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【要約と感想】C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』

【要約】西欧中世は、通説では無知蒙昧で野蛮な暗黒時代とされてきましたが、とんでもない勘違いで、実際にはいわゆる15世紀のルネサンスに直接繋がっていくような、好奇心に満ち溢れた創造的な時代です。近代ヨーロッパの原型は、この時代に生まれました。

【感想】大学の一般教養レベルでも「十二世紀ルネサンス」という言葉はよく耳にするわけだが、本書はその一番のモトネタということになる。原著は1927年出版で、もう95年も前のことだ。おそらく個々のトピックについては後の研究が乗り越えているところが多いだろうと想像するが、大枠の歴史観については相変わらず通用しそうだ。おもしろく読んだが、出てくる人名は馴染みのないものばかりで、現代に至ってもいかにこの時代が高校世界史なども含めて一般教養の世界からハブられているかが分かるのだった(いや、私の勉強不足なだけかもしれないぞ)。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 中学の教科書レベルでは、いわゆるルネサンスは14世紀イタリア(具体的にはダンテやペトラルカ)に始まるとされているが、本書はその教科書的通説を批判する。ルネサンスは中世を通じて段階的に形になってきたもので、具体的には8世紀カロリング・ルネサンス→12世紀ルネサンス→15世紀ルネサンス(クァトロチェント)を経て展開したとして、特に12世紀ルネサンスが決定的に重要だったという主張だ。相対的に、従来は重要視されてきた15世紀ルネサンスを軽く見ることになる。

「イタリア・ルネサンスは中世から徐々に形をあらわしてきたもので、いったいいつをはじまりとするか学者の間でも意見がまちまちで、クァトロチェント(1400年代)の名称はもとより、その事実さえ否定する人がいるくらいなのだ。」4頁
「十四世紀は十三世紀から出てきているし、十三世紀は十二世紀から出てきているという具合で、中世ルネサンスとクァトロチェントの間にはほんとうの断絶はない。ある学生がいつか言ったものだ。ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出にあいさつを送る」!」18頁

 ダンテやペトラルカが「ルネサンスの始まり」とされているのには、かねてから個人的にも強い違和感を持っていたので、そう主張する際には「ハスキンズも言ってた」と応援を頼むことにする。
 また、ダンテやボッカッチョなど14世紀イタリア人文主義者が痛烈な聖職者批判を繰り広げていることを見て個人的には凄いなあと思っていたし、私以外にもそういう感想を漏らしている文学研究者がいるのだけれども、実はありがちだったということも分かった。これからは堂々と聖職者批判をしているテキストに触れても、驚かないようにする。

「こういう作品は、パロディであると同時に風刺にもなっていて、またこの時期のラテン語の詩は風刺が非常に多いのである。そして風刺の対象は、中世にはいつも悪罵の的になっていた女と農奴、あるいは特定の修道会のこともあったが、とりわけ強い毒を含んだ攻撃は教会組織、特にローマ教皇庁と高位聖職者に向けられていた。こういった毒舌に類するものは、叙任権闘争のパンフレットに起源を求められるが、程度はさまざまであれ、おおむね絶えることなくつづいて、結局はプロテスタントの反逆にいたる。」185頁

 気になるのは、さりげなく「叙任権闘争のパンフレットに起源」と述べられているところだが、この論点は本書ではこれ以上は膨らまない。叙任権闘争の結果としてカトリックが俗世間に染まったのが聖職者批判の原因ということかどうか、ちょっと気にしておこう。

【研究のための備忘録】本
 西欧中世において「本」の値段がべらぼうに高かった(というかむしろ買うことすら不可能だった)ことは各所に述べられているのだが、これまで確かな出典には出くわしていなかった。ここにあった。ありがたい。

「蔵書は、もらうか買うか、その場で作るかしてふえていった。十二世紀には、本を買うことは珍しかった。というのは、パリとボローニャがすでに本を売買する場所として登場してはいるものの、筆写を職業とする人も、本を取引する市場もまだなかったからである。写本はもとより値が張るし、とりわけ共唱用の大部な典礼書など大へんなもの。大きな聖書を十タレントで買ったとか、ミサ典書をぶどう畑と交換したというような話もある。一〇四三年にバルセロナの司教は、プリスキアヌスの本二巻をユダヤ人から買うのに、家一軒と土地一区画を提供した。」70頁

