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【要約と感想】鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』

【要約】明治以降、近代的自我の形成が日本の知識人にとって共通の課題となりました。本書が扱うテーマは、近代的自我形成の在り方が明治と大正とで大きく異なっていることです。明治期には国家独立のための前提として近代的自我の形成を目指していましたが、大正期には資本主義体制下の消費的主体としての近代的自我へと変容しました。注意すべきことは、明治と大正を通じて、生命主義の影響の下で自我を「ひとつ」の何かへと包括・統合しようとする全体主義の傾向が共通していることです。このような日本における近代的自我の形成過程の中、大正期に「ひとつ」への統合圧力から逃れようとする試みが散見されるようになります。その代表として、本書は大杉栄、辻潤、正宗白鳥の苦闘を具体的に扱っています。

【ツッコミ】明治期人格概念研究者(?)の私としては、ツッコミを入れるべき点が2つある。ヘルバルト主義と社会有機体論だ。いちおう先回りしてフォローを入れておくと、著者の主張に問題があると言いたいわけではなく、私自身の発信力不足と怠慢のせいで、熱心な研究者にすら私の研究成果が届かないというところに問題があることを自覚しつつ、私の研究がこの問題領域にどのような形で貢献できるかを確認するための作業だ。

まず著者は「明治三十年代の半ば頃に中等学校修身科教育の内容として姿を現した人格観念」(91頁)と言うが、この記述にはツッコミを入れておきたい。正確には、人格観念は「中等学校修身科」から姿を現したのではなく、時間的にも理論的にもその前に「教育理論」の中に姿を現している。明治20年代半ばにはヘルバルト主義によって「人格」観念が「個性」観念を伴って導入されて、少なくとも20年代後半には教育理論として展開されるようになっているのだ。明治30年半ばの中等学校修身科教育の内容は、ヘルバルト主義理論を土台にして教育理論が展開した末に出てくるものだ。(拙論「日本の教育学説における人格概念の検討-ヘルバルト主義を中心に」および「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
大西祝もヘルバルト主義への言及を通じて「個性」観念に触れており、「人格」や「個性」概念に対してヘルバルト主義が果たした影響は、かなり大きい。このあたりは教育史研究者がもっと主張を強めていくべきところなのだが、主張が広がっていないのは我々の怠慢だ。

それから、多様性と一性(=アイデンティティ)の相克について、しかも生命主義と絡めて考えるなら、明治初期の進化論受容から中期の社会有機体論および国家有機体論への展開を無視できない。この論点にもツッコミを入れておきたい。
社会有機体論にしても国家有機体論にしても、「有機体」というからには、もちろん機械のように部分に単純分割できるものではなく、全ての器官が相互依存している生命体が想定されている。生命体の在り方を理論的前提とする有機体論は、生命主義に容易に接続できる。本書が言う「ひとつ」への統合・包括圧力は、社会有機体論と国家有機体論によって理論的に裏打ちされているように思う。具体的には、社会有機体論を理論的に代表するのがスペンサーで、国家有機体論を理論的に代表するのがシュタインなわけだが、明治中期に徳富蘇峰や岡倉天心や三宅雪嶺といった新しい世代がこれらをまともに受け止め、個性と多様性を尊重しながら同時に一性を保つという言論を展開した。これは福沢諭吉や中江兆民といった「天保の老人」には見られなかった傾向だ。新しい世代の論理では多様性(個別性)と一性(普遍性)が生命という相においてのみ両立することが示されており、その基本的な論理構成は大正期の生命主義にも(あるいは戦後まで)引き継がれていくように見える。生命主義を背景とした「ひとつ」への包括統合圧力を描くのであれば、天心や雪嶺など新しい世代に触れつつ有機体論の伝統を踏まえる必要があるのではないかと思った。

【感想】まあ、あらかじめフォローしておいたとおり、著者の主張を否定したいわけではない。自分自身の発信力不足と怠慢を反省しつつ、行うべき仕事について再確認させられるような、たくさんのインスピレーションを与えてくれた本だった。とてもおもしろく読んだ。

