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【新潟県新発田市】堀部安兵衛の生誕地と、菩提寺の長徳寺

新発田市は、赤穂浪士随一の剣豪として有名な堀部安兵衛の出身地で、観光の目玉として前面に打ち出しています。

新発田城の近く(かつては城内の櫓跡)には、堀部安兵衛誕生之処の石碑が立っています。

さらに新発田城帯曲輪、表門へ行く橋の前には堀部安兵衛像が据えられております。

安兵衛の幟もはためいて、生誕地をアピールしております。

観光地の定番顔出しパネルのモチーフも、もちろん堀部安兵衛。衣装は討入時の格好になっていますね。

さて、新発田市は「清水園」という大名庭園でも有名です。

国の名勝にも指定されるだけあって、たいへん立派な日本庭園です。敷地内に新発田藩史料館があって、様々な歴史資料が展示されているのですが。

隣に同じくらいの力が込められた「堀部安兵衛伝承館」が建てられています。赤穂浪士のプロフィールや討ち入りの様子も分かる展示になっております。

さらに市内の長徳寺へ。

長徳寺は堀部安兵衛の家系である中山家の菩提寺で、安兵衛の父の墓もここにあるのですが、やはり安兵衛ゆかりを前面に打ち出しています。安兵衛手植えの松があったり、義士の石碑が立っていたり。

境内には「義士堂」も建っています。本当は年に一度の討入決行日(12/14)にしか公開しておらず、普段は閉まっているのですが、なんとボランティアガイドのおばちゃんの計らいで特別に中を見せてもらうことができました。

さほど広くない堂内にぎっしりと居並ぶ47士像。一人ひとり表情が違っていて、なかなか味わい深いです。伝承によれば、木像は寺坂吉右衛門が手がけて桃中軒雲右衛門が所蔵していたという凄いものということです。

軍配を振るっているから大石内蔵助か。鼻がもげちゃっていますが、2018年春を目処に47士像を順次修理することになっていました。そろそろ修理も完了した頃でしょうか。

安兵衛だけは金属で造られた像も安置されています。

そういえば47義士像でインパクトがあったのは、やはり泉岳寺の木造で、47士に加えて討ち入り前に亡くなった人物(浅野内匠頭含む)も木造になっているのですが、討ち入り時に亡くなっている人物の肌が宇宙戦艦ヤマトのデスラーのように青色で塗られているという。強烈でした。

私が新発田を去った後、長徳寺に堀部安兵衛の墓が立てられたそうです(参照:共同通信「堀部安兵衛の墓碑建立、新潟」)。また行かなくちゃなあ。
(2014年6月訪問)

【新潟県新発田市】新発田城と福勝寺

新発田城は日本百名城にも選ばれている立派な城です。

三階隅櫓が立派です。2004年に復元されたものですが、史実に忠実に再現されているとのことです。

桜の季節は、堀の向こうの隅櫓とコラボして映えそうですね。

が、残念ながら綺麗なのは目に見える部分だけで、城の大部分は消失していおり、舞台の書き割りのようになっているのでした。

案内板に記された縄張図を見ると、もともとは極めて広大な城であったことが分かります。現在残っているのは、ほんのごく一部分に過ぎません。

残された貴重な場所に向かいます。写真を撮っているのは「帯曲輪」というところで、本丸の表門を出たところに造られた、本来は出陣体制を整えるための集合場所みたいなところです。

案内板を見ると、帯曲輪の構造はかなり複雑で、そうとう防御機能が高かったように見えます。

さて、帯曲輪を抜け、いよいよ表門から本丸に入ります。が、まあ、本丸の大部分は消失していて、中はそんなに広くないんですが。
新発田城が素晴らしい名城であること自体に異論はないけれども、百名城にリストアップされるとしたら、むしろ石垣が良好に保存されている村上城も良かったんじゃないかなあというのが個人的な感想ではあります。

本丸には新発田藩初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っています。武士なのに甲冑ではなく公家スタイルの銅像というのは他にもいろいろ見ることができますが、多少違和感を持ってしまいますね。どうして公家スタイルなんだろう。

さて、新発田藩の初代藩主・溝口秀勝は関ヶ原の合戦で東軍についたおかげで新発田藩領を安堵されることになりました。が、本丸の案内板では、戦国時代には新発田重家の居城であったとされています。
新発田城から南に1kmほど行ったところに、新発田重家の菩提寺・福勝寺があります。

福勝寺の新発田重家公廟。

寺の案内板にも説明されていますが、重家は織田信長と結んで上杉景勝に謀反を起こし、会津の蘆名家や米沢の伊達家の後ろ盾もあって6年ほどは持ちこたえたものの、新発田城落城と共に命を落とします。

