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【感想】古代オリエント博物館「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」

 古代オリエント博物館で開催された秋の特別展「女神繚乱―時空を超えた女神たちの系譜―」を見学してきました(2021年12/3)。タイトルの通り、エジプトやメソポタミアやインドやギリシア・ローマから日本までの女神を一堂に会した展覧会です。有名でよく名前を知っているお馴染みの女神からよく知らない女神までたくさん紹介されており、楽しく観覧してきました。

 まず先史時代の女性像(土器が多い)が数多く展示されていましたが、感覚的に気になったのは、フォルムが二極化していたように見えたことでした。乳房や臀部をやたらと強調して造形している像があるのに対して、もう一方にはやたらと平板でほっそりしたフォルムの造形があり、なんとなく中間というものがないように感じました。地域性や歴史性を反映しているのか、あるいは展示物をチョイスした学芸員さんの意図なのか、よく分からないところではあります。が、一口に「先史時代の女性像」といってもいろいろあることはよく理解できます。

 歴史時代に入ると、名前がついてキャラクター化した女神たちが登場し始めます。ここで気になるのは、この展覧会のモティーフでもあるのですが、男性の神はわざわざ「男神」と呼ばないのに、女性の神はことさら「女神」と呼ぶという現象です。ただこれが古代から続く現象なのか、あるいは近代に入ってからの現象なのかは注意する必要があるのかもしれません。
 思い起こすのは、たとえばギリシア神話に登場するヘラがもともと母系制社会のギリシア各地で信仰を集めていた大地母神だったのが、権力の統合によって家父長制が発達する過程で、男神であるゼウスが神々の筆頭に祭り上げられて、それに伴ってヘラの権威が貶められたという説であります。(参考『ギリシア神話―神々と英雄に出会う』『古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて―』)。結局、ヘシオドスがギリシア神話古典の一つである『神統記』を記す頃には、ギリシア神話の中身は完全にマチズモとミソジニーで定着したように見えます。
 そしてまた思い起こすのは、日本における最高格の神が女神=天照大神であるということです。これもやはり、マチズモとミソジニーで膨れあがった江戸時代の朱子学において、「天照大神は男である、なぜなら最高神が女であるはずはない」という意見がむりやり罷り通った結果、アマテラスを男として描いた絵や文章が広く流通していたという事実です。本展覧会でもアマテラスを雨宝童子として描いてた図像が一幅展示されていて、見た目は男性に見える(と言いつつかなり性別不明の中性的)わけですが、なんでそうなっているかの解説はありませんでした。

 個人的に古代オリエントの女神でいちばん興味を抱いているのは、キュベレーです。興味関心を持っている理由は、もちろんハマーン様が専用機として乗っていたMSの名前に由来します。しかしこのキュベレーという神様、知れば知るほどわけのわからない神様で、いったい何をしたくてそうなっているのか、ますます興味関心を掻き立てるのです。が、残念ながら、本展覧会ではあまりフィーチャーされていなかったのでした。

【要約と感想】市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』

【要約】ユダヤ教について、歴史・信仰・学問・社会の観点から検討し、西欧キリスト教からの一方的な見解に基づく誤解と偏見を正そうという趣旨の本です。その誤解と偏見は、中世イスラム世界におけるユダヤ教を度外視することで、酷いものとなっています。
そもそもユダヤとは、religionの訳語である「宗教」という概念の枠で捉えられるものではありません。「宗教」とは西欧キリスト教をモデルとして構成された概念であって、それ以外の精神文化には当てはまりません(たとえば神道などにも)。ユダヤとは、トーラー(律法)に基づいて生活実践をすることです。なので、ラビ(経文を解釈する学者)の権威が高いという特徴があります。ユダヤ教では、自由な議論を通じて学ぶことが極めて重要です。中世イスラム世界で花開いた学塾の伝統は、近代以降も活きています。
しかし近代以降は、世俗化した国民国家との関係のなかで、「宗教としてのユダヤ=市民社会に帰属しながら信教の自由を享受する」なのか、それとも「民族としてのユダヤ=トーラーに基づいて日常生活を行なう共同体」なのか、アイデンティティの混乱と模索が続いています。

