「城」タグアーカイブ

【兵庫県丹波篠山市】篠山城の堂々たる近世城郭っぷりを戦国山城八上城と比べたい

篠山城は、日本百名城にも選出されている、たいへん立派な、ばかデカいお城です。篠山盆地のド真ん中にあります。
この、盆地のド真ん中に位置しているということが、近世の城の機能と役割を考える上でとても重要な気がします。戦国の城と比較するために、ぜひ同じ篠山にある八上城とセットで見学したい城です。

篠山城は、三の丸に視界を遮る建物がまったくなく、二の丸の石垣を思う存分堪能できるのが大きな特徴かもしれません。

天下普請だけあって、たいへん見事な石垣と堀なわけですが。

こうして城(二の丸)の全景を眺めると、不自然なほど人工的にまっすぐであることが、改めて印象的です。

設計したのは城作りの名手と名高い藤堂高虎だそうですが、このシンプルな正方形の縄張を見れば、ナルホドというところ。

このまっすぐな正方形の作りからは、自然の地形を完全に無視して、すべて人間の意志で人工的に作ってしまおうという勢いを感じます。もともとは小高い丘だったようですが、原型を留めないほど徹底的に土木工事が施されたことでしょう。

自然地形を活かした中世山城が好きな手合いとしてはあまり感じ入らないわけですが、私が感じ入らないからといって城の客観的な価値が下がるわけではありません。

篠山盆地の中心地はそれまで盆地東端にあった八上城でしたが、慶長13(1608)年に松平康重が入封するのに伴って、徳川家の天下普請によって篠山城が築かれ、以後江戸時代を通じて地域支配の拠点となります。

戦国期八上城は、京都へ通じる街道の出入り口を見下ろす山の上に築かれていました。一方、篠山城は、自然地形を無視して、盆地のド真ん中、どこからも見える中心にどっしりと構えています。これが、「戦国の城=戦闘拠点」と「近世の城=政治経済の拠点」の決定的な違いの象徴のように思います。
波多野家が八上城に期待していたのは、篠山という領国を守りきることでした。しかし徳川家康が篠山城に期待していたのは、豊臣家包囲のための全国的な戦略の一翼を担うことでした。単に篠山盆地を守ればいいのではなく、大阪城を攻撃したり西国大名を牽制したりする広域拠点として期待されていました。すると、単に城自体の防御力が高ければいいというものではなく、四方に兵員や物資を供給する兵站基地や、あるいは指揮系統のハブとして役に立たなければ意味がないわけです。広大すぎる三の丸には、大量の兵員と物資を蓄えることを想定して、兵舎や倉庫が建ち並んでいたことでしょう。
盆地のド真ん中に位置する篠山城の不自然=人工的なまっすぐさは、広域戦略拠点として期待されていたことが具体的に形に現れたもののような気がするわけです。

さて、城の北側の大手口から攻め入ります。下の写真は三の丸北側から二の丸へ向かう端の入口です。

たいへん立派な食い違い虎口になっております。当時は立派な櫓門が構えられていたのでしょう。全体的にまっすぐで単調な縄張の篠山城にあって、三個所ある虎口の部分だけは相当に手が込んでいます。築城技術の粋が詰め込まれているのでしょう。馬出の跡もよく残っており、見応えがあります。堪能ポイントです。

食い違い虎口を超え、冠木門をくぐって二の丸に突入します。

築地塀の向こうに、立派な建物が見えます。昭和19年に消失したものの、平成18年に復元された「大書院」です。

大書院は、中に入ることができます。嬉しいですね。建物だけでなく、障壁画など内装もたいへん立派に復元されていて、見応えがあります。豪華絢爛です。

歴史的展示も充実しています。八上城や波多野家の歴史、明智光秀の丹波攻め、篠山城城主松平康重などについて学ぶことができます。

初代城主松平康重は、父親が実は徳川家康その人ではないかという疑いもかけられていますが、正式には松井忠次が父親ということになっています。この松井忠次は、鵜殿総領家の上ノ郷城を攻め落とした武将の一人で、私個人からすれば憎むべき相手ではあります。