福勝寺門前に据えられた新発田重家の銅像。
新発田城復元の会のWEBサイトが、新発田重家や溝口秀勝の事跡を詳しく紹介しています。
(2014年6月訪問)

【福島県会津若松市】飯盛山の悲劇と、不思議な形のさざえ堂

 飯盛山は白虎隊が自刃した悲劇の地として有名ですが、会津藩ゆかりの文物が他にもたくさんあります。

 飯盛山にある郡上藩「凌霜隊」の石碑。幕末に郡上藩を脱藩した47名が、小山、宇都宮、会津で明治政府と戦っています。会津落城後、生き残った藩士は郡上に護送され、たいへんな目に遭ったそうです。現在では地元の郡上八幡にも、ゆかりの会津にも顕彰碑を建ててもらっていますけれども。新撰組がクローズアップされがちですが、幕府歩兵隊とか中島三郎助とか、佐幕で頑張った人々はたくさんいるんですね。

 飯盛山に建つ、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争では、たくさんの女性が犠牲になっています。顕彰碑は山川健次郎が建てたようです。

 白虎隊士墓地から少し下ると、おもしろい建物があります。飯盛山中腹にある、さざえ堂です。正式名称は円通三匝堂。
 何がおもしろいかというと、三階建ての建物でスロープを上っていくのですが、登る人と下る人がすれ違うことなく、入口から出口まで一本道で行ける構造になっているのです。

 中に入ると、スロープが螺旋の形で伸びていきます。

 スロープを上って頂上に着くと、来た道を戻る必要はなく、さらに先に進めば降りる螺旋スロープが伸びています。行く人と帰る人が交差しないですむので、渋滞が起こらず、スムーズに参拝ができるという仕掛けです。また、入口から出口まで一本道になっており、重複がない巡礼の道としても優れています。構造はとてもおもしろいのですが、きちんと設計して作るのは大変そうです。
 さざえ堂はここ以外にも、日本各地にあります。高橋由一が美術館建設構想でさざえ堂式の螺旋構造を採用したのも思い出されます。

 さざえ堂の脇に穴が空いていて、水が流れ込んできています。戸ノ口堰洞穴です。

 案内板によると、猪苗代湖から会津盆地に水を引く用水堰です。会津盆地は水がなくて耕作に適していなかったのですが、この用水のおかげで潤うようになったのですね。
で、この洞穴は、白虎隊が逃走路に使ったことでも有名です。

 白虎隊士中二番隊は明治政府軍を迎え撃つために滝沢本陣から出陣しますが、激しい攻撃に曝され、いったん退却するために用水堰を利用します。飯盛山から鶴ヶ城を臨んだときに落城してしまったものと勘違いしたのは、連戦と空腹の疲れの上に、用水路の水に浸かった疲労が重なったせいかもしれません。

 飯盛山には、白虎隊記念館という博物館が建っています。自刃した20人からはぐれ、一人で退却していた隊員の酒井峰治が愛犬のクマと出会って無事に城に戻るという、奇跡のような話がありますが、その情景が銅像になっています。記念館には酒井の手紙等、白虎隊に関わる文物が展示されています。

 飯盛山を下りきった麓に滝沢本陣があります。戊申戦争時には会津藩の大本営として機能しました。白虎隊もここに待機しています。本来、白虎隊は前線で戦うことを想定されていなかったはずで、滝沢本陣で雑用を勤めるために配置されていたのではないかと思われます。が、想像以上に明治政府の進撃が早く(あるいは会津藩上層部の見通しが甘く)、白虎隊出陣の運びとなってしまいます。

 本陣には、戊申戦争時の弾痕や刀傷が生々しく残されています。

 麓から眺める飯盛山の全景。今は平和な観光地となっています。
(2014年9月訪問)

【神奈川県鎌倉市】円覚寺と東慶寺は、やっぱり梅が素敵

北鎌倉の円覚寺と東慶寺に行ってきました。
円覚寺には用事で行きましたが、ちょうど梅の季節なので、東慶寺にも寄らなければなりません。

円覚寺の梅は、盛りを過ぎている感じでした。

が、とてもいい香りがします。

円覚寺では、2011年東日本大震災の復興市も開催されていました。三陸のワカメを購入して、東慶寺へ。

東慶寺は、さすが梅の名所として名高いお寺だけあって、境内一円が梅の香りに満ちています。

梅の盛り。濃密な香り。

苔の緑に、梅の白がよく映えます。

かわいらしい。

東慶寺には、西田幾多郎、鈴木大拙、和辻哲郎など、私の研究テーマである「人格」について重厚な研究を残した先哲たちのお墓があります。先哲たちの霊に掌を合わせ、研究を頑張ろうと意を新たにしてきました。