とくに「ひとつ」という術語は、著者がその言葉を捻り出した過程を想像するに、とても尊いものだと思いつつ読んだ。従来はそれを「同一性」とでも呼ぶことが多かったわけだが、著者はおそらく「同一性」という術語で記述することに違和感を抱いているのだろう。手垢のついた言葉ではなく、著者が新しく「ひとつ」という言葉を生み出したことは、とても尊い。私もソレをどのように呼ぶべきかについては、ずっと悩ましく思っている。あるいは、著者が「ひとつ」と呼んでいるものについて、どう考えていいのか、ずっと迷っている。
たとえば、「ひとつ」への包括統合圧力が、果たして近代に特有のものかどうかという疑問が拭えない。なにかを「ひとつ」と認識することは、実は人間の認知の所与の在り方なのではないだろうか。たとえば、目の前にある眼鏡を、どうして私は「二つのレンズとひとつのブリッジ」とは認識せず、「ひとつの眼鏡」と認識するのだろう。そして、どうして英語ではそれを「二つのレンズ」と認識するのだろう。なにを「ひとつ」と認識するかは文化によって異なる。日本語では「眼鏡」を「ひとつ」と認識し、英語では「レンズ」を「ひとつ」と認識している。とはいえ、いずれにせよ何かを「ひとつ」と認識する認知の在り方がなければ、人間は「言葉」を持つこともできず、「存在」を認識することもできない。たとえばアリストテレスは、「数」は2から始まるものであって、「1」は数ではないと主張した。
「近代的自我」とは、一人の人間を抽象的に「ひとつ」と認識する認知フレームではある。この認知フレームは、身分制を破壊して、侍だろうが農民だろうが「同じ人間である」というふうに、具体性を剥ぎ取って人間を認識することが可能な社会的条件が揃って初めて作動する。同様に「近代的国家」を抽象的に「ひとつ」と認識するためには、アメリカだろうが日本だろうが北朝鮮だろうが「同じ国家である」というふうに、具体性を剥ぎ取って国家を認識することが可能な社会的条件が揃う必要がある。そういう意味では、確かに「近代的自我」も「近代的国家」も市民革命以後の近代的産物に間違いはない。フロイトやニーチェは、人間を抽象的に「ひとつ」と認識する近代的な認知枠組に対して異議申し立てをしたと言える。人間は「ひとつ」などではなく、もっと細分化されたものに「ひとつ」を設定するべきなのかもしれない。あるいは、もっと大きなもの(たとえば国家とか社会とか人類補完計画とか)を「ひとつ」と設定するべきなのかもしれない。
が、そもそも「なにかをひとつと認識する」という認知の在り方自体は、実は時代に関係なく、人間にとって所与のものである可能性はないのか。前近代は前近代で、なにか別のものを「ひとつ」と認識しており、そこに向けての包括・統合圧力はやはり作動していたのではないか。たとえばそういう「究極のひとつ」、つまり「神」としか呼べないようなものへの憧憬は、後期プラトンの哲学や、アリストテレス『形而上学』や、新プラトン主義の諸々に徹底的に描かれているのではないか。
だとしたら、大正期の生命主義が求めた「ひとつ」とは、求めるべき「ひとつ=神」を持たなかった日本人の認知の空隙を埋めるものとして、大正期の知識人には、どうしようもなく必然的に生じてしまう類のものではないのか。ここまで思い至ると、本書でライトモチーフのように繰り返されるキリスト教の影響と反発というものは、なかなか侮れない。「ひとつ」というものは絶対に必要だと感じているにもかかわらず、キリスト教の言う神は「そのひとつではない」というもどかしい感じ。その「ひとつ」ではない何か別の「ひとつ」を求めざるをえない人間の認知のどうしようもない在り方が、たとえば本書で扱われた3人の苦闘に現れているのかもしれない、というふうに本書を読んだ。

