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【要約と感想】田村学『深い学び』

【要約】今時学習指導要領の重要キーワードの一つが「主体的・対話的で深い学び」であることは周知の事実ですが、特に「深い学び」という概念が重要です。「深い学び」は単なる「主体的」で「対話的」な活動で成立するわけではなく、教科の本質を理解した教師による適切な指導が必要です。「深い学び」を実現するためには、単元全体を見透したカリキュラム・デザインを前提とし、「知識」が相互に関連付けられ構造化される仕組みを理解し、プロセスを重視して評価と一体となった授業を作りあげ、そうして練り上げられた授業の経験を「授業研究」等で共有化していくことが必要となります。

【感想】学習指導要領改訂の理論的な背景や時系列的な経緯も簡潔に説明されている上に、具体的な実践例も豊富に提示されていて、さらに「知識が駆動する」というパワーワードが前面に打ち出されていてビジュアル的なイメージが浮かびやすく、「深い学び」の諸相が多面的に理解できる。現場の先生だけでなく学生が読むにも良い本だと思った。最新学習指導要領では「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」が密接不可分不離一体なので、本書と合わせて田村学『カリキュラム・マネジメント入門』も読むと全体像が見えやすくなると思う。またこの理論を実際の授業で使用した実践編とも言える『深い学びを育てる思考ツールを活用した授業実践』と併せて読むと、具体的な実践のあり方がイメージしやすいかもしれない。

とはいえ、個人的には、同じことを既にヘルバルトが論理的には全部言っているとも思ってしまった。結局は「教授のない教育などというものの存在を認めないし、逆に、教育のないいかなる教授も認めない」ということなのだった。噛み砕くと、ヘルバルトの言う「教授」とは基礎・基本の知識の習得であり、ヘルバルトの言う「教育」とは活用を通じた学びに向かう人間性の涵養(ヘルバルトの言葉では「多方の興味」)なのだった。具体的にはカリキュラム・デザインは「中心統合法」だし、単元構成は「開化史的段階」だし、深い学びは「五段階教授法」として提示もされているのだった。200年かけて、時代がようやくヘルバルトに追いついたということか、どうか。あるいはヘルバルトの教育理論を、ようやく我々が「活用・発揮」できる段階に入ったということか、どうか。ただ「評価」という観点に関しては、ヘルバルトよりも圧倒的に進化しているようには思う。今後の教育技術の進展は「評価」にかかっているのだなあと、改めて思った次第。
まあこのあたりの思想史的なあれこれは現場の先生方や学生には直接的には関係ないし、あれこれしたところで著者が主張したいことを生産的に発展させるわけでもないので、まあ個人的な研究として深めていくことにしたい。本書が学習指導要領が目指す理念を具体的な授業実践に落とし込む上でとても参考になるいい本であることは間違いないので、教職を目指す学生にはぜひ読んでおいてもらいたいと思った。シラバスで参考書に指定しておくのかな。

田村学『深い学び』東洋館出版社、2018年

■参考記事:「主体的・対話的で深い学びとは―アクティブラーニングを超えて―

【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
 これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
 そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

 本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

 非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

 本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
 という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
 というふうに対応している。

 たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

 「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
 そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

 上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
 では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

 ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

 続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
 この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

 ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

 以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
 デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

 これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

 デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
 が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
 ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

 また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

 問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年

【要約と感想】国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』

【要約】教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければなりません。そして、具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣です。

【感想】引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類に入る本だと思った。コンピテンシー・ベースで教育を改革しようとする立場の人々が言いたいことが、とてもよく分かる。現場の先生にとっても、大いに参考になる本だろう。そしてそのぶん、この種の考え方の死角や落とし穴というのも、わかりやすく見えてくる気がする。

