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【要約と感想】ジョン・ロック『教育に関する考察』(教育論)

【要約】教育で大切なのは、知識を与えることではなく、良い習慣の形成です。いったん良い習慣さえつけることができれば、知識の習得など後からいくらでも簡単に取り返せます。が、逆はありません。良い習慣をつけるためには、子供を学校に通わせるのは愚かなことで、優れた家庭教師に指導を任せるのが良いでしょう。特に息子を紳士として育てたいのであれば、社会で役に立たないラテン語の暗記や作文なんかにつき合っている暇なんかないので、子供が社会に出たときにどういう能力が必要かを考えて実践的な躾をするべきです。

【感想】実際に読んでみると、教員採用試験用の参考書等に書かれているような解説とはずいぶん違う内容であることが分かる。たとえば参考書の解説では「タブラ・ラサ(白紙説)」というキーワードを伴って教育万能説を主張したような紹介をされることが多いわけだが、ロックは実際には子供たちの持ち前の特徴や個性は教育では変えられるものではないと主張している(79頁、151頁)。本文の中で「白紙」に触れる際も、積極的に教育万能説を説くために持ち出すわけではなく、単に「そういう仮定を置いて書くしかなかった」という言い訳として出てくるに過ぎない(333頁)。また、教員採用試験では定番となっている教育名言として「健全な身体に宿る健全な精神」という言葉が挙げられることが多いし、実際に本文冒頭でこのセリフが出てくるけれども、作品全体の趣旨から言えばそれほど重要な意義を持っている言葉というわけでもない。ロックが本当に言いたいことは、もっと他のところにある。

 ロックが言いたいのは、「教育」と「学習」は違うということだ(現代のことばに言いかえると、「性格形成」と「知識習得」は違うというようなニュアンス)。世間の人びとは、愚かにも、大量の知識を脳味噌に叩き込むような「学習」こそが重要であると勘違いしている、とロックは言う。そんな勘違いによって、子供たちの貴重な時間を無駄にするだけでなく、人生そのものを無駄にしていると非難する。世間の人びとがやらせている「学習」は、ただ子供たちを勉強嫌いにさせ無力感に陥らせるという逆効果をもたらすに過ぎないと言う。ロックは、子供たちに「学習」させる前に大人がするべき大切なことがたくさんあると主張する。重要なのは、子供の無邪気さや純粋さをそのまま保ちながら、興味や好奇心を刺激して、良い習慣や態度を形成していくことである。そのためには、子供の「自由」を尊重するべきであり、具体的なテクニックとしては「遊戯」を有効に活用することを推奨する。いったん良い習慣形成=教育に成功してしまえば、「学習」させることは極めて簡単な仕事になるらしい。学習へ向かう姿勢や態度を形成する「習慣」をつけることこそが、ロックの言う「教育」である。

 というふうに、ここまでくると、2017年版学習指導要領に見える学力観にかなり親和的であるように見えてくる。学習指導要領では、学力の要素として「自発的に学ぶ習慣」を極めて重視している。学ぶ姿勢や態度を学ぶことによって、生涯学習社会と知識基盤社会に適応していこうという考え方である。もちろんロックは生涯学習なんてまったく考えていない(当時は大人になれば学ぶ必要などない)わけだが、「自発的に学ぶ習慣」さえ身につけてしまえば知識は後からいくらでもついてくるという発想は学習指導要領の発想とまったく同じだ。そのうえ、本書にはアクティブ・ラーニング的な手法の萌芽を確認することもできる。先生が一方的に講義しても学習効果は上がらず、生徒自身に話をさせることが勉強や知識を愛好させる上でも、道徳性を身につける上でも高い効果を発揮すると、ロックは主張している。

