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【要約と感想】小森美登里『いじめのない教室をつくろう』

【要約】先生や学校だけに責任に押しつけても、いじめは解決しません。大人全体の問題として、共有しましょう。
いじめを解決するために先生にできることは、たくさんあります。そのためにも、社会全体で先生たちを応援することが大切です。

【感想】当事者だからこそ醸し出せる説得力なのかどうか、静かな口調ながら、とても迫力のある本だった。本気で心からいじめをなくしたい気持ちが伝わってくる。やり返しても解決しないとか、親に相談できないこととか、いじめられるほうに原因はないとか、たくさんの人に伝わって欲しいメッセージだ。
具体的な方策についても、説得力を感じる。先生たちが最前線で頑張り、そんな先生たちを大人全体がバックアップすることで、かなりの部分がうまくいくように感じる。まあ、それができていないから、いじめがなくならないんだろうけれども。
私も微力ながらいろいろ頑張ろうと思った。

小森美登里『いじめのない教室をつくろう―600校の先生と23万人の子どもが教えてくれた解決策』WAVE出版、2013年

【要約と感想】早稲田大学教師教育研究所監修『いじめによる子どもの自死をなくしたい』

【要約】いじめとは、被害者から生きる力を根こそぎ奪う人権侵害です。人権という観点を大事にし、子どもたち自身が当事者として主体的に関わることが大切です。
実際の事件の分析や、弁護士によるいじめ防止の授業例、さらに北欧での取り組みなどを参考に、いじめを防止する方策を考えます。根本的な問題は、近代の原理が子どもに多くの負荷を与えていることです。

【感想】7人の著者による本で、論者によって多少の力点とニュアンスの違いはある。いちおう、「人権」と「子どもの参画」という観点は共有されていると言えるかもしれない。

【言質】近代的な学校システムそのものを問題視している文書を抜いておく。

「学校の制度的限界」26頁
「学校至上主義はすでに破たんし始めています」27頁
「資本主義がさまざまな形で変貌を遂げつつも生き続けているように、学校化された社会もまた問題の本質を巧みにずらしながらシステムをより確かなものにしてきたようにも見えます。専門家と言われる人々は、システムの枠のなかで「合理的な」処方箋を提供し、専門知自体が<近代>そのものを延命させていくことになります。」115頁
「子どもたちのありように自らが揺さぶられることを厭わず、<近代>なるものが切り捨ててきた価値を含み込む芳香でまなざしを転換していくことこそが、ホリスティックな視点に立つことにほかなりません、難題と向き合うなかでかすかに見えてきたもうひとつの学級づくりは、近代学校の限界を見極めながらほんとうに注意深く試みられてきた実践者の周辺で育まれてきたといってよいでしょう。」127頁

近代的な学校システムが必然的にいじめを生むと考えているように読めるわけだ。だがしかし考えてみれば、前近代はいじめどころか身分差別の原理が横行していたのだった。近代化によって「形式的な平等」が実現されたからこそ、実質的な差別化のためのパワーゲーム=いじめが剔出されてくる。それが果たして本当に前近代の身分差別に比べて悪いことなのかどうか、見極める作業は必要なようにも思うのだった。

早稲田大学教師教育研究所監修、近藤庄一・安達昇編著『いじめによる子どもの自死をなくしたい』学文社、2014年

【要約と感想】小谷川元一『いじめ・学級崩壊―教師と親の「共育」で防ぐ』

【要約】起こってしまったいじめや学級崩壊を対症療法的に解決するための本ではなく、丁寧な学級経営や保護者対応をこころがけることで未然に防ごうという、特に小学校教師向けに書かれた本です。
学級崩壊は、必ずいじめを伴っています。学校だけに責任を押しつけても解決しません。こうなったのは、家庭に大きな原因があるからです。解決するためには、家庭と学校が協力しなければなりません。
教師は、丁寧な学級経営と保護者対応をこころがけましょう。崩壊学級を何度も立ち直らせた学級担任としての知恵と工夫の数々を見てください。