本書で示された「ひとつ」への包括・統合圧力という問題は、そうとう深いように思う。そしてそういう意味で、「ひとつ」という言葉を産みだして問題を記述した本書のセンスは、とてもいい。

鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』インパクト出版会、2017年

【要約と感想】天谷祐子『私はなぜ私なのか』

【要約】「私」というものに実存的な疑問を抱くのは、小学校高学年から中学校にかけてのことです。全ての人が自我体験するわけではありませんが、一部の人しか体験しないような特別のものでもありません。しかし高校生に上がると、多くの人がその疑問を忘れてしまいます。

【感想】貴重な実証研究だと思った。「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、どれくらいの人がどれくらいの時期に抱き、どれくらい持続してどれくらい影響を与えるのかという、客観化が恐ろしく困難な課題に粘り強く取り組んだ研究だ。結果もなかなか興味深く、とてもおもしろく読んだ。実証的なデータとして、今後も参照材料とさせていただきたい。

が、まあ、疑問なしとはしない。特に、「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、あたかも普遍的な問題として扱っているように見えるのには、問題の本質を捉え損なう可能性があるのではないかと危惧する。というのは、「私」というものが実存的なテーマの対象となるのは、私見では、近代以降のことと思われるからだ。普遍的な問題ではなく、時代に制約された問題だと思うのだ。
たとえば前近代に「私」というものが成立していなかったことは、フーコーとかギンズブルク等の仕事を参照すれば分かりやすい。あるいは、たとえば明治後期以降の日本文学において実存的な疑問は文学的テーマとなり得るように見えるが、明治前期以前の作品に見出すことは難しい。坪内逍遙や幸田露伴や尾崎紅葉が実存的なテーマを扱っているようには見えない。このあたりは柄谷行人あたりも言及していたように思う。
つまり、「私」が統合されて一つであるべきだというアイデンティティの意識自体が歴史的な産物である疑いがあって、これを本書のように人間の普遍的な傾向と前提してしまうと、様々な可能性を見落とす恐れがあると思うわけだ。

さらに、「私1」と「私2」という記述について。私自身の理解によれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、人間存在に対する「形式/内容」の峻別に対応していると思われる。または「人格/個性」の概念的区別と言ってもいい。私の理解では、このような「形式的な人格」と「内容的な個性」の峻別は、近代(市民社会と資本主義と国民国家)を成立させる上でどうしても必要なフィクションだ。近代を成立させるためには、個人差の内容を完全に捨象して全ての人間を同一の単位と見なす必要がある。侍と農民を区別するような身分制においては、近代の政治と経済は作動しない。全ての人間を形式的に平等な「一」と見なすことで、初めて近代の政治と経済は正常に作動することができる。しかしそれは逆に、近代を成立させるために、人々に対して「形式的な人格」と「内容的な個性」を峻別させるような有形無形の圧力が具体的に加えられるということでもある。この圧力が「私1=形式的な人格」と「私2=内容的な個性」をズラし、「私(形式的な人格)はなぜ私(内容的な個性)なのか」という疑問を生じさせる。「私はなぜ私なのか」という疑問を生じさせるメカニズムは、近代という時代が人々に加えている圧力の存在を抜きにしては見えてこないのではないか。
著者も「あとがき」において、「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」(169頁)と言っている。それ自体は問題ない。というか、近代という時代では当たり前の想定とも言える。が、それを「結論を出してしまった」と言ってしまうのは、正直、ちょっとどうかと思った。そこは結論どころではなく、考察のスタート地点に過ぎないだろう。この問題の本質は、「どうしてそういう仮定が必要なのか?」というところにあるはずだ。私の理解では、そういう「仮定」が必要なのは、それこそが近代という時代を成立させている鍵だからだ。だから、その仮定の土台を掘り下げていけば、近代という時代の本質を捕まえることができるはずだ。スタート地点に立っただけで、その下に豊かな鉱脈が眠っていることに気がつかず、「折り合い」がついたと言われても、私としては「もったいない」としか言いようがない。