 このように現代の学習指導要領とロックの教育論の内容の親和性が高いので、その類似性に目を奪われて、思わず「ロックはアクティブ・ラーニングの祖だ!」とか「現代にも通用する!」なんて言ってしまいそうになるけれども、それは少々軽率かもしれない。というのは、ロックがどうしてアクティブ・ラーニングっぽい教育論を主張したのか、彼が生きた時代の構造と背景をしっかり考察することで、実は現代との類似性が見えてくるはずだからだ。学習指導要領とロックの主張が表面的に似ていることに注目するのではなく、学習指導要領を産みだした現代社会とロックの主張を産みだした当時のイギリス社会の類似を見透しておく必要があるわけだ。
 さて、現代とロックの時代が似ているのは、社会構造が急激に転換して、従来の知識観・教育観が意味をなさなくなってきていることだろうと思う。イギリス名誉革命の時代に生きたロックは、まさに「市民」の立場を代表している(ロック自身はその立場を「紳士」と呼んでいる)。従来の支配者層である王や貴族に代わって、紳士(あるいは市民)と呼ばれる新しい階層が時代の主役に躍り出た。この新しい時代の寵児が必要とする教育は、もちろん従来の王や貴族が必要とした教育とはまったく異なるものとなる。ロック自身も、紳士の教育と王子や貴族の教育は異なるべきであると本文中に明確に述べている(333頁)。たとえば、それまでの王子や貴族に対する教育では有効であったラテン語が、紳士に対してはまったく無意味なものになる。紳士にとって必要なのは実業社会で実際に活躍することができる実力であり、実力を確実に養成する実践的な教育である。名誉や教養によって人の上に立つ貴族とは力の発生源が根本的に異なっている以上、教育も決定的に異なるものとならなければならない。だからロックは、王子や貴族を育てる方法ではなく、あくまでも「紳士」を育てる教育について記述したのだった。そしてそれは「人間一般」を育てる普遍的な教育でもない。ロックは自分が属する階級であり、これからの時代の主役である「紳士」の教育の有り様を祖述することに関心と使命を持っていたわけだ。彼のアクティブ・ラーニングは、そういう紳士教育の実際的な要求から生じたものであって、単なる机上の教育論から出てきたものではない。
 ひるがえって、現代の学習指導要領を見てみると、もちろんそこには社会構造の転換が如実に反映している。その具体的な特徴は当然ロックの時代とはまったく異なるわけだが、これまで通用した教育が通用しなくなって新しい教育の形が切実に必要とされているという点で、形式的には類似した状況にある。ロックも、現代社会も、従来型の教育では通用しない新世界で活躍できる自発的で主体的な人間を作ろうとしている。これまでのマニュアルが通用しなくなったとき、おそらく人は「真の実力」というものの教育を夢想する。

 まあ、教員採用試験対策で「ロックの教育論といえばタブラ・ラサと紳士教育」などというふうにひたすら暗記して、教員になってから絶対に現場で使えないような死んだ知識をむりやり脳味噌に詰め込むような姿勢が、まるでロックの精神と反していることだけは確かである。

 あと、「習慣」の形成を重要視する教育論は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』などでも主張されているような西洋古代からの経験主義的な伝統をおそらく正統に引き継いでいるだろう。そしてこれが「教育=習慣/学習=個別知識」の二項対立的観点の基礎的な土台となっているであろうことは、備忘的にメモ。

【個人的備忘録】新学力観を想起させる文章の抜粋
「監督者の重要な仕事は、態度を形づくり、精神を形成することであり、その生徒に良い習慣と徳と知慧の原理をつけ、さらにわずかずつ人間について見識を与えることであり、その生徒に、優れたもの、称賛に値するものを愛好し見習うようにさせ、またその実行に当っては気力、積極性と勤勉さを与えることです。」(138頁)「理性は、もし相談を受けるなら、子供たちの頭に、その大部分は、彼らが生きている限り二度とは思い出さない(彼らがそうする必要がないことは慥かです)ような屑を、一杯詰め込むよりはむしろ、彼らが大人になったとき、彼らの役に立ちそうなものを手に入れることに、子供の時間は費やされなければならぬと忠告してくれるでしょう。」(140頁)「家庭教師と生徒が一緒にいる時間は、講義をしたり、生徒が守り、従うべきことを高圧的に生徒に命ずることですべて費やされてはなりません。生徒の番になると、その言い分を聞いてやり、持ち出されている事柄については、理性的に考えるように取扱えば、諸規則もさらに容易に受け入れられ、さらに深く心に刻まれ、生徒に勉強、知識を好むようにさせるでしょう。」(148頁)

「子供たちが習う作品の大部分を無理やり暗記させられることですが、こういうことはなんら利益になるものではなく、とりわけ彼らがとりかかっている仕事にはなんの足しになるものとも思えません。」(276頁)

「知ることのできる一切のことを子供に教えることではなく、知識に対する愛と尊敬の念を子供の心に起こし、子供にその気があれば、自分自身で知り、向上する正しい軌道に乗せることです。」(305頁)

