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【群馬県前橋市】上泉城と剣聖上泉伊勢守信綱のお墓

新陰流の創始者にして剣聖の名も高い、上泉伊勢守信綱ゆかりの地を訪れました。上泉城の跡地と、伊勢守のお墓がある西林寺です。

上泉城の跡地は、現在は自治会館となっています。伊勢守の銅像が鎮座しております。新影流の基本である「無形の位」という構えだそうです。かっこいい。

上泉城跡地を遠くから眺めると、こんな感じ。

このあたりが本丸と二の丸のようです。

城の全体像は、上泉駅近くの案内板で確認することができます。2012年に訪れたときは生誕500周年記念事業の一環として綺麗なパネルが設置されていましたが、2019年現在は風雨に曝されてボロボロになってしまっております。

地図を見ると、東と南を川に囲まれた、天然の要害であることが分かります。

さて、本丸の跡である自治会館の敷地には、生誕500年事業等の記念碑が並んでいます。

ちょっと驚いたのは、「剣聖・上泉伊勢守」という歌を作った上に、ボタンを押すと歌が流れるような装置が設置されていることです。

試しに押してみると、大音量で歌が鳴り響きます。素晴らしい演歌なのではありますが、真っ昼間の静かな住宅街に大音量で3番まで鳴り響くと、多少気まずい感じはいたします、はい。

ボタンは二個所あって、自治会館の壁には歌詞も展示されています。

2012年に訪れたときには歌のポスターも展示されていたのですが、2019年再訪時にはなくなっていました。日焼けして色落ちしてしまったのかもしれませんね。

さて、上泉城本丸跡地の自治会館から西へ向かうと、かつての「一の郭」であった西林寺に着きます。こちらには伊勢守のお墓があります。

ハカマイラーとしてはぜひとも訪れたいところです。
西林寺にも顕彰碑が建立されております。

こちらには伊勢守信綱の略譜も記されています。

お墓はとても質素な佇まいでした。なんとなく人柄が偲ばれるような気持ちがしました。

2012年に訪れたときには、自治会館にいらっしゃった方から記念冊子をいただいたり、居合わせた地元の政治家の方に車で駅まで送っていただいたりと、たいへん良くしていただきました。再訪できて、とても嬉しく思いました。また遊びに行きたいと思います。
(2012年訪問、2019年再訪)

【千葉県印西市】小林城と巴御前の墓(伝)

千葉県印西市の小林城と巴御前の墓(伝)に行ってきました。

小林城は南北朝初期に作られ、戦国時代に大規模な改修が行なわれ、秀吉の小田原征伐で滅びたもののようです。もちろん戦国期には北条家に従っていたのでしょうけれども、関東戦国史ファンとしては南北朝初期にどのように情勢に絡んでいたのかが気になるところです。
城の由緒は小林市NPO法人の記事「小林城について」に詳しいです。先土器時代からの遺物が発掘されたとのことで、古来から人が住みやすい場所だったんでしょうね。美濃や常滑の焼き物が出土しているところからも、そこそこ有力な武将が治めていただろうことが推測されます。

が、城山を道路が掘削してしまっていて、当時の面影は全然のこっておりません。

上の写真は城山を東から見たところで、ド真ん中を道路が突っ切っておりますが、本来ならここはお城の山があったところです。いやあ、もったいない。
道路面の崖には「登らないで」という看板が立っていて、山の中に入ることはできません。

城山の西側に回ってみると、なんとなく人の手が入った跡は確認できますが、いつ手が入ったものかは定かではないですね。こちらからも山に入ることはできません。鬱蒼とした藪となっております。

城山の南斜面は墓地になっております。南側は昔からの道になっていて、当時の地形は残されているように思います。舌状台地の端に城が築かれており、けっこうな比高差があることも分かります。

真西から城山を見晴らすと、上のような感じ。なかなかいいロケーションに築かれているように見えます。

城山の北西に公園があって、そこに「小林城跡」の標柱が建てられています。が、ここが小林城の何だったのかは、まったく分かりません。城山の方が城の本体だって案内板くらい建ててもいいんじゃないかなあと思ったり。

さて、小林城跡から西に2kmほど行くと、「巴塚」があります。治承寿永の乱で、木曽義仲の愛妾だった巴御前のお墓だという言い伝えがあるところです。

本当に小さな塚と石碑が残されているだけですけれども。

しかし巴御前の墓と呼ばれているものは全国にいくつも残されています。滋賀、富山、長野、新潟、栃木、神奈川などの他、千葉県内でも佐原にもあったりします。全国的に巴御前人気があったことがうかがえますね。
まあ、小林市の墓が本物かどうかを疑ってかかるのは、野暮というものかもしれません。

(2019年2月訪問)

【宮城県白石市】片倉小十郎と真田幸村の墓が白石城の西にある

白石城は、残念ながら100名城には漏れてしまいましたが、続100名城に選出されております。その名に違わず、復元された三重櫓など、たいへん堂々として格好いいお城です。