まず教育原理の専門家として気になるのは、「人格」と「資質・能力」の関係だ。まあ、当然執筆者たちも気にしていて、しっかり「資質・能力と人格の関係は?」というタイトルの節を用意して、自分たちの立場を説明している。が、これを読む限りでは、教育学が伝統的に問題にしてきた「人格」をしっかり理解した上で記述しているとはとても思えない。というのは、「人格」にまつわる「尊厳」の話が一切出てこないし、「人格の尊厳」というものに対して配慮しているとはとても思えない寒々とした記述になっているからだ。
たとえば歴史的には悪評高い『国民実践要領』(1953年)ですら、「人格の尊厳」について「人の人たるゆえんは、自由なる人格たるところにある。われわれは自己の人格の尊厳を自覚し、それを傷つけてはならない。」と宣言した上で、「真に自由な人間とは、自己の人格の尊厳を自覚することによって自ら決断し自ら責任を負うことのできる人間である。」と述べた。あるいは悪評高い『期待される人間像』(1966年)においてすら、「人間が人間として単なる物と異なるのは、人間が人格を有するからである。物は価格をもつが、人間は品位をもち、不可侵の尊厳を有する。基本的人権の根拠もここに存する。そして人格の中核をなすものは、自由である。それは自発性といってもよい。」と述べている。ここに残っているある種の格調高さが、本書には微塵も存在しない。「人格の尊厳」に対する敬意は、いつの間にか知らないうちに失われ、顧みられなくなったもののようである。

その姿勢とも絡むのだろうが、本書からは「できない子」に対する温かい眼差しを感じることができない。「できない子」など最初から存在しないかの如く、あるいは存在するべきではないという態度で記述が進んでいく。しかし本当にどの子供も本書に描かれた資質・能力を備えた「できる子」になれるのだろうか? そして「できる子」だろうが「できない子」だろうが、同じく人間として触れあう所に「人格の尊厳」というものが生まれるんじゃないだろうか。全ての子供を一律に「できる子」に育てられるかのような、あるいは「できない子」の苦しみがまるで視野に入っていない書きっぷりは、なかなか清々しくもあるが、これで大丈夫だろうかという危惧も強まる。人間の「弱さ」に対する感受性を視野の外に放り出して、教育という営みは成立するのだろうか?

ということで、学術的な仕事としては、「人格」という言葉の持つ意味がいつの間にかズレていること、そして多くの教育関係者がそのズレを自覚していないことに対して、しっかり吟味を加えていかなければならないと感じた。ポイントは、1960年代後半から1980年代前半までの情勢にあると直感しているわけだが、さて、どうだろうか。

国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

【要約と感想】東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション』

【要約】東京大学教育学部が付属校と一緒に、総力を結集して挑んだカリキュラム改革の理念と実践記録。

【感想】個々の論文は、それぞれとても参考になる。言語力育成や、学校図書館利用や、ライフキャリア・レジリエンス教育や、シティズンシップ教育や、哲学教育など、具体的な実践の試みは、どれも興味深く読める。時間をかけて工夫して授業を作り上げていった様子がわかって、頭が下がる。

が、執筆者のスタンスは、もちろん全員一致しているわけではない。「社会に生きる学力」という本書を貫くはずの理念に対して根本から疑念を呈している論文がいくつかあって、なかなか面白かった。
たとえば金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」(123-135頁)は、「社会に生きる学力」が単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧し、教師に期待されるのは産業社会を超えるビジョンを示す力であると言う。また牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」(195-208頁)は、学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧する。このような危惧の根底には、文部科学省がどんなに綺麗事のキャッチフレーズを持ち出そうとも、現今の教育に期待されているのが結局は産業社会に資する人材を供給すること、という認識がある。そして、『学習指導要領』がそういう国是を疑いもせずに大前提にしているという認識がある。

本書のところどころで婉曲的に言及されるが、『学習指導要領』というものに法的拘束力があり、現場の教師の創造性に一定の枠を嵌めている現状においては、本当にカリキュラムをイノベーションすることなどできるわけがない。本書のような創造的な取組みが行われることでハッキリと浮かび上がってくるのは、教育行政の分権(個々の学校の自由なカリキュラム構成権や教科書採択権などを想定)という条件が欠けているところでカリキュラム・イノベーションを云々しても、最初から限界が見えているということだ。各学校は、あらかじめ文科省に枠組みが決められた範囲の中で、抜本的な解決には程遠い細々とした創意工夫を積み上げていくことしかできない。
しかし難しいのは、教育行政の分権を進めたところで、結局は新自由主義的な大枠の下、教育がglobal economyの荒波かlocal communityの狭い利害関心に取り込まれてしまい、一人ひとりの子供の個性を尊重して自己実現を目指すものとなるのかどうかという危惧が拭えないというところだ。果たして「社会に開かれた教育課程」は、どのように一人ひとりの「人格の完成」と結びつくのか。