もう少し敷衍してみれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、文法で言うところの「主語/述語」の違いに対応する。英語で言うと「I/me」の区別となる。ジェームズが言うような「I/me」の区別は、文法的に言えば「主語/述語」の区別となる。そしてこれは、哲学的に極めて重要なテーマだった。たとえばプラトンやアリストテレスは、主語がどうして主語なのかを追究している。述語としての「私」は現実的に多様であるのに、どうして主語としての「私」は同一性を保持できるのかという問題を、彼らは追究した。プラトン(特に後期)は自我同一性が厳密に成立するのは神だけだとしつつ、人間は神と獣の中間の「エロス的主体」として自我同一性が成立すると言ったし、アリストテレスは「神」の概念を追究する過程で、神とは「常に主語であり、決して述語にならないもの」というようなことを言った。本書が言う「私1=主語」の同一性が成立するのは、プラトンやアリストテレスの論理で言えば「神」だけなのだが、彼らはその地点から人間の同一性の根拠をさらに掘り下げていった。西洋において近代が成立したのは、主語の同一性を対象として考察を積み重ねたプラトンやアリストテレスの伝統が土台にあるからかもしれない。
かたや日本語の場合、主語の「私」も述語の「私」も同じ「私」として表記される。あるいは、主語を表記すること自体を避ける傾向にもある。「私1」を「主語」として理解した場合、日本においてはそもそも「私1」を成立させる言語的条件が歴史的に存在していなかった可能性があるのではないか。
だとしたら、本書が検討していたのは、実は人々の自我体験ではなく、近代西洋語の影響によって変容を被った後の「日本語の主語=述語の関係構造」だったのではないか。特に日本語における「主語」というものの機能と働きが大きく変化したことによって、前近代には起こりえなかった「I/me」のズレが生じたという事態を浮き彫りにした研究だったのではないか。「主語としての私の単一性」と「述語としての私の多様性」が言語的な矛盾として意識されるのが小学校高学年から中学生にかけてということだったのではないか。問題の本質は「心理」ではなく「言語」ではなかったのか。

が、まあ、そのあたりは私の仕事として追究すればいいところではある。本書の丁寧な実証研究に意味がないということではない。参照に値する貴重な本であることに変わりはない。

天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年

【要約と感想】板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』

【要約】「私」というものは他者や環境との関係があって初めて生じるものです。人間の幼児には、他者(無生物を含む)の行動に対して合理的な意図や関係性を見出す認知機能が生得的に備わっていて、この機能の発達が「心」の発生(=メンタライジング)に関わります。

【感想】人間は幼児期から「心」を認識している可能性があることを、興味深く読んだ。本書に記述された実験に関する報告を信用するなら、人間は様々な対象に「心」を見出す傾向が生得的に備わっているようだ。実験の妥当性を高めるための工夫がいちいちおもしろく、読み物としても楽しい。

ただ、本書に限ったことではないが、心理学や認知科学に対して一般的に疑問を思ってしまうのは、観察された現象を本当に「心」という言葉で呼ぶのが妥当かどうかということだ。原理的に言えば、観察者が持っていた「心」という概念を観察対象に適用して「心」の存在を証明することは、帰納的な推論ではなく、「循環論法」に陥っているのではないか。たとえば、動物実験で観察されたものを「心」と呼ぶのは、単なる擬人化ではないかとも疑ってしまう。観察で見出された現象は、本当に「心」というカテゴリーで処理するのが一番適切なのだろうか? まあ、そんなことはライル等が既に言っていることだけれども。

