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【紹介と感想】南本長穂・伴恒信編著『子ども支援の教育社会学』

【紹介】教育社会学の知見を広く集めた学生用のテキストです。

【感想】幅広い教育社会学的トピックが扱われているのはいいとして、それぞれ分量が極めて少なく、個人的には食い足りない。まあ、学部一年生にとってはこれくらいがちょうどいいという判断なのかなあ。
まあ、エリクソンのアイデンティティ論に対する批判の言質をとれたのは、個人的な収穫ではある。

 

「これまでの生涯発達論は1950年代以降の人類にとって比較的好運な右肩上がりの安定した経済成長時代の産物であって、成長神話の崩壊した21世紀にそぐわない発達論となってきているのではないだろうか。」(24頁)

「しかしながら無藤(1999)は、「自分自身のあり方・生き方について悩んでさまざまな試行(役割実験)をしながらいくつかの選択肢を検討して自分自身の判断をしていくといった、いわば、自立的独立的な自己確立の経過は優勢ではなくなってきている」と現在の若者たちの思春期や青年期の発達が従来の発達課題理論では考察できない可能性を指摘している。」(48頁)
無藤清子「青年期とアイデンティティ」『アイデンティティ』日本評論社、1999年

「社会学では現在アイデンティティは、絶対的で唯一に確立されるものという捉え方ではなく、石川(1992)の指摘するように「わたし」とはアイデンティティの州尾久、アイデンティティの束という捉え方になってきている。」(49頁)
石川准『アイデンティティ・ゲーム』新評論、1992年

南本長穂・伴恒信編著『子ども支援の教育社会学』北大路書房、2002年

【要約と感想】セネカ『人生の短さについて』

【要約】無意味に長生きすることに、なんの意味もありません。真に「生きた」と言えるためには、意味のある人生を送らなければなりません。そしてそれは、「死に様」に現われます。だから、つまらない他人に人生を振り回されず、貴重な時間を自分自身のために使うべきです。本当の幸福とは、私が私自身であり続けることにあります。そのためには、自分が「死すべき運命にある」という必然を認識し、受け入れることが肝要です。

※2008年に改訳されましたが、学生のときに買った旧訳で読んでいます。

【感想】事実を積み上げて帰納的に論理を構築していく類の言論ではなく、あらかじめ結論が決まっていて、各事例を演繹的に斬っていくという類の言論だろう。そういう意味では、哲学的な緊張感をさほど感じない本ではある。

 とはいえ、一定程度完成した論理体系の完成度と射程距離を測定するという意味では、充分に機能してもいる。ストア派の論理から導き出される人生観と世界観について、具体的によく分かる本でもある。

 簡単にまとめると、セネカの言う幸福とは「わたしがわたしである」ということに尽きる。だが、これを実践するのはとても難しい。名誉や財産などを追い求めることは、他人のために人生を浪費することであって、わたし自身を失っていく愚かな行為だ。「わたし」とは本質的に「死すべき存在」だ。「死すべき存在」としての在り方を突き詰め、その本質を受け入れることが、平静であるということであり、自由ということであり、「わたしがわたしである」ということだ。その境地に達している人間を賢者と言う。
 なるほど、まあ、ひとつの卓見ではあると思う。だがそれは絶対的に無矛盾なのではなく、「死」という特異点を軸として構築された仮構的に無矛盾な体系ではある。これを受け入れるためには、「死」というものを特異点として無条件に受け入れるだけの覚悟と度量が必要となる。この姿勢を得ることがそもそも「死すべき存在」である人間には極めて難しいわけだが。

【個人的な研究のための備忘録】
 ところでセネカは、「自由」に関して、なかなか興味深い文章を残している。

「しかしソクラテスは市民の中心にあって、時世を嘆いている長老たちを慰め、国家に絶望している人々を勇気づけ、また資財のことを憂慮している金持ち連中には、今さら貪欲の危機を後悔しても遅すぎるといって非難した。さらに、かれを見習わんとする人々には、三十人の首領たちの間に自由に入って行って、偉大なる模範を世の中に示した。にもかかわらず、この人をアテナイ自身が獄中で殺した。僭主たちの群をあざ笑ってもなお安全であったこの人の自由を、自由そのものの力で持ちこたえることはできなかったのである。」pp.81-82