いろいろ考える材料を与えてくれる本ではあります。

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年

育成を目指す資質・能力とは―知識から21世紀型能力へ―

簡単にまとめれば

 受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った人材を育てましょう。「知識から能力へ」と教育の重点が変わります。ということ。

 まあ「知識から能力へ」という合い言葉だけ見ればそんなに難しく感じませんが、しかし「じゃあ能力って具体的に何?」と考えたときに難しくなり始めるんですね。というわけで、学習指導要領の記述を確認しながら、文部科学省が何を考えているか吟味していきましょう。

コンピテンシー(能力)を伸ばす

 ただコンテンツ(知識)を身につけるのではなく、コンピテンシー(能力)を伸ばすためには、具体的に何をどうすればいいのでしょうか?

学習指導要領の記述

 学習指導要領の前文は、以下のように述べています。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

 学習指導要領の今時改訂の土台にある思想は、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換です。それは「何を教えるか」から「何ができるようになるか」という転換ですし、さらに言えば主語の転換です。「何を教えるか」の主語は「教師」ですが、「何ができるようになるか」の主語は「児童生徒」です。要するに、教師から子供へと、主役を転換しようということです。子供を主人公として捉えようということです。児童中心主義です。「育成を目指す資質・能力」と言ったとき、まず踏まえておかなければならないのは、子供が中心であるということです。
 さて、子供を中心にしたとして。次に「何ができるようになるか」を明らかにするには、「育成を目指す資質・能力」の具体的な中身を明確にしなければなりません。そのために具体的にどう教育課程を編成すべきかは「カリキュラム・マネジメント」に関わる仕事です。学習指導要領は、以下のように方針を示しています。

1 各学校の教育目標と教育課程の編成
教育課程の編成に当たっては、学校教育全体や各教科等における指導を通して育成を目指す資質・能力を踏まえつつ、各学校の教育目標を明確にするとともに、教育課程の編成についての基本的な方針が家庭や地域とも共有されるよう努めるものとする。その際、第4章総合的な学習の時間の第2の1に基づき定められる目標との関連を図るものとする。(4-5頁)

 各学校が具体的に最初に行うことは、(1)教育目標を明確にし、(2)教育課程編成の方針を家庭や地域と共有することですね。カリキュラム・マネジメントの基本です。そしてその際に「関連を図るもの」として、特に「総合的な学習の時間」が上げられていることに要注目です。

総合的な学習の時間を中心にする

 さて、「総合的な学習の時間」についての「第4章第2の1」は、以下のように書かれています。

各学校においては、第1の目標を踏まえ、各学校の総合的な学習の時間の目標を定める。(144頁)

 おっと、またたらい回しですが、「第1の目標」とはどういうことか、確認すれば以下のように書かれています。

探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 探究的な学習の過程において、課題の解決に必要な知識及び技能を身に付け、課題に関わる概念を形成し、探究的な学習のよさを理解するようにする。
(2) 実社会や実生活の中から問いを見いだし、自分で課題を立て、情報を集め、整理・分析して、まとめ・表現することができるようにする。
(3) 探究的な学習に主体的・協働的に取り組むとともに、互いのよさを生かしながら、積極的に社会に参画しようとする態度を養う。(144頁)

 要するに、各学校が学校目標を定め教育課程編成を行う際には、総合的な学習の時間を中核に位置づけるように構成する必要があるということが説かれているのだと理解すればよさそうですね。

教科等横断的な視点

 そして『学習指導要領』は続けて具体的な教育課程編成について以下のように注意を促しています。カリキュラム・マネジメントの指針でも強調されていた「教科等横断的な視点」についての記述です。

