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【要約と感想】プラトン『国家』

【要約】「正義」とは何であるかを考えた本です。
国家にとっての正義とは、上に立つべき人がちゃんと上に立ち、下にいるべき人がしっかり下で従っている状態を指します。上に立つべき優秀な人とは、哲学者のことです。同じく、正義の人とは、上に立つべき知的要素がしっかり上に立ち、下にいるべき欲望がきちんと下で従っている状態を指します。逆に、下にいるべき欲望たちが思考や行動を支配した状況を「悪」と呼びます。
哲学者になるためには、感覚で捉えられるようなものは捨てて、思考だけが把握できる対象=イデアを捉えなければなりません。そうしてイデアを把握する哲学者は、正義そのものであり、最高に幸せな人間となります。

【感想】政治学や教育学の、押しも押されぬ大古典。内容に対して私が言うべきことは、ほぼ何も残されていない。

とはいえ、いくつか気になることはある。たとえば、社会契約論について。プラトンは明確に社会契約説を否定している。しかも歴史的に否定したのではなく、倫理的に否定している。社会契約論が本当に仮想敵としなければいけないのは、王権神授説のような代物ではなく、プラトニズムではないのか。

これはもちろん民主主義にも当てはまる。プラトンは民主主義を明確に倫理的な意味で否定している。しかも民主主義の根幹である「多様性」そのものを倫理的に否定する。プラトンは、単一性や単純性や純粋性といった「自己同一性」を最大の根拠として、民主主義の多様性を倫理的に非難する。この単一性や単純性や純粋性といった観念は、現代では民族の単一性・単純性・純粋性という「ナショナリズム」の形で先鋭化している。民主主義が本当のラスボスとすべきは、目の前に見えるナショナリズムではなくて、背後に控えているプラトニズムであり、「自己同一性」という概念そのものではないのか。

個人的には、本書は、政治学や教育学の古典であるよりも前に、「自己同一性」という概念が持つ魅惑と恐ろしさを疑いのない水準で浮き彫りにしたところに意義があると思っている。

もちろん教育について無視するわけにもいかないので、それについてはこちらへ。→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【この理論は眼鏡論に使える】人間の魂を三要素に分割する考え方は、眼鏡っ娘が登場するマンガを分析する際に、大きな理論的武器となる。プラトンは、一人の人間を「知的/勇気/欲望」の3つの要素に分割した上で、知的な部分がほかの部分を従えることこそが「正義」であると主張した。そしてそれは国家においても同様であり、知的な人間がほかの人間を従えるのが「正義」ということになる。それは一つの物語においても当てはまる。一つの物語に登場するキャラクターそれぞれに魂の三要素「知的/勇気/欲望」を割り当てる。すると物語で展開されるキャラクター間の葛藤は、一人の人間のなかで繰り広げられる魂の葛藤と相似するものとなる。そして「知的」な人間が上に立つことが、プラトンによれば「正義」なのだ。知的な人間とは、もちろん眼鏡をかけた者のことである。

*9/22追記
「眼鏡っ娘」がただの「眼鏡をかけた女」とは異なるという事態を、本書は端的に示している。国家の指導者となるべき哲学者を教育するエピソードにおいて、プラトンは数学教育の重要性を説く。そこで彼は「一」を認識することが真理を見抜く知性の土台を作るとして、こう言う。
「もし<一>というものがまさにそれ自体として、じゅうぶんに見られ、あるいは何かほかの感覚によってとらえられるものであるとしたら、ちょうど指の場合について行っていたのと同じように、それは我々を実在するものへと引っぱっていく性格のものではないことになるだろう。けれども、もしそれが見られるときにはいつも、何か反対のものが同時に見られて、一つとして現れるのに少しも劣らず、またその反対としても現れるということになるのであれば、これはもう、その上に立って判定する者が必要となるだろう。」(524d-525a)
プラトンが言う「何か反対のもの」とは、「一」に対して「多」が現れることを意味する。人間は「人間という一」であると同時に、「二つの眼と二つの耳と二つの手と二つの足などなどの多の集合」でもある。我々はどうして人間を「一人の人間」として認識し、「二つの眼と二つの耳と…の集合」としては認識しないのだろうか。これが「一と多」に関わる認識論的問題である。プラトンは様々な物事を「多」ではなく「一」として認識することこそが真理を認識する知性の役割だと言う。知覚だけでは、見えるのは「二つの眼と二つの耳と…の集合」だけであって、ここから必然的に「一人の人間」という認識は生じない。知覚に加えて知性の働きがあってこそ、初めて「一人の人間」という認識が生じる。
これは明らかに、「眼鏡っ娘」を「眼鏡っ娘」として認識する事態を指し示している。もしも単に知覚だけなら、そこにいるのは「眼鏡+娘」という「多の集合」に過ぎず、「一人の眼鏡っ娘」を認識することはあり得ない。そこに「真理を見る知性」の働きが加わることによって初めて「一人の眼鏡っ娘」を認識することが可能となる。逆に言えば、「眼鏡と娘という多の集合」から「一人の眼鏡っ娘」を見抜くことこそが知性の働きであって、真理への道筋ということである。

