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【要約と感想】苫野一徳『子どもの頃から哲学者』

【要約】おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

【感想】いやあ、おもしろかった。一気に読んだ。感動した。いい本だ。
客観的に言えば、メジャーな哲学者の思想を要所でわかりやすく織り交ぜながら、それら哲学思想が他人事の空論などではなく、自分の人生の問いに深く関わっていることを示してくれる、実践的な哲学案内書ではある。が、過剰に溢れ出る実存的情念の渦が、単なる哲学案内書の枠を超えている。私もずっとマンガ家になりたかったのを、最終的に断念したのが修士2年の時だったからなあ。いやはや。

で、社会有機体論について。先日『どのような教育が「よい」教育か』の感想で、社会有機体論に対する構えが弱いことが気にかかるというようなことを書いたばかりだけれども。しかし本書を読むと、実は著者自身がもともと熱烈な社会有機体論者であり、いま打ち出されている個体論的世界観は転向後に培われたものであったという事情が、よく分かる。例えば以下のような文章がある。

「何もかもが、一つになって溶け合うイメージ。すべての感情を同時に感じたことで見えた「心」。そしてまた、すべての人類が互いに溶け合い、結ばれ合っていた「人類愛」。」(124頁)

もう、そのままドンピシャでなんの疑いもなく有機体論者だったわけだ。著者はこの有機体論的世界観を、哲学的思考によって乗り越える。その過程は感動的だ。で、感動的なのはともかく、論理的に言えば、『どのような教育が「よい」教育か』を読んだ時点では理解できなかったのだが、本書の記述を参照軸に組み入れると、どうして著者がモナド的世界観を無条件な前提にしつつも社会有機体論への構えを見せないか、その事情が極めてよく分かる。もともと著者が社会有機体論的傾向を持っていたところ、特異点(具体的には不可知論)との遭遇によって世界観が反転したという経緯がポイントだったわけだ。
著者がヘーゲルを推す理由も、なんとなく分かった気になっている。ヘーゲルの論理は、私の理解では、モナド的世界観と社会有機体論をダイナミックに架橋するという点で、確かに無比の迫力を持っている。社会有機体論から特異点を通じてモナド的世界へ反転するという著者の人生経験そのものが、モナド的世界から特異点を通じて社会有機体論へと反転するヘーゲルの弁証法的な記述に呼応しているような気がする。(ちなみにヘーゲルが用意した特異点こそ「家族」とか「子ども」であって、個人的には教育学という学問の拠って立つ論理的基盤はこの特異点にあるような気がしている)
180頁から記述される「青春三部作」の中身も、概要だけ見ても社会有機体論的な世界観であることがよく分かる。「生きながら全臓器を他人に移植する」(181頁)の下りは、もはや比喩でも何でもなく、そのまま「有機体」の話になっているし。
もともと有機体論者だった人が反転してモナド的世界観を体得したのであれば、おそらくもう一度反転して有機体論に戻ることは考えにくいところではある。敢えて有機体論に対する予防線を張っておく必要を感じないのは、こういう事情によるのだろう。

とはいえ、どこにどういう「特異点」が待ち構えているかは、人生、分からないものでもある。特にルーマンあたりは、恐ろしい特異点を用意しているような気もする。天皇制を無謬の体系とする日本論・日本人論が組み合わさると、なかなか手強い。日本の民主化に絶望してモナド論から社会有機体論に吸い込まれていった人たちは、けっこうたくさんいる。それこそ80年前の『近代の超克』とか。私個人としては、こっちへの予防線を張ることにエネルギーを費やしているうちに(岡倉天心や陸羯南の研究)、気がついたら本道で使うべき時間を失いつつあるという感じではある。著者には、余計な予防線を張ることにエネルギーを浪費することなく、本道で邁進してもらいたいと思ってしまった。

苫野一徳『子どもの頃から哲学者―世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!』大和書房、2016年