具体的には、そこで見出されているものの本質は、「心」と呼ぶより、「一」と呼ぶ方が適切ではないだろうか。あるいは、もっと正確には「生命の単位としての一」と呼ぶべきかもしれない。人間は「私」だけを環境から切り出しているのではなく、様々な「一」を環境から切り出している。あるいは他の動物も。だから、人間が生得的に持っている認知傾向とは、「心」を見出す能力というより、「多」から「一」を切り分ける高度な能力ではないのか。まあ、「心」を見出すから「一」を切り分けられるのか、「一」を切り分けてから「心」を仮託するのか、鶏と卵の関係のようなものではあるが。ともかく、最初から「心」の存在を仮定するのではなく、「一」というものを仮定しても、同じ現象がまったく別の論理で説明できてしまうはずだ。このあたりは後期プラトンやアリストテレスがそうとう厳密に手がけているところではあるが。そして古代哲学の論理によれば、「一」から様々な概念が演繹される。たとえば、首尾一貫性という概念であり、アイデンティティという概念であり、あるいは「存在」という概念だ。プラトンやアリストテレスはそこまで言っていないが、実は「心」という概念も「一」から演繹されるものではないのか。そう考えると、「心」とか「アイデンティティ」とか「首尾一貫性」というものは付属的な属性に過ぎず、本質は「一」であると見なすのが適切ではないのか。そしてそう考えても、本書で示された現象は全部きれいに説明できてしまう。

じゃあ、そもそも「一」とは何だと聞かれたら。そんなものは「認知の特異点」であって、それがあるから他のあらゆるものが説明できる認知の底であって、外部からは説明のしようがない何者かとしか言いようがない。どうして「私」が「一」なのかは、誰にも説明できない。それは目の前の「眼鏡」がどうして「一」なのか説明できない(こんなにたくさん部品があるのに、どうして「一」と呼べるのか?)のと同様のことだ。「私」や「眼鏡」を「一」と認知することで、初めて世界が成り立つ。「私」を認識する前に「一」を認識していなければ、世界は立ち上がらない。人間(あるいは他の動物)の生得的な認知の基礎は、そこにあるのではないのか。アリストテレスも、数字は「二」から始まるのであって、「一」は数字ではないと言った。「一」とは数字を成立させるための「認知の特異点」として特別な対象であって、数字のような形式的操作の対象には納まりきらないということだと承知している。「心」というものも現在では実験など形式的操作の対象となっているが、それを成り立たせる根底にはもっと別の根源的な何か、具体的には「一」というものが前提されねばならず、それこそが人間の認知の基礎的で生得的な条件となっているのではないか。まあ、そんなことはアリストテレスやカントが既に言っているのだが。ただ、AIにできないのは、「心」を持つことよりも前に、「一」を認識することではないか。人間は、自分や他人を「一」と認識できるほか、自分よりも小さなもの(たとえば指とか足とか髪の毛とか)も「一」と認識できるし、自分よりも大きなもの(たとえば「家族」とか「民族」とか「国家」とか「地球」とか「世界」)をも「一」と認識できる。そして「一」と認識したものに対して、頼まれもしないのに「心」を仮託する傾向にある。AIは、「心」を生む前に、まず「一」を認識することができない。ここに「生命」と呼び習わされてきた何かの本質があるのではないか。

まあ、本書を読みながらそんなことをつらつらと考えたのだが、もちろんこれは私の問題であって、本書が扱わなければならない問題ではない。

【眼鏡学に使える】
「視線」に関する記述は、眼鏡学的な観点から、興味深い。

「目は心の窓」。いみじくも古人がこう表現したように、他者の心を最もよく反映するのは、視線かもしれない。「私」が最初に出会う他者の心は、他者の目に凝縮されていると言ってもいいだろう。たとえば、視線は、他者が何を見ているかを単純に示すものである。(126頁)

「視線」を可視化するのが眼鏡というアイテムである。つまり他者の眼鏡を外すという行為は、他人から視線を剥奪することの象徴であり、端的に主体性を否定することを意味する。眼鏡を共有する行為は、視線を共有することの象徴であり、生死を共にする共同体の一員であることを保障することを意味する。この「視線」に関する観点は、マンガ作品分析等で極めて多大な示唆を与えてくれる。