またプラトンは「一」と「多」についてこうも言う。
「じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じる玄人たちにしても、彼らは、<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば、彼らのほうはそのぶんだけ掛けて増やし、<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ」(525d-e)
これは、愚かな非眼鏡勢力がしばしば「眼鏡を外した方が美しい」などという馬鹿げた戯言を発することに対する批判である。プラトンが言う「<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる」とは、本来は「一人の眼鏡っ娘」であったものを言葉の上だけで「眼鏡と娘という多の集合に分割しようと試みる」ことを意味する。それは極めて愚かな行為であって、心ある眼鏡勢力はプラトンの言うとおり「一笑に付して相手にしない」ことが必要だ。眼鏡勢力が気をつけるべきは、「<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心する」ということだ。もちろんこれは、「眼鏡っ娘」が眼鏡を外して「眼鏡と娘の多の集合」に成り下がらないように用心するということを意味する。なぜなら「眼鏡っ娘」という「一」にこそ真理が宿るのであって、「眼鏡と娘の多の集合」には知性のかけらも存在しないからである。そもそも「割って細分」とは眼鏡を否定する暗喩であり、「掛けて増やす」とは眼鏡を肯定する暗喩である。眼鏡を掛けて「眼鏡っ娘を増やす」ということこそ、真理へと到達する道筋なのだ。

プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈上〉、岩波文庫
プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈下〉、岩波文庫

【要約と感想】プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』

【要約】ソクラテスは処刑されました。有力者たちに恨まれてしまったためです。なぜ恨まれたかというと、彼らが賢いように見せかけながら、実はまったく賢くないことを暴いてしまったからです。誰も「正義」とか「美」については何も知りません。それらは神だけが知る真実であり、人間には手が届きません。彼らは自分だけは世界の秘密を知っていると思い込んでいましたが、やはり勘違いに過ぎず、実際には何も知りませんでした。ソクラテスだけが「人間の身で神の知恵に届くはずがない」ということを知っていたのでした。
 裁判の結果、ソクラテスは死刑となり、牢屋で執行を待っていました。死刑前夜、旧知のクリトンがやってきてソクラテスに脱走を進めます。しかしソクラテスは「善く生きる」ことを目指すべきことをクリトンに納得させたうえで、自分を死刑に追いやった国法に従うことこそが「善く生きる」ことだということを納得させます。

【感想】何回読んでも、すげえな、としか。さすが、古典中の古典。芸術的な完成度も高いし、ソクラテスの卓越したブレないキャラクターの魅力はハンパないし。

 で、やっぱり私たちも、ソクラテスに死刑判決を言い渡すんだろうなあと。何回も殺すことになるんだろうなあと。共謀罪が成立した日に思う。

 気になるのは、「解説」でプラトンの芸術的センスを誉めるあまり、クセノフォンをディスっているところだ。解説者もプラトンによるソクラテス像に恣意的な脚色があることを認めつつもそれがいかに芸術的に優れた脚色かを賛美しまくる一方、クセノフォンに関しては視野が狭いとか単細胞とか口汚く罵る。ただ個人的には、クセノフォンのソクラテス像には相当程度の真実が含まれているようにしか見えない。解説者があまりにもプラトンが好きなのは良いとして、クセノフォンに対するディスり様にはそうとうの違和感がある。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 教育にまつわる発言がいろいろあって、ソクラテス本人の考え方の他、当時のギリシアの一般的な教育の在り様もある程度推測できる。