【要約と感想】クセノフォーン『ソークラテースの思い出』

【要約】ソクラテスは誤った裁判で無実の罪を着せられ、間違って処刑されました。ソクラテスほど敬虔で清廉で潔白で気高く立派に生きた人はいません。

【感想】プラトンの描くソクラテス像と比較されて、なにかと悪口を言われることの多いクセノフォンではあるが、実際に読んでみるとそんなに酷いわけではないことが分かる。むしろプラトンの方がソクラテス像を歪めていて、クセノフォンの方に真実があるのではないかと思わせる描写もあるくらいだ。まあ、どちらが正しいかは、今となっては分からないのだけれども。

ソクラテス像に関して、プラトンとクセノフォンの描写では主に4点の相違が目についた。すなわち、(1)家族軽視と家族重視(2)労働軽視と労働重視(3)本質主義と功利主義(4)普遍重視と活用重視の4点だ。

(1)家族軽視と家族重視
プラトンの著作に現われるソクラテスは、家族関係をそれほど重視しない。特に『国家』では婦人と子供の共有を主張し、家族関係の解体さえ主張している。しかし一方のクセノフォン描くところのソクラテスは、家族関係の大切さを説いている。(ただしプラトン初期対話篇の「エウテュプロン」では、家族関係を大切にする姿勢は見える)

「ところで、われわれは子供が親から受けているよりも、もっと大きい恩を人から受けている者を、ほかに見つけられようか。親のおかげで子供は初めてこの世に存在を得、親のおかげで神々が人間にお与えになった実にたくさんの美しいものを見、実にたくさんの善い事を楽しめるのだ。」78頁
「そして男は己れと協力して子供を作る相手を養い、いずれ生れるであろう子供のために生涯の利益となると考えるあらゆる準備をなし、しかもそれをできるかぎりたくさん用意するのである。」79頁

(2)労働軽視と労働重視
プラトンやアリストテレスは、消費生活に必要な労働に価値を認めない。それは奴隷が負担するべき作業だと考え、立派な市民は労働から解放されて観想的な生活を送るべきだと主張している。プラトン描くところのソクラテスも同様の主張を繰り広げる。一方、クセノフォン描くところのソクラテスは、生活に必要な金銭取得のための労働を積極的に推奨している。単に金を稼ぐために推奨するだけでなく、個人の精神的な幸福に加えて人間関係を円満にするためにも労働を推奨する。ヘシオドス的な労働観が表われているようにも読める。

「それでは、自由の身分でそして身内の者だというわけで、君は彼らが食べて寝る以外のことはしてならないと考えるのか。そしてほかの自由の身分の者で食って寝るだけの生活をしている者を、生活上役に立つ仕事を知っていてこれに励む者よりも、一層高等な生活、一層仕合わせな身の上と、君は見るのか。それともまた、怠惰と投げやりとは、知るべきことを学び、学んだことを記憶し、身体を健康かつ強壮ならしめ、生活に有用な物質を獲得してこれを貯えるのに、甚だ人間の役に立つが、勤勉と心遣いとはなんの役にも立たぬと、君は認めているのか。」
「怠けているのと、有益な仕事に励むのと、人間はどちらが一層分別があるのであろうか。仕事をするのと、怠けていて物質の論議をしているのと、どちらが一層まともな人間であろうか。」106-107頁

(3)本質主義と功利主義
プラトン対話編で活躍するソクラテスは、物事の本質をとことん突き詰めることによってソフィストたちの詭弁をやりこめていく。一方、クセノフォン描くところのソクラテスは、相手を説得する際、本質を追究するのではなく、功利主義的な理由を前面に打ち出してくる。たとえばデルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という箴言の解釈に対し、ソクラテスは「己の力量を弁えないと失敗する」というような、功利主義的な解釈を示す。研究者たちがクセノフォンよりもプラトンを高く評価するのは、こういった功利主義的な描写がソクラテスの本質を歪めていると見なされているからだ。
いちおう、本質を追究する姿勢は、クセノフォン描くところのソクラテスにも見ることができる。しかしその場合の本質とは、プラトンが掲げるイデア的な普遍不動の真実というよりは、常に人間の立場から見た本質だ。クセノフォンが描くソクラテスは、イデアリストではなく、プラグマティストである。

(4)普遍重視と活用重視
プラトンとクセノフォンが決定的に異なっているのは、知識に対する態度だ。プラトンは未来永劫絶対不変の確実な知識を追究し、数学に真理のモデルを見出した。しかしクセノフォン描くところのソクラテスは、あっさり数学的真理を放棄している。

