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【要約と感想】ヘシオドス『神統記』

【要約】ウラノス→クロノス→ゼウスと、神々のトップが交替しました。神々が交わった結果、さらにたくさん神様が生まれました。それぞれの神様は、権能をそれぞれ与えられています。

【感想】いわゆるギリシア神話の、最古の原典の一つ。世界の創出からゼウスを頂点とする秩序形成まで描かれている。私がそれについて言うべきことは特にない。

個人的に気になったのは、作者のヘシオドスがミソジニー(女性嫌悪と蔑視のカタマリ)かつマチズモ(腕力主義+権威主義)ということだ。やたら女に対して厳しい一方で、ゼウスには寛大だ。このあたり、ホメロスとは違うところで、本来のギリシア神話のあり方を歪めている可能性があるような気がしてならない。

手がかりは、結婚について、やたら悲観的なところか。ひょっとしたら、妻に酷い目に遭わされていただけなのかもしれない。

個人的備忘録

女が金持と結婚して貧乏人には見向きもしないという下りがあるけれども。まあ、2700年前もそりゃ変わらないよねー、というところではある。女に対する罵詈雑言は、570行~600行まで、かなり長々と続く。

「彼女たちは 死すべき身の人間どもに 大きな禍いの因をなし 男たちといっしょに暮らすにも 忌わしい貧乏には連合いとならず 裕福とだけ連れ合うのだ。」592-593行

結婚に対して批判的な下り。結婚してもしなくても男にとっては禍となるらしいが、ゼウスの呪いだから仕方ないらしい。結婚の呪いについては、602行~612行まで、そこそこ長く描かれている。

「また 彼は 善きものの代りに 第二の禍悪を 与えられた。
すなわち 結婚と 女たちの惹き起す厄介事を避けて 結婚しようとしない者は 悲惨な老年に到るのだ」602-604行

「ヘカテ」という神格についても、気になる。ホメロスにはまったく出てこないのに、神統記ではやたらと格が高い神様になっている。そして子供の養育者という権能を与えられているところは、教育学としては気になるところだ。

「クロノスの御子は 彼女を また 子供らの 養育者とされたのだ 彼女の後から 数多の事物をみそわなす曙の光を その目でみることになった子供たちの。 このように はじめから 子供の養育者であり これが彼女の特権である。」450-452行

ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫、1984年

【要約と感想】菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』

【要約】アリストテレスの狙いは「徳の論理的基礎づけ」ではなく、「道徳的発達論」にあります。

【感想】ニコマコス倫理学は教育学の本だったのか! という、目から鱗を落としてくれた本。続編の『政治学』がほとんど教育学の本であることについては私も声高に主張したわけだけど、そんな牽強付会な私ですらニコマコス倫理学を教育学の本とは読んでいなかった。なんたる不覚。アクラシアをめぐる考察を発達論的に読むとニコマコス倫理学の構造が分かりやすくなるとは、言われて初めて気づいたけれども、言われてみれば「そりゃそうだ」って感じだ。

しかし『ニコマコス倫理学』に対する私の感想文を読み直してみると、教育に関わるところにはしっかり反応していて、徳に対する教育可能性とか習慣づけの意味についてはちゃんと引用してあったりする。それにも関わらず、全体を通じて教育学として理解する視点を持ててないとは、いやはや、先入観って怖いなあ。

ともかく、教育学者の私としては、本書を「完成した人格を対象とした倫理学の論理的基礎づけ」ではなく「人間の教育可能性の追究」として読む態度に、激しく同意なのだった。自分の不明を明確に認識させられた点で、読んで良かった一冊であった。『ニコマコス倫理学』本体も読み直さなくては。

菅豊彦『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む―幸福とは何か』勁草書房、2016年

【要約と感想】八木雄二『哲学の始原―ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』

【要約】西洋哲学には大きく分けて3つの流れがあります。すなわち、(1)ソクラテスによる「無知の自覚」(2)プラトン・アリストテレスの「感覚を超越した理性」(3)エピクロス等の「自然/倫理」の3つです。ヨーロッパ中世キリスト教が引き継いだのは「2」の流れだったため、日本人など「3」の伝統に馴染んでいる人々には分かりにくいものがあります。
で、問題は「1」のソクラテスが実際に何をやっていたかですが、単に個別の「無知」を扱ったのではなく、人間として避けられない普遍的な「無知」を扱ったところが、イエスや仏教の思想などと通底する、極めて重要な論点です。