【感想】個人的な関心だけで言えば、「宗教の<教>」が「教育の<教>」でもあるということを再確認したという感じ。ユダヤ教の「教」は、まさしく古代中国で「教」という漢字が「教」となったことを体現しているように感じた。というのは、もともと「教」とは「人々に示された神様の指示」というような意味を持つ漢字であって、本書が言う「トーラー(教え)に従う生き方」そのものだ。であれば、確かにユダヤ教は著者が言うとおり「宗教(英語のreligionの訳語)」ではないが、間違いなく「教」ではあるように思う。
だから本書で強調されているように、「教育」が極めて重要な役割を果たすことになる。ユダヤ教では、自由な議論を通じて教義を研究することや、僅かな時間を見つけて自発的に学ぶことの重要性が強調される。それは「<教>=示された神の指示」の痕跡を拾い上げて、解釈し、再構成して、<教>としてもう一度語り直す行為だ。「教育の<教>」が「宗教の<教>」でもあることの積極的な意味を見たような気がする。「<宗教>ではないが<教>ではある」という理解は、ユダヤ教に限らず、実は普遍的にけっこう重要なことかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】
「中世」に関する、さらっとした記述には、ちょっと驚いた。本書には以下のような文章がある。

「本書では便宜的に、イスラム世界の出現をもって中世の始まりとする。」15頁

なるほど、こういう「古代→中世」理解の仕方があるんだと、目から鱗が落ちた気分だった。ユダヤ教の歴史を扱う本書では、この歴史観が極めて有効で、古代ではヘレニズムとの関係、中世ではイスラム教との関係、近代では世俗的国民国家との関係というふうに、問題の軸がかなりすっきりと整理できるのだった。

それから、中世の学者マイモニデスには、俄然興味が出てきた。

「マイモニデスによれば、この世に生を享けた人間はすべて、神の教えを実践することで「完全性」を達成する責務を負っている。完全性には身体的な完全性と精神的な完全性とがあり、事の性質上、身体的な完全性の後に精神的な完全性が置かれる。戒律は完全性の追求のために実践するもので、モーセの律法に明示されているか否かにかかわらず、すべての戒律には必ず根拠と目的があり、人間の完全性と対応している。」(115頁)

アリストテレスに影響を受けているだろうことが、この記述からもなんとなく分かる。「完全性」という概念は、アリストテレス『形而上学』で徹底的に追求されている。そしてそれは最終的には「一とは何か?」という問いに収斂する。私が研究のテーマとしている「人格の完成」は、まさにアリストテレスの言う「一とは何か?」という問いに響き合い、もちろんマイモニデスの言う「完全性を達成する責務」と重なり合う。マイモニデスの学的営為が、私の研究にも何かしらヒントを与えてくれるのではないか、という期待が芽生えている。

市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書、2019年

【要約と感想】伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス―政治と宗教のいま』

【要約】「ライシテ」とは、辞書的にはフランス革命後に成立した「政治と宗教の分離」と理解されていますが、ライシテの本質を個々人の信教の自由を保証するものと考えるか、逆に宗教を国家の管理下に置くものと考えるかで、支持層や社会で果たす役割がまったく異なります。
フランスの歴史をふりかえってみると、カラス事件、ドレフュス事件、ヴェール事件と、宗教的マイノリティに対する偏見に基づいた事件と、それに対するリベラルな立場からの反省が繰り返されています。単純に政教分離が成立していたわけではなく、生活に根付いた文化に対する宗教の影響についても繊細に理解する必要があります。具体的にはムスリムへの対応や、ムスリム自身の自己理解が参考になります。
ライシテは、決してフランスだけの問題ではありません。特に生活習慣や文化に根付いた宗教的儀礼に関する取り扱いについては、日本でも葛藤が見られるところです。