【感想】ひとりの小学校教師としての経験と知恵が詰まっている本だ。まずはその知恵をぜひ次世代に継承していきたいものだ。10年以上前の本ということもあり、多少古いものも混じっているが、そのあたりは読者が取捨選択すればいいだけの話だ。

とはいえ、現代社会そのものが人間の生き方を決定的に変質させ、子どもの生活環境が劇的に変化したことの意味については、本書は直視できていないようにも思う。親が脆弱になったと嘆いても、どうしようもない。現代社会の特質そのものを直視し、冷徹に見透す力は、今後ますます必要になってくる。ひょっとしたら、学級という制度そのものが賞味期限切れを起こした時代に突入しているのかもしれないのだ。
そういう意味では、「子どもの権利」の視点が弱いことも気にかかる。今後学校が生き残れるかどうかは、教師の強力なリーダーシップというより、子どもの参画が鍵になってくるような気もするのだ。

【言質】「自己実現」とか「人格」という言葉の用法に関して様々なサンプルを得た。

「教師の専門性を高め、子どもに優れた人格を陶冶することよりも、形式的に平準化を目指す血の通わない技術論が先行している気がします。」21頁
「いじめという構図は社会全体からすれば極めて特異な人間関係であると捉えられがちですが、人格完成前の子どもたちが集う学校では、ありとあらゆる関係がいじめの構図を孕んでいると考える方がむしろ自然です。」41頁
人格を陶冶するプロの教師としてのほめ方・しかり方の極意をお伝えします。」147頁
「言葉遣いや表情仕草に限ったことではなく、親は子どもの人格の陶冶に唯一無二の影響を与えます。」189頁

本書では「人格」という言葉が「陶冶」という言葉とセットに鳴って使われる場面を散見する。もちろん近代教育的な概念としては、王道である。だがしかし、1970年以降、あるいは「子どもの権利条約」以降、こうした近代教育的概念は急速に説得力を失いつつあるのも確かである。「子どもを独立した人格」として見るのが、現在の考えの主流である。こういう観点からすると、「人格完成前の子ども」という言葉は完全に近代的な物言いであって、逆に言えば「子どもの権利条約」以前の考え方を代表するものでもある。これをどう考えるか。

また「自己実現」について。

「たとえ一教科でも子どもたちが学習の中で自己実現を図れれば、学級崩壊の危機は未然に防ぐことができるでしょう。」121頁
「子どもたちは自己実現をめざし、学校に集ってきます。」155頁

こちらは近代的な「自己実現」の概念からは、多少ズレて拡大解釈されているように見える。「成功体験」や「成長」という言葉とほとんど同義となっているように見えるわけだ。近代的な「自己実現」は、もうちょっと厳密な概念である。

また本書では学力の定義を試みているが、上から論理的に降りてきたものではなく、実戦と経験から機能されたものであるところが尊いように思う。

「①学力とは、単に学業成績ではなく、人間生活の基盤を支える基礎的力であること。
②学力とは、特定の学習で獲得されるものだけではなく、生活全般に必要なバランスのとれた基礎的力であること。
③学力とは、どの子も努力により獲得可能な基礎的力であること。
④学力とは、小学校六年間を見通し、大人になっても必要な最低限度の基礎的力であること。」136頁

小谷川元一『いじめ・学級崩壊―教師と親の「共育」で防ぐ』大修館書店、2007年

【要約と感想】尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』

【要約】1990年代後半から、学級崩壊や、普通の子がキレる「新しい荒れ」、さらに児童虐待が目立つようになりました。背景には、時代の変化についていけない旧態依然の学校文化、地域から孤立してホテル化した家庭、大人と子どもの関係不全があります。
解決のためには、道徳の強化や心の教育は役に立ちません。子どもの社会参加による自己効用感の回復が必要です。学校運営に子どもを参加させましょう。大人の価値観(いい子主義)を一方的に子どもに押しつけるのではなく、子どもの自主的な「学び」を励ましましょう。学校の中に乳幼児や老人を取り込みましょう。子どもの自己決定を大切にし、子どもと大人は独立した人格として関係を結びましょう。

