「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】エウリーピデース『バッカイ―バッコスに憑かれた女たち』

【要約】テバイの王ペンテウスは、神様であるディオニューソスを認めなかったばっかりに、最後は実の母の手で八つ裂きにされてしまうのでした。

【感想】話の筋自体はご都合主義というか、すべてが神様の都合でコントロールされているだけで、伏線もなにもあったものではなく、ソポクレス『オイディプス王』のような感銘を受けることはない。ペンテウスの強情さも何かしらの世界観や正義観に支えられているのでなく、単なる強情なので、ソポクレス『アンティゴネー』のような読後の余韻もない。悲劇としての出来という観点からは、見るべきものは少ないように思う。

まあ、本書の見所はそういうところにはないのだろう。話の構成とかテーマ性を楽しむのではなく、ディオニューソスという神性のありかたそのものを楽しむための作品のように思う。
色白ですらりとした女性的で優しい面持ちのイケメン神ディオニューソス(イメージ的にはエヴァンゲリオンで言うとカヲルくんのような感じか)は、人間を酔わせ、歌い踊らせ、理性を奪って狂気に導く。ディオニューソスに魅入られた人々(特に女性)は、「エウホイ」と叫びながら山野を駆け巡り、道具を使わずに自分の身体を剥き出しにして超自然的な力を発揮し、火を使わずに生肉を喰らい、個体の輪郭を失って集団の中に溶け込んで一体となっていく。個性的なギリシアの神々のなかにあっても異質中の異質な存在だ。
ディオニューソスのこの反-文明、反-理性的な神性のありかたは後世の学者たちにも大いなる霊感を与えた。特にニーチェがアポロンと比較した論及はよく知られている。
ディオニューソスの性格描写という点において、本作品(あるいは翻訳)は、静かな狂気を湛えていて、味わい深く、秀逸な作品であるように感じた。

エウリーピデース/逸身喜一郎訳『バッカイ―バッコスに憑かれた女たち』岩波文庫、2013年

【要約と感想】ソポクレース『アンティゴネー』

【要約】ポリュネイケースは、祖国テーバイを裏切って戦争を仕掛けましたが、敢えなく討ち死にします。テーバイ王のクレオーンは、裏切り者ポリュネイケースの遺体の埋葬を禁じ、野晒しにします。ポリュネイケースの妹であるアンティゴネーは、クレオーンの命令に逆らい、兄の遺体を埋葬します。クレオーンは自分の命令に逆らったアンティゴネーに大激怒しますが、アンティゴネーは逆にクレオーンを神に逆らう愚か者と責めます。アンティゴネーは死刑となりますが、それは実はクレオーンの破滅の始まりでもあったのでした。

【感想】読後の余韻が深い、傑作だ。
まあ、同作者の『オイディプス王』と比較した場合、筋そのものの見事さに関して一歩劣るように見えてしまうのは仕方がないところだろう。アンティゴネーの婚約者の自死はともかく、母の自死には伏線もなく、唐突感が否めない。クレオーンの破滅も、筋そのものから導き出されるというよりは、彼の「無理解」とか「頑固さ」という性格によるものであり、自分の力で変えようと思えば変えられるものであって、オイディプスのような「運命」に翻弄される類のものではない。まあ、筋自体の出来でオイディプス王と戦おうとする方が無理というものかもしれない。