「また諸君が誰かの口から、私が自ら僭して人を教育すると称し、しかもこれに対して謝礼を要求すると聞かれたならばそれもまた同じく真実ではない。もっとも人が他を教育する能力を持っているならば、謝礼を受けるのは結構なことと自分にも思われる。(中略)もし彼が実際かくの如き術を解し、こんなに巧妙な教授をすることが出来るとすれば、もし自分がその術を解していたとすれば、私自身は自ら高しと自ら誇るであろう。しかしアテナイ人諸君、私はそれを解しないのである。」17-18頁

 ここでソクラテスが「教育する」と言っている言葉の中身には重々注意する必要がある。ソクラテスが「教育」だと思っているものは、「人間の内側から本来持っている徳を引き出す営み」である。そして自分はそんな能力を持たないことを明言し、さらにソフィストたちにもそんな能力はないだろうことを示唆している。しかしソクラテス以外の、特にソフィストたちが言う教育は、「外部にある知識を脳みそに叩き込むような営み」を指している。だからソクラテスは具体的にソフィストたちの名前を挙げて、彼らの言う「教育」が外部から知識を与えるに過ぎず、人間の内部から徳性を発展させるものではないことを示唆する。
 ここに「無知の知」の典型的な姿が見られる。ソフィストや、彼らに金を払って教育を受ける大衆は、「教育」とは何なのかを知ったつもりでいるけれども、ソクラテスにしてみればそんなものは「教育」でもなんでもない。じゃあソクラテスが「教育」を知っているかと言うと、もちろん知らない。「人間の内側から徳を引き出す営み」の技術などというものは神にしか手が届かない超人間的な術であって、人間には辿り着きようがない。
 ちなみにソクラテスの言う「徳」とは、もちろん東洋的な「外面的なルールに無条件に従うこと」ではなく、ギリシア語の「アレテー」を翻訳したもので、実際には「私が本来持っていた力を最高度に発揮する」というようなイメージを持つ言葉である。一人一人がもつ潜在的な可能性を最高度に引き出すことは、果たして外側から知識を付け加えることで可能になるのか。ソクラテスの問いは、現代にまで射程が伸びている。

「けだし私が歩き廻りながら鞅掌するところは、若きも老いたるも、諸君のすべてに向って、身体と財宝とに対する顧慮を、霊魂の最高の完成に対するそれよりも先にし、またいっそう熱心に、することがないように勧告すること(後略)」38頁

 というわけで、ソクラテスが考えている教育とは「霊魂の最高の完成」に至る技術だ。しかしその術を知らないソクラテスは、ただ「勧告」することしかできない。
 ちなみに教育基本法第一条「人格の完成」はキリスト教に由来すると理解されているが、しかし「完成」という概念そのものは古代ギリシア(つまりキリスト教誕生前)に既に現れていることについては注意しておいていいのかもしれない。

「彼らの如き智慧をも彼らの如き愚昧をも持たずに自らあるがままにあるのと、彼らの持つところを二つながら併せ持つのと、私はいずれを選ばんとするか、と。そこで私は、私自身と信託とに対して、自らあるがままにある方が私のために好い、と答えたのであった。」23頁

 ここで表現されている「自らあるがまま」という言葉を、現代的に「私らしい私」と解することができるのであれば、近代的自我にまで手が届いている。
 ただしソクラテスが、「霊魂の最高の完成」を全ての人間に共通の普遍的な状態と考えているのか、それとも個々の違いを保持したままの個性的な状態と考えているのか、テクストだけからは明示的に読み取れない。しかし『クリトン』で死後の世界にも固有名詞を使って議論を進めているところを見ると、後者なのではないかという感触もなくはない。「霊魂の最高の完成」が具体的にどういう状態を指しているかで、話は大きく変わってくる。