さて、二の丸には、かつては大書院の他にも御殿があって、藩の政庁として機能していました。

しかし明治維新の時に御殿は破却されたもののようです。建物がどのように建っていたのか、平面表示の工夫がされています。

当時はさぞ立派な御殿が建っていたことでしょう。

現在は大書院だけ復元されていますが、たいへんありがたいことです。堪能しましょう。

さて、本丸は、二の丸の南東隅にあります。

幕府の命令で天守閣建築は中止され、規模を縮小して隅櫓が作られたようですね。

天守台に登って南東角に立ってみます。

水堀の水面まで、相当の比高差があります。落ちたら死ぬ高さです。絶対に夜に来てはいけない場所です。

二の丸を出て、三の丸を彷徨ってみますが、唖然とするデカさです。デカすぎます。三の丸の水堀が、またデカいです。

戦国山城の八上城に訪れた後だったから、さらにそのデカさに圧倒されます。戦国から近世への移り変わりを、これほど圧倒的な形で対比させてくれる地域は、そうそうないような気がしたのでした。丹波篠山、城マニアにとっては絶対に外せないところです。
(2016年3/25訪問)

ブロトピ:国内旅行

【兵庫県丹波篠山市】八上城は明智光秀に兵糧攻めで落とされた

丹波篠山市(たんばささやま)の八上城に行ってきました。

市内には代表的な近世城郭篠山城もありますが、八上城は戦国山城の面影を残しています。国指定史跡の、立派な城跡です。頂上まで約1km、45分の山登りです。

JR篠山口駅で借りたレンタルサイクルを山の麓に置いて、さっそくアタックです。

八上城は、戦国時代には丹波地方の国人領主である波多野氏が治めていました。織田信長の攻撃を何度も跳ね返した堅城です。

しかし最終的には明智光秀と細川藤孝に包囲され、兵糧攻めに遭って、落城しています。

地元の有志が建てたっぽい案内パネルには、明智光秀を卑怯者とディスって、地元国人領主である波多野氏をリスペクトするような文章が達筆で書き付けられております。

春日神社脇の登城口から攻め入ると、まず主膳屋敷跡に出ます。

ここには「八上城主前田主膳正」の供養塔が建っております。

前田主膳茂勝は、波多野氏が滅亡した後に八上城に入りました。関ヶ原では負けた西軍側に立ち、細川藤孝の立て籠もる但馬田辺城を攻めていますが、戦後も領土は安堵されます。ところがその後、発狂して、改易されたとのこと。前田茂勝本人はキリシタンだったようですが、供養塔は伝統的な五輪塔ですね。

1608年、茂勝改易後に篠山に入った松平康重は、近世平城として篠山城を築いたため、中世山城の八上城は役割を終えて廃城となります。
ちなみに松平康重は、家康の親類としての松平ではなく、もともとは「松井」の姓を持っていました。康重の父、松井忠次は、鵜殿長照が籠もる上ノ郷城を攻め滅ぼした武将の一人です。しかし一方、康重の実父は松井忠次ではなく徳川家康本人であったという説もあるようですね。

登山を続けると、下の茶屋丸に出ます。

視界が西側に広く開けていて、東西に長い篠山盆地を東端のほうから一望できます。普通のハイキングとしてもいいところですね。

さらに登ると、右衛門丸に。

石垣の跡が残っています。関東の中世山城にはなかなか見られない光景で、さすが近畿の城だと感心します。波多野氏時代のものでしょうか、その後のものでしょうか。

さらに行くと、三の丸。なかなか険しい傾斜ではありますが、しっかり整備されていてとても歩きやすいです。

続いて二の丸。

上の写真の奥の方に見える丘が、本丸です。

本丸は、面積としてはさほど広くないので、象徴的な意味合いが強かったかもしれません。実質的には二の丸が砦としての機能を担っていたのでしょう。

本丸には、波多野秀治の表忠碑が建っています。

正親町天皇即位の際に献金を行なったため、贈位されているようですね。

本丸にも案内パネルが立っています。

国人であった波多野氏は、管領を放逐したり、守護代を攻略したりと、まさに下克上を体現するような存在だったようです。三好長慶と抗争を繰り広げたり、織田信長が丹波に進出してきた際には明智光秀に従ったふりをした後に反抗してみたり、なかなか曲者のようです。が、一年半の攻城戦の後に光秀に敗れ、安土城下で磔に処せられて果てます。本能寺の変の3年前のこと(1579年)ですが、2020年度NHK大河ドラマ『麒麟がくる』ではどのように描かれるでしょうか。

