「哲学」タグアーカイブ

【要約と感想】飯田隆『新哲学対話―ソクラテスならどう考える?』

【要約】ソクラテスを対話の登場人物にして、現代哲学の諸問題に取り組んでみました。哲学は、教室の中の難しい言葉ではなく、日常の言葉で充分に成立します。

【感想】ソクラテスそのものを扱った本かと勘違いしてタイトル買いしたけれど、中身はまるで違った。ありがたいことに、とてもおもしろく読めた。タイトル買いも、たまには必要だ。

扱っているテーマは4つ。人工知能や、意味論と統語論の関係や、不完全性定理など、現代哲学の古典的な題材だ。個人的にはまだまだ不案内な領域であって、勉強にもなった。著者には「啓蒙」の目論見があって書いたそうだが、私個人に対してはその目論見が上手に当たったと言える。

個人的な関心から言えば。数学的理性の限界についてプラトンもアリストテレスもそこかしこで言及しているように思うので、彼らの言う数学的理性の限界と、現代哲学で言う理性の限界が同じものなのか違うものなのか、違うとすればどこがどう違うのかについて、専門家の見解を聞いてみたいところではあった。まあ、ないものねだりをしても仕方がないので、自分で勉強するしかない。

まあ、とてもおもしろく読んだ。巻末の註のトボケ具合も含め、ちゃんとプラトンを読んでいる人にだけ分かるようなギャグが全編に散りばめられていて、なかなか笑える本だった。

【眼鏡学へ向けて】
読んでいる最中に、眼鏡学に向けてのインスピレーションも与えてもらった。やはり「矛盾律」と「排中律」についてしっかり考えることが、眼鏡学完成のための肝になる。
というのは、数学的理性の限界とは詰まるところ「ある/ない」の二値的思考(あるいは分節的思考)の行き着く先にあるものであって、それは眼鏡学的に言えば「かけている/かけていない」の二値的思考が最終的に行き詰まるしかないことの理論的表現なのではないかと思えてしまうのだ。この二値的思考を超えていくものとして、一方にヘーゲル的な弁証法の思考があり、もう一方に仏教的な「空」の思想がある。あるいは斜めにはアリストテレス的な知慮(フローネシス)の領域がある。眼鏡学的な「かけている/かけていない」の矛盾を論理的に見つめる上で、数学的理性「ある/ない」の二値的思考の行き詰まり方は、無関心ではいられないのだった。

飯田隆『新哲学対話―ソクラテスならどう考える?』筑摩書房、2017年

【要約と感想】高橋健太郎『振り向けばアリストテレス』

【要約】アリストテレスが現代日本に甦ったら、一人の眼鏡っ娘が幸福になった!

【感想】とても良かった。感動した。なによりも良かったのは、眼鏡っ娘が幸福になったことだ。本当に良かった。眼鏡っ娘が獲得したのが正真正銘の紛れもない「本物の幸福」であることは、私の主観などではなく、本書が客観的に証明してくれるのだ。こんな構成の本、他にない。猛烈に感動した。

そして本書が「感動的」な理由も本書自体が客観的に解説しているという、メタ・フィクション的に恐るべき離れ業が見られるのであった。ネタバレになるので詳細は書けないのだが、「認知と逆転が同時に起こるのが最高の悲劇」という『詩学』の教えを、本書自体が見事に再現しているのだ。すげえ。最後の眼鏡っ娘の「認知」を示すセリフと、「認知」そのものが「逆転」を引き起すという「筋」の見事さと、それに対するアリストテレスの返答および態度に見られる「性格の一貫性」には、本当に泣かされてしまった。素晴らしかった。

アリストテレスの性格の一貫性についても、読み始めたときは「アリストテレスの性格描写がえらくステレオタイプだなあ」などと思ったのが、それすらも最終的には整合的に説明できてしまうし。読み終わってから書籍内書籍の表紙にかかった帯を見て、ニヤリとできるし。いやあ、まいったなあ。

【眼鏡学への示唆】
そして本書は、私の「眼鏡学」に対するインスピレーションにも多大なインパクトを与えてくれた。やはり眼鏡っ娘を理解するためには、アリストテレスの理論が強力な示唆を与えてくれることが確認できた。特にアリストテレス『形而上学』に見られる「可能態から現実態へ」「存在の四原因」「形相と質量」といった諸概念は、眼鏡っ娘を理解するうえで決定的に重要な役割を果たす。プラトンの「イデア論」では行き詰まるしかなかった眼鏡論が、アリストテレスの論理によって駆動する。