プラトン/久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】ファン・ヘネップ『通過儀礼』

【要約】世界中の様々な民俗的儀礼には共通して「分離/過渡/統合」という過程があると主張した、文化人類学の古典。人間が人生の節目でステータスを変更する際(たとえば結婚、誕生、葬式など)、その「越境」を円滑に達成するためにこそ、「通過儀礼」というものが必要となる。過去のステータスから「分離」し、「過渡」的な段階を経て、新たなステータスへと「統合」される。過去のステータスからの分離は「死」によって象徴され、新たなステータスへの統合は「再生」によって象徴される。人生の行程で「死」と「再生」を繰り返すことで、人々はステータスを更新しながら成長する。

【この理論は眼鏡学に使える】
たとえば恋愛は、現代日本社会において通過儀礼の一種となっている。恋愛とは、恋人がいない状態から、通過儀礼という過渡期を経て、恋人がいる状態へと変化する、一連のステータス変更の手続きである。しかし問題は、恋愛の通過儀礼というものが、残念ながら自然に獲得することができないものという点にある。文化が異なれば恋愛儀礼の様式も異なるということは、人間の遺伝子には恋愛の作法を自然に獲得する機能が備わっていないことを意味する。人々は所属する文化から恋愛儀礼の在り方を学ばなくてはならない。そしてそれは、学校では教えてくれない。まさに共同体に身を置きながら「通過儀礼」として学び取るしかないのである。
こうした現代日本における通過儀礼の具体的な様式は、恋愛を扱う少女マンガに典型的に見ることができる。特に眼鏡っ娘マンガに、鮮明に見いだすことができる。たとえば、美容を気にして眼鏡を外すことは「死」であり、まやかしのモテ期に幻惑されることは「過渡」であり、再び眼鏡をかけて本当の私を取り戻すのは「再生」である。眼鏡の着脱という行為は、恋愛儀礼における「分離=死」と「統合=再生」の過程をビジュアル的にわかりやすく見せるための象徴的行為と言える。まさに眼鏡との分離、眼鏡との統合。スタート地点の眼鏡とゴール地点の眼鏡では、その間に過渡期としての恋愛儀礼が横たわっているために、象徴的な意味合いはまったく異なってくる。

少女マンガで恋愛が主なテーマとなり始めるのは、1970年前後である。現在では、少女マンガは恋愛を扱うものだという認識が一般的だが、1970年以前の少女マンガはほとんど恋愛を扱っていなかった。多くは家族の葛藤を扱ったものであった。
1970年前後の少女マンガで恋愛が浮上するのは示唆的だ。というのは、この時期は「恋愛結婚」の数が「お見合い結婚」の数を上回る時期でもあるからだ。お見合い結婚の場合、昔から伝えられてきた典型的な通過儀礼を経て婚姻が成立する。伝統的な通過儀礼に支えられていたからこそ、ステータスの変更に混乱が生じず、安定して婚姻を成立させることができたと言えるだろうか。しかしいっぽう恋愛結婚では、従来の通過儀礼は適用できない。しかし結婚というものがステータスの変更である以上、ヘネップ的に言うならば、なにかしらの通過儀礼が絶対に必要となる。こうして、「デート」とか「告白」等といった、新たな恋愛儀礼が発明されることとなる。この通過儀礼をきっちりと消化したものだけが、ステータス変更に成功する。逆に言えば、この新たな通過儀礼をクリアできない限り、ステータスの変更は極めて困難になる。かつてのお見合い結婚においては、通過儀礼は半強制的に押しつけられ、多くの人々は比較的潤滑にステータスを更新することができたと言える。しかし恋愛結婚が主流になってから、「告白」などの新たな恋愛儀礼の習得がシステム化されてこなかった(たとえば学校での習得ができない)ため、ステータスの更新に失敗する人が続出し、現在のように生涯未婚率が上昇したのではないか。(客観的な根拠はないまま言っている。)

というわけで、少女マンガ、特に眼鏡っ娘マンガに見る「通過儀礼」の在り方は、戦後日本の社会の変化を考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれると言える。実際の少女マンガ作品には眼鏡を介したヘネップの言う「感染的儀礼」を示すエピソードも数多く見られる。今後の追求課題である。