「彼はまた、正しく教育された人間は、各々の問題についてどの程度までこれに習熟すべきかを教えた。たとえば、幾何学は、必要の生じた際に正確に土地を測量して、これを引きとり、または譲渡し、あるいは分割し、または資産を明示できる程度にまで、これを学ぶ必要があるといった。しかもその習得は大変容易で、測量に心をむける者は、土地のひろさがどれくらいであるかを知ると同時に、測量法の知識も得て来れるのであった。けれどもむずかしい作図の問題に入るまで幾何を学ぶことは、彼は賛成できないとした。なぜなら、一つにあこれがなんの役に立つとも思えないからだと言ったが、しかも彼自らは決して幾何学を知らぬものではなかったのである。しかし、もう一つには、彼の言うのに、この種の勉強が優に人間の一生をついやすに足り、それ以外のたくさんの有用な学問を全然さまたげてしまうからであった。」229頁

クセノフォン描くところのソクラテスは、数学は実際の経済活動に「役に立つ」から学ぶべきと主張し、それ以上の学習は無駄であると言明する。幾何学と同様に、天文学や算術も、役に立つから学ぶべきであって、それ以上の知識追究は意味がないと見なしている。
また例えば「善」に対して、プラトン描くところのソクラテスからは逆立ちしても出るはずがないセリフを吐く。

「そうすると、何のために善いものでもない善い事を知っているかとたずねているのなら、そんなのは私は知らないし、また知ろうとも思わん。」148頁

プラトン描くところのソクラテスが絶対的な普遍的真理を求めて「善のイデア」に辿り着くのに対し、クセノフォン描くところのソクラテスは、そんなものに微塵も関心を寄せない。徹底的に個別具体的な状況に寄り添って、人間の立場からの「善」を追究しようとする。

こうして見ると、プラトンの描くソクラテスは、やはり歴史的なソクラテスをそのまま再現しているというよりは、ピュタゴラス学派に数学的な真理観を学んだプラトンの立場を色濃く反映していると見る方が良さそうな気がする。本来のソクラテスは、やはり徹底的に「人間の立場」に立ち、神の視点に立つことを斥け、個別具体的な状況に寄り添う姿勢を貫いたのではないか。

ただし難しいなと思うのは、クセノフォン描くところのソクラテスはあくまでも「顕教」であって、プラトンは「密教」を伝えているのではないかということだ。もしもソクラテスが本当に個別具体的な人間の立場に立ったのであれば、クセノフォンに対してはクセノフォンの立場で理解できる範囲での働きかけに終始した一方、プラトンに対してはプラトンの個性に即した形で働きかけただろう。だとしたら、確かにクセノフォンが理解したソクラテスもソクラテスの真実の一面を表わしている一方で、プラトンが描いたソクラテスもソクラテスの真実の一面を確かに捉えていることになる。そしてクセノフォン自身が証言しているように、ソクラテスは幾何学や天文学や算術の深奥を極めることに意味がないと言いながらも、本人は実際には学問を修めているのだ。実際に幾何学や天文学の普遍的な真理の一端を理解していたとしたならば、プラグマティックなクセノフォンには活用的な知識観で以て働きかけた一方で、普遍主義的なプラトンには普遍的な真理観で以て働きかける能力があったことになる。

ともかく両者に共通しているのは、ソクラテスが信念の人であり、自分も他人をも裏切らず、最後の最後まで徹底的に誠実に生きた、希有な人間だったということだ。

あと、『弁明』において、職人たちが物事の普遍的な真実をまったく理解していなかったという話が出てくるが、プラトン対話編では分からなかったその具体的な対話の内容は、本書でしっかり確認することができる(155頁あたり)。

クセノフォーン『ソークラテースの思い出』佐々木理訳、岩波文庫、1953年

【要約と感想】キケロー『老年について』

【要約】歳をとることについて、世間の人々は厭なことと思っているようですが、実際はたいへん素晴らしいことです。が、素晴らしい老年を迎えるためには、若いころからの行いがとても大切です。