八上城周辺にはたくさんの砦が築かれています。

篠山は丹波丹後と京都あるいは神戸を繋ぐ交通の要衝にあったため、盆地全体が要塞化されていた感じですね。
現在の篠山は、JR福知山線と舞鶴若狭自動車道が盆地の西端を南北に貫いており、八上城のある盆地東側は要衝から外れている感じもありますが、実は戦国期には盆地を東西に貫いて山陰街道(現国道372号)が通っていましたので、盆地東端にある八上城は京都への出入口を固める極めて重要な地政学的位置を占めていたはずです。

おそらく平時は麓の館に住んでいて、八上城は緊急時の後詰めの城として機能していたような気もします(実際、主膳屋敷跡は山の麓の春日神社周辺にありましたし)。

ところで、マンホールの蓋には各地の個性が出るのですが、八上地区のマンホールもなかなかです。

二匹のイノシシ、松、黒豆、ササユリ、そして山頂に天守閣(おそらく八上城を象徴)というデザインです。が、まあ、中世山城にこんな立派な天守閣が建っていたわけはないんですよね。ツッコミ失礼しました。
(2016年3/25訪問)

ブロトピ:国内旅行

【兵庫県伊丹市】有岡城本丸は伊丹駅から徒歩0分

有岡城は、JR福知山線伊丹駅西口を降りてすぐのところにあります。というか、伊丹駅を作るために有岡城本丸の東半分が破壊されてしまったといった方が正確でしょうか。
自然の地形によって交通の要衝となっているところに城が築かれるわけですが、もちろん鉄道を引くときにも交通の要衝を通らざるを得ないので、城跡となっているところは線路が引かれやすいところでもあります。長篠城や鉢形城など、城の中を線路が突っ切っているところはたくさんありますが、地形を考えれば当然であるとも言えます。

さて駅徒歩0分の史跡には、虎口らしきものが残されていて、有岡城を示す石碑も立っています。

ほんの少しだけ、石垣も残されています。

礎石建物や井戸の跡も残っています。

まあ、残っているものだけ見れば、たいしたことないように思えてしまうわけですけれども。

しかし実際は、もともとの有岡城は極めて広大な城でした。当時では珍しい「総構」だったようです。
駅の東の方には川を挟んでイオンモールがあるのですが、そこに辿り着くまでの橋の上から見ると、川面から本丸まで相当の比高差があって、当時は天然の要害であっただろうことが伺えます。

有岡城主の荒木村重は、もともと織田信長の部下で摂津方面攻略の主軸でしたが、天正6(1578)年に謀反を起こし、一年近くも立て籠もって対抗します。信長の攻撃を一年耐えるというのは、なかなかの堅城です。

まあ信長包囲網で毛利家や石山本願寺のプレッシャーがあって、信長としても村重だけを相手にするわけにはいかなかったという事情もありますが。
村重の説得に訪れた黒田官兵衛が一年間幽閉されたのは、2014年度のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも描かれて有名なエピソードですね。落城後の村重親族の悲惨な最期も印象的でした。村重自身は、本能寺の変で信長が死んだ後も生きながらえるという。明智光秀も説得に訪れているので、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも有岡城が描かれるでしょうか。

さて、戦国末期には有岡城は破棄されます。太平の江戸時代、伊丹は近衛家の領地となり、酒造りで栄えたとのことです。尼子の忠臣として高名を馳せた山中鹿之助の長男・直文が伊丹に落ち延びて清酒開発に成功し、鴻池財閥の祖となったとか。これもなかなか凄い話です。

大名の居城や天領(幕府直轄地)は地域の政治経済の中心として個性を強めていきますが、こういう公家や寺社の領地、あるいは一万石以下の旗本・御家人の領地は、なかなかこれといった個性が出にくいように思います。そんななか、伊丹は経済的にうまくやったような印象です。
(2013年8/26訪問)

【大阪市中央区】大阪城天守閣は微妙だが、大阪歴史博物館は素晴らしい

城マニアの間では、大阪城天守閣の評判はあまりよろしくありません。鉄筋コンクリートの復興天守であること自体は仕方がないとしても、外観はもうちょっとなんとかなったのではないかと。