ジョン・ロック/服部知文訳『教育に関する考察』岩波書店、1967年<1693年

【要約と感想】アリストテレス『形而上学』

【要約】存在を存在として探求する学というものがあり、それは「矛盾律」のような疑い得ない確かな定理を土台として構築されるものでしょう。そして存在について厳密に考察を進めると、「イデア」のような考え方は必要なくなります。

【感想】個人的な見所は、「一」というものに対する徹底的な吟味と、「可能態=質量/現実態=形相」という措定から演繹される諸結論の2つだ。

人間が或る何かを「一」であると認識することができるのは、たしかに不思議な力だ。たとえば人間のことを「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」というふうには認識しないで、「一人の人間」と認識する。どうして我々は物事を「多」ではなく「一」と認識するのか。この「一」という認識は、そのまま「人間が存在する」という「存在」に対する認識である。どれだけ「2つの目と2つの耳と2つの手と2つの足と…」という認識を深めていっても、決して「一人の人間」という認識には到達しない。「一人の人間」という認識に飛躍的に到達したときに、初めて「一人の人間がいる」という認識が可能となる。だから「存在」を存在そのものとして理解するとは、「一」を認識できる根拠を理解することである。

アリストテレス自身は、この「一」を「尺度」として探求し、数の原理的考察から追い詰めていこうとしている。「一は数ではなく、二から数である」という認識は、「一」というものを原理的に問い詰めていった末の結論であって、一定の世界観を示している。

私自身は、この「一」とは生命原理に由来するように思える。アリストテレス自身も「霊魂」へ言及するところで仄めかしているのだが、人間は何らかの「生命の塊」の単位を「一」として認識しているように思える。それは「全体と部分」の関係からも洞察される。ある部分を切り離したときに全体そのものが失われるという場合、その部分は「多」ではなく「一」として全体に含まれている。そもそも「ある部分を切り離したときに全体そのものが失われる」とは、一部の毀損によってなんらかの「生命」が失われることを意味するだろう。生命が失われたとき、「一」は成立しなくなる。その場合の「生命」とは、無生物にも適用できる。それは「働き」の単位である。何らかの「働き」をするものがあったとき、それが「多」から合成されたものであっても、我々は「一」と認識する。ある工場群に大量の工作機械があって、働く人間やロボットや建物が「多」であったとしても、その工場群の「働き」が一つであるとき、我々はそれを「一」と認識する。我々は「働き」の単位を「生命」として認識するということだろうか。
そしてここまでくると、物事の本質を「アレテー=徳」として捉えたソクラテス=プラトンの議論とも響き合ってくる。プラトンによれば、アレテーとは、物事に本来備わっている「働き」を完全に発揮することだ。このソクラテス=プラトンとアリストテレスの議論を重ねると、「徳=アレテー」を完全に発揮したものこそまさに「一」であり「生命」であるという話になる。

【この本は眼鏡っ娘について語っている】
ところで我々は、どうして眼鏡っ娘のことを眼鏡っ娘と理解できるのか。どうして「眼鏡」と「娘」が合成されただけの、つまり部分が集合した「多」として認識するのではなく、全体としての「眼鏡っ娘」、つまり「一」を認識するのか。たとえばアリストテレスはこう言う。

しかし、或るものから複合されて、その結果、全体として一つであるような複合体は、すなわち、穀粒の集積のようでなしに語節がそうであるように複合されたものは、――というのは、語節はたんなる字母どもではなく、BAはBとAとではなく、肉は火と土とではないからである。なぜなら、複合体、たとえば肉または語節は、それぞれの要素に分解されると、もはや(肉とし語節としては)存在しないが、字母どもはそのまま存在し、火や土もまたそうだからである。そうだとすれば、たしかに語節は或るなにものかである、すなわちそれはたんに字母ども(或る子音と母音と)であるのではなくて、さらにこれらとは異なる或るなにものかである。(1041b)

この文章は明らかに眼鏡っ娘について語っている。眼鏡っ娘とは「眼鏡と娘の複合体」ではなく、これらとは異なる或るなにものかである。そしてこの眼鏡っ娘を単なる「眼鏡と娘の複合体」ではなく「眼鏡っ娘全体」にしている「或るなにものか」こそが眼鏡っ娘の実体であり本質である。この実体や本質を追究することこそが、眼鏡っ娘学の使命と言える。

また本書は、「眼鏡っ娘の生成」に関しても多方面から大きな示唆を与える。たとえば、眼鏡っ娘が眼鏡を外したら直ちに眼鏡っ娘でなくなってしまうのだろうか? アリストテレスは「実体」という概念に即してこの問題を検討している。