【感想】20年近く前の本で、個々の状況(教育基本法改正とかいじめに関わる法律とか学習指導要領の大綱化とか道徳の教科化とか)は大きく変化しているわけだが、大まかな見取り図としては古くなっている感じはしない。
子どもの社会参加と自己決定が大切だという話は、「子どもの権利条約」の精神に則っていて、私も総論賛成である。各論としても具体的な事例が紹介されていて、たいへん参考になる。

【言質】
いじめや「人格」や子ども観に関する証言をたくさん得た。

「いじめの加害者と被害者の立場の組み替えが自在であるだけに、現代のいじめにはパワーゲームとしての「面白さ」があります。」44-45頁

個人的にもいじめを「パワーゲーム」として理解する観点は大事なんじゃないかと思っている。単なる「弱い者いじめ」としてでは、現代のいじめは把握できない。勉強ができたり顔が良かったりスポーツが得意だったりする「強者」を、いかに弱者と対等な立場に引きずり下ろすかというルサンチマンが、現代のいじめには色濃い。これは、誰が「強者」になるかという、教室における「パワーゲーム」だ。そしてそれは、大人社会で起きていること(たとえば頭の悪い人が、頭のいい人をバカにする)と、同じだ。
もちろん突きつめれば、各個の自己肯定感の低さが最大の問題にはなるのだろう。

「子育ての責任は家庭・親にあるという見方があまりに支配的なため、わが子を「私物化」してとらえてしまいます。しかし、子どもは社会の構成員です。したがって本来は、親だけでなく、社会全体が子育てには責任を負っているのです。」66頁

まあ、そうですよね、という。この「子育ての公共性」を破壊している元凶は、臨教審以降の新自由主義だろう。自分が良ければ他人の不幸は自己責任という。このままじゃ滅びると思うんだがなあ。

「学級崩壊とは、個の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがあると考えられます。」94頁

小学校の先生にこそっと聞くところでは、自分たちに問題があるとは考えておらず、幼児教育の自由化傾向のほうが元凶だと捉えている感じがするんですけどね。幼小連携のあり方は、今後どうなっていくのか。いやはや。(←他人事ではない)

「私は、今日の「子ども観」を「独立した人格の主体である子どもが未来の主権者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障期」と定義したいと思います。」157頁

なるほどなあと。「独立した人格の主体」と「未来の主権者」を峻別したところが、この定義の最大のポイントであるように思う。近代は、「独立した人格の主体=主権者」であった。この未分化な「人格=主権者」を二つに分離させるわけだ。(となると、教育基本法第一条「人格の完成」は、廃止すべきという議論になるかな。)

「子どもが陥っている危機から脱出するためにも、二一世紀は、子どもと大人のパートナーシップ時代にしていかなくてはなりません。」233頁
「大人と子どもの関係のあり方に、いま異議が唱えられていることはくりかえし述べた通りです。大人と子どもの関係のあり方は、いま子どもの市民性の高まりによって、根底から揺らぎ、言い意味でボーダーレス化しているのです。」236頁

19世紀的な「子ども=学校/大人=労働」という価値観を、どう超えていくのか。というか、価値観は既に大きく変化しているので、社会的な制度をどう変えていくかという話になるわけだ。子どもの社会参加と自己決定は、どのように保障されるのか。いろいろな取り組みを注視していきたい。(←他人事ではない)

尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』岩波新書、2000年

【要約と感想】森田洋司『いじめとは何か―教室の問題、社会の問題』

【要約】いじめは昔からありました。また、世界中で発生しています。現代日本に特有の現象ではありません。ただし決定的に異なっているのは、いじめを深刻化させないための歯止めがあるかないかです。
近代化による「私事化」の傾向によって、集団や組織や地域社会のつながりが弱まり、世界的に歯止めが利かない状況になっています。私事化は、いじめだけでなく、非行や不登校など様々な子どもたちの問題の元凶ともなっています。
私事化傾向が止まらないのなら、いちばん良いのは市民性教育を推進して、集団への繋がりを強めることです。個々の内面への働きかけ(心理主義)には限界があるので、「社会づくり」に考えをシフトしましょう。いじめ問題を個人の問題として捉えるのではなく、公共の問題として、集団や社会の全員が責任をもって臨みましょう。児童会や生徒会を活用して、学校づくりに子どもたち自身を参加させましょう。

【感想】とても良い本だ。さすがに一日の長がある。まずは本書を読んでいじめの全体像や研究水準を把握した上で、各論に入るのが効果的なような気がする。
現在でもややもするといじめ問題を個人の心の問題に矮小化する傾向がなくもないが、本書が主張するように、根本的には社会的な広がりの中で解決していくべきものだ。そもそもいじめとは個人を孤立化させることで無力感・絶望感を与えようとするものだ。逆に言えば、孤立化を防ぐことができれば、深刻化に歯止めをかけることができる。そして孤立化を防ぐためには、心理主義的な働きかけでは限界がある。いじめの加害者や被害者に特有の心理的傾向が存在せず、誰でも加害者や被害者になり得る以上、心理的な働きかけにはさほど意味がない。「心づくり」に意味がないなら、集団全体(学級・学校・保護者・教員同士・地域)にネットワークを張り巡らせる「社会づくり」が重要になってくる。つまり「社会関係資本」が、決定的なキーワードになるのであった。

【要検討事項】
本書は、近代になってから「私事化」の傾向が拡大しているとして、「公」が衰退したと見ている。そして、「公」と「公共」をまったく同じものと理解し、「公共」が衰退したと主張する。しかし私の考えでは、「公」と「公共」は、違うものだ。私の見るところでは、「公」の力と役割は増大している。「公共」は、「私」と「公」に挟み撃ちにされてすり減っているように見えるわけだ。
私見では、「公」とは国家権力であり官僚組織である一方で、「公共」とは「私事の組織化されたもの」である。本書が言うNPO等に当たる。確かにそれは国家権力や官僚組織が担う「公」とは本質的に異なるものなのだ。
本書のように、論理的に「公」と「公共」を区別できていないと、どこかで足を掬われるような気がするが、いかがか。

【メモ】
いじめ研究で、大昔から連綿と続く「差別に端を発するもの」に言及するものは極めて少ない。本書はしっかり言及している。

「これまで社会的な差別に端を発して起きていたタイプのいじめを、「いじめ」という上位概念のなかに一般化して括り込んだことで、差別に固有の状況と対策を曖昧にしかねない面もあった。」(47頁)

本書の結論は、子どもたちの参画による「社会づくり」であった。それがきちんと「教育基本法」を踏まえて主張されているところは、好感度が高い。欲を言えば、子どもの権利条約の精神も踏まえてもらえば、もっと好感度が高かった。

「日本の改正教育基本法(二〇〇六年)第一条に示されているように、学校教育の最大の目的は、個人の人格の完成と社会を形成していく資質の育成にある。その生活の場である学校づくりに子どもたちを参画させることは、社会づくりのための資質の育成にとって大切な学習の機会となる。」(19頁)

「人格」という言葉の用例もサンプリングさせてもらった。

「いじめは人権に関わる問題といわれる。それは、いじめられた子どもたちが人格を踏みにじられることだけを意味するものではない。自分たちの力では抗うことのできない大人社会のまなざしによって、子どもの人格が踏みにじられているという事実も見逃してはならない。」(82頁)

森田洋司『いじめとは何か―教室の問題、社会の問題』中公新書、2010年