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【北海道札幌市】北海道開拓の村で教育と近代について考える

北海道開拓の村に行ってきました。札幌駅からだいたい45分くらいで着きます。
開拓の村は、歴史的建築物の復元展示をしている野外博物館です。愛知県にある明治村や、小金井にある江戸東京たてもの園と同様のコンセプトです。
一日いても飽きない、たいへん素晴らしい空間でした。

展示はたいへん充実していたのですが、私の仕事に絡めて教育関係だけ記録しておきます。

北海中学校の校舎は、明治42(1909)年に建築されました。

北海中学校は、札幌農学校へ優秀な人材を送り込むことを主目的とした私立中等教育機関でした。明治18(1885)年に北海英語学校として設立された時は、学校の名前に「英語」とついているとおり、英語の修得を主目的とする予備校でした。というのは、当時最先端の学問を日本語で学ぶことは不可能だったからです。札幌農学校で最先端の農業を修得するためには、その条件として英語を身につけていることが必須でした。

校舎のスタイルは、木造と鉄筋コンクリートの違いがあるとはいえ、基本的には昭和まで引き継がれる形ですね。

建物内には北海道の教育に関する展示が行なわれています。教育について考えるときは、ついつい無意識に東京を中心にしてしまいがちですが、北海道の事情は東京都はもちろんまるで違っていました。基本的に開拓事業が優先され、教育は後回しにされます。森有礼が明治19(1886)年に小学校令を出して現在の義務教育の基礎を作ったことはよく知られていますが、北海道では就学期間が短くてもよい「簡易小学校」を中心に展開することになります。
初代北海道庁長官に就任した岩村通俊は、明治20年にわざわざ「教育ノ程度ヲ低フス」という施政方針演説を行なって、殖産工業重視の姿勢を強調しています。子どもは学校で勉強するのではなく、労働力として期待されています。

他にも様々な違いがありますが、特にアイヌの存在は極めて重要でした。「母語ではない日本語」を教え込むというコロニアルな仕事が教育に課せられていたわけです。

簡易小学校やアイヌの日本化が進められている一方で、この私立北海中学校は日本の近代化に貢献するエリートを養成するための学校として期待されていました。近代という時代の両極を感じられる、軽く目眩のする空間となっております。

続いて下の写真の建物は、学生寮です。札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」です。

なんだか馴染みのある佇まいだなあと思っら、東大駒場寮と雰囲気がよく似ているのでした。木造と鉄筋コンクリートの違いはありますが、形や雰囲気はよく似ているように思います。

下の写真にある「畳ベッド」も、駒場寮にあった畳ベッドを彷彿とさせます。

展示されている案内パネルもたいへん充実しており、見応えがありました。自治寮としての誇りを感じさせる内容となっております。「落書」はおもしろいですね。駒場寮の落書きもなかなかのものだったことを思い出します。

他にもたくさん見所があるのですが、ボリュームが多すぎてまとめきれません。
ともかく、同種の野外博物館との決定的な違いは、「近代の影」を垣間見ることができる点だろうと思いました。たとえば明治村は、文明開化に向かう若々しい高揚感を感じられる場所です。開拓の村でも、札幌市街を中心とした都市部の展示(写真館とか新聞社など)にはそういう若々しいエネルギーを感じることができます。
が、開拓の村には辺境フィールドも設定されていて、ここが類似博物館との大きな違いとなっています。

たとえば上の写真は「平造材部飯場」です。都内の飯場も同じような感じだったのでしょうが、北海道の厳しい自然環境の中で一人あたり畳一枚の生活は、さぞ大変だったことでしょう。
また、下の写真は、入植者が最初に建てた「開拓小屋」です。

寒風吹きすさぶ苛酷な北海道の自然をこれで切り抜けたかと思うと、かなり驚きます。近代国家として国土開発を進めるというとき、最前線はこうだったのかと。

馬車鉄道が行き交う風景は、のんびりとしたものです。

しかしこういう都市生活の裏で、最前線を支える人々の苛酷な仕事があったことが、よく分かる博物館です。そして実は現在もあまり変わっていないのでしょう。
(2018年5/21訪問)

ブロトピ:国内旅行

【北海道札幌市】北海道神宮には出雲系の神様が鎮座していた

北海道神宮に参拝してきました。名前に相違なく、北海道にある神社です。円山公園に隣接しています。

北東の方角(鬼門ですね)から鳥居をくぐります。

鳥居が南ではなく北東を向いているのは、ロシアを睨んでいるからとか。

御祭神は、以下の四柱です。

おもしろいなあと思ったのは、大那牟遅(オオクニヌシ)と少彦名という出雲系の神が名を連ねているところです。このことから勘ぐってしまうのは、イザナミが北海道を産んでいないという事情ですね。イザナミ-アマテラスに連なる神様は勧請しにくいということで、出雲系の神が勧請されたのでしょうか。ともかく、オオクニヌシとスクナビコナは出雲で国土開発に成功した神なので、開拓を願う人々にとっては適切な選択のようには思います。
「大国魂」はちょっと分かりにくいですね。武蔵府中にも「大国魂神社」がありますが、それに連なる系列というよりは、一般観念としての「国魂」が本質のようです。
そして明治天皇が昭和39年、つまり1964年という東京オリンピック開催年に増祀されたのは、どういう事情なのでしょう?