 この文章には、自由のアポリアが示されている。自由を破壊するのは自由である。こういう意味での「自由」は、人間の尊厳をも自由自在に破壊して恥じるところのない新自由主義者たちが掲げる「自由」に相当するものと言える。
 しかし同時に、セネカは以下のようにも言っている。ここで言われている「自由」は、上の新自由主義的な「自由」とはずいぶん違うように読める。

「宇宙の定めの上から堪えねばならないすべてのことは、大きな心をもってこれを甘受しなければならない。われわれに課せられている務めは、死すべき運命に堪え、われわれの力では避けられない出来事に、心を乱されないことに他ならない。我らは支配の下に生まれついている。神に従うことが、すなわち自由なのである。」p.149

 このような「自然を認識し、それに従うことが自由」という自然主義的な「自由」は、近代に入ってからもヘーゲル等の言葉に見ることができるだろう。

 また、「自分自身と一致する」ことに対する徹底的なこだわりも、印象に残るところだ。「個性」概念や「アイデンティティ」概念について考える際に、ストア派的伝統をどの程度考慮に入れるべきか、ひとつの参照軸にできるように思った。

「しかし自分自身のために暇をもてない人間が、他人の横柄さをあえて不満とする資格があろうか。相手は傲慢な顔つきをしていても、かつては君に、君がどんな人であろうとも、目をかけてくれたし、君の言葉に耳を傾けてくれたし、君を側近くに迎え入れてくれたこともある。それなのに君は、かつて一度も自分自身をかえりみ、自分自身に耳を貸そうとはしなかった。だから、このような義務を誰にでも負わす理由はない。たとえ君がこの義務を果たしたときでも、君は他人と一緒にいたくなかったろうし、といって君自身と一緒にいることもできなかったろうから。」p.13
「ルクレティウスが言うように、誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとするのである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない――われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。」p.74

 ルクレティウスを引用していることからも分かるように、ストア派といいつつも、けっこうエピクロス派の論理に親和的でもある。
 ちなみにセネカがこのように「自分自身」との関係性にこだわるのは、「理性」と「神」との類似性に由来すると思われる。

「理性は感覚に刺激され、そこから第一の原理を捕えようとしながら――つまり、理性が努力したり真理に向かって突進を始める根拠は、第一の原理以外にはないからであるが――そうしながら、外的なものを求めるがよい。しかし理性は再び自らのなかに立ち帰らねばならない。なぜというに、万物を抱きかかえる世界であり宇宙の支配者である神もまた、外的なものに向かって進みはするが、それにもかかわらず、あらゆる方向から内部に向かって自らのなかに立ち戻るからである。われわれの心も、これと同じことをしなければならぬ。心が自らの感覚に従い、その感覚を通して自らを外的なものに伸ばしたとき、心は、感覚をも自らをも共に支配する力を得ることになる。このようにして、統一した力、すなわちそれ自らと調和した能力が作り出されるであろう。そして、かの確実な理性、つまり意見においても理解においても信念においても、不一致も躊躇もない理性が生まれるであろう。この理性は、ひとたび自らを整え、自らの各部分と協調し、いわば各部分と合唱するようになれば、すでに最高の善に触れたのである。(中略)。それゆえ大胆にこう宣言してよい――最大の善は心の調和である――と。」p.136

 このような「再帰的な理性」という存在の在り方が、動物など他の存在にはありえない人間独自の在り方であり、人間と神との相同性を主張する理論的根拠ともなる。
 セネカの文章では、この「再帰的」な在り方の記述は徹底せず、論理がすべって一目散に「調和」のほうに流れている。このあたり、いったん自分の外部に出て、再び自分に返るという理性の運動については、ヘーゲル『精神現象学』が執拗に記述することになるかもしれない。そのときは、セネカが言うような「調和」ではなく、矛盾と闘争の果ての総合が問題となるだろうけれども。

 ところで、我が日本にもセネカと同じようなことを言っている先哲がいたことは記憶されて良いかもしれない。江戸時代初期の福岡の朱子学者・貝原益軒は次のように言っている。

「かくみじかき此世なれば、無用の事をなして時日をうしなひ。或いたづらになす事なくて、此世くれなん事をしむべし。つねに時日をしみ益ある事をなし、善をする事を楽しみてすぐさんこそ、世にいけらんかひあるべけれ。」貝原益軒『楽訓』巻上

 あるいは両者を比較して、セネカが「死」を思ってとかく悲観的なのに対し、益軒が「楽」を思ってとても楽観的なことについては、考えてみると面白いかもしれない。

セネカ『人生の短さについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年