板倉昭二『「私」はいつ生まれるか』ちくま新書、2006年

【要約と感想】アリストテレス『形而上学』

【要約】存在を存在として探求する学というものがあり、それは「矛盾律」のような疑い得ない確かな定理を土台として構築されるものでしょう。そして存在について厳密に考察を進めると、「イデア」のような考え方は必要なくなります。

【感想】個人的な見所は、「一」というものに対する徹底的な吟味と、「可能態=質量/現実態=形相」という措定から演繹される諸結論の2つだ。

人間が或る何かを「一」であると認識することができるのは、たしかに不思議な力だ。たとえば人間のことを「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」というふうには認識しないで、「一人の人間」と認識する。どうして我々は物事を「多」ではなく「一」と認識するのか。この「一」という認識は、そのまま「人間が存在する」という「存在」に対する認識である。どれだけ「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」という認識を深めていっても、決して「一人の人間」という認識には到達しない。「一人の人間」という認識に飛躍的に到達したときに、初めて「一人の人間がいる」という認識が可能となる。だから「存在」を存在そのものとして理解するとは、「一」を認識できる根拠を理解することである。

アリストテレス自身は、この「一」を「尺度」として探求し、数の原理的考察から追い詰めていこうとしている。「一は数ではなく、二から数である」という認識は、「一」というものを原理的に問い詰めていった末の結論であって、一定の世界観を示している。

私自身は、この「一」とは生命原理に由来するように思える。アリストテレス自身も「霊魂」へ言及するところで仄めかしているのだが、人間は何らかの「生命の塊」の単位を「一」として認識しているように思える。それは「全体と部分」の関係からも洞察される。ある部分を切り離したときに全体そのものが失われるという場合、その部分は「多」ではなく「一」として全体に含まれている。そもそも「ある部分を切り離したときに全体そのものが失われる」とは、一部の毀損によってなんらかの「生命」が失われることを意味するだろう。生命が失われたとき、「一」は成立しなくなる。その場合の「生命」とは、無生物にも適用できる。それは「働き」の単位である。何らかの「働き」をするものがあったとき、それが「多」から合成されたものであっても、我々は「一」と認識する。ある工場群に大量の工作機械があって、働く人間やロボットや建物が「多」であったとしても、その工場群の「働き」が一つであるとき、我々はそれを「一」と認識する。我々は「働き」の単位を「生命」として認識するということだろうか。
そしてここまでくると、物事の本質を「アレテー=徳」として捉えたソクラテス=プラトンの議論とも響き合ってくる。プラトンによれば、アレテーとは、物事に本来備わっている「働き」を完全に発揮することだ。このソクラテス=プラトンとアリストテレスの議論を重ねると、「徳=アレテー」を完全に発揮したものこそまさに「一」であり「生命」であるという話になる。

【この本は眼鏡っ娘について語っている】
ところで我々は、どうして眼鏡っ娘のことを眼鏡っ娘と理解できるのか。どうして「眼鏡」と「娘」が合成されただけの、つまり部分が集合した「多」として認識するのではなく、全体としての「眼鏡っ娘」、つまり「一」を認識するのか。たとえばアリストテレスはこう言う。

しかし、或るものから複合されて、その結果、全体として一つであるような複合体は、すなわち、穀粒の集積のようでなしに語節がそうであるように複合されたものは、――というのは、語節はたんなる字母どもではなく、BAはBとAとではなく、肉は火と土とではないからである。なぜなら、複合体、たとえば肉または語節は、それぞれの要素に分解されると、もはや(肉とし語節としては)存在しないが、字母どもはそのまま存在し、火や土もまたそうだからである。そうだとすれば、たしかに語節は或るなにものかである、すなわちそれはたんに字母ども(或る子音と母音と)であるのではなくて、さらにこれらとは異なる或るなにものかである。(1041b)

