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【宮城県柴田町】船岡城には樅ノ木が残っていた

 宮城県柴田町の船岡城に行ってきました。
 2015年には三の丸と樅の木デッキにしか行けなかったのですが、今回は二の丸と本丸にもしっかり足を踏み入れることができました。

 かつての大手門付近には、現在は地域学習施設や歴史博物館「しばたの郷土館」が建っています。

 郷土館の常設展示では、旧石器時代から近世までの歴史や古民具が展示されています。特に充実しているのは、頼朝の奥州征伐との関わりや、寛文伊達騒動についてです。

 船岡城は急峻な山に築かれています。麓から急勾配を登ると、まず三の丸に出ます。

 三の丸には冠木門らしきものが建てられていますが、うーん、これ、どうなんでしょうね。ちょっと中途半端かなあ。

 三の丸の案内パネルに船岡城の概要が記されています。

 考えてみれば、船岡城が江戸時代の一国一城令にも関わらず存続していたのは、そこそこ不思議ではあります。仙台藩は他にも白石城とか例外的に城を構えていたりするのが、なかなか興味深いところです。「城」と呼ばずに「要害」と呼べば問題ないってことなのかなあ?

 三の丸と二の丸の間は、現在では駐車場として整備されているほか、観光物産交流館「さくらの里」が営業しています。

 地元の野菜など名産品が売っている他、食堂もあります。ナスがとても安くて魅力的だったのですが、持って帰るのが大変そうなので断念して、ソフトクリームをいただいてきました。

 で、三の丸から本丸までは、かなりきつい坂になっています。足で登るのは大変なのですが、ありがたいことにスロープカーが用意されてます。

 スロープカー、本来は15分間隔で営業しているようなのですが、私が訪れたときには他に観光客もなく、いきなり一人だけで乗せてくれました。眼下にいろいとりどりの花が咲き誇り、とても楽しい行程です。桜の季節は、とても賑わいそうです。

 本丸には、寛文伊達騒動の中心人物の供養塔があります。

 しかしこの寛文伊達騒動、博物館で各種資料を読むだけでは、経過自体は分かる気がするけれども、事件の核心はまったく見えてこないんですね。

 いやほんと、どうして伊達藩が取りつぶしにならなかったのか、不思議で仕方がないところです。

 本丸には、巨大な観音像も鎮座しております。

 人はどうして巨大観音を作りたがるんでしょうかね? かつては中に入って展望することができたらしいのですが、東日本大震災の影響で、現在は立ち入り禁止となっております。

 観音様に頼らなくとも、本丸からの眺めはとても素晴らしいです。東を見やると、はるか彼方に太平洋が見えます。

 南北から山が迫ってボトルネックの地形になっていることが分かります。福島から仙台に抜けるためにはどうしても船岡を通過しなければならず、交通・軍事の要衝でした。城を作るには絶好のポイントです。
 現在は季節を感じる花々で城全体が彩られていて、血生臭い歴史を感じさせるものは微塵も残っておりません。

 城の北側、三の丸とは別の尾根筋には、「樅の木は残った展望デッキ」があります。

 寛文伊達騒動を題材に取った小説、山本周五郎「樅ノ木は残った」を記念する碑と、樅の木が鎮座しております。

 うーん、説明を読んでも、やはり何が問題なのかピンと来ないぞ。ちゃんと小説を読まなきゃだめそうですね。

 展望デッキからは、白石川沿いに立ち並ぶ桜並木を見下ろすことができます。千本桜、春はさぞかし壮観なことでしょう。桜の季節に訪れたいけど、きっと凄い人出なんだろうなあ。
(2015年5/31、2018年8月訪問)

【新潟県上越市】春日山城と上杉謙信墓所

新潟県の春日山城は、上杉謙信の本拠地として有名な城です。

麓から春日山城を見上げるの図。城に慣れていないとただの山にしか見えないかもしれませんが、目を凝らすと、人の手が入った曲輪の痕跡を確認することができます。戦国時代には築地塀や居館などで壮観だったんでしょうね。

