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【要約と感想】金子晴勇『アウグスティヌスの知恵』

【要約】アウグスティヌスの膨大な著作全体に目配りした上で、重要なキーワードを含む記述を引用して、専門的な知見から解説を加えています。アウグスティヌスの思想を全体的に概括できる構成になっています。

【感想】多くのアウグスティヌス概説書は、おおむね『告白』と『神の国』に依拠してアウグスティヌスの経歴と思想を説明している。それが悪いというわけではないし、分かった気にも一応なれるのだが、なんとなく食い足りないと感じた時にとても良い本のような感じがする。膨大なアウグスティヌスの著作の中から、専門研究が蓄積してきた知見を踏まえて重要な記述を抜粋し、周辺情報も加えて解説してくれている。著作全体に直接当たるつもりはないけれども『告白』『神の国』以外の本に何が書いてあるかをさっくり仕入れておきたい向きは重宝するでしょう。まあ最終的には、本書を入口にして、著作そのものに触れる必要が出てくるのでしょう。

【個人的な研究に関する備忘録】
 三位一体と「ペルソナ」に関する言質を得た。

「「したがって、御父であることと御子であることは異なるが、しかも実体が異なるのではない。なぜなら、御父といい、御子という表現は実体によって言われるのではなく、関係によって言われるからである。しかも、この関係は可変的ではないがゆえに、付帯性ではない」(同V.5.6)。したがって神の三位格「父」「子」「聖霊」が相互に「関係的」に述べられるのは、それぞれのペルソナに固有の意味で属している特性を意味するものである。それゆえ「ペルソナ」は「関係」を意味する
 ところで、このペルソナの理解はそれまでは明確でなかった。元来は役者が付けた「仮面」の意味や「役割」や「人物」を意味していた言葉であるが、ペルソナ(persona)は対話する者の間に相互に言葉が「響き渡る」(per sonare)ことを意味する。そこでアウグスティヌスはペルソナを三位の間の関係を示すものとして使用した。それを示したのが上記の引用文である。それ以来ペルソナは中世を通してキリスト教神学においては「関係」概念として用いられるようになった。だが近代に入ると、ルネサンスの影響から人間的な尊厳を表わす概念として「人格」の意味をもつようになった。」pp.47-48

 個人的に関心を持っている課題について、知りたいことがかなり簡潔に述べられている。「ペルソナ」という言葉が古代から近代的な「人格」の意味で用いられていたと考えている研究も多いところだが、本書では「古代中世のペルソナ」と「近代の人格」を異なる概念として理解している。私も常々そうだと思っており、個人的には極めて都合の良い記述となっている。その主張に説得力を持たせるために必要なのが、アウグスティヌスの言うペルソナが「関係」という観点から使用されているというところ、とても勉強になった。やはり『三位一体』という著作には直接当たらなくてはならない。

 また、「個体発生が系統発生を繰り返す」という発想について、アウグスティヌスが『真の宗教』で言及していることもメモしておく。

「全人類はアダムから現世の終末まであたかも一人の人間の生涯のようなものであって、神の摂理の法則の下に導かれて二つの種類に分かれて現われる。」p.94

 このテーゼは『神の国』でも繰り返し現れているところである。正しいか間違っているかは別として、「個体発生が系統発生を繰り返す」という発想がどこから何に由来して生じてきているのか考えるために重要な証言だ。

金子晴勇『アウグスティヌスの知恵』知泉書院、2012年

【要約と感想】S.A.クーパー『はじめてのアウグスティヌス』

【要約】アウグスティヌスの生涯について、『告白』の摘要紹介と、それに対して最新の研究を踏まえたコメントを加えることで、分かりやすく解説しています。

【感想】『告白』という本は、アウグスティヌスが修辞学の高度な専門家だったことからか極めて凝った言い回しが多く、また文脈に即した聖書からの引用が頻繁にあったりして、文体に慣れていないと何が言いたいかよく分からなかったりする。本書は、そういう修辞学的に凝った部分をスパッと切り落として『告白』という本の概要を分かりやすく再構成している上に、最新の研究成果を踏まえて多角的な視点から解説を加えている。『告白』の原典そのものに挫折した方も、こちらなら読めるかもしれない。アウグスティヌスの伝記的知識を一通り押さえておきたい向きにはお勧めの本になる。
 が、アウグスティヌスの他の著作(たとえば主著『神の国』)や『告白』の後半部に関する言及はそれほど厚くないので、思想の全貌を大掴みしたい場合は、他の概説書も併せて見ておくのがよいかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関するコメントがあった。