【感想】まあ、まだ私には早い話だったかな。壮年期のうちは、ばりばり働こう。で、この本は、ヨボヨボになって意気消沈している時に、もう一度読むことにしよう。とても元気が出そうだ。そういう意味では、この本の存在を知っていて、損はしない気はする。

【個人的な研究のための備忘録】
人生の諸時期を区分する様式について、老年を語る本書もやはり言及している。

「人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ。」10・33

人生の区分についてはアリストテレス等にも既に見えるわけだけれども、キケローの文章で特徴的なのは、所持期に特有の使命を想定している点かもしれない。単に時期を区切るだけでなく、エリクソンに通じるような「発達段階論」に足を踏み入れている感じがするわけだ。

また、プラトンの「想起説」について言及している部分があるけれど、プラトンよりもより直接的な表現になっていて、興味深い。

「人間が生まれる前から多くのことを知っているということの大いなる証拠を挙げるなら、子供でさえ難しい学問を学ぶ時、数えきれぬことがらをいとも迅速に了解するので、今初めて聞かされるのではなく、思い出し想起しているように見える、という事実がある。」21・78

ここでキケローが言及しているように、確かに子供でもけっこう難しい理屈をすんなり理解したりすることがある。この現象をブルーナーが捉えて主張したのが、「どの教科でもその知的性格をそのままに保って、発達のどの段階の子どもにも、効果的に教えることができる」という「教育の現代化」理論であった。この現象はおそらく「人間理性の共通性・普遍性」に基づいているわけだが、それが古代では「想起説」として表現されているのはノートしておきたい。

キケロー『老年について』中務哲郎訳、岩波文庫、2004年

【要約と感想】セネカ『怒りについて』

【要約】怒っても、いいことは何もありません。

【感想】まあ確かに、私が怒ることで学生が勉強するならいくらでも怒るけれども、私が怒ったところで彼らが勉強する気になるはずがないわけで。
個人的にはセネカは当たり前のことを言っているようにしか思えないわけだけれども、こういう文章を必要とする人もいるのでしょう。たとえば以下の文章なんかは、現代においても、twitter等ネット上の議論で白熱している人に対して、一言一句も変えずに適用できてしまうのであった。逆に言えば、人間、2000年ものあいだ全く進歩していないということでもあるのだった。

「あの議論では、君の語り方はかなり喧嘩腰だった。今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できず、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えられるかどうか、気をつけるがいい。良き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受け取るものだ。」3・36・4

【今後の研究のための備忘録】
子どもに関する記述は、なかなか興味深い。ギリシア時代の子ども観を引き継いで、子どもに理性を認めない立場が徹底されている。

「そういったものは、なんであるにせよ、怒りではない。怒りのようなもの、子供のそれのようなものにすぎない。子供は転ぶと、台地に懲罰の鞭がふるわれるのを願う。なぜ怒っているのかが自分でも分かっていないことも間々ある。ただひたすら怒るだけで、理由も不正もない。」1・2・5
「仮にもし怒りが善であったとすると、まさに完成に到達した人間にそなわることになるはずではないか。ところが、いちばん怒りっぽいのは幼児と老人と病人である。およそ、ひ弱なものは本性上、愚痴っぽい。」1・13・5
「こんな場合、行なっている人間の性格と意志を突きとめよう。子供だ。年齢に譲ってやれ。悪いことをしているか分からないのだから。」2・30・1
「怒りと不正に耐えるというのは、実は今、あなたがしていることなのだ。なぜあなたは病人の激怒、狂人の罵言、子供の無遠慮な手の悪戯に耐えているのか。言うまでもなく、彼らは何をしているのか分かっていないとみなされているからだ。」3・26・1

それから、人間の生まれつきの性格が変わらないことについて明確な表現があることは、押さえておいていいかもしれない。「氏か育ちか」という議論は教育学では宿命的に避けられないわけだが、セネカは「氏」を踏まえた上で「育ち」の意義を主張している。なかなかバランスがとれているようには思う。
また、性格そのものの形成について、セネカが環境決定論のような発言をしているのも押さえておく。