さて、参道を抜けて、本殿にお参りします。

落ち着いた佇まいですね。

境内には末社として「開拓神社」も鎮座しています。

開拓神社に祀られているのは、北海道開拓に貢献した人々です。

蝦夷関係人物オールスターという感じですね。

下は南東にある第三鳥居。

境内には六花亭茶屋もあったり、なかなかまったりとできる空間となっていました。
まあ、北海道における「カミ」について真剣に考え始めると、なかなか厄介ではありますが。
(2018年5/21訪問)

【北海道木古内町・松前町】木古内町郷土資料館と松前城

北海道の木古内町と松前城に行ってきました。

まずは2016年に開通したばかりの北海道新幹線、木古内駅へ。

北海道新幹線の木古内駅には、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平顔出しパネルが木古内町キャラクターと共に設置されていました。新函館北斗駅にも大谷翔平顔出しパネルが設置されているのですが、一緒に並ぶ北斗市キャラクターはなかなか強烈です。参照:ずーしーほっきー公式facebook

木古内駅前には道の駅があって、特産物を手に入れることができます。ここにある顔出しパネルもなかなか強烈。1831年に始まった「寒中みそぎ祭り」という奇祭なわけですが、1/15の津軽海峡に飛び込むって、死んじゃいそう。

木古内駅から2kmほど西に木古内町郷土資料館があります。2011年に廃校になった鶴岡小学校を利用した資料館で、目玉展示は咸臨丸の碇です。本来の役目を終えた咸臨丸は、明治政府に接収された後は輸送船として第二の人生を送っていましたが、明治4年に木古内沖で沈没してしまいます。
資料館には開拓民と本土を結ぶ様々な資料がある他、鉄道マニア垂涎の資料がたくさんあります。学芸員の方にいろいろ案内していただきました。体育館に、校歌の歌詞パネルが2つ飾られていたのが印象的でした。北海道にできた鶴岡小学校の校歌と並んで、開拓元の鶴岡の小学校の歌詞があったのでした。木古内は、山形県鶴岡市からの開拓民によって開かれた町で、姉妹都市になっていたんですね。北海道の歴史の一端を垣間見た気がしました。

さて、木古内からバスに乗って松前へ。1時間30分かかります。北海道は大きい。

松前城の入り口。信長の野望だと、最後に勧告で落としちゃうから、実際に攻め込んだことはないなあ。

松前城の案内板。天守閣は国宝だったのに、昭和24年に焼失というのは、本当に勿体ないことをしました。

本丸から天守閣を臨む。現在の天守閣は鉄筋コンクリートによる再建ですが、現在は木造による復興を目指しているようですね。

天守閣。

松前城全景の模型。津軽海峡が目前です。

そして松前には、菅江真澄が松前に上陸した沖ノ口番所があります。

菅江真澄は江戸時代の旅行者ですが、同郷の三河出身で、しかも鵜殿兵庫之城がある牟呂生まれということで、何かと親近感があります。

そんなわけで、はるばる蝦夷地までやってきた大先輩を思いつつ、松前を後にしたのでした。
(2017年8月訪問)

【北海道函館市】五稜郭と碧血碑に、戊申の涙を見る

北海道函館市、五稜郭と戊辰戦役慰霊碑「碧血碑」に行ってきました。

五稜郭タワーに登ると、城郭構造の全体像を見渡せます。地上にいても全体像を想像することが難しいから、ありがたいですね。

函館奉行所。中は博物館になっていて、戊辰戦争関連の展示が充実しています。

五稜郭タワー内にあった、往年の五稜郭全体像。鉄砲と大砲の時代に合わせた城づくりというコンセプトは分かるものの、素人に設計を任せざるを得ないというのは、幕末だから仕方ないところでしょうか。

五稜郭を満喫した後は、路面電車に乗って函館岬の南端へ移動。函館は路面電車で移動するのが風情あります。

函館山の東側麓には、函館護国神社があります。こちらには、官軍側の墓地があります。

奥まったところにひっそりと。

戊申戦役薩摩藩戦死者墓。箱館戦争では何かと旧幕府軍の悲劇の方に脚光が当たりがちですが、当然のことながら官軍の方にも大量の戦死者が出ているんですね。

さらに函館山の東麓を南下して岬の先の方に向かうと、旧幕府軍側の戦没者慰霊碑「碧血碑」があります。

昼なお暗い、山の中。ひっそりと建っています。

碧血碑。当時は逆賊ということでひっそりと立っていたと思われますが、現在では熱心な土方歳三ファンなどが訪れ、コミュニケーションノートなども設置されています。

案内板には、土方歳三の他、中島三郎助のことにも触れられていますね。題字を書いたのは幕府歩兵隊の大鳥圭介でしたか。なかなか感慨深いものがあります。

幕末維新の動乱期に命を落とした人々に思いを馳せつつ、ラッキーピエロで巨大ハンバーガーを食して函館を後にするのでした。
(2017年8月訪問)