この文章は明らかに眼鏡っ娘について語っている。眼鏡っ娘とは「眼鏡と娘の複合体」ではなく、これらとは異なる或るなにものかである。そしてこの眼鏡っ娘を単なる「眼鏡と娘の複合体」ではなく「眼鏡っ娘全体」にしている「或るなにものか」こそが眼鏡っ娘の実体であり本質である。この実体や本質を追究することこそが、眼鏡っ娘学の使命と言える。

また本書は、「眼鏡っ娘の生成」に関しても多方面から大きな示唆を与える。たとえば、眼鏡っ娘が眼鏡を外したら直ちに眼鏡っ娘でなくなってしまうのだろうか? アリストテレスは「実体」という概念に即してこの問題を検討している。

もし実体が、さきには存在していなかったがいまは存在しているとか、あるいは逆にさきには存在していたがのちには存在しなくなっているとかいうようなものであるとすれば、このことは、生成しまたは消滅する過程においておこることと考えられる。しかるに点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはあり得ない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生成し、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に(生成過程においてでなしに一挙に)生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときには今まで存在しなかった二つの面が存在している。だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、何から生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない、しかもそれにもかかわらず常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在でないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである(1002a-b)

アリストテレスが言っているのは、眼鏡っ娘にとっての「眼鏡」とは、立体を切断するときの「面」のようなものであり、時間で言うところの「いま」のようなものだということである。それらは等しく「生成や消滅の過程にはあり得ない」ような、「一挙に生じる」という性質を持つ。つまりそれは「実体的な存在ではないことを示している」ということである。アリストテレスの論理に従えば、眼鏡っ娘が着脱する眼鏡そのものは眼鏡っ娘にとっての「実体」ではない。

この眼鏡の着脱が眼鏡っ娘そのものを消滅させるかどうかについては、アリストテレスの言う「可能態/現実態」の概念が参考となる。アリストテレスはこう言う。

なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能がある(活動しうる)のであって、活動していないときにはその能がない。たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が現に建築活動をしているときにのみそうする能があり、同様にその他の場合にもそうである、というのである。だが、この説から生じる諸結果の不合理性を見つけることは容易である。
というのは、明らかに(この説からすると)なんぴとも、現に建築していないならば建築家ではない、という(不合理な)ことになるからである(なぜなら、建築家であるということは建築する能のあるものであるということだから)。(1046b)

この論理は眼鏡っ娘は眼鏡をかけていないときでも眼鏡っ娘であると言うことを示唆する。「可能態としての眼鏡っ娘」とは、メガネっ娘居酒屋「委員長」で新城カズマ氏が語った「未がねっこ」概念を指し示している。では、その「可能態」とはどういうことか? アリストテレスはこう主張する。

しかし、もし実際に、我々の言うように、この「人間」のうちの一方はその質量で、他方はその型式であり、一方は可能的に、他方は現実的にあるのだとすれば、ここに問い求められているところは、もはやなんらの難問とも思われないはずである。(1045a)

「眼鏡っ娘」のうちの一方(可能態)は質量であり、他方(現実態)は型式である。こう考えれば、もはや矛盾は解消される。様々な個別の質量(可能態)=未がねっこに対して、眼鏡っ娘の型式が備わったものが現実態としての眼鏡っ娘である。しかし眼鏡っ娘はどのようにして可能態から現実態へと転化するのだろうか? アリストテレスはこう言う。

では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの(丸くありうる青銅)が現実的に存在する(現に丸くある)にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動者を除いては、そのほかになにがあろうか? というのは、可能的に玉であるものが現実的に玉であるということには、他になんらの原因もなくて、まさにこうあることがこの両者の本質なのであったのだから。(1045a)

アリストテレスによれば、未がねっこ(可能態)が眼鏡っ娘(現実態)であることは、「他になんらの原因もなくて、まさにこうあることが両者の本質」なのだ。ただしそこには「能動者」という原因が想定されている。「能動者」とは何か? アリストテレスによれば、それは「種子や医者や勧告者やそのほか一般にこうした能動者、これらすべては、それから物事の転化または静止の始まる始まり(始動因)としての原因である」(1013b)ということになる。そこで問題は、この「始動因」としての「能動者」の有り様ということになる。この問題については、残念ながら本書では詳らかにならない。