「アウグスティヌスは、人間についての深い理解をもたらしている。自己は、徹底して社会的なものだとはいえ、個人は、神との関係のうちに、肯定的であれ否定的であれ、取り返しのつかない仕方で巻き込まれるのである。その内的な空間、その主観性において、人間の自己は、自らが経験を構成する時間の一瞬一瞬のうちにばらばらにされているのを見出している。それゆえに、私たちは決して完全ではないという感覚につきまとわれているのだ。実際、人間の自己はそれ自体としては不完全である。そして、そこに神が入ってくる――いやむしろ、神は常にそこにいる。なぜなら、そのようにして神は「存在する」のであり、いつもそうなのだ。自身の一体性を欠いている人間の自己は、神の一体性から見たときにのみ、その一体性を見出すことができる。そして、神の一体性――アウグスティヌスが、自らの回心と司教としての生活のうちに発見した――は、人間的な形で人間存在に手に入れることが可能になる。はじめは、キリストにおいて、つぎは教会においてである。というのも、教会は、キリスト教的な実存の社会的な「内在」であり、私たちの救いを実現するための空間なのだから。」pp.300-301

 個人的な感想を言えば、大雑把にはそうだろうとしても、雑なところが多い見解のようには思う。本当にこれでいいのかどうか。まあ察するに、著者としても詳しく見解を述べようとすればいくらでも言いたいことがあるところで、単に入門書に簡潔にまとめようときにこういう表現に縮減せざるをえなかったということだろうけれど。

S.A.クーパー『はじめてのアウグスティヌス』上村直樹訳、教文館、2012年

【要約と感想】宮谷宣史『人と思想 アウグスティヌス』

【要約】アウグスティヌスの生涯と思想を、「愛」というキーワードを中心に解説しています。類書と異なる本書の特徴は、著作の全体像について目配せが効いているところ、その後のヨーロッパへの影響と日本における研究史が簡潔にまとめられているところになります。

【感想】著者の誠実な研究姿勢が行間から滲み出ているような感じがして、味わいながら読める良い本だった。アウグスティヌスのキャッチフレーズが「愛の思想家」だということは知識としては知っていても、それが具体的にどういうことかは、愛に溢れる著述に実際に触れないと、本当のところは分からないものかもしれない。個人的には、彼の言う「愛」がどういうものか、その一端を垣間見たような気がしたのだった。世界が「愛」で成り立っていることを心の底から信じられたら、それは確かに掛け値なく「幸福」と呼んでいいものだろう。少なくとも「金」とか「力」で世界が成立していると思っているよりは、ずっと。

【今後の研究のための備忘録】
 教育に関して見逃すことのできない記述があった。

「若い教会の指導者から、初心者を教え導く時に、どのようにしたらいいか、何が大切か、という質問を受けたアウグスティヌスは、自分の考えをまとめて書いて、『教えの手ほどき』(400年)という本の形にしてそれを返事として送った。この文書のなかで、彼は教育において、指導するさいに、大切なのは、愛である、と繰り返し述べている。つまり、話す場合も、聞く場合も、愛が基本で、また愛が人を養い育てることを確信していた。」p.126

 文庫本の形で簡単に手に入る代表的著作『告白』と『神の国』は読了したものの、その他の膨大な著作に目を通す時間は確保できないなと思っていたが。この『教えの手ほどき』は読んでおかないとまずいような気がする。確かに教育で一番大切なものは「愛」ですよ。

宮谷宣史『人と思想 アウグスティヌス』清水書院、2013年

【要約と感想】岡野守也『ストイックという思想 マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』

【要約】ストイックとは、世間一般でしばしば言われるような「禁欲主義」という意味ではありません。実際には、社会が必要とする公務=ミッションを透徹した理性と強靱な意志でやり抜く姿勢を示す言葉です。この姿勢の背景には、宇宙全体を「一」として理解するコスモロジーがあります。我々はみんな宇宙の一部であり、あらゆる出来事が自然の理法のうちにあることを理解すれば、自らの不運を嘆いたり、快楽に走ったり、辛い仕事を避けたりするようなことは、すべて無意味だということが分かります。起こる出来事はすべて受け容れて、自分がやるべき仕事=人間にしかできないミッションを粛々とやり抜きましょう。それが人間固有の幸福というものです。