 ネットにも「中世の本の値段は家一軒」と書いてあるサイトが散見されるのだがが、ネタモトはこれだな。有象無象のネット記事が根拠では恐ろしくて授業で使うわけにいかなかったが、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて堂々と言うことにする。

【研究のための備忘録】教育
 12世紀の教育に関する記述がたくさんあって、いろいろ勉強になった。もちろん学部生向けの基本的な教科書にも書いてあることではあるが、古典の言質を確保できたので、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて胸を張って言える。

「十一世紀のイタリアで注目すべきもう一つの事実は、俗界でも教育が命脈を保っていたことである。(中略)この階層は、書物という形で自分を表現しなかったにせよ、少なくとも法律と医学という在俗専門職の育つ土壌は作ったはずで、この二つはイタリアの社会で急速な発展をとげた。」30-31頁
「農民がその後何百年もの間読み書きの能力なしですませる一方、北方の都市住民は、基本的な教育を授ける世俗の学校をつくりはじめた。(中略)なかでもイタリアでは、世俗の教育の伝統が公証人や写字生の間にずっと生きつづけていて、たとえばヴェネツィアなど、読み書きは商人の階層にまでひろがっていた。すでにイタリアの諸都市は、それぞれ地元の法律学校のみならず、公文書や年代記も持っていた。その上、地中会見の商業共和政諸国は、東方とのコミュニケーションの要衝でもあった。」65頁

 イタリアでは古代ラテン的な教養が生き残っていたということで、ダンテやペトラルカやボッカッチョの古典的教養は改めてビザンツ帝国やアラビアから学んだものではなく、イタリアの知的伝統を背景にしていることをよく理解した。気になるのは、どうしてイタリアの俗界(商人階級)で教育が生き残っていたか、その理由と背景だ。本書では地中海貿易の要衝ということが前面に打ち出されているが、古代ローマからの伝統はどれくらい意味を持っているのだろうか。

 大学に起源についても、古典からの言質を得られて、ありがたい。「教科書に書いてあった」と言うより、「ハスキンズが言っていた」と根拠を示せる方が格好よく思えるのだった(要するにただの見栄だったか)。

「十二世紀は、単に学問の分野で復活の時代だったにとどまらず、制度の分野、とりわけ高等教育制度の分野でも、新たな創造の時代だった・はじめは修道院付属学校と司教座聖堂付属学校、終わりになって最初の大学が登場するわけで、高度の学問を制度化した時代、少なくとも制度化の動きを定めた時代だと言うことができよう。一一〇〇年にはまだ「教師が学校に先行する」が、一二〇〇年になると「学校が教師に先行する」。同時に言えるのは、その間の百年は、まさしく学問が復興したというその事実によって、一歩進んだ学校を作り出したということである。十一世紀の末には、学問は七自由学芸という伝統的なカリキュラムの枠の中に、ほぼ完全におさめられていた。十二世紀は、三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、それに神学という専門の学部を生み出した。それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学問が西ヨーロッパになかったからである。この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。知的な革新と制度上の核心が相携えて進行した。」347頁
「もともと大学(universitas)という言葉は、広く組合、あるいはギルドを意味するもので、中世にはこういう共同体がたくさんあった。それが次第に限定されて、やがて「教師と学生の学問的な共同体ないしは組合」だけを指すようになった。これは大学の定義としてはいちばん最初にあらわれた、しかも最善の定義と言うことができる。このような一般的な意味からすれば、同じ町にいろいろなギルドがあるのと同じく、いくつかの大学(universitas)があってもかまわないわけで、法律や医学などその一つ一つの大学は自分たちの共同体を大切に守り、いくつかの専門学部を擁する単一の大学に合体する段にはなかなかならなかった。」348頁

C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』別宮貞徳・朝倉文市訳、講談社学術文庫、2017年<1989年

