教育概論Ⅰ(保育)-1

短大保育科 4/12・4/14

半年間の予定

・本講義は幼稚園教諭および保育士の資格に関わる授業であり、特に「教育」の原理・哲学・思想・歴史に関わる領域を扱います。
・中でも「教育基本法」の精神を理解することに重点を置きます。
・「教育基本法」を本質的に理解するために、教育の思想と歴史を学ぶことが必要となります。人の名前や教育理論がたくさん出てきます。
・学期末にテストを行います。スマートフォンや電子辞書等も含めて、あらゆるものが持ち込み可です。
・課題を2~3回出します。

教育って何ですか?

「学校」って何ですか?

・「幼稚園」と「保育園」の違いとは何でしょうか? どうして別のものとして存在しているのでしょうか?
・「幼稚園」とは、学校教育法第1条に定められた「学校」の一種です。
・「学校」が何かは、法律によって決められています。法律に合わないものは、本来は「学校」と呼んではいけません。
・法律によれば、「保育園」は「学校」ではありません。
→「文部科学省」と「厚生労働省」の管轄の違い。
→「教育委員会」と「国家資格」の違い。
・しかし、幼稚園と保育園は、中で行っている活動がほとんど同じなのに、分かれていて大丈夫なのでしょうか?
→2006年「認定こども園」の創設。「内閣府」が管轄。

「教育」って何ですか?

・「保育」と「教育」で、何か違うところがあるのでしょうか?
・そもそも「育」とは何を意味しているのでしょうか。
・そもそも「保」とは何を意味しているのでしょうか。
・そもそも「教」とは何を意味しているのでしょうか。

「教育基本法」って何ですか?

・「教育基本法」には、日本の教育が目指す根本的な理念が示されています。日本の「教育」にとって一番重要な法律です。
・そもそも日本の教育が目指しているものは何でしょうか? しっかり教育基本法第一条を確認しましょう。
・特に「教育基本法第11条」は、「幼児期教育」に関する根本規定です。日本の教育が目指しているものの中で「幼児期教育」がどのような重要な役割を果たしているか、認識しましょう。
・「幼稚園」が教育行政の全体的なシステムの中にしっかり位置付いていることを確認しましょう。

復習

・「教育基本法」を熟読吟味しよう。
・「幼稚園」と「保育園」の違いについて、事実を確認しておこう。
・「学校」や「教育」の定義について、整理しておこう。

予習

・自分が「子供」なのか「大人」なのか、考えておこう。
・どうしてそう考えたのか、判断の根拠や理由についてもまとめておこう。

発展的な学習の参考

『日本保育学会「関東地区研究集会」の個人的まとめ』(2018年2/11)

【池袋散歩20180408】あるいは結婚記念日

結婚してから無事に1年経ちまして、二人でおでかけしてきました。去年の4/8は一緒に鎌倉円覚寺に行っていましたが、今日は池袋でお買い物です。
本日のミッションは4つ、すなわち(1)ルミネで商品券を消費する(2)三省堂で本を買う(3)西武本館ギフトショップで返礼品を整える(4)東武百貨店一階スイーツ売り場を探索する。このお買い物ミッションを、日頃鍛えた池袋散歩力を存分に発揮して効率よく達成するのだ!

というわけで、埼京線でさくっと池袋へ。晴天に恵まれた日曜日だけあって、池袋駅は大混雑でした。が、メトロポリタン口の人口密度が圧倒的に低いことを活かして、人の波に揉まれることもなく、すんなりルミネへ入ります。ルミネでは欲しい品だけ確認しておいて、まずは東口の三省堂に移動。南口のガード下をくぐって西から東に移動し、西武池袋線南口脇の入口から西武別館に入ります。西武池袋南口近辺も極めて人口密度が低く、すんなりと西武別館に入れる良いポイントです。
三省堂で欲しかった本を買ってミッション2をクリアした後、西武百貨店の中を北上して、西武本館のギフトに寄って返礼の品の用意を整えてミッション3クリア。そして池袋駅構内を西口に渡り、東武百貨店一階のお菓子売り場を物色した後、東武百貨店の中を南下してルミネで昼ご飯を食べて、目的の靴と鞄を商品券でゲットしてミッション1クリア。北上してから1階に降りてケーキを買い、ミッションを全部クリアして、北口から池袋を離脱となりました。
地図で確認すると、池袋の南西側から反時計回りに一周した経路と、ルミネおよび東武百貨店スイーツ売り場を物色した様子がしっかり表れていますね。ちなみに南北の移動は一切外に出ず、ぜんぶ百貨店の内部を移動しています。池袋の南北移動は、外の道を歩くより百貨店内のフロアを移動した方が、人口密度が低くてスピーディなように思います。