もし実体が、さきには存在していなかったがいまは存在しているとか、あるいは逆にさきには存在していたがのちには存在しなくなっているとかいうようなものであるとすれば、このことは、生成しまたは消滅する過程においておこることと考えられる。しかるに点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはあり得ない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生成し、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に(生成過程においてでなしに一挙に)生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときには今まで存在しなかった二つの面が存在している。だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、何から生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない、しかもそれにもかかわらず常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在でないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである(1002a-b)

アリストテレスが言っているのは、眼鏡っ娘にとっての「眼鏡」とは、立体を切断するときの「面」のようなものであり、時間で言うところの「いま」のようなものだということである。それらは等しく「生成や消滅の過程にはあり得ない」ような、「一挙に生じる」という性質を持つ。つまりそれは「実体的な存在ではないことを示している」ということである。アリストテレスの論理に従えば、眼鏡っ娘が着脱する眼鏡そのものは眼鏡っ娘にとっての「実体」ではない。

この眼鏡の着脱が眼鏡っ娘そのものを消滅させるかどうかについては、アリストテレスの言う「可能態/現実態」の概念が参考となる。アリストテレスはこう言う。

なにものも、ただそれが現に活動しているときにのみそうする能がある(活動しうる)のであって、活動していないときにはその能がない。たとえば、現に建築していない者は建築する能がなく、ただ建築する者が現に建築活動をしているときにのみそうする能があり、同様にその他の場合にもそうである、というのである。だが、この説から生じる諸結果の不合理性を見つけることは容易である。
というのは、明らかに(この説からすると)なんぴとも、現に建築していないならば建築家ではない、という(不合理な)ことになるからである(なぜなら、建築家であるということは建築する能のあるものであるということだから)。(1046b)

この論理は眼鏡っ娘は眼鏡をかけていないときでも眼鏡っ娘であると言うことを示唆する。「可能態としての眼鏡っ娘」とは、メガネっ娘居酒屋「委員長」で新城カズマ氏が語った「未がねっこ」概念を指し示している。では、その「可能態」とはどういうことか? アリストテレスはこう主張する。

しかし、もし実際に、我々の言うように、この「人間」のうちの一方はその質量で、他方はその型式であり、一方は可能的に、他方は現実的にあるのだとすれば、ここに問い求められているところは、もはやなんらの難問とも思われないはずである。(1045a)

「眼鏡っ娘」のうちの一方(可能態)は質量であり、他方(現実態)は型式である。こう考えれば、もはや矛盾は解消される。様々な個別の質量(可能態)=未がねっこに対して、眼鏡っ娘の型式が備わったものが現実態としての眼鏡っ娘である。しかし眼鏡っ娘はどのようにして可能態から現実態へと転化するのだろうか? アリストテレスはこう言う。

では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの(丸くありうる青銅)が現実的に存在する(現に丸くある)にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動者を除いては、そのほかになにがあろうか? というのは、可能的に玉であるものが現実的に玉であるということには、他になんらの原因もなくて、まさにこうあることがこの両者の本質なのであったのだから。(1045a)

アリストテレスによれば、未がねっこ(可能態)が眼鏡っ娘(現実態)であることは、「他になんらの原因もなくて、まさにこうあることが両者の本質」なのだ。ただしそこには「能動者」という原因が想定されている。「能動者」とは何か? アリストテレスによれば、それは「種子や医者や勧告者やそのほか一般にこうした能動者、これらすべては、それから物事の転化または静止の始まる始まり(始動因)としての原因である」(1013b)ということになる。そこで問題は、この「始動因」としての「能動者」の有り様ということになる。この問題については、残念ながら本書では詳らかにならない。

アリストテレス/出隆訳『形而上学〈上〉』岩波文庫
アリストテレス/出隆訳『形而上学〈下〉』岩波文庫

【要約と感想】プラトン全集7

【要約】「テアゲス」「カルミデス」「ラケス」「リュシス」を収録。「テアゲス」は偽書の疑いが濃厚。ほか3編は、ことばの本質を求めてアポリアに至る初期対話篇の趣旨をよく伝える。いずれも「教育」に直接関わるテーマというところで共通している。

【感想】「テアゲス」:まるでソクラテスが超能力者のように描かれていて、違和感全開。「知識」がなにかがテーマになっていながら、その本質に迫る様子も見られないし。偽書の疑いが濃厚なのも仕方ない内容。