が、読後の余韻という意味では、オイディプス王よりも味わい深いものがあるかもしれない。というのは、扱っているテーマが普遍的な魅力を持っているからだ。「人の法/神の法」という対立は、現代の問題を考える上でも大きな示唆を与えてくれる。
具体的には、テーバイ王クレオーンは「人の法」を優先した。祖国を裏切った敵に対して、容赦なく苛酷な復讐を加える。彼にとって優先するべきものは国家の秩序や国民の一体感であって、私的な感情は一歩を譲るべきものに過ぎない。だから肉親の埋葬をしたいというアンティゴネーの願いなど、彼にとってはただの我儘に過ぎない。
しかし、確かに「人の法」は生きている者には優先的に適用すべきものかもしれないが、死んでしまった者はもはや神の領域にある。本来神の領域にあるものに対して人の法を適用することは、むしろ不敬な行為に当たる。死者を肉親が弔うことは「神の法」に適うことだ。アンティゴネーは「神の法」を優先し、「人の法」を無視する。
この「人の法/神の法」は、どちらが正しいかという問題ではない。どちらとも正しいのだ。対立する2つの考えの両方ともが正しい場合、どちらを優先するべきかという問題なのだ。本書の結論は、明確に「神の法」を優先すべき事を説いている。それは予言者テイレーシアスの言葉や、クレオーンの破滅に明確に表現されている。「死すべき者」の領域では「人の法」を優先することに問題はないが、「死すべき者」の領域を離れたところでは「人の法」は無力となる。

ひるがえって、現代は正義と正義が衝突し合う世界だ。どちらか一方が明らかに悪なのであれば話は早いのだが、両者とも自分の正義を掲げて一歩も譲らないところに、現代の悲劇が生ずる。ギリシャ時代の悲劇が自分の正義を掲げて一歩も譲らないところから生じたことと、構図はまったく変わらない。正義と正義がぶつかった時に、どのように悲劇を避けるのか。そのヒントは、「人の法」ではなく、「神の法=人種や国籍や性別や年齢などに関係なくすべての人に普遍的に当てはまるルール」にある。そんなことを2400年前の物語から感じとることが出来る。

【今後の研究のための備忘録】

ハイモーン「あなたの仰言ることは正しく、他は間違っているなどと、ただ一つの考え方しかせぬことはお止め下さい。ただ一人自分だけが、分別を弁えているとか、他人にはない弁舌とか気概を持つ、と思いこんでいるような人は、えてして蓋を開けてみると空っぽであるものです。」705-709行

座右に置いておきたい言葉だ。言葉のやりとりの過程で頭に血が上った時には、この箴言を見るようにしたいものだ。クレオーンが陥ったような破滅を免れる助けとなる。

ソポクレース/中務哲郎訳『アンティゴネー』岩波文庫、2014年

【紹介と感想】竹内薫『「プログラミングができる子」の育て方』

【紹介】世界は第四次産業革命に突入し、将来はコンピュータが使えない人から滅びていきますし、プログラミングができる人ほどお金儲けができますので、小学生に入る前からプログラミング教育を始めましょう。暗記型のドリル計算などやっても無意味だし、後から追い抜かれるだけなので、すぐにやめて、本物の数学的思考を身につけるような主体的学習を始めましょう。学校にはまるで期待できないので、指導はコンピュータのプロにまかせましょう。

【感想】少々危機感を煽りすぎているような感じがしなくもないが、まあ、守旧的な人たちに対してはこれくらい煽っておいてちょうどいいということなのかもしれない。
あと学校や教師に対して絶望している感じがありありと出ている(というか、この本の冒頭が「自分の娘を通わせたい学校がない!」という一文から始まる)のは、教職課程に携わる身としてはとても残念なことなので、個人的に発憤材料としたいところだ。

【学校や教師に絶望している文章を逆にエネルギーに変えよう】

「なぜ日本の英語教育が失敗してしまったかといえば、ネイティブ並みの英語が聞けない、話せないにもかかわらず、ただ単に教員免許を持っているだけの先生に教えられてしまったからです。これと同じようなことが、プログラミングでも起こってしまう可能性があるのです。」37頁
「誤解を恐れずにいえば、学校の先生ではなくプロから学ぶのがベストだということです。」58-59頁

文科省や教育委員会も手をこまねいて眺めているわけではなく、いろいろ手は打っているんですけどね…、まあ、ね…。まあ、人のことはともかく、私は私にできることを誠実に実行していくしかないのだった。