【要約と感想】増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』

【要約】Q:ヨーロッパはどうして世界最先端になれたのか?
A:個性を大事にしたからです。

【感想】本書で言う「ヨーロッパ」とは、フランス・ドイツ・イタリアを中心とする西ヨーロッパのことで、ビザンツ帝国やロシアや東欧やイベリア半島やスカンジナビア半島は視野に入れていない。つまり、ほぼほぼゲルマン民族を対象にしている。また「中世」とは、ゲルマン民族移動が始まる4世紀から国民国家の形成が始まる16世紀までを指す。ヨーロッパが近代以降に強大になったのは、中世に培われた精神的風土が決定的に重要だと主張している。また「社会史」とは、アナール学派が言うような意味ではなく、政治史・経済史・法制史等を総合した上で、今後は丁寧な「地域史」を土台に歴史像を組み立て、発展段階史を乗り越えていくべきだという、著者独自の主張を含む方法概念だ。
 で、地域史を丁寧に積み上げていくと、西ヨーロッパには、アジアやイスラムや東欧とは異なった共通の精神的土台があることが確認できると言う。秦漢帝国や古代ローマ帝国のような「世界帝国」を拒否して、個々の地域の個性を大事にしてお互いに切磋琢磨しながら支え合うような仕組みの社会だ。個性的な市民団体や職能集団が独自の役割を果たし、王様や貴族(荘園地主)など権力者もルールに従わなければ何もできないような社会である。西ヨーロッパから誕生した国民国家とは、世界帝国を目指さずに、地域の個性を大事にする精神的風土から成長してきた制度ということになる。日本がお手本にすべきなのはこれだ、と本書冒頭から結論が出ているのであった。

 さて、こういう西欧理解は、そんなに新しいものではない気がする。具体的には、いわゆる「勢力均衡」がヨーロッパの政治原理であることは、ずいぶん昔から言われている。西欧の国がそれぞれ個性を活かしながら役割分担をすることで発展してきたことについては、明治時代の日本人も気がついているし、著者に言われるまでもなくお手本にしている。
 本書の独創性は、それを具体的に、三圃制の展開、都市の成立、農村と都市の経済的相補関係、経済圏の成立と地域の個性などなどで実証している点にあるのだろう。まさに「地域史」の面目躍如というところだ。個々の論点ではさすがに古いと感じるところもなくはないのだが、歴史像の総合的な構想については今でもおもしろく読める。
 とはいえ、グローバル化の負の側面を嫌ほど見せつけられると、一定程度、眉に唾をつけておきたくもなる。地域の個性化と役割分担は、本当に世界の人々を幸せにできるのか。結局行き着く先は、ウォーラーステインが描いたような、格差を前提とした世界資本主義システムではないか。本書は、冷戦崩壊後の世界情勢を知らない(もちろん著者の責任ではない)。

 著者が後進地域として切り捨てたロシア帝国(ビザンツ帝国を引き継いで世界帝国を目指す傾向)が、西ヨーロッパ(多様性と個性を尊重する傾向)の一員になることを目指したウクライナを攻撃し始めた2022年2月24日。著者は本書内で、地域の個性を活かして経済的に相互依存を高めれば平和が訪れると何度も何度も繰り返し主張し、世界帝国への傾向を批判しているが、グローバル化の果てに出来したこの現実を見たら、はたして何と言うだろうか。

増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』講談社学術文庫、2021年<1985年

【要約と感想】堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』

【要約】本書の「ヨーロッパ」とは、ケルト・ガリア・フランクの諸民族を基礎として、フランク王国から分離して伸長するフランス(フランス王国)、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリア(ローマ教皇)を中心に、イングランド、スカンジナビア、スペインまでを視野に入れています。ロシア(スラブ民族)とビザンツ帝国は視野に入っていません。また「中世」とは、ローマン・ガリアへのゲルマン人の移動と西ローマ帝国の崩壊あたりから始まり、15世紀半ば(つまり新大陸発見と宗教改革以前)までをターゲットにした1000年あまりの期間を指します。
 叙述は複層的に展開しますが、いくつかの軸があります。
(1)封建制の伸長過程(主にフランス王国と神聖ローマ帝国を題材に、王と貴族層の相克)。
(2)身分制の確定過程(騎士階級の位置づけを中心に流動的であったことを強調)。
(3)カトリック教会の展開(叙任権闘争など世俗権力との関係と、修道院改革など後の宗教改革の萌芽)。
(4)中世都市と村落の形成過程(北イタリアとフランドルを題材に、経済圏の議論)。
(5)辺境という視点(ヨーロッパに内在する辺境から、十字軍を通じた外在の辺境への視点移動)