「最も大きな力をふるうのは習慣である。それが劣悪なとき、悪徳が養われる。自然を変えることは難しい。いったん生まれくる者の構成要素が混合されると、それを覆すことはできない。とはいえ、知っておくと役立つことはある。灼熱質の人から酒を遠ざけることなどだ。プラトーンは、子どもに酒を禁ずるべきだと考え、火を火で駆り立てることを禁じている。」2・20・2

また、教育に関しては簡潔な言葉しか残っていないものの、なかなか含蓄が深い。極端に偏らず、バランスを取ることを重視している。

「私は主張するが、子供を早いうちから健全に躾けることこそ、何よりもためになる。だが、その舵取りは容易ではない。というのも、彼らのうちに怒りを養わないよう、同時に素質を鈍らせないよう努めなければならないからである。事は細心の配慮を要する。持ち上げるべきものも抑えつけるべきものも、似たものによって育まれる。そして、似たものは注意深い者をすら容易に欺くからである。覇気は放任によって増大し、隷従によって減少する。褒められれば立ち上がり、自信へとつながっていく。けれども、同じそのことが増長と怒りやすさを生み出す。だから、ある時には馬銜を、ある時には拍車を用いるようにして、両者のあいだを巧みに操縦していかねばならない。」2・21・1-3

セネカ『怒りについて 他二篇』兼利琢也訳、岩波書店、2008年

【要約と感想】セネカ『人生の短さについて』

【要約】無意味に長生きすることに、なんの意味もありません。真に「生きた」と言えるためには、意味のある人生を送らなければなりません。そしてそれは、「死に様」に現われます。だから、つまらない他人に人生を振り回されず、貴重な時間を自分自身のために使うべきです。本当の幸福とは、私が私自身であり続けることにあります。そのためには、自分が「死すべき運命にある」という必然を認識し、受け入れることが肝要です。

※2008年に改訳されましたが、学生のときに買った旧訳で読んでいます。

【感想】事実を積み上げて帰納的に論理を構築していく類の言論ではなく、あらかじめ結論が決まっていて、各事例を演繹的に斬っていくという類の言論だろう。そういう意味では、哲学的な緊張感をさほど感じない本ではある。

 とはいえ、一定程度完成した論理体系の完成度と射程距離を測定するという意味では、充分に機能してもいる。ストア派の論理から導き出される人生観と世界観について、具体的によく分かる本でもある。

 簡単にまとめると、セネカの言う幸福とは「わたしがわたしである」ということに尽きる。だが、これを実践するのはとても難しい。名誉や財産などを追い求めることは、他人のために人生を浪費することであって、わたし自身を失っていく愚かな行為だ。「わたし」とは本質的に「死すべき存在」だ。「死すべき存在」としての在り方を突き詰め、その本質を受け入れることが、平静であるということであり、自由ということであり、「わたしがわたしである」ということだ。その境地に達している人間を賢者と言う。
 なるほど、まあ、ひとつの卓見ではあると思う。だがそれは絶対的に無矛盾なのではなく、「死」という特異点を軸として構築された仮構的に無矛盾な体系ではある。これを受け入れるためには、「死」というものを特異点として無条件に受け入れるだけの覚悟と度量が必要となる。この姿勢を得ることがそもそも「死すべき存在」である人間には極めて難しいわけだが。

【個人的な研究のための備忘録】
 ところでセネカは、「自由」に関して、なかなか興味深い文章を残している。

「しかしソクラテスは市民の中心にあって、時世を嘆いている長老たちを慰め、国家に絶望している人々を勇気づけ、また資財のことを憂慮している金持ち連中には、今さら貪欲の危機を後悔しても遅すぎるといって非難した。さらに、かれを見習わんとする人々には、三十人の首領たちの間に自由に入って行って、偉大なる模範を世の中に示した。にもかかわらず、この人をアテナイ自身が獄中で殺した。僭主たちの群をあざ笑ってもなお安全であったこの人の自由を、自由そのものの力で持ちこたえることはできなかったのである。」pp.81-82

 この文章には、自由のアポリアが示されている。自由を破壊するのは自由である。こういう意味での「自由」は、人間の尊厳をも自由自在に破壊して恥じるところのない新自由主義者たちが掲げる「自由」に相当するものと言える。
 しかし同時に、セネカは以下のようにも言っている。ここで言われている「自由」は、上の新自由主義的な「自由」とはずいぶん違うように読める。

