「古典」タグアーカイブ

【要約と感想】プラトン全集7

【要約】「テアゲス」「カルミデス」「ラケス」「リュシス」を収録。「テアゲス」は偽書の疑いが濃厚。ほか3編は、ことばの本質を求めてアポリアに至る初期対話篇の趣旨をよく伝える。いずれも「教育」に直接関わるテーマというところで共通している。

【感想】「テアゲス」:まるでソクラテスが超能力者のように描かれていて、違和感全開。「知識」がなにかがテーマになっていながら、その本質に迫る様子も見られないし。偽書の疑いが濃厚なのも仕方ない内容。

「カルミデス」:少年愛の神髄を示す導入も独立しておもしろい。テーマ自体は「節制」についてだが、「知識とは何か」に対する追究が本質的な内容となっていく。「知の知」という「メタ的」な議論が成立するかどうかへの吟味が見どころ。

「ラケス」:テーマ自体は「勇気」についてだが、やはり「知識とは何か」に対する追究が本質をなす。コンパクトなまとまり具合という意味では、とても分かりやすい。

「リュシス」:対話相手が少年ということで、ソクラテスに明らかな教育的配慮があり、他の対話篇と比較したときに異質な印象もある。テーマ自体は「友情」について。少年愛のありかたとかパイタゴーゴスの具体的な活動も分かる。

『プラトン全集〈7〉 テアゲス カルミデス ラケス リュシス』岩波書店、1975年

【要約と感想】プラトン全集1

【要約】「エウテュプロン」「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」を所収。ソクラテスが裁判に訴えられてから、裁判を経て、死に至るまでの作品がまとまっている。

【感想】「エウテュプロン」は、ことばの真の意味を求めて最終的にアポリアに至る初期対話篇の構成をとてもわかりやすくしめしている作品だと思う。「弁明」と「クリトン」も、ソクラテスのキャラクターを素朴に伝えているように思う。
一方「パイドン」は、それに対してプラトン思想の集大成的な感じもする。自己同一性に対する執着とか、想起説とか、「魂の世話」に一直線に向かっていく初期対話篇には存在しなかった趣が含まれている。眼鏡っ娘論的に含蓄が深いのは、自己同一性に徹底的にこだわる「パイドン」のほうだ。

『プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン』岩波書店、1975年

【要約と感想】プラトン『法律』

【要約】おれの考えた最強の国家は、人々を徳に導く教育をいちばん大事にします。

【感想】プラトン終生のテーマであるところの、魂の不死とか、真の知識とか、正しい生き方がいちばん幸せとか、一と多の関係とか、お馴染みの議論がいつものように展開される一方で、この本でしか見られない具体的な教育論とか法律論も盛りだくさん。

教育学的観点から興味深いのは、子供に関わる様々な記述だ。プラトンは、しばしば子供を完全な無能者として扱っている。たとえば「「再び子供にもどる」というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなるのですね。」(646A)とか、「これらの犯罪のどれかを犯す者は、おそらく、狂気の状態にあるために、あるいは、病気にかかっているとか、非常な高齢にあるとか、子供に近い状態にあるとかで、狂気の人と少しも変らない有様」(864D)というふうに、子供を発狂者や痴呆老人や酔っ払いと同じカテゴリーに入れて無造作に扱っている。子供期を特別な価値を持った時間とは、明らかに捉えていない。彼が特別な敬意を払うのは、決まって老齢の人々である。

が、一方でプラトンは幼児期の教育(胎教含む)に高い意義を認め、さらに子供の遊びが人格形成に与える影響を積極的に評価している。キリスト教的な子供観と異なる価値観が見えるのも間違いない。ただし、こういった幼児期教育の重視は、「子供というものは、すべての獣の中でもっとも手に負えないものです。」(808D)というような、子供を一個の人格としては認めない認識と表裏一体ではある。

他、教育に関する見所は、職業訓練的な教育(いわばinstruction)の意義を否定し、人格形成のための教育(いわばeducation)を真の教育と明確に述べているところなど(644A)。徳のための教育を真の教育と見る姿勢は初期対話編から終始一貫しているわけだが、多くはソフィストとの対比で語られていて、ここまではっきり職業訓練的な教育と比較している箇所は珍しいかも。後のヨーロッパ的思考の土台となる「教育/教授」を区別する枠組みが既に確認できる。

また、法律論でも、懲罰刑ではなく教育刑の意義を前面に打ち出している点とか(まあ、それにしては死刑への沸点が低すぎるけど)、奴隷や動物や無生物が犯罪を犯した場合の対処とか、ヨーロッパ的な法思想枠組を考えると、興味をそそられる論点が多い。

あと、お葬式で死体を重要視しないように勧告するところなどは、一周回って仏教と同じような議論になっていて、なかなか興味深かった。魂の不死と輪廻転生を信じた場合、論理的に筋道をたどれば、同じような結論に至るということか。

プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈上〉』岩波文庫
プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈下〉』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『パイドロス』

【要約】恋とは、人間の狂気のなかでも最も尊い。なぜなら、その狂気を通じてのみ、人は「真の美」を想起できるからです。

【感想】この本、プラトンの著作の中で一番好きだなあ。印象的なエピソードが、集中して本書に集まっている感じ。

まず、恋愛の話が凄い。恋の狂気のみが人を「真の美」へと導く。なんてことが真正面からド直球で説かれるという。技巧に走る芸術家は、狂気の人々が作る作品には決して追いつけないとか。ソクラテスは教科書的には「無知の知」で有名だけど、教科書に「ただし恋の話だけはよく知ってる」という但し書きもつけてほしいところ。