【感想】私が受け持っている教育概論でも、「ライシテ」の話をする。コンドルセの思想と絡めて公教育の原理について話をするときに、(1)学習権(2)教育費無償(3)ライシテの三原則について言及し、旧教育基本法第8条(政治教育)と第9条(宗教教育)の規定について説明している。
そんなわけで知識をアップデートしようという目的で本書を手に取ってみたわけだが、なかなか勉強になった。ライシテが現代社会で複雑な様相を呈していることも認識しつつも、教育と学校(つまり私の専門)にとっても相変わらず大問題であるとの思いも強くした。近年では「18歳選挙権」が実現される中、学校教育においてどのような政治教育を目指すべきかは焦眉の問題なのだが、これまでの教育で「個々人の信条の自由」を尊重する姿勢をとってこなかったツケが祟ってきたのだろう、「思想・信条を管理する」ような形での理解が目立つように思う。
ライシテを「多文化共生」と訳してみたらどうかという著者の結論には、深く頷く。「政教分離」という言葉では誤解しやすいようなニュアンスを、「多文化共生」のほうは上手に言い表しているように思った。

【眼鏡学に使える】本書の趣旨とはまったく関係ないのではあるが。公共空間でのスカーフ着用が宗教的かどうかが問題となった文脈で、以下のような文章があった。

「これに対し、サイード・カダは、スカーフは非ムスリムとのあいだに分断ではなく絆をもたらすと主張する。人間関係とはお互いの考えを交換することに基づいている。自分にとってスカーフは内面の延長で、自分を語ることに向けての跳躍台である。実り豊かな相互理解のためには、各人が等身大で受け入れられることが必要だが、自分としてはスカーフを外せば、自分ではないところの者になってしまう。相手との間に分断の壁を作ってしまうのはスカーフではなく、スカーフについての固定的な考え方である。むしろスカーフがあってこそ、より深い人間関係を築くことができる。」152頁

この文章の「スカーフ」を「眼鏡」に置き換えると、1970年代の少女マンガが繰り返し描いてきたモチーフをほぼ正確に言いあてるように思う。要するに、なにか普遍的な要点に触れた記述であるような感じがした。

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス―政治と宗教のいま』岩波新書、2018年

【要約と感想】青木健『古代オリエントの宗教』

【要約】現代の世界宗教は、『旧約聖書』→『新約聖書』→『クルアーン』という聖書シリーズ体系が席巻していますが、そうなったのは13世紀のことで、それまではメソポタミアやイラン高原を中心に、様々なアナザーストーリーや外伝が紡ぎ出されていました。グノーシス神話の体系を継ぐマンダ教やマニ教が聖書体系を大胆に改変したり、土着のミトラ教やゾロアスター教等が聖書体系に別伝として取り込まれたり、イスラム教シーア派がグノーシス精神を復活させたりと、13世紀までのオリエントは宗教的創造性に満ち溢れていました。

【感想】いやあ、知らないことばかりだった。勉強になった。
私が高校生の時に仕入れたマニ教やゾロアスター教に関する知識は、もう完全に古くなっているようだ。30年も経てば、これだけ学問が進歩するということだろう。
聖書シリーズ体系を軸にして、様々な個別宗教を「アナザーストーリー」と「サブストーリー」として体系に組み込む構想は、とても分かりやすかった。ガンダムシリーズの様々な作品を「宇宙世紀」を体系の軸にして位置づけると分かりやすいのと同じく。マニ教は、さしずめ「ターンAガンダム」のようなものだったのだろう。
ともかく「新世紀エヴァンゲリオン」にハマるような中二的な人に与えたら、宗教的情熱が芽生えるかもしれない一冊であった。