三階の花頭窓がとてもオシャレであります。

大手一の門も復元されていて、奥の三重櫓と並べて見ると、とても格好いいです。
本丸御殿はありませんが、かつての勇姿はヴァーチャルで復元されております。

築地塀の中、いっぱいいっぱいの建築物ですね。

復元された三重櫓は、中に入ることができます。
江戸時代の図面どおりに復元されており、階段がとても急です。天辺から見下ろすと、白石の町を一望できます。けっこう高いところに建っているのが分かります。

暑い日でしたが、三重櫓の天辺に吹き抜ける風は清々しかったです。天上の梁の様子も観察できて、大満足です。

二の丸の方は、現在は公園や野球場として整備されています。

二の丸には地元の大横綱「大砲」の像が建っています。肩越しに三重櫓の勇姿。

二の丸から西に向かって20分ほど歩くと、片倉小十郎と真田幸村の墓があります。

廟所駐車場の入口にある「あたご茶屋」には、各種真田幸村グッズが取り揃えられておりました。ファンが訪れるのでしょうか? 私はソフトクリームとコーヒーをいただきましたが、コーヒーにはオマケで花林糖がついてきました。

駐車場から階段を登り、墓地の一番奥に片倉小十郎歴代御廟があります。片倉家の歴代当主はみんな小十郎を名乗っているんですね。

案内板を見ると、白石の人々もやはり明治維新で苦労しているようです。

諸行無常、静かに合掌。

片倉家御廟から真田幸村のお墓までは、残念ながら山の中の道は繋がっていません。一度駐車場まで降りて、一般道を西に向かいます。
幸村のお墓だけあるのではなく、正式には「田村家の墓」の中の一つが幸村のお墓です。

幸村の娘が田村家に嫁いだ縁で、幸村もこちらで慰霊されることになったわけですね。

墓所は、けっこう林の奥に踏み入った場所にあります。

こちらが幸村の墓石です。ほとんど加工されていない墓石の、その簡素さに、むしろ心を打たれます。
ちなみに墓石の左前方に据えられた石碑には、「二代片倉小十郎重長公後室御父眞田左衛門左源幸村御墓」と刻まれています。左の列は欠けていて読めない文字がありますが、元和元年五月七日戦死とあるのは読めますね。で、「信繁」ではなく「幸村」となっているところが、多少気にかかります。明らかに墓石とは作られた年代が違っているように見えるので、後世、何らかの事情でこうなったであろうことが推測されるところではありますが、詳しい事情はまったく分かりません。

諸行無常、強者どもが夢の跡、掌を合わせて白石を後にするのでした。
(2018年9月訪問)

【宮城県柴田町】船岡城には樅ノ木が残っていた

宮城県柴田町の船岡城に行ってきました。
2015年には三の丸と樅の木デッキにしか行けなかったのですが、今回は二の丸と本丸にもしっかり足を踏み入れることができました。

かつての大手門付近には、現在は地域学習施設や歴史博物館「しばたの郷土館」が建っています。

郷土館の常設展示では、旧石器時代から近世までの歴史や古民具が展示されています。特に充実しているのは、頼朝の奥州征伐との関わりや、寛文伊達騒動についてです。

船岡城は急峻な山に築かれています。麓から急勾配を登ると、まず三の丸に出ます。

三の丸には冠木門らしきものが建てられていますが、うーん、これ、どうなんでしょうね。ちょっと中途半端かなあ。

三の丸の案内パネルに船岡城の概要が記されています。

考えてみれば、船岡城が江戸時代の一国一城令にも関わらず存続していたのは、そこそこ不思議ではあります。仙台藩は他にも白石城とか例外的に城を構えていたりするのが、なかなか興味深いところです。「城」と呼ばずに「要害」と呼べば問題ないってことなのかなあ?

三の丸と二の丸の間は、現在では駐車場として整備されているほか、観光物産交流館「さくらの里」が営業しています。

地元の野菜など名産品が売っている他、食堂もあります。ナスがとても安くて魅力的だったのですが、持って帰るのが大変そうなので断念して、ソフトクリームをいただいてきました。

で、三の丸から本丸までは、かなりきつい坂になっています。足で登るのは大変なのですが、ありがたいことにスロープカーが用意されてます。

スロープカー、本来は15分間隔で営業しているようなのですが、私が訪れたときには他に観光客もなく、いきなり一人だけで乗せてくれました。眼下にいろいとりどりの花が咲き誇り、とても楽しい行程です。桜の季節は、とても賑わいそうです。

本丸には、寛文伊達騒動の中心人物の供養塔があります。

しかしこの寛文伊達騒動、博物館で各種資料を読むだけでは、経過自体は分かる気がするけれども、事件の核心はまったく見えてこないんですね。

いやほんと、どうして伊達藩が取りつぶしにならなかったのか、不思議で仕方がないところです。

本丸には、巨大な観音像も鎮座しております。

人はどうして巨大観音を作りたがるんでしょうかね? かつては中に入って展望することができたらしいのですが、東日本大震災の影響で、現在は立ち入り禁止となっております。