【感想】ストア派の思想が今こそまさに必要になっているという時代認識の下で書かれた本だ。具体的には2011年の東日本大震災を受けて行われた講義が元になっているが、もっと長い目で見ても、まさに今こそストア派の思想が必要だという時代認識が各所で示されている。実際、本書以外でも、ストア派の考え方を扱う本が増えているような印象がある。
 その中でも本書の大きな特色と言えるのは、ストア派のコスモロジーを前面に打ち出しているところだ。他の本は、ややもすると「辛い現代を生きる賢人の知恵」という特徴を前面に打ち出しがちのように思うし、実際そういうところに世間の需要があるのだろうとも思う。しかし本書は、現代を生きる知恵も扱いつつ、その物理的・論理的・神学的背景となっている体系的なコスモロジー(宇宙論)を随所で強調しているところが大きな特徴だ。宇宙は一つであり、我々はその一部であり、あらゆるものが宇宙の一部であり、だとすれば我々はあらゆるものと親和的に結びついている、というコスモロジー。この原理原則から、マルクス・アウレーリウスの言葉を読み解いていく。あるいはマルクス・アウレーリウスの言葉を味わいながら、ストア派コスモロジーの原理原則を確認していく。個人的には、単に「辛い現代を生きる賢人の知恵」としてストア派の考え方を利用するのもいいのだが、本書が示しているように、ストア派コスモロジーそのものに共振できるかどうかが本質的な意味を持つように思う。
 分かりやすく平易な文章だけど、深掘りするといろいろ出てくる、味わい深い本だったように思った。

岡野守也『ストイックという思想 マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』青土社、2013年

【要約と感想】國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち』

【要約】西洋哲学史のうち、特に紀元前4世紀(ヘレニズム期)から紀元2世紀(ローマ帝政前期)までに活躍した、ストア派の哲学者たちの思想を詳説しています。ストア前史としてキュニコス派の樽のディオゲネスから始まって、ストア前期(ゼノンなど)、ストア中期(パナイティオスなど)を経て、後期ストア派のキケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを大きく扱っています。
 ストイックとは、痩せ我慢とか諦念の態度などではなく、強い意志を持って自分の人生を「自由」で「幸福」に生きる姿勢のことです。

【感想】ギリシア時代の哲学(ソクラテス・プラトン・アリストテレス)については入門書も概説書もたくさんあるのだけれど、ヘレニズム期からローマ期の思想状況について扱った本は、がくっと少なくなる傾向にある。そんな状況にあって、さっくり時代状況を概観できて、痒いところにしっかり手が届く、とてもありがたい本なのであった。
 一方で、近年はストア派の思想に脚光が当たっているような印象がある。おそらく、現代日本の時代状況が、2000年前のローマの状況とよく似ている(行き詰まり感という意味で)から、ストア派の考え方に対して需要が生じているのだろう、と思う。プラトンやアリストテレスのような閑暇と観照の哲学ではなく、人生の指針となり行動に反映するような「幸福になるための知恵」に対する需要。
 そんなわけで、ストア派固有の壮大な宇宙論にはあまり注目されず、自分の心をコントロールする知恵と技術に焦点が当たりがちなのだが、本書にもその傾向が見られるような気はする。個人的な関心から言えば、有機体論の系譜に興味があるわけで、そのあたりは食い足りない印象ではあった。まあ、それが別に悪いというわけではない。

【今後の個人的な研究に対する備忘録】
 「人格」に関する記述があった。著者が翻訳したエピクテトス『人生談義』にもほぼ同じ記述があったけれども、やはり微妙な違和感がある。

「「それぞれの人格、状況、年齢に照らして何がふさわしいか、何が適性かを問うならば、たいてい義務が見出されることになる。」キケロ『義務について』(Ⅰ 125)
とある。ここで義務と関連の深い言葉が人格である。ラテン語では人格はペルソナという語で表現される。そして、キケロの『義務について』において独特の人格論を展開しているのがパナイティオスである。」pp.109-110