それから個人的には、後書きに感じ入った。3つの大学の講義での試行錯誤が土台となって、本書を構成する様々なアイデアが浮かび上がったということだ。率直に言って羨ましいのは、現在の教員養成系の講義は「コア・カリキュラム」などという名目で文部科学省から一定の枠を嵌められてただの再生産に貶められ、学問的な生産性など望めない形式に強制されているからだ。思い返してみれば、昭和初期の学者たちは、様々な学問的アイデアを講義の試行錯誤の過程で見出していた。私個人としては、本来の大学の講義とは学生とともに知的生産の過程に携わるものであると思っていたのだが、文部科学省はそうは思っていないらしい。大学での講義の試行錯誤が純粋な知的生産に結びつくのは、本当に羨ましい。私も、法的に課せられた空疎な枠そのものは崩せないとしても、その範囲の中で学問的生産性を上げていく努力をするしかないのではあるが。

青木健『古代オリエントの宗教』講談社現代新書、2012年

【要約と感想】本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』

【要約】地中海地域はもともと多神教の世界でした。特にイシス崇拝やミトラス教はローマ帝国各地に広がっていました。が、現在の地中海地域はキリスト教とイスラム教という一神教で覆われています。
一神教へと変化した根本的な原因は紀元前1000年あたりにあります。まず重要な原因は、アルファベットが開発されて多種多様な文字が少数の文字へと収斂していったことです。文字の少数精鋭化は、アレクサンダー大王やローマ帝国がオリエント地域を支配して数々の神が少数の神格へと統合されていく動きと並行して理解することができます。
もうひとつの有用な原因は、危機と抑圧です。アルファベットの発明によって文字文化が拡大し、音声文化が痩せ細ったことによって、それまで人間に聞こえていた神の声が聞こえなくなります。地域や都市固有の神から切り離されてグローバル化した世界で個人化・孤立化した人々は、従来の形式的な儀礼宗教には頼ることができず、内面の救済を強烈に求めるようになります。この内面救済の要求に応えたのがキリスト教でした。

【感想】新書だからこそ書けるような大胆な仮説が繰り広げられて、わくわくしながら読める本だ。逆に言えば、大胆な仮説に過ぎない記述も多いので、眉に唾をつけながら読まなければいけないものでもあるだろう。
たとえばユダヤ教の起源がエジプトのアクエンアテン宗教改革にあるという仮説は、著者ではなくフロイトが言い出したものだが、なかなか刺激的ではある。旧約聖書との記述とも辻褄が合ってしまいそうではあるが、史料に基づいて実証することはできず、なかなか扱いに困る。
それから本書の根幹をなす「アルファベットの発明と神々の習合」の議論については、なかなか刺激的ではあるが、もちろん史料に基づいて実証することはできない。文字体系を合理化しようという志向と神々の体系を合理化しようという志向が、果たして同時並行的に起こるものなのか、まず俄には首肯しがたい。まず単純に言って、日本中世で起こった神仏習合は文字体系の合理化と何の関連もないからだ。とはいえ、明治以降の神社合併と文字体系の合理化が、同じ根から起こっているように見えるのも確かではある。一つの刺激的な仮説として頭に置いておくことについては吝かではない。印刷術の発明が人類史を大転回させた議論等とも関連して、「リテラシー・イノベーションと人類史」の枠組で捉えるべき具体的テーマのひとつではあろう。
それから、宗教的情熱の興隆と性的抑圧の関連についての記述もあって興味深いのだが、あまりにもあっさりとしていて、いまいち具体性に乏しい。まあ、著者の別の本で補完できるので、ないものねだりをするところではないのかもしれない。宗教的情熱の盛り上がりによって性的表現が規制されるというストーリーは分かりやすいのだが、しかし「禁欲」思想はストア派やヒポクラテス由来のものもあるはずなので、そう単純に扱えない気もする。

全体的に、具体的な事実に基づいた実証的な記述を期待する本というよりは、ある観点からのストーリーを俯瞰的に楽しむために読む本だった。どちらも歴史にとっては重要である。が、具体的な記述に期待している向きには、同じ時代と地域とテーマを扱っている小川英雄『ローマ帝国の神々―光はオリエントより』のほうが役に立つかもしれない。

本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書、2005年