ファン・ヘネップ/綾部恒雄・綾部裕子訳『通過儀礼』岩波文庫、2012年<1909年

【要約と感想】ポルトマン『人間はどこまで動物か』

【要約】人間は他の動物に比べて圧倒的に能なしで生まれるけれど、だからこそ自由で個性的で、尊い。

【感想】「生理的早産」という概念とともに、しばしば教育学の教科書に登場する動物学の本。しかし現在、実際に読まれることは滅多にない本のような気もする。原著発行が70年前、翻訳も55年前の出版だ。本書に示された科学的知識は、特に遺伝子やサル学などの領域で、現代では遙かに凌駕されている。とはいえ、本書の持つ意義は衰えていないと思う。というのも、これは自然科学の本である以上に人間に関する思想の本であり、そして人間を扱う「学」の方法論に対する誠実な姿勢が時代を超えて意味を持っているからだ。

まず「生理的早産」とは、人間の「出産」に関する知見である。ポルトマンは他の動物(特に専門の鳥類)との「出産」を比較しながら、人間の人間としての特殊性を明らかにする。それによれば、本来なら人間はもう一年余分に胎内に留まってから生まれることが望ましいにもかかわらず、実際には一年早く「能なし」のままで生まれてきてしまう。他の高等哺乳類(ウマやクジラなど)であれば、子供はほとんど成体と同じようなプロポーションで誕生し、生まれてすぐに成体と同じような行動をとることができる。しかし人間の赤ん坊は、周囲の人間のサポートを期待できなければ、生きることさえできない。サルと比較しても、人間の赤ん坊の弱々しさは際立っている。

この一年早められた「子宮外の生活」が、まさに他の動物とは異なる人間の人間としての特殊性を形成する。もしも母の胎内にいれば、子供の成熟過程は「自然法則」に全面的に依存するので、個体同士の違いが生じる余地はあまりない。しかし子宮外での生活は、自然法則とは無関係な、「一回起性」の「出来事」の連続となる。それは「文化」の違いによってまったく異なる独特な経験を生じさせるだろう。これが人間がそれぞれの「個性」を形成する「歴史的」な環境となる。

そしてポルトマンは、人間に「個性」があり、「人格の尊厳」を持つことこそ、人間が他の動物と異なる決定的な人間の条件であるという信念を持っている。だからこそ、彼は自分自身が生物学者であるにもかかわらず、あるいはそれ故に、生物学=自然科学が踏み込むべきでない限界を厳しく設定しようとする。特に彼は、進化論の無節操な推論の拡張に、繰り返し警戒心と不信感を示している。生物学の成果を土台にすることは必要だとしても、しかし生物学の成果からの推論の積み重ねだけでは、人間というものの存在様式は決して理解できない。人間に特有の精神活動に関する知見が関わってくる必要がある。

個別的な研究の成果もさることながら、「人間学」に関する「方法論」に大きな感銘を受ける本だ。教科書的に「生理的早産」というキーワードだけで語られるのは、もったいない本である。

アドルフ・ポルトマン/高木正孝訳『人間はどこまで動物か―新しい人間像のために』岩波新書、1961年

【要約と感想】エレン・ケイ『児童の世紀』

【要約】20世紀を児童の世紀にしたいなら、まず大人の責任と女性の立場についてしっかり考えましょう。

【感想】新教育を代表する著作として名高く、教育史の教科書には必ず登場する古典中の古典。しかし実際に読んでみると、教科書の記述とは相当に異なる印象を受ける。

まず「児童」そのものについて書かれている部分が、想像していたよりもかなり少ない。女性解放運動や、労働問題や、宗教批判や、優生学についての記述など、19世紀末の社会問題が全面的に論じられる中で、子どもについての言及が埋め込まれている。逆に言えば、子どもを考えるということが、社会すべての問題を考えることに通じているということでもある。だからこの本を「子ども」そのものだけに特化していると読むと、問題の本質を見誤る。特に進化論に関わる記述は、キリスト教に対する激しい攻撃とも関わって、本書のライトモチーフともなっている。時代背景を踏まえて理解する必要があるだろう。