買ったケーキはこんな感じ。春っぽいですね。美味しくいただきました。

「おめでとうチョコレート」と「LOVEマシュマロ」も買ってきました。また今後ともよろしくお願いします!

【愛知県新城市】鳳来寺は子宝パワースポットだけど、鳳来山東照宮はトップ3に入れるか問題

愛知県東部の山の中にある、鳳来寺に行ってきました。
鳳来寺の御本尊である薬師如来へお参りと、子宝パワースポットとして有名な鳳来山東照宮へのお参りが目的です。

本来は鳳来山の麓から1425段の石段を踏むべきではあるのですが、今回はパークウェイを使って山腹までピュッとショートカットです。駐車場から鳳来寺までは徒歩10分足らずで着きます。効験があったら、今度は麓からちゃんと登ってお礼をしに行かないといけませんね。
とはいえ、駐車場から鳳来寺までの道もなかなか凄いところです。写真の位置から金網の向こうを見下ろすと、眼下は垂直に切り立った断崖絶壁になっていて、眺めていると吸い込まれそうになります。写真ではなかなか立体感が出ないので分かりにくいですが、現場は相当の迫力です。

まずは鳳来山東照宮へお参りします。鳥居の向こうに立派な拝殿が見えます。

案内板によると、三代将軍家光が祈念して造営した東照宮のようですね。

別の案内板には、ちゃんと「奥方」ではなく「伝通院於大の方」と出ていますね。そして「日本の三東照宮」の一つとされています。んー、日光東照宮と久能山東照宮が一番二番の東照宮なのは間違いないとして、三番目は世良田の東照宮もかなり有力な気がしますけれども。岡崎と川越の東照宮もたいへんな由緒がありますし、三番目をどれにするかは難しい問題じゃないですかね。まあ、愛知県民としては鳳来山東照宮が三番目で問題ないかな。

そして鳳来山東照宮は、拝殿だけではなく本殿も直接拝むことができます。そんなわけで拝殿を回り込んで本殿の前へ。

拝殿の背後にある中門から本殿にお参り。何もなくここまで入れてもらえるところは珍しいんじゃないのかな?

東照宮の石垣の間を降りて、鳳来寺へ向かいます。鳳来寺の看板の下にちょうど梅が盛りとなっておりました。桃色でとても綺麗です。

鳳来寺の本堂にお参りします。御本尊は薬師如来です。本当はちゃんと麓から仁王門を通って登ってくるべきですが、それはまた今度。いちおう6歳の時に1425段は達成しておりますよ。

案内板は、鳳来山の自然や歴史についての解説が充実しております。

本堂前の展望台から南側を臨むの図。とても雄大な景色で、清々しい気分になります。写真だと雄大さが半減しちゃってますけどね。

今度は石段を登ってさらに奥の院まで行こうと決意を込めつつ、鳳来山を後にするのでした。
(2018年3/26訪問)

【要約と感想】稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』

【要約】「人格」という概念を理解するためには、キリスト教神学が培ってきた伝統をしっかりと踏まえる必要があります。「人格」を単に「個人」と言いかえることができる形で捉えるのでは、薄っぺらい理解しかできません。「人格」の本質とは、量的な「一」ではなく、同一のものが自己に立ち帰るような仕方で存在する自己還帰的な「一」であることです。それがモノとは異なる「精神」の在り方であり、この在り方こそが本来の「存在」というものです。しかしそのような「人格」が本質的に他者との「交わり」において存在するという矛盾対立的な関係(本質的に「一」であるにも関わらず不可避的に他者を必要とする)を正面から理解しなければ、本当に「人格」を理解したとは言えません。「人格」が本質的に「存在」でもあり同時に必然的に「交わり」でもあるという矛盾は、トマス・アクィナスのように聖書の教えからの霊感を得て、初めて理論的に解決する道が開けます。