「カルミデス」:少年愛の神髄を示す導入も独立しておもしろい。テーマ自体は「節制」についてだが、「知識とは何か」に対する追究が本質的な内容となっていく。「知の知」という「メタ的」な議論が成立するかどうかへの吟味が見どころ。

「ラケス」:テーマ自体は「勇気」についてだが、やはり「知識とは何か」に対する追究が本質をなす。コンパクトなまとまり具合という意味では、とても分かりやすい。

「リュシス」:対話相手が少年ということで、ソクラテスに明らかな教育的配慮があり、他の対話篇と比較したときに異質な印象もある。テーマ自体は「友情」について。少年愛のありかたとかパイタゴーゴスの具体的な活動も分かる。

『プラトン全集〈7〉 テアゲス カルミデス ラケス リュシス』岩波書店、1975年

【要約と感想】プラトン全集1

【要約】「エウテュプロン」「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」を所収。ソクラテスが裁判に訴えられてから、裁判を経て、死に至るまでの作品がまとまっている。

【感想】「エウテュプロン」は、ことばの真の意味を求めて最終的にアポリアに至る初期対話篇の構成をとてもわかりやすくしめしている作品だと思う。「弁明」と「クリトン」も、ソクラテスのキャラクターを素朴に伝えているように思う。
一方「パイドン」は、それに対してプラトン思想の集大成的な感じもする。自己同一性に対する執着とか、想起説とか、「魂の世話」に一直線に向かっていく初期対話篇には存在しなかった趣が含まれている。眼鏡っ娘論的に含蓄が深いのは、自己同一性に徹底的にこだわる「パイドン」のほうだ。

『プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン』岩波書店、1975年

【要約と感想】プラトン『法律』

【要約】おれの考えた最強の国家は、人々を徳に導く教育をいちばん大事にします。

【感想】プラトン終生のテーマであるところの、魂の不死とか、真の知識とか、正しい生き方がいちばん幸せとか、一と多の関係とか、お馴染みの議論がいつものように展開される一方で、この本でしか見られない具体的な教育論とか法律論も盛りだくさん。

教育学的観点から興味深いのは、子供に関わる様々な記述だ。プラトンは、しばしば子供を完全な無能者として扱っている。たとえば「「再び子供にもどる」というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなるのですね。」(646A)とか、「これらの犯罪のどれかを犯す者は、おそらく、狂気の状態にあるために、あるいは、病気にかかっているとか、非常な高齢にあるとか、子供に近い状態にあるとかで、狂気の人と少しも変らない有様」(864D)というふうに、子供を発狂者や痴呆老人や酔っ払いと同じカテゴリーに入れて無造作に扱っている。子供期を特別な価値を持った時間とは、明らかに捉えていない。彼が特別な敬意を払うのは、決まって老齢の人々である。

が、一方でプラトンは幼児期の教育(胎教含む)に高い意義を認め、さらに子供の遊びが人格形成に与える影響を積極的に評価している。キリスト教的な子供観と異なる価値観が見えるのも間違いない。ただし、こういった幼児期教育の重視は、「子供というものは、すべての獣の中でもっとも手に負えないものです。」(808D)というような、子供を一個の人格としては認めない認識と表裏一体ではある。

他、教育に関する見所は、職業訓練的な教育(いわばinstruction)の意義を否定し、人格形成のための教育(いわばeducation)を真の教育と明確に述べているところなど(644A)。徳のための教育を真の教育と見る姿勢は初期対話編から終始一貫しているわけだが、多くはソフィストとの対比で語られていて、ここまではっきり職業訓練的な教育と比較している箇所は珍しいかも。後のヨーロッパ的思考の土台となる「教育/教授」を区別する枠組みが既に確認できる。

また、法律論でも、懲罰刑ではなく教育刑の意義を前面に打ち出している点とか(まあ、それにしては死刑への沸点が低すぎるけど)、奴隷や動物や無生物が犯罪を犯した場合の対処とか、ヨーロッパ的な法思想枠組を考えると、興味をそそられる論点が多い。

あと、お葬式で死体を重要視しないように勧告するところなどは、一周回って仏教と同じような議論になっていて、なかなか興味深かった。魂の不死と輪廻転生を信じた場合、論理的に筋道をたどれば、同じような結論に至るということか。

プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈上〉』岩波文庫
プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈下〉』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」