【要約】人間にはもともと群れる本性がありますが、国家とはただの集団ではなく、ルールと利益を共有した人々が結合したものです。国家には王政・貴族政・民主政の三種類があり、それぞれメリットとデメリットがあります。どの形態が優れているかについてはプラトンの優れた論考がありますが、ローマという現実に存在する素晴らしい国家に即して考えるのがいいでしょう。いずれにせよ正義に基づいて公平に運営される国家が最高です。人間の人生は儚く、富も名誉も虚しいものですが、国家に忠義を尽くして貢献するのが最高に徳のある生き方です。
法律には実際的な市民法についても考える必要がありますが、理性が自然に基づいて見出すルールに則って考えるのがいいでしょう。
【感想】まあ全体的にはストア派らしい内容だったなあというところ。具体的にはローマの歴史と政体に関わって似たような人名が細々と挙げられ、率直に言ってあまりおもしろくない(あくまで個人的な感想です)。まあ、平民の味方をする護民官が気に食わないのはよく分かった。
キケローを読むときに注意が必要なのは、古典として本来的に持つ価値と、実際に誰に読まれてどのような影響を与えていたかを切り分けて理解しなければいけないところだ。本書は中世には失われていたが、アウグスティヌスを通じて間接的な影響はあった。「法」に関する考え方も、本書そのものが伝わっていなかったとしても、影響力は引き継がれていたと考えていいのだろう。
【個人的な研究のための備忘録】フマニタス
ルネサンス期になって再発見される「フマニタス」に関する言及があったのでサンプリングして多く。
もちろんここで言うフマニタス=人間性とは現代で考えられているような温かみというようなものではなく、言葉遣いや振る舞いや行動が文化的で洗練されていることを含意した貴族主義的な意味を持つ。本書(に限らずキケローの言動)は全体的に庶民を見下してバカにするような態度で一貫している。
【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
社会契約論的な発言をサンプリングしておく。
当時はもちろんエピクロス派の社会契約説はよく知られており、とりたてて創意のある発言というわけではない。またもちろん「自然権」という概念もないので、近代的な社会契約論に繋がるものでもない。というか、こういう権力論的な考え方自体は陳腐であって、社会契約論の本質を構成するようなアイデアにはならないことを確認しておきたい。
【個人的な研究のための備忘録】法律と法
lexとiusの相違について、註で言及があったのでメモしておく。
註「キケローが「法律(lex)」と「法(ius)」と言うとき、前者は法律、法則などの形をとって現れる「法」を指し、後者はかならずしもそのような形をとらない「法」、たとえば「慣習(mores)」を指す。キケローの考えによれば、「法(ius)」とは正しい行為のための規範(norma)である。これはあるときは法律、法則などの形をとって現れ、あるときは慣習などの形をとって現れる。」276-277頁
キケローの段階ではlexとiusは範囲が重なるような概念であったものが、近代のホッブズに至るとlexは「自然法」、iusはjusと形を変えて「自然権」と理解され、まったく異なる範囲をカバーする対立概念となる。問題はどうして分離したかという動因とプロセスだ。中世スコラ学の影響なのか、ゲルマン法の影響なのか。ともかく、近代的な「人権」の概念の誕生に関わって極めて重要な対象のはずなのだが、何を読んでも曖昧模糊としていてスッキリしない。
【個人的な研究のための備忘録】教育
教育に関する言及もメモしておく。
「第一に、彼らは自由な市民にたいし少年の教育――これについてはギリシア人は多くの空しい努力を払ったのであり、またこの点についてのみわたしたちの友人であるポリュビオスはわが国の制度の怠慢を非難している――を明確にし、あるいは法律によって定め、あるいは公開し、あるいはすべての者に等しくすることを欲しなかった。」178頁
「法律学者は(中略)教えることを知らないためか――じっさい、何か知っていることだけが技術でなく、教えることもなんらかの技術なのだ――」317頁
本書では「陶冶」という訳語も使われている。おそらくcultur系の言葉なのだろうと推測する。一方の「教育」はpaideia系の言葉だろうか。本格的な研究の時には原文ラテン語にあたらなければならない。