【感想】通史というものは、折に触れて読むべきだろうなと思った。ひとつは答え合わせという意味があって、各所で仕入れた知識が正確かどうか改めて確認する機会になる。もう一つは、新たな問いを霊感するという意味があって、それまでバラバラに見えていたものに何かしらの関連を発見するきっかけを得られる。ということで、何気なく読み始めた本だったが、いろいろと勉強になった。

【要検討事項】三位一体
 カロリング・ルネサンスのところで三位一体に関する記述があった。

「キリスト教神学についても、また、このゲルマン男は一家言もっていた。「父と子と精霊」の三位一体論の解釈をめぐり、東ローマ教会の決定に反論し、「精霊は父および子から発する」との説を西方教会の根本教義としたのは、じつにアルクィンとカールの共謀であったのだ。」95頁

 なるほど。しかし一方、アウグスティヌス研究者山田晶は、この西方教会の教義はアウグスティヌスに由来すると主張し、アルクィンとカールの名前は一言も出さない。さて。

【研究のための備忘録】貨幣経済
 貨幣経済の進展と影響について、13世紀のペスト流行にも関わって気になる記述があったので、サンプリング。

「おそらくこの災禍は、都市においても農村においても、富めるものと貧しいものとの較差を、いっそう拡げる作用を及ぼしたことであろう。これまた、すでにじわじわと進行していた事態であった。この大災害は、人間と土地に拠ってたつ農業生産、一口にいってものの価値のたよりなさと、金銀貨の形でのかねの価値のたしかさを、しみじみとさらせる効果をもったのではなかったか。かねをためた商人、上級役人、大借地農、こういった連中が主役の社会が中世後期に現出する。主役の座から下ろされたのは、ものの体系である領地経営にしがみついた領主たちである。」386頁

 貨幣経済のインパクトというものは日本の歴史(特に個人的な専門的関心から言えば江戸中期以降の教育爆発)を考える上でも極めて重要な観点なのだが、感染症の流行という要素を踏まえると、なんとなく昨今のコロナ禍による環境変化にも当てはまってしまうような気がするという。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスという概念について専門的な観点からの言及があったのでサンプリングしておく。

「「ルネサンス」とは「再生」を意味する。なにが「再生」したのか。言葉本来の用例では、古典ラテン語と古典古代の美術様式が、である。
 十五世紀のイタリアの人文学者は、ダンテもペトラルカもだめだ、ラテン語でものを書かなかったから、と批評している。これが、いわば本音であって、事情は「アルプスの北の」人文学者たちにとっても同様であって、彼らの神経質なまでの気の使いようは、ホイジンガが『中世の秋』最終章に紹介しているところである。」430-431頁

 要するに、13世紀~14世紀のフィレンツェ文化の華であるペトラルカやダンテは「ルネサンス」とは認められないという主張だ。そして本書はブルクハルトを「混乱のもと」「中世という時代についての無知を背景」(431頁)と名指で批判して、世俗のルネサンス概念を修正している。これが歴史学プロパーの常識というところだろうか。私個人としては、本書の理由とは異なるが、「印刷術」の登場前と後ではまったく事情が異なるという理解から、ダンテやペトラルカをルネサンスに位置付けるのにはかなり違和感を持っている。

【研究のための備忘録】説明のシステム
 ヨーロッパ中世の歴史とは関係なく、私の個人的な研究に関わって響いたところをサンプリング。

「既成の言葉では説明しきれないと感じたとき、人は、その場その場の臨機の判断で、現実を処理してゆく。理念の体系そのものは、そのまま残されていても一向にかまわない。むしろ残しておきたいのである。説明のシステムをもたない生とは、なんと不安な生ではないか。やがて数世紀ののち、既成の理念の体系をそっくり作りかえて、新しい現実説明のシステムが生まれる。」421頁

 これは中世から近代への移り変わりを説明した文章だけれども、同じことは近代の終わりにも言えるのだろう。まさに現在、近代が生んだ「理念の体系」の要であった「人格」という言葉が説明のための力を失いつつある。しかしまだ代わりとなる「説明のシステム」は見えてこない。おそらく「持続可能」とか「共生」といった言葉が重要だろうことまでは分かるのだが。

堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』講談社学術文庫、2006年<1977年