【感想】哲学入門書と銘打ってはいるけれども、実際には本人が哲学しているような本だった。まあ、哲学入門書を銘打つ本にはよくあることではあるし、いいことだとも思う。入門書としての特徴は、キリスト教神学の形成など中世の入口の描写に厚みがある点だと思う。タレス~アリストテレスで終ってしまう概説書がけっこうあるけれども、本来ならその後の新プラトン主義とかアウグスティヌスまで行って、ようやく全体像が朧気ながら見えてくるように思う。

で、考察としての主要テーマは、ソクラテスの本質が「対話」ではなかったということろ。私もご多分に漏れずソクラテスの本質は「対話」にあるなどと思っているけれども、著者は素気なく否定する。「対話」を重要視するのは、プラトンがソクラテスの本質を誤解しているせいだと。
著者によれば、ソクラテスの本質は、人間にとって本質的な無知のあり方を自覚したところだ。努力すれば解消できるような無知ではなく、人間であるかぎり絶対に超えることができないような無知を見いだしたことだ。その絶対的な無知の前で、ひとは「あきらめる」ことしかできない。そうした「理性」を超えた「信仰」の領域で、「恩恵と賛美」が生じる。そしてこの本質は、イエスや仏教にも通底するという。まあ、そうかも。

【要検討事項】が、個人的にはしっくりこないところもある。本書ではあたかも「理性の限界」を自覚したのがソクラテスやイエスや仏教の固有性だと主張しているように読めるのだけれども、プラトンやアリストテレスだって、その程度のことは自覚しているように思う。本書では数学的世界の合理性は矛盾が起きないと言うけれども(151頁)、プラトン自身は『国家』で数学的世界の限界を明確に記述している。アリストテレスも『ニコマコス倫理学』で、数学も含めた論理的世界の限界について言及している。そしてプラトンとアリストテレスは、「理性の限界」を認識したところから、さらに理性を突き詰めて一歩前に出ようとしているところが凄いはずだ。本書の記述からは、そういった彼らの仕事を評価している様子はうかがえず、プラトンやアリストテレスを舐めているような印象を持ってしまう。本書は「理性の限界」を前にして「あきらめる」ことを称揚しているように読めるし、「恩恵と賛美」が生きていくうえで重要であることは確かだろうが、本当にそれだけが誠実な態度と言えるかどうか。プラトンやアリストテレスのように「理性の限界」すら理性的に捉えようとする営為から、最終的にはヴィトゲンシュタインやゲーデルのような仕事も生まれてくるはずだ。中世であれば、クザーヌスやエックハルトや否定神学などの仕事であろう。「理性の限界」について、結局は最終的にあきらめるにしても、もっともがいてからのほうが良かったのではないかという気がする。

八木雄二『哲学の始原―ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』春秋社、2016年

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年

【要約と感想】『アリストテレス詩学・ホラーティウス詩論』

【要約】アリストテレス「おもしろい物語を作る上で重要なのは、キャラクターよりもプロット」
ホラーティウス「なにより重要なのは、キャラ立ち」
アリストテレス「えっ」
ホラーティウス「えっ」

【感想】それぞれ細部までおもしろく読んだけれども、今回は特に「性格」という言葉に注目した。「性格」とはギリシア語の「エートス」を翻訳した言葉だが、本来の「エートス」は現代日本語で「性格」と言った場合よりも広い範囲をカバーする言葉であることに注意が必要だ。さしあたってこの感想文では、「性格」のことを現代的に「キャラクター」とでも言いかえようか。