それから、「文字の発明」のエピソードが収められているのも本書。文字の発明は、実は人々の記憶力を退化させて、真の知恵から遠ざけるだけだという。文字によって、人々は見かけだけ博識家になって、うぬぼれだけが発達し、つきあいにくい性格になる。プラトンは、対話可能な言葉だけが真実へと導くと言う。「ディアレクティケー=対話」という手続きの本質について、考えさせる。

さらに、「分析」と「総合」という手続きが「ディアレクティケー(対話法)」の神髄として明確に示されているのも大きな特徴。ただ、論理的な手続きをどれだけ誠実に積み重ねても、アプリオリな総合判断には辿り着かない。その「直感」は「神がかり」の「狂気」によってもたらされるしかない。「神がかりの狂気」によって直感を得る前半部と、論理的手続きによって「ただ一つの本質的な相にまとめる」という後半部が、一つの本に両立している不思議。直感と論理の二つがどのように内在的に結び付くかは、残念ながら本書では明確に見えない。

そして、ソクラテスが楽しそうに話しているのが、とてもいい。他の本だと皮肉を言ったり、攻撃的だったり、詭弁を弄したり、ちょっとどうかな?と思うこともある。けれど、本書は終始楽しそう。いちばんスッキリするプラトンだと思う。

*9/18後記
狂気に触れた者だけが物事の本質に辿り着けるという議論は、眼鏡っ娘論に対して極めて重要な示唆を与える。「眼鏡っ娘とは何か?」という問題に対して、ある程度は論理的に迫ることができても、一定の成果を上げたところで、必ず論理的なアプローチでは超えられない深淵が見えてくる。底の見えない深淵。この「深淵」を跳躍できるのは、「狂気」だけだ。俺に跳躍の勇気をくれ!

プラトン/藤沢令夫訳『パイドロス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『テアイテトス』

【要約】産婆術を駆使して「知識」とは何かを吟味した結果、相対主義的な認識論を排除することに成功し、「知識とは何でないか」についてはある程度わかりましたが、「知識とは何か」についてはわかりませんでした。

【感想】本書の最大の見所の一つは、疑いなく「産婆術」に関する具体的な記述にある。プラトンの他の本は産婆術に関してあまり教えてくれないが、この本は産婆術の方法論についてかなり細かいところまでよく教えてくれる。よく読むと、俗に言われている産婆術とは随分異なった印象を持つだろう。というのは、よく言われるているような「真実を生み出す作用」については実際にはそれほど強調されておらず、むしろ「陣痛」を故意に引き起こすことと「生まれたものの正邪の吟味」のほうに重点が置かれて説明されているからだ。そして、ソクラテスが産婆術によって対話相手の陣痛を故意に発生させたとしても、そこから生み出されるものが無条件に「真実」だなどとは、実は全く主張されていない。むしろ産婆の役割とは、生み出されたものが真でなかった場合、どれだけ親が泣き叫んで子供を守ろうとしようが一切の情状酌量を加えずに無慈悲に廃棄することだと明確に述べているのである。俗流教科書的な解釈は、現代的な手心を加えている。

個人的に関心があるのは、後半で展開される「全体と全部の違い」に関する議論だ。本書は一般的にプラトンがイデア論を捨てる後期著作の入口に当たると言われているが、イデア論の代わりとなるであろう認識論が一定程度示されているように思える。後半で議論されているのは、明確な言葉では示されていないものの、「個物」と「普遍」の関係であるように思う。イデア論とは、ざっくり言えば「普遍」を「個物」のように把握する世界観なわけだが、本書ではその姿勢は背後に退いている。徹底的に「思いなし=ドクサ」のレベルの話に終始し、「真の知識=イデアを見る」という話には突入しない。「普遍」を捉えることこそが「真の知識」だという積極的な姿勢はもう見られない。むしろ後の新プラトン主義に引き継がれていくような、そもそも「個物」(あるいは「一」)を認識するとはどういうことかというような問題意識をしつこく掘り下げていく。あるいは「個物」を認識するということが「普遍」を認識することと両立しないという矛盾が前面に押し出されてくる。

「自己同一性=一とは何か?」という新プラトン主義的問題意識がそうとう明確に形をなしている点が、個人的には本書の見所であるように思う。

※9/22後記
2つのレベルの知識論が読み取れる。一つは「感覚」と「知識」を峻別する論理だ。感覚だけでは決して辿り着けないような「知識」が確実に存在することを示し、感覚を超越して論理的な吟味を経たもののみを「知識」と見なす立場だ。『国家』の線分の比喩で言えば、3番目の知識にあたる。
もう一つは、論理的な吟味によって辿り着ける知識と、それを超えていく知識の峻別だ。テアイテトスが示す幾何学的な知識は、論理的な吟味によって辿り着くことが可能な知識だ。ところがテアイテトスは「知識とは何か?」という問題に対しては、同様のアプローチでは到達不可能だと言う。結局、本編では「知識とは何か?」という問いに対する答えは出ない。どのように到達可能かは示されないまま終わる。おそらくそれは「直感」としか言えないような、『国家』の線分の比喩で言う4番目の真理であるところの、アプリオリな総合判断だ。
かつてプラトンは「想起説」なり「イデア論」なりで一定の答えを示したにも関わらず、本編では徹底的に禁欲する。アプリオリな総合判断には、決して論理的な手続きの羅列では到達できないことだけが明らかになる。

プラトン/田中美知太郎訳『テアイテトス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」