2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成
(1) 各学校においては、生徒の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力(情報モラルを含む。)、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特質を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする。
(2) 各学校においては、生徒や学校、地域の実態及び生徒の発達の段階を考慮し、豊かな人生の実現や災害等を乗り越えて次代の社会を形成することに向けた現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力を、教科等横断的な視点で育成していくことができるよう、各学校の特色を生かした教育課程の編成を図るものとする。(5頁)

 ここでは、教科等横断的な視点から「資質・能力」を育成するべく教育課程を編成することが求められています。そして教科等を横断しながら育成するべき資質・能力が具体的に列挙されています。確認しますと、
(1)-1:言語能力
(1)-2:情報活用能力(情報モラル含む)
(1)-3:問題発見・解決能力
(2):現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力
 となっています。

 そして極めて重要なことは、これら資質・能力が、各教科固有の「見方・考え方」を働かせる「深い学び」を通じて育成されていくことが期待されているということです。注意したいのは、「教科等横断」に関してしばしば見られる、「コンテンツで横断する」という勘違いです。
 「コンテンツで横断する」とは、例えば、「音楽で海を扱う単元があるから、理科でも海を扱って、社会でも海を扱おう」という考え方です。これを実践すること自体は別に悪くはないのですが、文部科学省が本当に狙っている「教科等横断的な視点」になっていないことも事実です。というのは、文部科学省が「教科等横断的な視点」として本質的に求めているのは、「コンピテンシーによる横断」だからです。「海というコンテンツ」で教科等を横断することは、「言語能力というコンピテンシー」で横断することとは、まったく別のことです。

 では「コンピテンシーで横断する」とはどういうことでしょうか? ここに「教科の本質」が深く関わってきます。
 たとえば「言語能力というコンピテンシー」を育成しようとするとき。国語科は国語科の本質を通じて子供たちの言語能力を育てます。数学科は数学科の本質を通じて子供たちの言語能力を育てます。音楽や家庭科等も、また同じです。各教科が、それぞれの教科の本質を通じながら言語能力を育成していきます。そして国語科には国語科の特性があり、数学科には数学科の特性がある以上、各々の教科が育成する言語能力はそれぞれ違っているはずです。各教科で異なる観点から言語能力を育成していきますが、最終的にはそれらが一体となって子供の言語能力が全体的に成長していきます。それを最終的に完成させるのが「総合的な学習の時間」ということになります。これが「コンピテンシーで横断する」ということです。

 教科等横断的な視点については別のページに詳しくまとめてありますので、ご参照下さい。→【参考】教科等横断的な視点とは何か?

「教科を教える」から「教科で学ぶ」へ

 「コンピテンシーで教科等を横断する」ことを実現するためには、各教科が子供たちにどのような能力を育てるのか、「教科の本質」をしっかり認識する必要があります。単に「コンテンツ」を教えるのではなく、コンテンツを通じてコンピテンシーを伸ばすことを意識しなければいけないわけです。
 これを私はスローガン的に【「教科教える」から「教科学ぶ」へ】の転換というふうに呼びます。従来のコンテンツ重視の教育では、各教科ごとに特有の知識を与えることが教科の中心的役割と思われていました。しかしこれからは、教科特有の知識を与えることも重要ではありますが、それを通じて「能力を育てる」こともさらに重要であることを意識しなければなりません。そのためには、どうしても各教員が「教科の本質」をしっかり捕まえておく必要があるわけです。そしてこの「教科の本質」を踏まえた授業が、「見方・考え方」を働かせるような「深い学び」を実現します。だから「主体的・対話的で深い学び」というものに対する洞察が必要になってくるわけですね。→【参考】主体的・対話的で深い学びとは

どうしてコンピテンシー?

 以上、各学校や各教員に何が求められているかは確認できました。しかし考えてみれば、そもそも、どうして「コンテンツからコンピテンシーへ」と転換する必要があるのでしょうか。従来の知識中心の教育では本当にダメなのでしょうか?
 そんなわけで、さらに突っ込んで、教育原理的に学習指導要領の思想背景を確認していきましょう。