さて、まずアリストテレスは物語を構成する要素を6つ挙げ、そのうち「筋=ミュートス」をもっとも重視する。この「筋」とは、現代の感覚で言うと「プロット」のようなものだろう。マンガに詳しければ、「ネーム」と言ったほうがより正確に伝わるかもしれない。アリストテレスは物語を組み立てる骨格の出来こそが作品そのものの出来を左右すると考える。だから相対的に「性格=キャラクター」を軽視する。アリストテレスの立場では、仮にキャラクターが立っていなくても、プロットが優れていれば良い作品になる。
ただしもちろん、アリストテレスはキャラ立ちそのものを否定しているわけではなく、ホメロスのキャラ立てが巧妙なことを賞讃してもいる。

一方のホラーティウスは、キャラ立てにかなりこだわっている。物語が成功するかどうかは、キャラクターの首尾一貫性にかかっていると言う。そしてキャラクターを立てるために、しっかり現実から人間観察すべきことを主張している。

現代でも物語を作る場合、小説であれマンガであれ、「プロット」と「キャラクター」の関係はやはり問題となる。プロットを優先させるとご都合主義でキャラクターの動きが不自然になり、キャラクターを立てるとプロットが破綻するという、二律背反に陥る場合がある。アリストテレスは、キャラクターを立てるあまりにプロットが破綻すること(=機械仕掛けの神)をひどく嫌う。それに対しホラーティウスは、キャラクターの一貫性を重視する。
現代では、ホラーティウスの立場のほうに説得力があるように思える。たとえばマンガやライトノベルでは、プロットより先にまずキャラクターをしっかり作って、「キャラが勝手に動く」ような作品が結果的に成功しやすいように思う。アリストテレスが賞讃するような「プロットが巧妙な作品」は、現代では玄人受けはしても、一般受けはあまり望めないような気がする。だからだろう、アリストテレスは吐き捨てるように、「最近の読者はバカばかりで、つまらない作品が流行する。嘆かわしい」と何度も書きつけるのだった。うーん、こういうふうに「キャラ重視作品」をけなす人、今でもいますねえ。2300年前から変わらない光景なのだった。

今後の研究のための個人的メモ

この本は、現代的な観点からもなかなか見所が多い。たとえば、性格の首尾一貫性に関して、両者とも興味深いことを書き残している。

【個人的備忘録:性格の首尾一貫性】
「たとえ再現の対象とされる人物が首尾一貫しない性格をもっており、そのような首尾一貫しない性格が前提とされる場合においても、その人物は首尾一貫しない性格の点で首尾一貫していることが求められる。」アリストテレス1454a
「しかしこれまで試みられたことがないものを舞台にのせ、あえて新しい人物をつくり出すなら、それは最初舞台に現われたときの性格を最後まで保持し、己れに忠実でなければならない。」ホラーティウスpp.237-238

また、アリストテレスがホメロスのキャラ立ちを褒める文章も、現代的関心から見ても興味深い。

「これに反しホメーロスは、短い序歌を歌ってから、ただちに男または女、あるいはほかの役の人物を登場させる。しかも、彼らの一人として性格をもたないものはなく、めいめいがその性格をそなえている。」アリストテレス1460a

また、どのような人間が作家に向いているかについてのコメントは、現代にも通じるように思う。これが2000年前の文章かと思うと、なかなか怖いものがある。

「それゆえ、詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。」アリストテレス1455a
「称賛に値する歌ができるのは、生まれついた才能によるのか、それとも技術によるのか――これはよく尋ねられることだ。だが、いくら努力しても豊かな鉱脈がなければなんの役に立つのか、あるいは、いくら才能があっても磨かなければ何ができるのか、わたしには分からない。このように才能と努力は互いに相手の助力を求め、友好の契りをむすぶ。」ホラーティウスp.252

そして、演劇が自由によって栄えたにも関わらず、自由すぎて個人を中傷する表現が溢れ、あまりに表現が過激になりすぎた結果、法によって規制されたという記述は、現代の表現規制問題を思い起こさせ、なかなか考えさせるものがある。人間、2000年前から進歩しねえなあ。

「しかし自由は放縦に流れ、法の取りしまりを受けてもおかしくない暴力に堕した。法が布かれ、コロスは人を傷つける権利を奪われて沈黙したが、それは恥ずべきことであった。」ホラーティウスpp.246

『アリストテレス詩学/ホラーティウス詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年