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【要約と感想】藤沢令夫『プラトンの哲学』

【要約】プラトン思想の核心は徹底的にイデア論である。

【感想】イデア論に関して、個人的には「広義のイデア論」と「狭義のイデア論」があって、後期プラトンで放棄されたのは狭義のイデア論の方だって見えていたわけだけど。まあ大雑把には、そんな見え方で問題ないことは確認できた。が、具体的な論理展開に関しては、ずいぶん勉強になった。

本書は、認識を成立させるために不可欠な根拠としてイデア論が要請される、と考える。経験の総和としては不可能な「先験的な総合判断」というものが成り立つためには、どうしても論理的にイデアという概念が要求されねばならない。そしてこのイデアは、「存在」の体系などではなく、「価値」と「意味」の体系として経験的な知覚を成立させる基盤となる。そしてこの体系に説得力を持たせるためには、認識論から「主語となる個物」を消去する手続きが必要となる。

もう、なるほどなあと。これならイデア論が、確固とした認識論を伴いながら成立する。後期で放棄されたのは、「分有」という述語を伴った狭義のイデア論ということになる。そして、イデア論は現象学と相性がいいという印象がさらに強まった。とても勉強になった。

藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書、1998年

【要約と感想】納富信留『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』

【要約】プラトンの本から有益な何かを一方的に教えてもらおうとしても、得るものはありません。プラトンとの対話の渦に巻きこまれることで、問いの本当の意味が初めて見えてきます。ということで、実際にプラトンと対話してみました。

【感想】「入門書」と銘打ちながら入門書らしからぬ著作が散見される中、本書はしっかりプラトンの著書の概要を伝えていて、なかなか入門書らしい体裁を取っているように思った。しかし一方で、入門書だからこそできる(つまり学術的な手続きに即した論証なしの)意見も前面に出てきている。著者のスタイルは、対話篇が対話篇である本質的な意義を土台に据えているところにある。たとえばその意識は言語論に対する丁寧な扱いに垣間見える。「イデア論」を絶対的な真実と単純に決めつけるのではなく、どうして「イデア論」が必要となるかを、奥歯に物が挟まったような回りくどい言い方を積み重ねて説明していく。

イデア論には明らかな論理的欠陥があって、プラトン自身もそれを認めている。しかし一方で、プラトンにつきあっていると、それでもやっぱりイデア論は必要だと思ってしまう。その行き詰まりと粘り強くつきあうこと自体が重要な哲学的営為なのであって、たとえばイデア論をズバっと単純明快に説明することにはおそらくあまり意味はない。そういう意味では本書は通常の入門書とは言えない書き方になっているが、そもそもプラトンに通常の入門書を求めること自体が原理的に不可能だとも言える。そういう逆説に果敢に挑んだ入門書だと思うのがよいかなあと。

納富信留『プラトンとの哲学―対話篇をよむ』岩波新書、2015年

【要約と感想】竹田青嗣『プラトン入門』

【要約】現象学的な知見を踏まえてプラトン思想(特にイデア論)を捉え直してみると、よくあるプラトン解釈が間違っていることが分かります。

【感想】プラトンが諸イデアの頂点に置いたのが、「真のイデア」ではなく、「善のイデア」だったことは、イデア論を理解する上で決定的に重要な事実だ。世界は「真実」の体系ではなく、「価値=善さ」の体系である。世界は認識の対象ではなく、我々が善く生きることで本当の姿が明らかになるような何ものかである。著者は、こういうことを現象学の術語を用いながら表現していく。なるほどなあと思った。「善のイデア」という概念と現象学の相性は、とてもいいかもしれない。あるいは物語(ミュートス)という語り口と、本質直感という方法の相性とか。そこそこ現象学に関する予備知識を必要とするこの内容は、まあ、入門書ではないだろう。だが、それがいい。

そんなわけで、「入門」と名のつく本にありがちなわけだが、「入門」という体裁をアリバイとして、専門論文としては論証が難しそうな独創的な見解が、確固とした根拠なしに全面的に展開されている。だからというかなんというか、他のプラトン入門書の類では、本書は参考文献として言及されない。プラトン研究体系の中に位置づけるのが難しいのか、単にハブられてるだけか。

あと、本書では数々の思想家の名前が挙げられるけれども、名前の出なかったマックス・シェーラーはどう思われているのか、多少気になった。価値の体系という観点からは、言及が避けられない人なような気はする。