案内板によると、裾野に張り巡らされた総構えも見所だそうですが、今回は山に連なる曲輪を中心に見学しました。

文部省が設置した案内板もありました。普通は地元の教育委員会が設置する案内板だけなのですが、さすが昭和10年に国指定史跡になっているだけのことはあります。

三の丸と二の丸を抜けて本丸に登り、北に視線を向けると、直江津の港や市街だけでなく、日本海まで見晴らすことができます。城として絶好の立地条件であることが分かります。
とはいえ、山城としてはさほど急峻な印象はありません。小谷城とか観音寺城などの山城っぷりと比較したときには、少し緩い感じがします。

本丸の跡。けっこう広くはありますが、べらぼうに広いというわけでもなく。北条や武田の城と比較すると、堀や土塁の造り込みもさほど凄いという感じもなく。千貫門周辺は確かに凄かったけれども、あの程度なら北条の城では標準装備という感じもするし。大手道と言われているルートも、技巧が少なすぎるし(あの緩さで本当に大手なのか疑問なしとしない)。あの上杉謙信の本拠地の本丸としては、畏れ多いですが、多少拍子抜けという感じは否めませんでした。
まあ考えてみれば、そもそも上杉謙信が城に籠もって戦ったこと自体が記憶にありません。ほぼ野戦に打って出ているわけで、城郭を固める方向に力がこもっていない気はします。
麓に張り巡らされた総構えを見ないうちに判断してはいけないわけですが、春日山城は単なる防御施設ではなく平時から家臣居館群として機能していた(観音寺城などと同じく)と考えて、堀や土塁などテクニカルな防御機構を期待する対象とはならないかなと。
というわけで、上杉謙信と一緒の場所に立つこと自体に万感の思いを抱きつつ、腕を組んで日本海を眺めるのが、楽しみ方として正しい気がしてきました。

さて、春日山の隣の峰に、上杉謙信の菩提寺・林泉寺があります。たいへん立派な三門です。

林泉寺は春日山城とセットで拝観するのがお勧めです。

林泉寺宝物館には謙信直筆の書などが展示されていて、たいへん見応えがあります。
禅様式で美しく整理された庭を奥へ進むと、川中島合戦戦没者慰霊碑などと共に謙信の墓所があります。

上杉謙信のお墓。感慨深いものがあります。

境内には上杉謙信の事跡紹介と共に、上杉謙信の歌の歌詞が展示されておりました。愛されております。

林泉寺から500mほど東、春日山の麓に春日神社があります。

春日神社の案内板によれば、そもそも「春日山」の名前は奈良の春日大社に由来するようですね。
春日神社の北東に春日山城史跡広場と学習施設があって、このあたりで総構えの雰囲気を味わうことができます。学習施設は、休館日の時に行ってしまったので、また改めて行かなくてはいけません。

ところで、ちょっと紛らわしいのですが、「春日神社」とは別に「春日山神社」という神社があります。春日山神社のほうが春日山城本丸に近いところにあります。

春日山神社の由緒書を見ると、明治34年に小川未明の父が作ったということで、けっこう新しい神社のようですね。

麓を歩いていると、工事現場等で使う持ち運び用ガードレールの土台が上杉謙信になっているのを見つけました。同じようなのは大阪四天王寺付近で聖徳太子が土台になっているのを見たことがありますが。地域おこしグッズとして定番なんですかね。
(2016年5月訪問)

【新潟県新発田市】堀部安兵衛の生誕地と、菩提寺の長徳寺

新発田市は、赤穂浪士随一の剣豪として有名な堀部安兵衛の出身地で、観光の目玉として前面に打ち出しています。

新発田城の近く(かつては城内の櫓跡)には、堀部安兵衛誕生之処の石碑が立っています。

さらに新発田城帯曲輪、表門へ行く橋の前には堀部安兵衛像が据えられております。

安兵衛の幟もはためいて、生誕地をアピールしております。

観光地の定番顔出しパネルのモチーフも、もちろん堀部安兵衛。衣装は討入時の格好になっていますね。

さて、新発田市は「清水園」という大名庭園でも有名です。

国の名勝にも指定されるだけあって、たいへん立派な日本庭園です。敷地内に新発田藩史料館があって、様々な歴史資料が展示されているのですが。

隣に同じくらいの力が込められた「堀部安兵衛伝承館」が建てられています。赤穂浪士のプロフィールや討ち入りの様子も分かる展示になっております。

さらに市内の長徳寺へ。

長徳寺は堀部安兵衛の家系である中山家の菩提寺で、安兵衛の父の墓もここにあるのですが、やはり安兵衛ゆかりを前面に打ち出しています。安兵衛手植えの松があったり、義士の石碑が立っていたり。