「ギリシア語で「顔」はプロソーポンと言う。プロソーポンはまた「仮面」の意味をも持ちうる。仮面とは悲劇や喜劇において舞台俳優が着けるものであり、表面的な顔とは違ったもうひとつの顔である。いわば内面の自己を言う。それがその人の「人格」にもなる。人格は英語ではpersonality(パーソナリティ)であるが、これはもともとラテン語のペルソナに由来している。ペルソナはギリシア語のプロソーポンに相当する語で、同様に「顔」や「仮面」の意味を持っている。これがキケロなどを通じて後に近代の人格概念に受け継がれていく。カントの場合、『人倫の形而上学』において展開された人格性(Personlichkeit)の概念が倫理学だけでなく彼の哲学において重要な意味を持つが、このような議論の淵源は中期ストア派のパナイティオスの思想にある。先に述べたように、パナイティオスの書物は失われて現存せず、『義務について』において、特にその第一~第二巻で紹介されているが、ペルソナ論はその第一巻(Ⅰ 107-125)で展開される。
 キケロは言う。まず自然は二つのペルソナを私たち人間に身につけさせた。ひとつは人間が理性を持つことによって得られるすべての人間に共通の人格である。もうひとつは足の速い人もいれば遅い人もあり、腕っぷしの強い人もいれば弱い人もいるように、個人に固有のものとしてある人格である。そして、個々の人格に応じてなすべき行為もまた異なってくる。」p.110
「第三のペルソナは偶然や機会に左右されるものである。たまたま王位に即くことができたとか、富、財産を得たとかいったことで、持つに至るのがこれである。第四のペルソナはそれぞれの選択によって得られたものを言う、哲学に向かう人もいれば、市民法に関わる人もいるし、軍人となる人もいる。以上の四つのペルソナを簡略化して示せば、(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナがあって、それらが人間の人格を形成すると考えられるわけである。」p.111

 まず違和感を持つのは、ペルソナ=仮面が「表面的な顔とは違ったもうひとつの顔」であるのはいいとししても、すぐさま「いわば内面の自己を言う」と続くところだ。論理的には、順接しない。飛躍がある。常識的に考えれば、仮面はただの「仮」の面に過ぎず、内面は「内」の面として別のところにある、となりそうなものだ。「仮」面を直ちに「内」面に結びつけるのは、理解しがたい。(まあ、このあたりの論理の飛躍には坂部恵の影響が大きいような印象はあるが)
 実際、上記引用した「ペルソナ」という語は、「内面」と理解するのではなく、「社会的役割」と考えた方が落ち着きが良い。「仮面」というものは、「内の面とは全く関係がない、一時的に担わなければならない仮の社会的役割」と考えた方が、論理的にも常識的にも座りがいい。仮面を外したら、もうその社会的役割を担う必要はない。キケロのいう「義務」も、ペルソナを「内面」ではなく「社会的役割」と考えた方がしっくりくる。著者が整理する「(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナ」も、それを「内面」と理解する理由も必然性もなく、単にそれぞれ「時と状況によって付け替え可能な社会的役割」があると理解するほうが、「仮面=内面とは無関係に付け替え可能な役割」というものの機能ともすんなりと順接する。
 で、こういう内面とはまったく関わりのないただの「ペルソナ=仮面」が、近代になると、カントに代表されるように、極めて重要な意味を担う言葉になる。なんでこうなったのかについてはいろいろな論者が関心を持って追究しているのだが、個人的に共感するのは、八木雄二の見解だったりする。要するに、キリスト教の論理(とくに三位一体の教義)が決定的な仲介者になるという考え方だ。八木の見解(と私の直観)が正しいとすれば、キリスト教の影響を受けていないストア派の「ペルソナ」が近代的な「人格」概念が担うような意味を持つわけがない、ということになるし、実際にテキストに触れてもそうだろうとしか思えないわけだ。
 ただし、だからといってストア派に近代的な人格概念がないかと言われれば、即座にそう決めつけることもない。個人的には「ペルソナ」という言葉以外の部分で、総合的に表明されているように思う。特に「宇宙は有機体として一つ」であり、「人間はその大いなる一の部分」であるという考え方は、近代的な人格概念を理解する上で決定的に重要な背景を為すだろうと思っている。そんなわけでストア派や新プラトン主義の「有機体」に対する考え方には興味津々なのであった。
 まあ、このあたりは、ライフワークとしてゆっくり追究していこう。(と言っているうちに人生が終わるからさっさとやりましょう、というのがストア派の思想だけれども)

國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、アルクス・アウレリウス』中央公論新社、2019年