アリストテレス/出隆訳『形而上学〈上〉』岩波文庫
アリストテレス/出隆訳『形而上学〈下〉』岩波文庫

【要約と感想】プラトン『テアイテトス』

【要約】産婆術を駆使して「知識」とは何かを吟味した結果、相対主義的な認識論を排除することに成功し、「知識とは何でないか」についてはある程度わかりましたが、「知識とは何か」についてはわかりませんでした。

【感想】本書の最大の見所の一つは、疑いなく「産婆術」に関する具体的な記述にある。プラトンの他の本は産婆術に関してあまり教えてくれないが、この本は産婆術の方法論についてかなり細かいところまでよく教えてくれる。よく読むと、俗に言われている産婆術とは随分異なった印象を持つだろう。というのは、よく言われるているような「真実を生み出す作用」については実際にはそれほど強調されておらず、むしろ「陣痛」を故意に引き起こすことと「生まれたものの正邪の吟味」のほうに重点が置かれて説明されているからだ。そして、ソクラテスが産婆術によって対話相手の陣痛を故意に発生させたとしても、そこから生み出されるものが無条件に「真実」だなどとは、実は全く主張されていない。むしろ産婆の役割とは、生み出されたものが真でなかった場合、どれだけ親が泣き叫んで子供を守ろうとしようが一切の情状酌量を加えずに無慈悲に廃棄することだと明確に述べているのである。俗流教科書的な解釈は、現代的な手心を加えている。

個人的に関心があるのは、後半で展開される「全体と全部の違い」に関する議論だ。本書は一般的にプラトンがイデア論を捨てる後期著作の入口に当たると言われているが、イデア論の代わりとなるであろう認識論が一定程度示されているように思える。後半で議論されているのは、明確な言葉では示されていないものの、「個物」と「普遍」の関係であるように思う。イデア論とは、ざっくり言えば「普遍」を「個物」のように把握する世界観なわけだが、本書ではその姿勢は背後に退いている。徹底的に「思いなし=ドクサ」のレベルの話に終始し、「真の知識=イデアを見る」という話には突入しない。「普遍」を捉えることこそが「真の知識」だという積極的な姿勢はもう見られない。むしろ後の新プラトン主義に引き継がれていくような、そもそも「個物」(あるいは「一」)を認識するとはどういうことかというような問題意識をしつこく掘り下げていく。あるいは「個物」を認識するということが「普遍」を認識することと両立しないという矛盾が前面に押し出されてくる。

「自己同一性=一とは何か?」という新プラトン主義的問題意識がそうとう明確に形をなしている点が、個人的には本書の見所であるように思う。

※9/22後記
2つのレベルの知識論が読み取れる。一つは「感覚」と「知識」を峻別する論理だ。感覚だけでは決して辿り着けないような「知識」が確実に存在することを示し、感覚を超越して論理的な吟味を経たもののみを「知識」と見なす立場だ。『国家』の線分の比喩で言えば、3番目の知識にあたる。
もう一つは、論理的な吟味によって辿り着ける知識と、それを超えていく知識の峻別だ。テアイテトスが示す幾何学的な知識は、論理的な吟味によって辿り着くことが可能な知識だ。ところがテアイテトスは「知識とは何か?」という問題に対しては、同様のアプローチでは到達不可能だと言う。結局、本編では「知識とは何か?」という問いに対する答えは出ない。どのように到達可能かは示されないまま終わる。おそらくそれは「直感」としか言えないような、『国家』の線分の比喩で言う4番目の真理であるところの、アプリオリな総合判断だ。
かつてプラトンは「想起説」なり「イデア論」なりで一定の答えを示したにも関わらず、本編では徹底的に禁欲する。アプリオリな総合判断には、決して論理的な手続きの羅列では到達できないことだけが明らかになる。

プラトン/田中美知太郎訳『テアイテトス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」