境内には「義士堂」も建っています。本当は年に一度の討入決行日(12/14)にしか公開しておらず、普段は閉まっているのですが、なんとボランティアガイドのおばちゃんの計らいで特別に中を見せてもらうことができました。

さほど広くない堂内にぎっしりと居並ぶ47士像。一人ひとり表情が違っていて、なかなか味わい深いです。伝承によれば、木像は寺坂吉右衛門が手がけて桃中軒雲右衛門が所蔵していたという凄いものということです。

軍配を振るっているから大石内蔵助か。鼻がもげちゃっていますが、2018年春を目処に47士像を順次修理することになっていました。そろそろ修理も完了した頃でしょうか。

安兵衛だけは金属で造られた像も安置されています。

そういえば47義士像でインパクトがあったのは、やはり泉岳寺の木造で、47士に加えて討ち入り前に亡くなった人物(浅野内匠頭含む)も木造になっているのですが、討ち入り時に亡くなっている人物の肌が宇宙戦艦ヤマトのデスラーのように青色で塗られているという。強烈でした。

私が新発田を去った後、長徳寺に堀部安兵衛の墓が立てられたそうです(参照:共同通信「堀部安兵衛の墓碑建立、新潟」)。また行かなくちゃなあ。
(2014年6月訪問)

【新潟県新発田市】新発田城と福勝寺

新発田城は日本百名城にも選ばれている立派な城です。

三階隅櫓が立派です。2004年に復元されたものですが、史実に忠実に再現されているとのことです。

桜の季節は、堀の向こうの隅櫓とコラボして映えそうですね。

が、残念ながら綺麗なのは目に見える部分だけで、城の大部分は消失していおり、舞台の書き割りのようになっているのでした。

案内板に記された縄張図を見ると、もともとは極めて広大な城であったことが分かります。現在残っているのは、ほんのごく一部分に過ぎません。

残された貴重な場所に向かいます。写真を撮っているのは「帯曲輪」というところで、本丸の表門を出たところに造られた、本来は出陣体制を整えるための集合場所みたいなところです。

案内板を見ると、帯曲輪の構造はかなり複雑で、そうとう防御機能が高かったように見えます。

さて、帯曲輪を抜け、いよいよ表門から本丸に入ります。が、まあ、本丸の大部分は消失していて、中はそんなに広くないんですが。
新発田城が素晴らしい名城であること自体に異論はないけれども、百名城にリストアップされるとしたら、むしろ石垣が良好に保存されている村上城も良かったんじゃないかなあというのが個人的な感想ではあります。

本丸には新発田藩初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っています。武士なのに甲冑ではなく公家スタイルの銅像というのは他にもいろいろ見ることができますが、多少違和感を持ってしまいますね。どうして公家スタイルなんだろう。

さて、新発田藩の初代藩主・溝口秀勝は関ヶ原の合戦で東軍についたおかげで新発田藩領を安堵されることになりました。が、本丸の案内板では、戦国時代には新発田重家の居城であったとされています。
新発田城から南に1kmほど行ったところに、新発田重家の菩提寺・福勝寺があります。

福勝寺の新発田重家公廟。

寺の案内板にも説明されていますが、重家は織田信長と結んで上杉景勝に謀反を起こし、会津の蘆名家や米沢の伊達家の後ろ盾もあって6年ほどは持ちこたえたものの、新発田城落城と共に命を落とします。

福勝寺門前に据えられた新発田重家の銅像。
新発田城復元の会のWEBサイトが、新発田重家や溝口秀勝の事跡を詳しく紹介しています。
(2014年6月訪問)

【福島県会津若松市】ハカマイラー:斉藤一、蘆名盛氏、柴四朗、柴五郎、西郷頼母

 会津若松には、ゆかりの人物のお墓がたくさんあります。最近は、歴史上の人物の墓参りをする人が増えていて、「ハカマイラー」などとも呼ばれたりしております。

 まずは鶴ヶ城から西北方面にある、七日町の阿弥陀寺へ。

 新選組三番隊隊長・斉藤一のお墓があったり、近くに会津新選組記念館があったりして、新選組ファンが訪れるお寺です。

 案内板によると、他にも戊辰戦争の死者が埋葬されています。案内板に「新政府軍」ではなく「西軍」と書いてあるのが、趣深いところではあります。
 訪れたのがちょうど秋のお彼岸の時期だったので、境内は戊辰戦争慰霊モードになっておりました。