「宇宙の定めの上から堪えねばならないすべてのことは、大きな心をもってこれを甘受しなければならない。われわれに課せられている務めは、死すべき運命に堪え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない。我らは支配の下に生まれついている。神に従うことが、すなわち自由なのである。」p.149

 このような「自然を認識し、それに従うことが自由」という自然主義的な「自由」は、近代に入ってからもヘーゲル等の言葉に見ることができるだろう。

 また、「自分自身と一致する」ことに対する徹底的なこだわりも、印象に残るところだ。「個性」概念や「アイデンティティ」概念について考える際に、ストア派的伝統をどの程度考慮に入れるべきか、ひとつの参照軸にできるように思った。

「しかし自分自身のために暇をもてない人間が、他人の横柄さをあえて不満とする資格があろうか。相手は傲慢な顔つきをしていても、かつては君に、君がどんな人であろうとも、目をかけてくれたし、君の言葉に耳を傾けてくれたし、君を側近くに迎え入れてくれたこともある。それなのに君は、かつて一度も自分自身をかえりみ、自分自身に耳を貸そうとはしなかった。だから、このような義務を誰にでも負わす理由はない。たとえ君がこの義務を果たしたときでも、君は他人と一緒にいたくなかったろうし、といって君自身と一緒にいることもできなかったろうから。」p.13
「ルクレティウスが言うように、誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとするのである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない――われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。」p.74

 ルクレティウスを引用していることからも分かるように、ストア派といいつつも、けっこうエピクロス派の論理に親和的でもある。
 ちなみにセネカがこのように「自分自身」との関係性にこだわるのは、「理性」と「神」との類似性に由来すると思われる。

「理性は感覚に刺激され、そこから第一の原理を捕えようとしながら――つまり、理性が努力したり真理に向かって突進を始める根拠は、第一の原理以外にはないからであるが――そうしながら、外的なものを求めるがよい。しかし理性は再び自らのなかに立ち帰らねばならない。なぜというに、万物を抱きかかえる世界であり宇宙の支配者である神もまた、外的なものに向かって進みはするが、それにもかかわらず、あらゆる方向から内部に向かって自らのなかに立ち戻るからである。われわれの心も、これと同じことをしなければならぬ。心が自らの感覚に従い、その感覚を通して自らを外的なものに伸ばしたとき、心は、感覚をも自らをも共に支配する力を得ることになる。このようにして、統一した力、すなわちそれ自らと調和した能力が作り出されるであろう。そして、かの確実な理性、つまり意見においても理解においても信念においても、不一致も躊躇もない理性が生まれるであろう。この理性は、ひとたび自らを整え、自らの各部分と協調し、いわば各部分と合唱するようになれば、すでに最高の善に触れたのである。(中略)。それゆえ大胆にこう宣言してよい――最大の善は心の調和である――と。」p.136

 このような「再帰的な理性」という存在の在り方が、動物など他の存在にはありえない人間独自の在り方であり、人間と神との相同性を主張する理論的根拠ともなる。
 セネカの文章では、この「再帰的」な在り方の記述は徹底せず、論理がすべって一目散に「調和」のほうに流れている。このあたり、いったん自分の外部に出て、再び自分に返るという理性の運動については、ヘーゲル『精神現象学』が執拗に記述することになるかもしれない。そのときは、セネカが言うような「調和」ではなく、矛盾と闘争の果ての総合が問題となるだろうけれども。

 ところで、我が日本にもセネカと同じようなことを言っている先哲がいたことは記憶されて良いかもしれない。江戸時代初期の福岡の朱子学者・貝原益軒は次のように言っている。

「かくみじかき此世なれば、無用の事をなして時日をうしなひ。或いたづらになす事なくて、此世くれなん事をしむべし。つねに時日をしみ益ある事をなし、善をする事を楽しみてすぐさんこそ、世にいけらんかひあるべけれ。」貝原益軒『楽訓』巻上

 あるいは両者を比較して、セネカが「死」を思ってとかく悲観的なのに対し、益軒が「楽」を思ってとても楽観的なことについては、考えてみると面白いかもしれない。

セネカ『人生の短さについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年