【感想】「人格」研究の最右翼と言える研究所だ。右翼と言っても、もちろん政治的スタンスを示しているわけではない。「人格」を語る際のスタンスが主に3つあるとして。左の方から数え上げていくと、まず物質的な規定に重きを置く立場(神経生理学や進化心理学など自然科学)があり、次に社会的フィクションとして理解する立場(社会学や法学など社会科学)があり、そして精神的価値に重点を置く立場(倫理学や教育哲学など人文科学)となる。本書はもちろん精神的な価値に重点を置く人文科学的な研究をしているわけだけど、カントの人格倫理学をさらに精神的に深い地点から批判するなど、人文科学の中でも飛び抜けて精神性を重んじている。神学的な立場である。

そんなわけで、人文科学が言う「人格」とはどういうものかを理解する際には、極めて有益な本だと思う。人文科学が「人格」をどう扱ってきたかという哲学史も簡潔にレビューされていて、何が問題の核心なのかが浮き彫りにされている。問題の本質をしっかり掴んでいる人だからこそできるような、論理的に緻密でありながらも簡潔に整理された分かりやすい表現になっている。勉強になる。

そして「人格とは何か」という問いに対して筆者が最終的に出した答えとは、「存在・即・交わり」というものだった。これは極めて含蓄が深い回答ではある。ここで示された「存在」と「交わり」という概念は、表面だけ見れば相互に排他的な矛盾対立である。たとえばヘーゲルが『精神現象学』等において総合しようとしたのは、この「存在=一つとして自立するもの」と「交わり=必然的に他者を前提とするもの」の矛盾対立であったと言えるかもしれない。あるいは古代からプラトンやアリストテレスが問い続けてきた哲学問題も、この矛盾の解消に帰結するとさえ言えるかもしれない。この根本的な矛盾対立を一気に呑み込んでしまおうというのが、トマス・アクイナスの議論に即しながら筆者が示した「存在・即・交わり」という概念である。筆者の論理展開が成功しているかどうかは各自が本文に当たって確認してもらうしかないわけだが、私自身はその豪腕ぶりに唸らされた。なるほど、と。

とはいえ、その論理展開が腑に落ちるかどうかは最終的には「信仰」の問題となってしまう。私自身は、恐縮ではあるが、筆者と信仰を同じくしないので、筆者の結論が腑に落ちたわけではない。頭で理屈は分かるが、しかし腑には落ちないということだ。これは「信仰」の問題である以上、仕方がないところだろう。
「信仰」を持たない私から見れば、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね。すごい。」としか言いようのないところである。そして「そういうふうに特異点を設定する」ことが正しいかどうかは、論理的には説明されていないし、不可能である。論理によっては絶対に超えられない谷は、「信仰」によって超えるしかない。それが「言語ゲーム」というやつの宿命だ。そして私は、「信仰」を同じくしない以上、その谷を超えることはできない。「超えたとしたら、こう言えますね」とは言えるけれども。

たとえば、筆者が辿り着いた結論について、筆者はキリスト教の信仰でしか不可能だと主張したいかもしれないが、私から見ると仏教の論理でも説明可能だろうと思ってしまう。般若心経が言う「色即是空空即是色」という言葉は、まさに筆者が辿り着いた「存在・即・交わり」という内容の深奥を極めて鮮烈に突いているのではないか。
私は別に仏教の方がキリスト教より優れていると言いたいわけではなく、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね」という感想が等しくキリスト教にも仏教にも当てはまるように見えるのであって、結局は「特異点」の設定の仕方だけが個性的なのかもしれないと思うわけだ。キリスト教や仏教に頼らなくても、「特異点」さえ上手に設定できれば、「存在・即・交わり」という深奥は如何様にも表現できるのではないか。しかし「存在・即・交わり」を合理的に解釈するためには何らかの「特異点」の設定が絶対に必要であるということはおそらく間違いない。ただし、おそらくどの「特異点」も相互に優劣はなく、キリスト教でも仏教でもどちらの特異点設定でも合理的解釈は可能であるし、もちろんまったく別の「特異点」でも同じように「存在・即・交わり」の合理的解釈は可能になるように思う。