 斉藤一は、戊辰戦争後に藤田五郎と名前を改めております。お墓も、藤田家之墓となっております。

 斉藤一の生涯を説明する案内板。壮絶な人生で、新選組の中でもファンが多い人物ですね。

 続いて、鶴ヶ城東方面の小田山山麓にあるお墓へ向かいます。まずは蘆名家累代の墓へ。

 蘆名家花見ヶ森廟は、現在は住宅地に囲まれて少し分かりにくいところにあります。

 蘆名家花見ヶ森廟。

 案内板では「葦名」になっています。シールを貼って修正しているから、「蘆名」を「葦名」に変えたのでしょうかね?

 16代盛氏の墓。蘆名家は鎌倉期から会津を400年支配した名族ですが、今では忘れ去られてしまっております。強者どもが夢の跡です。

 蘆名家累代の墓から小田山の山の中に分け入って、柴四朗と柴五郎兄弟の墓へ向かいます。

 山の中。

 柴四朗は東海散士の筆名で書いた「佳人之奇遇」が有名です。中身は、今読むとなかなかのトンデモ本で、いろんな意味でおもしろい本です。柴五郎は、会津藩出身初の陸軍大将となる人物で、義和団事件などで活躍しています。興味深い兄弟です。

 柴四朗の墓。訪れたときは秋のお彼岸だからかどうか、新しいお花が飾られておりました。

 柴四朗が書いた「佳人之奇遇」は、現在では山本八重との関連でよく知られているかもしれません。鶴ヶ城三の丸に山本八重の銅像があり、そこに添えられた案内板には「佳人之奇遇」の挿絵が載せられています。小説そのものでは八重の名前は伏せられていますが、「烈婦」として描かれた人物が八重であったことは間違いないと思われます。これに関しては、こちらの記事「残す月影」が素晴らしいですね。
 まあ、「佳人之奇遇」そのものの話の筋は八重とはまったく関係なく、荒唐無稽の部類に入ってしまいそうではありますが。

 近くにある柴五郎の墓。人格も立派であったと伝えられています。会津藩出身で陸軍大将にまで昇るのは大変だったろうと思います。

 小田山山麓を南下して、善龍寺に向かいます。ここには、戊申会津戦争時に会津藩の家老を務めていた西郷頼母と家族のお墓があります。

 二十一人之墓。

 ここでも案内板には「新政府軍」ではなく「西軍」と書かれておりますね。西郷頼母の家族と親類あわせて21人が自刃したことが説明されています。

 鶴ヶ城追手門の北に西郷邸址の石碑が立っております。ここで21人が自刃したのですね。

 案内板によれば、西郷の家族親類だけでなく、230人が自刃したと書かれています。「八重の桜」では大山巌が目撃したように描かれていましたが、史実では別の人物が目撃しているはずですね。

 西郷頼母本人のお墓は、実に小ぶりで慎ましやかなものでした。

 案内板では、西郷が和平論者であったことが強調されています。それ自体はいいとして、白河城の戦いがあまり褒められたものでなかった感じは否めません。

 境内には「なよたけの碑」が建てられています。西郷の妻・千重子の辞世の句にちなんだ石碑です。

 名前が分かるだけで233人の婦女子が自刃したそうです。

「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ」。この歌の精神自体はとても立派なことは間違いないと思います。
 ですが、200名以上の婦女子が自刃するに至った経緯自体は、さほど立派なこととは思えません。どうして城に入れなかったのかとか、そもそもどうして同じ日本人同士の戦いであるにも関わらず「死を選ぶ」という発想に陥ってしまったのかとか、様々な問題が横たわっているように思います。女子が死を選ぶということは、日本人同士の戦争時に極めて野蛮な行為(死ぬこと以上の屈辱)が横行していたことを示唆するわけですから。

 仏さんに手を合わせて、平和な時代に生まれたことを感謝しつつ、会津を後にするのでした。
(2014年9月訪問)