というのは、豊臣の城なら黒くなければいけないはずなのです。松本城や熊本城の天守閣のように、黒いはずなのです。しかし大阪城は、中途半端に五層目だけ黒くて、四層目までは徳川の城のような白色となっております。白は、徳川の城のイメージカラーです。復興天守は、豊臣の城(黒漆)と徳川の城(白漆喰)とどっちにしたいのか、わけがわかりません。個人的には、どうせコンクリートの復興天守なのだから、豊臣の城として黒く統一したほうがよかったんじゃないかと思いますけどね。

まあ、そもそも現在の大阪城の縄張自体が豊臣期のものを反映していないことは、一般的にもよく知られている事実です。豊臣の臭いが残るものは大坂夏の陣の後で徹底的に破壊され、埋められて、その上に徳川家による大阪城が建て直されているわけです。

訪れたのは、ちょうど「大坂の陣400年」にあたる時期でした。

復興天守閣はともかく、石垣と堀はさすが、めちゃめちゃ立派です。圧倒的です。見応えがあります。

まあ、徳川家の普請なんですけどね。

大阪城の南西には「大阪歴史博物館」があります。その10階から大阪城を見下ろすことができます。実に大きい城です。

大阪歴史博物館の展示は、復元模型が豪華で、たいへん素晴らしく、見応えがあります。エレベーターで10階まで上って、最上階の古代から階を下るごとに現代に近づいてきます。

10階の古代でコーナーでは、難波宮に関する展示がとても素晴らしいです。窓の外に難波宮跡を見下ろせるのが、またすごい趣向ですね。

博物館地下には難波長柄豊碕宮の発掘調査跡がそのまま保存されています。難波長柄豊碕宮は、大化の改新の後に孝徳天皇によって造営された都です。たいへん立派な都で、実は大化の改新の中心人物は孝徳天皇だったのではないかという説(教科書的には中大兄皇子と中臣鎌足ということになっています)を唱える学者もいます。
地下遺構見学のとき学芸員さんに大化の改新についての見解を伺ったのですが、難波宮研究を踏まえたなかなか斬新な意見をお持ちの方で、スリリングでした。ともかく、大化の改新期には、大阪が日本の中心だったことに間違いはなさそうです。

復元した5世紀の倉庫を見学することもできます。

そんなわけで、大阪の歴史というと豊臣秀吉にスポットライトが当たりがちなのですが、歴史博物館ではきっちり古代における難波の重要性を強調していました。古代と言えば普通は奈良・京都とイメージしがちですが、実は大阪が内政的にも外交的にも極めて重要な鍵を握っていることは、もっと広く知られていていいように思いました。

また戦国期に関しても、秀吉以前の「石山本願寺」についての展示が充実していたのが印象的です。
大阪城が建つ前、同地には本願寺の本拠地である石山御坊が存在していました。織田信長が10年攻め続けても攻略できなかった大変な要塞です。海上からは信長包囲網に加わる毛利水軍の支援などもありました。大阪が南北に伸びた長い台地であり、その北端に石山本願寺(現大阪城)が建っていて、当時は台地の麓まで海が迫っていたことなど、よく分かる展示となっています。

石山本願寺推定地の碑が、大阪城公園内に立っています。

まあ豊臣徳川による土木工事で本願寺は徹底的に破壊されたので、ここに確実にあったという証拠はなく、大阪城一帯のどこかにあっただろうくらいではあります。

大阪がかつて宗教都市として栄えたことは、今や完全に忘れ去られてしまいました。

しかしまあ、豊臣秀吉は、考えれば考えるほどよく分からないキャラクターです。若いときのキレっぷりと晩年の老害っぷりの落差は、なかなか他に類を見ないように思います。
憎き徳川家康のイメージカラー白で輝いているコンクリート復興天守閣が、実は歴代天守の中で最も長持ちしていることに、秀吉は何を思うのでしょうか。
(2014年4/28訪問)

ブロトピ:国内旅行

【石川県金沢市】金沢城の本丸(尾山御坊跡)はワイルド

金沢城(尾山御坊)に行ってきました。
日本百名城にも選ばれている、実に広大で優雅な城なのですが、一面、ここほど本丸が観光客に無視される城も珍しいと思うのです。

観光客の大半は、兼六園の方から城に入ります。が、城マニアはもちろん大手門(尾板門)から攻め入りましょう。大手門は、兼六園の入口(南西)とは反対側(北)にあります。