学習指導要領解説 総則編の記述

 『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の狙いが以下のように示されています。

② 育成を目指す資質・能力の明確化
中央教育審議会答申においては、予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力を身に付けられるようにすることが重要であること、こうした力は全く新しい力ということではなく学校教育が長年その育成を目指してきた「生きる力」であることを改めて捉え直し、学校教育がしっかりとその強みを発揮できるようにしていくことが必要とされた。また、汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流を踏まえつつ、知識及び技能と思考力、判断力、表現力等をバランスよく育成してきた我が国の学校教育の蓄積を生かしていくことが重要とされた。
このため「生きる力」をより具体化し、教育課程全体を通して育成を目指す資質・能力を、ア「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」、イ「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)」、ウ「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」の三つの柱に整理するとともに、各教科等の目標や内容についても、この三つの柱に基づく再整理を図るよう提言がなされた。(3頁)

 ここで言われている「汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流」とは、具体的にはOECDで議論されているキー・コンピテンシーを指しています。そして文部科学省は、この「世界的な潮流」を参考にした上で、学校教育法第30条に定められた「学力の三要素」に対応して「資質・能力の三要素」を設定したようですね。「資質・能力」を設定するに当たって、いったいどのような「世界的な潮流」をどのように参考にしたかは、平成26年3月31日「論点整理」に見ることができます。

論点整理(平成26年3月31日)の記述

 学習指導要領改訂に向け、教育課程に関する学識経験者を集めて開催された「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」では、以下のような提言が行われました。

今後、学習指導要領の構造を、
① 「児童生徒に育成すべき資質・能力」を明確化した上で、
② そのために各教科等でどのような教育目標・内容を扱うべきか、
③ また、資質・能力の育成の状況を適切に把握し、指導の改善を図るための学習評価はどうあるべきか、
といった視点から見直すことが必要。
← 従来の学習指導要領は、児童生徒にどのような資質・能力を身に付けさせるかという視点よりも、各教科等においてどのような内容を教えるかを中心とした構造。そのために、学習を通じて「何ができるようになったか」よりも、「知識として何を知ったか」が重視されがちとなり、また、各教科等を横断する汎用的な能力の育成を意識した取組も不十分と指摘されている。
世界的潮流として、OECDの「キー・コンピテンシー」をはじめ、育成すべき資質・能力を明確化した上で、その育成に必要な教育の在り方を考える方向。(アメリカを中心とした「21世紀型スキル」、英国の「キー・スキルと思考スキル」、オーストラリアの「汎用的能力」など。)
日本でも比較的早い時期から「生きる力」の理念を提唱しており、その考え方はOECDのキー・コンピテンシーとも重なるものであるが、「生きる力」を構成する具体的な資質・能力の具体化や、それらと各教科等の教育目標・内容の関係についての分析がこれまで十分でなく、学習指導要領全体としては教育内容中心のものとなっている。
← より効果的な教育課程への改善を目指すためには、学習指導要領の構造を、育成すべき資質・能力を起点として改めて見直し、改善を図ることが必要。

 以上の記述から、『学習指導要領解説 総則編』にあった「汎用的な能力の育成を目指す世界的潮流」が、OECDの言う「キー・コンピテンシー」をイメージしていることが明らかとなります。そしてOECDの「キー・コンピテンシー」については、以下のように言及していることを確認できます。

特に、OECDの「キー・コンピテンシー」の概念については、グローバル化と近代化により、多様化し、相互につながった世界において、人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力として定義されており、OECD生徒の学習到達度調査(PISA)にも取り入れられ、大きな影響を与えている。
この「キー・コンピテンシー」の概念については、具体的には、次のような内容で構成されている。
・ 言語や知識、技術を相互作用的に活用する能力
・ 多様な集団による人間関係形成能力
・ 自律的に行動する能力
・ これらの核となる「思慮深く考える力」(9頁)

 かなり具体的な記述となっていますね。注目は、ここで育成される資質・能力が「人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力」と定義されていることです。この文章が言う「成功」とは具体的にどのような状況を指すのか、あるいは「正常に機能する社会」とはどのような社会なのか、十分に吟味する必要があるでしょう。検討会でも、「キー・コンピテンシー」をどのように捉えるのかに対して、たとえば経済色が強いのかそうでないのかについてなど、委員の間で見解の相違が見られます(17頁)。経済発展を最優先に考えた能力育成なのか、そうでないのかで、ずいぶん結論は変わってきそうです。
 もちろん検討会は無批判にOECDの見解を取り入れたのではなく、他の様々な能力観と比較対照しながら「生きる力」概念の分析に取り組んで、最終的に以下のように整理されることとなりました。

