモンド博士シリーズ等を見て思ったことですが、進化論から演繹された人間論の体系は、人文科学に携わる者としては素直に受け取れないということは否定しません。以下、川本先生個人に対する批判ではなくて、一般論であることを前置きしまして。生物学の成果を人間論にまで演繹するとして、人間の行動のどこまでを「動物」の範囲で理解し、どこからを「文化」の領域として理解するか、その境界線についての原理的・方法論的な反省が欠けているときには、出てきた成果を「人間論」として全面的に受け入れることには懐疑的でありたいと思っています。この境界線について生物学者が原理的・方法論的に反省を加えている極めて素晴らしい例は、ポルトマン『人間はどこまで動物か』に見られると思っています。(えっと、川本先生に反省が欠けていると言っているわけではなく、あくまで一般論であることについては、繰返し強調しておきますよ。)
その上で、道徳教育がパーソナリティの変容に影響を与えないだろうという進化心理学の成果は、現実の教育に何らかの形で反映していっていいだろうと思います。カリキュラム全体の構想や学校運営の在り方に対して抜本的な反省を加えるための良い素材になると思います。道徳教育なんかやっても何も意味がないという意見は、一部の教育学者や教育関係者などによって昔から現在にかけて途切れることなく主張されてますけれども(それこそ福沢諭吉あたりから)、科学的な根拠があるかないかで説得力はまるで違ってきます。

私の報告についての補足

私は、教育学がどのように「人格」概念とか「人格の完成」を扱ってきたかについて報告しました。パーソナリティ心理学との違いを際立たせようという意図もあって、「人格」の本質は「自由」であり、かつ「個性」と対立するような普遍的概念だとする見解を強調しました。

ただ、いちおう補足しておくと、『教育実践要領』や『期待される人間像』に見られるような、「人格」の本質を「自由」であると強調するような表現は、社会主義に対する警戒心と対抗意識を背景として登場したものであって、実は価値中立的な態度ではないだろうと思います。教育基本法制定に深く関わった田中耕太郎も共産主義に対して露骨な嫌悪を表明しており、「自由」を強調すること自体が実はイデオロギー的な態度であったことは、時代の背景として踏まえておく必要があると思います。(そしてそのイデオロギー性の指摘は、1980年代以降の新自由主義が強調する「自由と自己責任」論にもそのまま当てはまるわけですが)。まあ、「自由」を強調する発言者の意図がイデオロギーに染まっていることが「自由」そのものの価値を損ねるわけではありませんけれども、テキスト読解の際には少々引いた地点から眺める必要があります。ある文書を時代の文脈から切り離して価値中立的なテキストとして理解することには常に危険が伴うわけで、それは教育基本法の「人格の完成」も逃れられない、テキスト解釈の一般論ではあります。教育基本法の「人格の完成」という文言は、その時代の政治・社会・経済・思想的背景の中において、田中耕太郎という個人の想いが込められた、極めて個性的な表現だと思っています。「人格の完成」という文言を金科玉条の如く無批判に受け入れることに対しては、懐疑的であるべきだと思います。あるいは、現代において「人格の完成」という言葉を錦の御旗の如く使用している文章を見つけたら、内容はかなり怪しい主張になっているはずなので、眉に唾をつけて読むべきだと思います。

フロアからの質問にありました、「人格」という言葉ではなく「人間性」という言葉のほうがより適切だったのではないかという指摘は、田中耕太郎という個人の思想を読み解く上で極めて有効な切り口になります。なぜ田中耕太郎は「人間性」という言葉ではなく「人格」という言葉にこだわったのかを掘り下げていくと、教育基本法の言う「人格の完成」が本当に狙っていたものがかなり明瞭に見えてきます。彼は、立法・行政・司法の三権分立に「教育」を加えて四権分立にしようとする理念というか野心というか見通しを持っていました。独立した力としての「教権」を確立する上で、「人格の完成」という言葉は極めて重要な役割を果たすことが期待されているはずです。そしてそこで言われる「人格」とは、パーソナリティ心理学が扱うパーソナリティとは似ても似つかないものであることが見えるでしょうし、そして似せる必要がそもそもないものであることも見えてくるだろうと思います。それは客観的で中立的で科学的な言葉ではなく、国家体制に関わってくることが期待されている言葉です。そういう意味では、「人間性」という言葉のほうが価値中立的でありそうだという見解は、まさにその通りであると思います。