高橋健太郎『振り向けばアリストテレス』柏書房、2018年

【要約と感想】菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』

【要約】アリストテレスの狙いは「徳の論理的基礎づけ」ではなく、「道徳的発達論」にあります。

【感想】ニコマコス倫理学は教育学の本だったのか! という、目から鱗を落としてくれた本。続編の『政治学』がほとんど教育学の本であることについては私も声高に主張したわけだけど、そんな牽強付会な私ですらニコマコス倫理学を教育学の本とは読んでいなかった。なんたる不覚。アクラシアをめぐる考察を発達論的に読むとニコマコス倫理学の構造が分かりやすくなるとは、言われて初めて気づいたけれども、言われてみれば「そりゃそうだ」って感じだ。

しかし『ニコマコス倫理学』に対する私の感想文を読み直してみると、教育に関わるところにはしっかり反応していて、徳に対する教育可能性とか習慣づけの意味についてはちゃんと引用してあったりする。それにも関わらず、全体を通じて教育学として理解する視点を持ててないとは、いやはや、先入観って怖いなあ。

ともかく、教育学者の私としては、本書を「完成した人格を対象とした倫理学の論理的基礎づけ」ではなく「人間の教育可能性の追究」として読む態度に、激しく同意なのだった。自分の不明を明確に認識させられた点で、読んで良かった一冊であった。『ニコマコス倫理学』本体も読み直さなくては。

菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』勁草書房、2016年

【要約と感想】八木雄二『哲学の始原―ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』

【要約】西洋哲学には大きく分けて3つの流れがあります。すなわち、(1)ソクラテスによる「無知の自覚」(2)プラトン・アリストテレスの「感覚を超越した理性」(3)エピクロス等の「自然/倫理」の3つです。ヨーロッパ中世キリスト教が引き継いだのは「2」の流れだったため、日本人など「3」の伝統に馴染んでいる人々には分かりにくいものがあります。
で、問題は「1」のソクラテスが実際に何をやっていたかですが、単に個別の「無知」を扱ったのではなく、人間として避けられない普遍的な「無知」を扱ったところが、イエスや仏教の思想などと通底する、極めて重要な論点です。

【感想】哲学入門書と銘打ってはいるけれども、実際には本人が哲学しているような本だった。まあ、哲学入門書を銘打つ本にはよくあることではあるし、いいことだとも思う。入門書としての特徴は、キリスト教神学の形成など中世の入口の描写に厚みがある点だと思う。タレス~アリストテレスで終ってしまう概説書がけっこうあるけれども、本来ならその後の新プラトン主義とかアウグスティヌスまで行って、ようやく全体像が朧気ながら見えてくるように思う。

で、考察としての主要テーマは、ソクラテスの本質が「対話」ではなかったということろ。私もご多分に漏れずソクラテスの本質は「対話」にあるなどと思っているけれども、著者は素気なく否定する。「対話」を重要視するのは、プラトンがソクラテスの本質を誤解しているせいだと。
著者によれば、ソクラテスの本質は、人間にとって本質的な無知のあり方を自覚したところだ。努力すれば解消できるような無知ではなく、人間であるかぎり絶対に超えることができないような無知を見いだしたことだ。その絶対的な無知の前で、ひとは「あきらめる」ことしかできない。そうした「理性」を超えた「信仰」の領域で、「恩恵と賛美」が生じる。そしてこの本質は、イエスや仏教にも通底するという。まあ、そうかも。

【要検討事項】が、個人的にはしっくりこないところもある。本書ではあたかも「理性の限界」を自覚したのがソクラテスやイエスや仏教の固有性だと主張しているように読めるのだけれども、プラトンやアリストテレスだって、その程度のことは自覚しているように思う。本書では数学的世界の合理性は矛盾が起きないと言うけれども(151頁)、プラトン自身は『国家』で数学的世界の限界を明確に記述している。アリストテレスも『ニコマコス倫理学』で、数学も含めた論理的世界の限界について言及している。そしてプラトンとアリストテレスは、「理性の限界」を認識したところから、さらに理性を突き詰めて一歩前に出ようとしているところが凄いはずだ。本書の記述からは、そういった彼らの仕事を評価している様子はうかがえず、プラトンやアリストテレスを舐めているような印象を持ってしまう。本書は「理性の限界」を前にして「あきらめる」ことを称揚しているように読めるし、「恩恵と賛美」が生きていくうえで重要であることは確かだろうが、本当にそれだけが誠実な態度と言えるかどうか。プラトンやアリストテレスのように「理性の限界」すら理性的に捉えようとする営為から、最終的にはヴィトゲンシュタインやゲーデルのような仕事も生まれてくるはずだ。中世であれば、クザーヌスやエックハルトや否定神学などの仕事であろう。「理性の限界」について、結局は最終的にあきらめるにしても、もっともがいてからのほうが良かったのではないかという気がする。

八木雄二『哲学の始原―ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』春秋社、2016年

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年