ところで円覚寺では、横田南嶺老師の説教の後、小学生の時に震災で母親を亡くし、今は高校に通っている男の子の話を聞きました。被災者の話は、何度聞いても胸が詰まります。円覚寺からは彼に奨学金が出ています。数学と理科が好きで、将来は被災地で活躍するロボットを作りたいと話していました。とても頼もしいです。
円覚寺からの帰り際に、追悼と復興祈願の蝋燭を購入しました。夜、ローソクナイトの呼びかけに応じ、電気を消して蝋燭の明かりを灯しました。7年前は、「計画停電」でうちの電気も止まったんですよね。ローソクナイトとは、鎌倉宗教者会議(宗派を超えて神社・寺・教会が作った団体)が提唱している、東日本大震災復興のための試みです。蝋燭に描かれている模様は、三宗派を象徴する榊と蓮と百合が組み合わさったデザインになっています。
宗教家たちは、自分たちにできることをしっかり行動に移しています。蝋燭の炎の揺らめきを眺めつつ、教育にできることは何かと考えた時間になりました。
(2018年3/11訪問)

【千葉県木更津市】証誠寺のタヌキ、請西藩陣屋跡は強者どもが夢の跡

千葉県木更津市に行ってきました。
木更津までは、東京湾アクアラインができてからは新宿や東京からの高速バスが便利ではあるんですが、土日は新宿から「特急さざなみ」が直通しているので、今回は電車で。自由席でも座って行けます。

新宿から75分で木更津着。特急は速いですね。
で、駅を降りたとたん、やたらとタヌキ推しでした。マンホールの蓋も、タヌキ。証誠寺(しょじょじ)を観光の目玉として推しているようです。

駅前に据えられたタヌキのモニュメント。

木更津港の近くにある海鮮バーベキューの店頭にも、タヌキ。セルフサービスのバーベキューで、サザエとアワビをいただいてきました。

隣のみやげもの屋さんにも、大量のタヌキ。

港にも、タヌキ。

さらに海岸通りにもタヌキ。特産の貝と観光名物のタヌキを合体させたのは分かるけど、それにしてもビーナスの誕生て。どれだけタヌキ推しなんだ。

そんなわけで、証誠寺にやってきました。本堂脇の梅がほころび始めていて、とても清々しいです。

「証誠寺の狸囃子」は、明るく楽しい童謡だと思っていましたが。元の話は、なかなか悲しいことになっていますね。

境内にはタヌキを慰霊する「狸塚」がありました。

証誠寺を離脱して、駅の東側へ。
駅の東側の山の天辺には、歴史博物館があります。真里谷武田氏の動向とか、請西藩の幕末とか、上総掘りの展開とか、他の地域にはない展示が充実しています。目玉展示は、日本の古墳でここからしか見つかっていない金の鈴。たいへん立派なものでした。

山の上にはふるさと創生の一億円で作ったという展望台があったので、登ってみると、木更津市街を一望できる上に、はるか京浜工業地帯の工場群から立ち上る煙と東京湾を見渡すことができます。絶景。

博物館から1.5Kmほど南に行くと、請西藩陣屋跡があります。ここに来たかったんですよね。

請西藩陣屋跡には、現在は石碑が建っているだけで、跡形もありません。

案内板には、幕末の林忠崇の動向が少し説明されています。中公新書から出ている「脱藩大名の戊辰戦争―上総請西藩主・林忠崇の生涯 」という本がとても面白くて、興味を持ったのでした。昭和16年まで存命の、ラスト大名です。なかなかすごい人生。

案内板の裏には重機が入って、宅地造成大開発の真っ最中でした。真っ平らにされてしまって、当時を偲ぶよすがは、ほとんど残されていません。と思いきや。

陣屋跡の周りを探索していると、なかなか面白い地形にでくわします。たとえば上の写真は、虎口ぽい感じです。他にも、土塁の跡らしきものや、堀の形跡らしいものはたくさん見えました。これらも今後の大開発で消えていくんでしょうね。

陣屋跡から数百メートル北には、請西城の跡があるらしいのですが、行ってみてもほとんど形跡は残っていませんでした。上の写真は請西城の跡地周辺のはずですが、左側の断崖絶壁が要塞としての痕跡を残している他には、当時を偲ぶ手がかりは見つかりませんでした。

今回は真里谷城に行けていないので、また木更津には行きたいと思います。
(2018年2/3訪問)