大手門の枡形を形づくる石垣が、たいへん立派です。石が巨大。

大手門を抜けると、新丸に出ます。この新丸が、また広大です。

南の方(上の写真では左側)に菱櫓が見えます。鉛の白い瓦屋根で、格好いいです。新丸にも観光客はあまりいません。地元の方がのんびり犬の散歩しています。

新丸から河北門を抜けて三の丸に攻め上ると、兼六園方面の石川門から入ってきた観光客と合流し、賑やかになります。

石川門と枡形も、たいへん立派です。海鼠塀(瓦の目地に漆喰を塗りつけて食い違い格子模様になっている壁)が格好いいですね。

いちばん絵になるのは、三の丸から二の丸へ入る橋爪門でしょう。五十間長屋や続櫓の唐破風と相まって、美しい絵になります。石垣も、赤と青と白の石をうまく組み合わせて組んであって、綺麗ですね。

五十間長屋の中にも入ることができます。続櫓から橋爪門の枡形を見下ろすことができて、気分がいいです。

全員、鉄砲で狙い撃ちできますね。防御力の高い枡形です。

櫓から三の丸を見下ろします。広いですね。

写真中央にあるのは、河北門です。ここの枡形も強力ですね。

五十間長屋を降りて、二の丸を抜け、本丸に向かいます。そしてなぜか、本丸に向かうところで観光客がめっきり減ります。多くの人が二の丸から三の丸へ引き返していきます。

上の写真は、二の丸と本丸を隔てる空堀です。空堀に降りられるのが嬉しいですね(この空堀を真っ直ぐ進んでいくと玉泉院庭園に出られます)。右側が二の丸、左側の石垣の上が本丸です。写真中央の極楽橋を渡って本丸に攻め入ります。

本丸の案内パネルによれば、もともと「金沢御堂」があったとされています。石山本願寺と並ぶ、一向宗(本願寺)の重要拠点の一つです。「尾山御坊」とも呼ばれていますね。加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた通り、戦国初期には一向宗が大きな力を持っていた地域でした。

佐久間盛政が加賀に入城したとき、尾山の名が改められ、金沢城となります。金沢というと前田利家の印象が強いのですが、もともとは佐久間盛政の攻略地でした。前田利家が金沢に入るのは、賤ヶ岳合戦で佐久間盛政が没落してからのことです。そして前田利家本人は、金沢から尾山に名前を戻しているようですね。利家ゆかりの神社も「尾山神社」となっています。案内パネルではそのあたりの事情が省かれていますね。

さて、そんな本丸の案内パネルが設置されているのは、木立が鬱蒼と生い茂る中です。うーん、大自然。

金沢城の本丸は、ほとんど整備の手が行き届いていません。実は1995年まで金沢大学のキャンパスがあり、本丸は理学部の附属植物園として利用されていました。現在でも自然が豊かに残されており、城として整備するよりは街中の貴重な緑地として活かす方向で考えているようです。
そんなわけで、大半の観光客は本丸まで足を伸ばしません。

下の写真は、本丸の乾櫓跡から二の丸を見下ろしたところです。デカい城です。

本丸から三の丸に降りていくところの石垣も極めて壮大で立派ですが、やはり観光客はほとんどいません。

北西側から見る城の全景も雄大です。惚れ惚れする石垣です。下の写真は金沢城本丸の全景です。

かつてはここに築地塀や隅櫓も建っていて、壮観だったでしょうね。

さて、金沢城の見所は、まだあります。玉泉院丸跡に、たいへん美しい庭園が復元されました。

見所は、なんといっても石垣です。

長方形の石を縦に置くというのが、なんとも現代アート風です。キュービズムを彷彿とさせます。格好いい。

「色紙短冊積石垣」とは、名前も風流ですね。

しかしこんなに大きな城を抱え百万石を誇った加賀藩が、幕末維新期にほとんど存在感を示せませんでした。江戸時代を通じて事なかれ主義を貫いた結果、太平の世は無事に渡りきったものの、変革期には役立たずに終わってしまいました。歴史の教訓として興味深い事実です。金沢出身の哲学者、三宅雪嶺の話によれば、幕末の金沢は金沢でいろいろ大変だったことは分かりますけれども。
そんなわけで、ただの観光なら1時間もあれば十分ですが、金沢城=尾山御坊を本気で堪能しようとすると、朝から晩までかかります。それくらいする価値はあるだろう、とても立派な城です。
(2015年9/14訪問)

ブロトピ:国内旅行