竹田青嗣『プラトン入門』ちくま新書、1999年

【要約と感想】納富信留『プラトン 哲学者とは何か』

【要約】安全地帯に留まったままプラトンから何か有益な知識を得ようと思っても、何も起きません。主体的にプラトンとソクラテスの謎に巻きこまれ、自分の生を問い直すことによって、初めてプラトンを相手にする意味が生じます。だから、従来の入門書が扱ってきた魂の三分説のようなトピックは敢えて無視しました。

【感想】テキストそのものに沈潜するのではなく、プラトンの個人史に寄り添いながら主張を噛み砕いていくという、思想史として王道のスタイル。だが、プラトンが相手では思想史の王道スタイルは成立しにくいらしく、多くの研究者は口を濁してテキストに耽溺するしかないと宣言する。本書は、いっさい言い訳じみた逃げ道を用意せず、敢えてドまんなかの王道で突き進んでいって、とても清々しい。

本書がプラトンを読み解く際、「ギャップ」という言葉がキーワードになっている。対話篇は、様々な登場人物たちの考え方のギャップを際立たせる手法となる。そのギャップから、哲学が立ち上がってくる。洒落た言い方をするなら、間主観性から意味が生まれる、なんて言うところだろうか。

このギャップは教育を成立させる条件でもある。教育とは、知識をモノのようにやりとりする技術のことではない。教育とは、真実の方向へ魂を向け換えることだ。そして人々が「政治」と呼んでいたものは実は「政治」と呼ぶに値するものではない。人々の魂を向け換えること、すなわち教育こそが「政治」と呼ばれるにふさわしい唯一の仕事となる。プラトンは人々が「教育」とか「政治」と呼んでいたものを、それぞれ偽物と見なした。

だから、プラトンの議論が「教育論なのか政治論なのか」と議論することそのものが見当外れとなる。それは世間の人々が言っているような俗論教育論でもなければ俗論政治論でもない、まったく別の何ものかだと言うより他ない。私の立場としては、その何ものかを敢えて「教育」と呼びたいわけだが。というのも、ギャップある対話者同士の間に成立している関係は、「政治」というよりも「教育」と呼ぶにふさわしいという直感があるからだ。この直感は、私が時間をかけて具体的な形にしていくしかない。

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』NHK出版、2002年

【要約と感想】ジュリア・アナス『1冊でわかるプラトン』

【要約】プラトンを読む際には、「対話篇」という形式が持つ意味に着目する必要があります。プラトンは自分の哲学的見解を押しつけるのではなく、読者を対話そのものに巻き込むことを目論んでいます。なぜなら、知識とは、人から教えられて簡単に分かるものではなく、自分で真剣に努力して取り組んだ時に初めて理解できるようなものだからです。だから「イデア論」も、プラトンの最終論理として確定してしまうのは好ましくないでしょう。

【感想】イデア論を確定的な理論と認めるべきでないという見解には、かなり共感する。一般的な教科書では、『国家』とか『パイドロス』で見られるような確固としたイデア論こそがプラトン固有の見解であると確定的に言及されることが多いけれども。個人的にはなかなか同意しがたいものがあった。思うに、ただ一つ確実なことは、プラトンが「正真正銘本物の善は絶対にある」と信じていたことくらいだろう。で、実際のところそれが何なのかということについては様々な角度からの探求の過程が続けられ、イデア論は中でも有力な仮説ではあったものの、最後まで決着はついていないと考える方が正確だろう。逆に、イデア論がなくとも、「正真正銘本物の善は絶対にある」という信念は成立する。

それを指示する証拠が、プラトンが徹底的にこだわった「対話篇」という著述形式となる。正真正銘本物の善には、ディアレクティケーという哲学固有の方法でしかたどり着かない。その方法論に対する信念が対話篇という具体的な形になって現れている。とすれば、プラトンを読み解く上で唯一確実な土台となるべきは「対話篇という形式」そのものであって、イデア論という確定的な形で言及されたわけではないような考えではない。読者は、プラトンから確固とした知識を教えてもらう客体ではなく、ディアレクティケーに巻き込まれながら自分自身で善を見出す主体となることが期待されている。そのときにはプラトンそのものも客体ではなくなっているだろう。

ほか、本書はプラトンとジェンダー論という、なかなか他では見ないような主題も前景化されていて、単なる初心者向けの案内を越えているような感じがした。

ジュリア・アナス『1冊でわかるプラトン』岩波書店、2008年