また、教科書や教員採用試験では、ルソーとの関係で語られることが多いが、実際に読んでみると疑問が残るところだ。むしろJ.S.ミルや、特にスペンサーといった19世紀末の自由主義との関係で捉える方がわかりやすいのではないか。19世紀の自由主義が「白人男性」に対してのみ適用されるものだったとすれば、本書の主張は、それを女性と子どもにも拡大するべきだという主張のように思える。それは「恋愛の自由」や個性尊重への主張に端的に表れているように思う。

「古典」というものは教科書等で知ったつもりになるかもしれないが、本当のところは実際に読んでみないとわからないという典型みたいな本かもしれない。

研究のための備忘録

【個人的備忘録】恋愛の至高性
「恋愛が日常当り前の信念となり、祭日の祈りの献身的態度をとるとき、また、絶え間ない精神の目覚めに守られ、不断の人格向上――古い美辞、「神聖化」を用いてもよいが――をもたらすとき、初めて恋愛は偉大になる。」(32頁)

恋愛至上主義的な姿勢が「人格の向上」という観念を伴いながら浮上してきたことは、記憶されてよいかもしれない。女性が家父長制の呪縛から逃れ、かけがえのない「人格」として独立しようとするとき、恋愛というものに極めて大きな期待がこめられていたことが分かる。

【個人的備忘録】家事の市場化についての予言
「もちろん、醸造やパン焼や屠殺や蝋燭づくりや裁縫が、だんだん家庭から去っていくように、いまのところまだ家事労働の最大部分をなしている多くの労働、たとえば、食事の準備や洗濯や衣類の繕いや掃除などが、だんだん集団化し、または電気や機械の助けを借りるようになるものとわたしは信じている。しかしわたしは、人間の個人尊重の傾向が、非人格的単一型の集団生活へ向う傾向に打克つことを希望している。」(111頁)

「家事」というものは、世間で思われているような雑事ではなく、「いまだ市場化されていない労働」のことだ。という社会学の常識的な考え方が、実はすでにエレン・ケイによって提出されていたことは記憶されてよいかもしれない。そしてエレン・ケイが、家事の市場化傾向に対して「個人尊重」を対抗させたことも。

【個人的備忘録】個性の尊重
「子どもを社会的な人間に仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性ある人間になるように勇気づけることである。」
「多くの新しい思想家たちは、わたしがすでに述べたとおり、個性について語っている。だが、この人たちの子どもが、他の全部の子どもたちと同じでない場合、または、子どもが自分の子孫として、社会の要求するあらゆる道徳を身につけないとか完成を示さない場合、この人たちは絶望する。」(150頁)
「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽象観念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎない。」(170頁)
「何が子どもにとって最高のものであるか。ゲーテは答えている。地上の子どもにとって最高の幸福は個性を認められることにつきる」(243頁)

引用した「個性」に関する物言いは、現在ではむしろ陳腐な部類に属するかもしれない。が、このような表現は、この時点ではかなり新しかったように思う。19世紀的な思考形態からは出てきにくい表現のように思う。こういう表現の数々が、本書を20世紀の幕開けを代表するものに押し上げているのかもしれない。

【個人的備忘録】人格の尊重
「時代は「人格」を求めて呼びかけている。しかし、わたしたちが子どもを人格あるものとして生かし、学ばせ、自分の意志と思想をもって自分の知識を得るために働かせ、自分の判断力を養成させるまでは、時代がいくら叫んでも無駄である。一言でいえば、わたしたちが学校における人格的素質の殺害をやめるまでは、人格を生活のなかに見出そうとする期待は、無駄というものであろう。」(295-296頁)

「個性」と並んで、「人格」に関する表現も、実に20世紀的と言える。19世紀的な「人格」の用法とは、ずいぶん異なっているように感じる。ちなみに、これがはたしてエレン・ケイの思想に固有のものか、単なる翻訳の問題に過ぎないかは、私は検討していないので、各自調べていただきたい。

エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房百科文庫 24、1979年