竹内薫『知識ゼロのパパ・ママでも大丈夫!「プログラミングができる子」の育て方』日本実業出版社、2018年

【紹介と感想】石戸奈々子『プログラミング教育ってなに? 親が知りたい45のギモン』

【紹介】主に保護者向けに書かれたプログラミング教育の案内書です。右も左も分からない超初心者にお薦めの本です。プログラミング教育がどうして必要なのか、何を学ぶのかなど、保護者が抱きがちな疑問に対して簡潔に答えています。よくある疑問や不安は、この一冊で解消しそうです。またプログラミング教育の初歩の初歩を知りたい現場の教師にとってもおそらく有益で、「社会に開かれた教育課程」とか「教科等横断的」など新学習指導要領のキーワードと絡めながら理解することができます。
逆に言えば、初心者を脱している人には特に必要がない本ではあります。まずは入口に立つための本であって、プログラミング教育の扉をくぐる段階の本ではありません。

【感想】分かりやすく書かれているけれども、全方位でかゆいところに手が届く、偏りなく行き届いた良心的な案内本であるように思う。本当に右も左も分からない保護者は安心できるのではないか。
特にプログラミング教育の意義には不安がなく、実際に子供に経験させてみたいと思っている場合は、本書は必要ないのでスキップして、同じ著者の『プログラミング教育がよくわかる本』を手に取るのをお薦め。

石戸奈々子『プログラミング教育ってなに? 親が知りたい45のギモン』Jam House、2018年

【紹介と感想】澤井陽介編著・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校著『鎌倉発「深い学び」のカリキュラム・デザイン』

【紹介】新学習指導要領の理念を実際の教育活動に落とし込んだ小学校の実践が報告された本です。学校全体で理論的なVISIONを共有した上で、具体的に各教科それぞれの「本質」や「見方・考え方」を構成しているので、全体的な統一感があります。従来の各教科指導案の羅列では見えてこなかったような「教科等横断的な資質・能力の育成」や「プロセスを重視した指導」の具体的な姿が、この取り組みではとても見えやすくなっています。学校の「重点目標」の策定から、それを踏まえた具体的な「カリキュラム・デザイン」までを考える際に、実践的に練り込まれた例として参考になるのではないでしょうか。

【感想】「カリキュラム・デザイン」というPDCAサイクルの「P」および「プロセスを重視した指導=深い学び」という「D」の部分に集中した実践報告として、とても興味深く読んだ。(逆に言えば「C」と「A」は主要テーマとして扱われていないので、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」が全般的にカバーされているわけではないけれども。)
「校内研修」でボトムアップ式に積み上げてきただけあって、個性的で独創的な取り組みに発展してきているように見える。印象に残るのは、多様性や協働性を実践に落とし込む際の「ズレ」という言葉の使い方や、「賢いからだ」という独特の表現だ。文科省や教育委員会の文書から言葉を借りるのではなく、日々の経験を校内研修を通じて積み上げていく姿勢が感じられる。独創的な実践を作り上げていく際に、見習うべきところが多いように思った。
また、「学校目標」の実際的な作り方に関しては、一つの事例として興味深く読んだ。従来の小中学校の教育目標は、著者も言うように「知・徳・体」をキャッチフレーズ的にまとめたものが多かった。明治期に輸入したスペンサーの三育主義以来、140年間変わっていないわけだ。新学習指導要領では、この旧来型学校目標の見直しを強く求めてきている。文科省が想定している新しい学校目標とは、おそらく学校教育法に定められた「学力の三要素」をベースとしたものだ。しかし旧型目標と新型目標の整合性をどう取るかは、なかなか厄介な実践的な課題となる。その厄介な課題に対して本書が示した解決法は、なかなか実践的だと思った。

気になったのは、「社会に開かれた教育課程」という概念が論理的に矮小化されていたところだ。が、まあ、ボトムアップ式の取り組みという点から考えれば、別に文科省の言う概念を無批判に取り入れる必要はなく、目の前の子どもの姿から徐々に課題が立ち現われていくものであるだろうとは思う。

澤井陽介編著・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校著『鎌倉発「深い学び」のカリキュラム・デザイン』東洋館出版社、2018年

■参考記事:「カリキュラム・マネジメントとは―3つの指針と学校運営の要点―