具体的に思い起こすのは、「光」というものの物理的性質だ。高校物理で習うわけだが、光は「粒子」であると同時に「波」の性質を持つ。光は物理的に「粒子」という個別的な「存在」の様式を示すと同時に、互いに干渉する「波」であるという「交わり」としてに在り方を示す。つまり「光」とは物理的に「存在・即・交わり」という在り方を示しているのだ。そして量子力学で習ったところでは、「光」だけではなく、あらゆる「原子」が「粒子・即・波」という在り方を示す。どうして光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すのか、その根拠は、少なくとも私は物理的には理解できない。私にできるのは、現実として確かに光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すことを「信仰」するしかないのだ。そして光や粒子が「粒子・即・波」という在り方を示すことさえ無条件に受け入れてしまえば、そこから演繹される物理的な体系は問題なく理解することができる。「粒子・即・波」という不可解で非合理的な在り方さえ受け入れてしまえば、全体的な体系は合理的に解釈することができるのだ。しかし全体的な体系を合理的に解釈できるとしても、どうして「粒子・即・波」なのかは謎のまま残る。
物理の話に限らない。全体的な体系を内側から合理的に解釈しようと思うときには、どうしてもどこかに「特異点」が必要となる。「思考の支え」が存在しないとき、人は全体的な体系を合理的に解釈することができない。その「思考の支え」を外部に求めない場合は、体系内に「思考の支え」としての「特異点」を設定する必要がある。筆者は、その「特異点」の設定を聖書に求めた。それ自体はまったく問題ない。しかし、私としては、「特異点」の有り様は他にもあり得るようにしか見えない。その有り様の選択肢は、それこそ無限にあり得る。とはいえ、「うまい特異点」と「ダメな特異点」の違いは、確かにある。たとえば「ユダヤ人が悪い」とか「イワシの頭」というのは極めて質の悪い特異点だろう。それから「特異点」が多すぎる理論も、ダメなやつだ。「特異点」がうまいかダメかは、「特異点」自体の単純性と、そこから演繹される論理体系全体の広がりと深さの射程距離から判断することができる。聖書に「特異点」を設定したトマス・アクイナスや筆者の立論は、相当に「うまい特異点」に立っているとは言えるような気はする。うっかりすると谷を飛び越えてしまうほど、うますぎると言えるかもしれない。この論理構成の見事さについては、キリスト教神学が培ってきた伝統の奥深さに感服つかまつるというか、頭を垂れて教えを請うというか、恐れおののくしかないところだ。すごい。だがしかし。仏教の示す論理も負けず劣らずそうとう凄いように思えるので、そう簡単に飛び越すべき谷は決められない。渡ってしまったら、簡単には帰ってこられないものだろうし。(渡ったことがないから分からないけれど)。

そして、上記の見解が「信仰を持たない者の言いぐさ」であることを私は自覚しなければならないわけだが、「信仰を持たない者の言いぐさ」というものがこの文章全体を貫く「特異点」なのだった。人は何らかの「特異点」なしでモノを考えることはできない。(そんなわけで、私個人は最終的な「特異点」の審級を「眼鏡」に置いております。ご了承いただけると幸いです)

で、まとめ。
私個人の今現在の理解としては、「人格」という概念とは、「それが確実に存在するという根拠がないにもかかわらず、それが存在すると仮定することによって世の中全体を合理的に無矛盾な体系として構想することが初めて可能となるような特異点のうちでも、その単純性および射程範囲の広さと深さにおいて極めて優秀なものであり、現時点においてはこれに取って代われる概念は他にないような文化的到達点」と理解するのが、いちばんしっくり来る。筆者の言いたいこととは究極に根本的なところでズレちゃってて、申し訳ないところではあります。

稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年

【長野県上田市】上田城は尼ヶ淵に降りて見上げないと来た意味がないんじゃないかな

長野県上田市の上田城に行ってきました。
上田城は真田氏ゆかりの城として有名ですね。近年では2016年の大河ドラマ『真田丸』が記憶に新しいです。

上田駅では、改札口から真田家のシンボル六文銭を大プッシュしております。

JRの駅にも大きな六文銭のデザインがあしらわれています。他にも、街中には至る所に六文銭を見ることができます。愛されていますねえ。手前の銅像は、上田駅に突進する馬上の真田幸村。かっこいいです。

二の丸と本丸を隔てる巨大な堀を超えると、立派な櫓門が待ち構えています。この光景には胸が高まります。格好いいですねー。

しかしまあ、案内板によれば、櫓は戦国の真田時代に建てられたものではなく、江戸時代に入ってから仙石氏によって築かれたものということです。真田氏が造った上田城は、煮え湯を二度も飲まされた家康によって徹底的に破壊されてしまったので、当時の遺構が残っていないのは仕方ないところですね。

櫓の中は史料展示スペースになっていて、特に真田三代の事績や、上田合戦の具体的な展開について知ることができます。なかなかお金がかかっていて、充実しています。

これも残念ながら真田時代のものではありませんが、尼ヶ淵から見上げる石垣も極めて立派で、見応えがあります。写真は、下から見上げる西櫓。本丸ばかり見て尼ヶ淵に降りてこない観光客も散見されますが、たいへん勿体ないですね。ここから見上げないと、上田城の神髄は分からないんじゃないかと思います。

江戸時代は、この石垣の直下まで千曲川分流の河原になっていました。こちら側から城を攻めることはほぼ不可能で、堅固な城であったことが推測できます。真田氏の居城時にはどのような土の姿だったのか、興味をかき立てられます。

かつての河原から西櫓を見上げます。格好いいですね~。

案内板によると、一部に古い時代の石垣も確認できるとのことですね。

写真は、東側から石垣を臨むの図。手前に見えるのが南櫓で、奥に見えるのが西櫓です。とことん格好いいなあ。

上田城がかっこよく見えるのは、姿形だけのせいではなく、それが辿った歴史に負うところが大きいかもしれません。二度も徳川軍を撃退するという実戦を経験していることが、極めて強く印象に残るわけです。我が鵜殿家も徳川氏との遺恨があったりなかったりするので、徳川氏に煮え湯を飲ませた上田城にはたいへん親近感を覚えるわけですね(?)。

さて、上田を訪れた2018年3/26は、東京では桜が満開になっていたようでしたが、こちらでは梅が盛りでした。紅梅が鮮やかです。

東側の土塁の上では、白梅が見事に咲いておりました。

二の丸の東側にある上田市立博物館も見学してきました。博物館本館の方では江戸時代の仙石氏や松平氏の治績が展示されており、別館の方で真田氏に関する展示が行われています。本館だけだと、実は真田氏関連資料をまったく見られないので、要注意ですね。
本館の展示では、幕末の兵学者、赤松小三郎の事跡を興味深く見ました。佐久間象山との交流もあり、幕末に大きな役割を果たした学者です。一般的には幕末の学者が注目されることはあまりありませんが、個人的には藤田東湖とか横井小楠とか学者たちの動向にとても興味があります。が、この赤松小三郎、志半ばで薩摩藩の中村半次郎(後の桐野利明)に暗殺されてしまいます。2018年の大河ドラマでは暗殺実行者の中村半次郎がなかなか重要な人物として描かれそうな感じがしますが、赤松小三郎暗殺エピソード等はどう扱われるんですかね。
いっぽう別館の展示のほうは、真田一色でした。上田城合戦や犬伏の別れなど、詳しく紹介されています。上田城もCGで復元されて、当時の姿を確認することができます。
(2018年3/24訪問)

「人格の完成」とは何か?