そのための一つの方策として、育成すべき資質・能力を踏まえつつ、教育目標・内容を、例えば、以下の三つの視点を候補として捉え、構造的に整理していくことも考えられる。
ア)教科等を横断する、認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの
① 認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル等としては、例えば、問題解決、論理的思考、コミュニケーション、チームワークなどの主に認知や社会性に関わる能力や、意欲や情動制御などの主に情意に関わる能力などが考えられる。
② メタ認知(自己調整や内省・批判的思考等を可能にするもの)
イ)教科等の本質に関わるもの
具体的には、その教科等ならではのものの見方・考え方、処理や表現の方法など。例えば、各教科等における包括的な「本質的な問い」と、それに答える上で重要となる転移可能な概念やスキル、処理に関わる複雑なプロセス等の形で明確化することなどが考えられる。
ウ)教科等に固有の知識・個別スキルに関わるもの(21頁)

 ここに見られる見解が、『学習指導要領』本文には「教科等横断的な視点」および「深い学び」という形で落とし込まれています。逆に言えば、「教科等横断的な視点」や「深い学び」とは何かを本質的に理解しようと思ったら、この記述まで遡る必要があるわけですね。

様々な21世紀型学力

 以上、学習指導要領の背景にある能力観について見てきました。「論点整理」等では、PISAだけでなく、様々な21世紀型学力も検討されていますので、代表的なものをざっと見ておきましょう。

年月主体提言内容
1996文部科学省生きる力確かな学力、豊かな心、健やかな体
1998大学審議会答申課題探求能力
1999日本経営者団体連盟エンプロイヤビリティ(雇用されうる能力)
2001OECD-PISAリテラシー
2003内閣府-人間力戦略研究会人間力知的能力要素、社会・対人関係的要素、自己制御的要素
2004厚生労働省就職基礎能力
2006経済産業省社会人基礎力前に踏み出す力、考え抜く力、チームで働く力
2006OECD-DeSeCoキー・コンピテンシー
2008「学士課程教育」に関する中教審答申学士力教養を身に付けた市民として行動できる能力として、知識・理解、相同的な学習経験と創造的志向、汎用的技能、態度・志向性
2011「キャリア教育・職業教育」に関する中教審答申基礎的・汎用的能力人間関係形成・社会形成能力、自己理解・自己管理能力、課題対応能力、キャリアプランニング能力

 共通しているのは、従来型の能力ではこれからの新しい社会(知識基盤社会、高度情報化社会)には対応できないという認識でしょう。産業界が教育に要求しているのは、従来のハードスキル(目に見える知識・技能)だけでなく、ソフトスキル(目に見えない人格特性)も含めた総合的な能力の開発です。受動的な順応性ではなく、能動的な創造性や個性が求められているわけです。「生きる力」も、同じ特徴を持っていますね。

批判的な吟味

 以上、文部科学省の見解を確認してきました。以下、私の個人的な見解を記しておきます。

「人格の完成」との関係

 個人的に特に気になるのは、教育の目的である「人格の完成」と、ここで議論されている「資質・能力」の関係性です。注目したいのは、検討会自身が以下のように言明した点です。

今後、育成すべき資質・能力の検討に当たり、まず留意すべきことは、教育基本法に定める教育の目的を踏まえれば、育成すべき資質・能力の上位には、常に個人一人一人の「人格の完成」が位置付けられなければならないということである。
あわせて、教育基本法に定める教育の目的の一つとして、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成があることを踏まえ、自立した民主主義社会の担い手として求められる資質・能力の育成は、公教育の普遍的な使命であることに留意しつつ検討を行うことが必要である。(10頁)