そんなわけで、私の報告は、教育学で言う「人格」が、パーソナリティ心理学の言う「パーソナリティ」とは全然違っていることを強調しましたけれども、それは「教育学のほうが正統なんだから、こっちに合わせろ!」と主張したいわけではありません。むしろ教育学で言う「人格」は時代背景やイデオロギーに規定されて登場してきたものであって、けっして価値中立的なものではなかったことを併せて示そうという意図を込めていたつもりです。上手に説明できたかどうかは、心許なくて、恐縮であります。

国家主義的な価値から社会経済的な価値へ

というわけで、3人の話題提供の範囲はそうとう広がって、指定討論者の渡邊先生がどうまとめるか大変だなあと思っていたら、鮮やかなお手並みで、びっくりしました。全体的にたいへん示唆的な内容でしたが、中でも特に印象に残ったのは、「パーソナリティの価値化:非認知能力の浮上」と「徳性から能力へ:国家主義的な価値から社会経済的な価値へ」というお話しでした。

「パーソナリティの価値化」という点については、当然、企業で使える人材イメージの変化が背景にあるわけです。単に勉強ができるだけの人間が会社で使えないことに多くの人が気がついて、使えるか使えないかは頭がいいかどうかに加えてパーソナリティの在り方にポイントがあると考えられるようになりました。となると、これまでの教育では社会に有能な人材を送り出すために「知能の測定」の確度を上げていけばよかったのが、これからは「パーソナリティの測定」の確度を上げていかなければならなくなったわけです。企業で役に立つ人材を送り出すために、教育では知能や学力の測定に加えてパーソナリティの正確な測定が切実に求められるようになり、それに伴って、パーソナリティ心理学に大きな期待がかかるようになります。企業が求める人材の変化は、文部科学省が言う「学力」の定義の変化にも反映してきています。かつての「学力」は勉強ができるかどうかだけを問題にしていましたが、1990年代以降の「新学力観」は「関心・意欲・態度」というパーソナリティ領域に踏み出しています。この教育の世界で進行した「学力の定義の変化」と、渡邊先生が指摘した「パーソナリティの価値化」は、同じ根っこを持っているように思います。

それから、心理学におけるパーソナリティの意味はもともと法学や教育学と変わりなかったのが、1930年代アメリカの社会経済的な背景でオールポートやキャッテルから変わっていったという指摘も示唆的でした。個人的には、1920年代(30年代じゃなくて)アメリカの社会経済的背景と1960年代日本の社会経済的背景はかなり似ているように思っています。で、教育学における「人格」概念も、高度経済成長後に大きく変化しているのではないかという気がしています。たとえば話題提供でも示した中央教育審議会「期待される人間像」は1966年に出たものですが、ここで示された国家主義的な「人格=自由」観は60年代後半に急速に萎んで、70年代以降は社会経済的な価値へと装いを変えていくように見えます。直感的な感想で、まったく実証的な根拠はありませんけれども。とはいえ、1930年代アメリカの変化と60年代日本の変化の類似を考えることは、何かしらの示唆を与えてくれそうな予感はします。

また、「パーソナリティのリアリティ」という言葉は、なかなか含蓄が深いなあと思って聞きました。「パーソンのリアル」という次元ではなく、「パーソナリティのリアリティ」という次元を扱っているという自覚と、その領域を豊かにすることの意味を考えることが、これからますます重要になるのではないかと。
教育の領域に我田引水すれば、「教育をする」ということに執着するのではなく「教育的である」ことの現実的な意味を考えることの重要性と言いかえることができるかもしれません。道徳教育に関しても、子供に対して道徳教育を施す方法や効果について云々するのではなく、大人自身が「道徳的である」ことの現実的な意味を考える重要性、と言いかえられるかもしれません。

AIによるパーソナリティ予測

せっかくなので、コロキウム3「AI×パーソナリティ」で紹介された「文章によるパーソナリティ予測」をしてくれるサイトに上の文章を入力してみたところ、以下のような結果が出力されてきました。なるほど。

自己主張が強く、協調性が低いのだった。ははは。
これ、実はパーソナリティ診断に使えるだけでなく、文章そのものが人に与える印象を客観的に自己点検するためにも有用なシステムなのではないかと思えてきました。たとえば「この文章、自己増進も変化許容性も弱いのか」って気づきのために使うとか。論文を書いたらちょっと使ってみることにしよう…。