観音様に頼らなくとも、本丸からの眺めはとても素晴らしいです。東を見やると、はるか彼方に太平洋が見えます。

南北から山が迫ってボトルネックの地形になっていることが分かります。福島から仙台に抜けるためにはどうしても船岡を通過しなければならず、交通・軍事の要衝でした。城を作るには絶好のポイントです。
現在は季節を感じる花々で城全体が彩られていて、血生臭い歴史を感じさせるものは微塵も残っておりません。

城の北側、三の丸とは別の尾根筋には、「樅の木は残った展望デッキ」があります。

寛文伊達騒動を題材に取った小説、山本周五郎「樅ノ木は残った」を記念する碑と、樅の木が鎮座しております。

うーん、説明を読んでも、やはり何が問題なのかピンと来ないぞ。ちゃんと小説を読まなきゃだめそうですね。

展望デッキからは、白石川沿いに立ち並ぶ桜並木を見下ろすことができます。千本桜、春はさぞかし壮観なことでしょう。桜の季節に訪れたいけど、きっと凄い人出なんだろうなあ。
(2015年5/31、2018年8月訪問)

【新潟県上越市】春日山城と上杉謙信墓所

新潟県の春日山城は、上杉謙信の本拠地として有名な城です。

麓から春日山城を見上げるの図。城に慣れていないとただの山にしか見えないかもしれませんが、目を凝らすと、人の手が入った曲輪の痕跡を確認することができます。戦国時代には築地塀や居館などで壮観だったんでしょうね。

案内板によると、裾野に張り巡らされた総構えも見所だそうですが、今回は山に連なる曲輪を中心に見学しました。

文部省が設置した案内板もありました。普通は地元の教育委員会が設置する案内板だけなのですが、さすが昭和10年に国指定史跡になっているだけのことはあります。

三の丸と二の丸を抜けて本丸に登り、北に視線を向けると、直江津の港や市街だけでなく、日本海まで見晴らすことができます。城として絶好の立地条件であることが分かります。
とはいえ、山城としてはさほど急峻な印象はありません。小谷城とか観音寺城などの山城っぷりと比較したときには、少し緩い感じがします。

本丸の跡。けっこう広くはありますが、べらぼうに広いというわけでもなく。北条や武田の城と比較すると、堀や土塁の造り込みもさほど凄いという感じもなく。千貫門周辺は確かに凄かったけれども、あの程度なら北条の城では標準装備という感じもするし。大手道と言われているルートも、技巧が少なすぎるし(あの緩さで本当に大手なのか疑問なしとしない)。あの上杉謙信の本拠地の本丸としては、畏れ多いですが、多少拍子抜けという感じは否めませんでした。
まあ考えてみれば、そもそも上杉謙信が城に籠もって戦ったこと自体が記憶にありません。ほぼ野戦に打って出ているわけで、城郭を固める方向に力がこもっていない気はします。
麓に張り巡らされた総構えを見ないうちに判断してはいけないわけですが、春日山城は単なる防御施設ではなく平時から家臣居館群として機能していた(観音寺城などと同じく)と考えて、堀や土塁などテクニカルな防御機構を期待する対象とはならないかなと。
というわけで、上杉謙信と一緒の場所に立つこと自体に万感の思いを抱きつつ、腕を組んで日本海を眺めるのが、楽しみ方として正しい気がしてきました。

さて、春日山の隣の峰に、上杉謙信の菩提寺・林泉寺があります。たいへん立派な三門です。

林泉寺は春日山城とセットで拝観するのがお勧めです。

林泉寺宝物館には謙信直筆の書などが展示されていて、たいへん見応えがあります。
禅様式で美しく整理された庭を奥へ進むと、川中島合戦戦没者慰霊碑などと共に謙信の墓所があります。

上杉謙信のお墓。感慨深いものがあります。

境内には上杉謙信の事跡紹介と共に、上杉謙信の歌の歌詞が展示されておりました。愛されております。

林泉寺から500mほど東、春日山の麓に春日神社があります。

春日神社の案内板によれば、そもそも「春日山」の名前は奈良の春日大社に由来するようですね。
春日神社の北東に春日山城史跡広場と学習施設があって、このあたりで総構えの雰囲気を味わうことができます。学習施設は、休館日の時に行ってしまったので、また改めて行かなくてはいけません。

ところで、ちょっと紛らわしいのですが、「春日神社」とは別に「春日山神社」という神社があります。春日山神社のほうが春日山城本丸に近いところにあります。

春日山神社の由緒書を見ると、明治34年に小川未明の父が作ったということで、けっこう新しい神社のようですね。

麓を歩いていると、工事現場等で使う持ち運び用ガードレールの土台が上杉謙信になっているのを見つけました。同じようなのは大阪四天王寺付近で聖徳太子が土台になっているのを見たことがありますが。地域おこしグッズとして定番なんですかね。
(2016年5月訪問)