 他、「人格の完成」という理念に対して、委員個人の意見としては大きな関心が払われていることがわかります(15頁)。私が勝手に推測するに、これはおそらく安彦忠彦氏の発言でしょう。しかし、この見解が『学習指導要領』本文にしっかり反映しているかどうかについては、個人的には心許ないところです。いちおう前文には教育基本法の目的と目標には触れられているものの、単にアリバイ的にお題目として掲載されているように見えてしまいます。というのは、「人格の完成」と「育成を目指す資質・能力」との内的連関、あるいは教育原理的な結びつきが、まったく見えてこないからです。そしてそれは、「人間形成とは何か?」を統一的に記述する教育哲学が『学習指導要領』に欠けているせいでしょう。「育成を目指す資質・能力」を把握する限りでは、AIにも対抗可能な高機能な自律型有機生命体を計画的に作ろうとする意図は見えるものの、それを無条件に「人間」と呼んでいいかどうかは判然としません。まあ、『学習指導要領』はあくまでも教育課程編成のための大綱的な基準に過ぎないから、教育哲学が欠けていることそのものに罪はないかもしれませんし、高度な教育的配慮から意図的に記述を避けている可能性もあるでしょう。ただその教育哲学の欠如の原因が、経済原理による教育の乗っ取りにあるとしたら、大問題です。

コンピテンシー・ベースへの転換と言うが

 文科省は、今回の学習指導要領の主要論点を、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換だと言います。しかし振り返ってみれば、同じ事は明治時代の注入主義(コンテンツ・ベース)から開発主義(アビリティ・ベース)への転換に既に見られます。あるいは、100年以上前にジョン・デューイが遙かに体系的な哲学を背景に主張しているところです。しかも文科省がデューイの教育理論をどう捉え、かつて自分自身が放棄したことをどのように反省しているかは、まったく明らかにしていません。かつてコンピテンシー・ベースの教育を放棄した理由、あるいはうまく機能しなかった原因を顧みずに、本当に学習指導要領が目指すコンピテンシー・ベースの教育など実現できるのか、なかなか不安なところではあります。過去の総括が欠けているところに、未来への展望は開けないように思うからです。

参考文献

 学習指導要領の方向性に親和的な本。引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類。教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければならないこと、そして具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣と説く。
国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

 新学習指導要領が何を目指しているのか、ものすごくよく分かる。現役の教師だけでなく、学生にとっても読みやすそうだ。教員採用試験対策にもいいんじゃないか。
特に良いのは、文科省が立場的に書けないようなことが、本書ではしっかり書かれているところだ。具体的には、これまでの教育が産業社会に従属してきたことの明瞭な指摘と、背景にブルーナーの復権があるという記述が腑に落ちた。

奈須正裕『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社、2017年

 著者は、学習指導要領改訂のために「資質・能力」を検討した文部科学省の有識者会議で座長を務めた。が、その主張は、必ずしも学習指導要領の内容と親和的ではない。むしろ批判的とすら言える。特に「資質・能力」と「人格」との関係に対する理解については、決定的な隔たりがある。「資質・能力」の何がどのように問題なのかを考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれる本。
安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年

 学習指導要領の方向性に懐疑的な本。「資質・能力」の育成は、単に産業界の要請に応える人材育成に過ぎないという懸念を随所に見ることができる。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。
日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年

 新学習指導要領が育成を目指すという「資質・能力」というものが、どのような思想的背景から生まれてきたのか、歴史的な経緯をふまえた上で分かりやすく論点を整理しており、読書案内も充実していて、勉強になる。「知識=実質的陶冶」と「能力=形式的陶冶」の関係について、多面的多角的に考察するヒントがたくさん含まれているように思う。
松下佳代編著『<新しい能力>は教育を変えるか 学力・リテラシー・コンピテンシー』ミネルヴァ書房、2010年

■佐藤学「21世紀型の学校カリキュラムの構造 イノベーションの様相」東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年 13-25頁。
 冷戦体制の崩壊とグローバル化という世界情勢の変化に伴って世界の教育がどのように変化したか、コンパクトに概観できる。変化の方向は4つ。(1)知識基盤社会への対応(2)多文化共生社会への対応(3)格差リスク社会への対応(4)成熟した市民社会への対応。なんとなく大雑把には、政府の「教育振興基本計画」の内容と対応しているように見える。が、日本の教育改革は世界水準から見て15年遅れという「ガラパゴス的状況」にあるという指摘は、なかなか重い。