「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】キケロー『友情について』

【要約】友情は、お金や権力や名誉などよりも遙かに素晴らしいものです。なぜならお金や権力や名誉等は別の何かの役に立つことで初めて意味を持つものですが、友情はそれだけで意味のあるものだからです。
しかし徳と愛に基づいた友情でなければ、結ぶ意味はありません。利益や打算に基づいた友情は、必ず破綻します。友達だからといって、なんでも相手の要求を聞けばいいというものではありません。くだらない人間とは友情を結ばないようにしましょう。

【感想】実践的に言えば、「ともだち100人できるかな?」なんて言っている人に読ませるべき本ではある。100人も必要ないことが、よくわかる。

学術的には、アリストテレスの友情論(友愛=フィリア)との比較が課題になるようだ。細かい点で相違があるのは確かだが、友情の本質が「非功利性」にあると見ている点では、相通じるものがある。

とはいえ、『キケロー書簡集』を読むと、本人の言っていることとやっていることがまったく連動しておらず、本書の内容が所詮は綺麗事の言葉に過ぎないことが伺える。残念なことだ。

キケロー『友情について』中務哲郎訳、岩波文庫、2004年

【要約と感想】オウィディウス『変身物語』

【要約】ギリシア神話の天地創造や神々の戦いからトロイア戦争に至る様々なエピソードとローマ市建設からカエサルに至るローマ神話を、変身というモチーフで貫いた作品です。

【感想】まず圧倒的な構成力と人物描写の妙が印象に残る。アポロドーロス『ギリシア神話』のように単に参考書的に事実を羅列したのではなく、考え抜かれた構成と彩り溢れるキャラクター描写とで、ぐいぐいと読ませる。ペルセウスとかオルペウスとかエコーとナルキッソスとか魔女メデイアとかダイダロスとイカロスとか、アポロドーロスではほとんど内容が分からなかったエピソードが、本作ではしっかり肉付けがされていて、キャラクターの心情に寄り添いながら読むことができる。ギリシア神話に手っ取り早く触れたいという向きには打って付けの作品だと思う。というか世間一般に流布しているギリシア神話は、アポロドーロスではなく、本作が参照されているのだろう。

採用されるエピソードは、実らない恋愛と不倫による破滅が目立つ。妹と兄、娘と父の実らない恋とか、嫉妬や勘違いや神々の一方的な私怨やストーカー行為によって人生を破滅に追いやられる人々が印象に残る。北斗の拳ばりの派手なチャンバラも2個所ほどあったけれども、全体的には恋愛中心の甘ったるい構成になっている。

全体の構成は見事としかいいようがない。それぞれのエピソードが入れ子構造になったり相互に結びついたりして、全体で一枚の織物のようにできあがっている。圧倒的な構想力がないと、複雑かつ大量なギリシア神話エピソードを有機的に集成することは不可能だろう。最終章でピュタゴラスの輪廻転生説を持ち出して恒常性と変化との関係を説き、「変身」を論理的に総括するところなど、まあ、見事だ。感服つかまつる。

【恒常性と変化に関するピュタゴラスの教説】
「この世界に、恒常的なものはないのだ。万物は流転し、万象は、移り変わるようにできている。『時』さえも、たえず動きながら過ぎてゆく。それは、河の流れと同じだ。河も、あわただしい時間も、とどまることはできぬ。波は、波に追いたてられる。同じ波が、押しやられながら進みつつ、先行する波を押しやるように、時間も、追われながら、同時に追ってゆく。こうして、それは、つねに新しい。以前にあったものは捨て去られ、いまだなかったものがあらわれるからだ。そして、この運動の全体が、あらためてくり返される。」下p.308

「われわれ自身のからだも、つねに休みなく変化している。昨日のわれわれ、今日のわれわれは、明日のわれわれではないのだ。かつては、われわれは、いわば単なる胚種でしかなく、やがて人間になるのだという希望の萌芽として、母親の胎内に宿っていた。」下p.310

「要するに、天空と、その下にあるものはみな、姿を変えてゆく。大地も、そこにあるすべてのものもだ。この世界の一部であるわれわれも、その例にもれない。それというのは、われわれは単に肉体であるだけでなく、飛びまわる霊魂でもあり、野獣のなかに住むことも、家畜の胸へはいりこむこともできるからだ。だから、それら動物たちのからだが安全無事で、敬意をもって遇せられるようにしてやろうではないか。そこには、われわれの親兄弟や、あるいは、ほかの何かのきずなによってわれわれと結ばれた者たちの、それとも、すくなくともわれわれと同じ人間の、霊魂が宿ったかもしれないのだ。」p.322

変化について論理的に突き詰めた結果、最終的には仏教のような論理になっているのが興味深い。

オウィディウス『変身物語(上)』中村善也訳、岩波文庫、1984年
オウィディウス『変身物語(下)』中村善也訳、岩波文庫、1984年

【要約と感想】クセノフォーン『ソークラテースの思い出』

【要約】ソクラテスは誤った裁判で無実の罪を着せられ、間違って処刑されました。ソクラテスほど敬虔で清廉で潔白で気高く立派に生きた人はいません。

【感想】プラトンの描くソクラテス像と比較されて、なにかと悪口を言われることの多いクセノフォンではあるが、実際に読んでみるとそんなに酷いわけではないことが分かる。むしろプラトンの方がソクラテス像を歪めていて、クセノフォンの方に真実があるのではないかと思わせる描写もあるくらいだ。まあ、どちらが正しいかは、今となっては分からないのだけれども。

ソクラテス像に関して、プラトンとクセノフォンの描写では主に4点の相違が目についた。すなわち、(1)家族軽視と家族重視(2)労働軽視と労働重視(3)本質主義と功利主義(4)普遍重視と活用重視の4点だ。

(1)家族軽視と家族重視
プラトンの著作に現われるソクラテスは、家族関係をそれほど重視しない。特に『国家』では婦人と子供の共有を主張し、家族関係の解体さえ主張している。しかし一方のクセノフォン描くところのソクラテスは、家族関係の大切さを説いている。(ただしプラトン初期対話篇の「エウテュプロン」では、家族関係を大切にする姿勢は見える)

「ところで、われわれは子供が親から受けているよりも、もっと大きい恩を人から受けている者を、ほかに見つけられようか。親のおかげで子供は初めてこの世に存在を得、親のおかげで神々が人間にお与えになった実にたくさんの美しいものを見、実にたくさんの善い事を楽しめるのだ。」78頁
「そして男は己れと協力して子供を作る相手を養い、いずれ生れるであろう子供のために生涯の利益となると考えるあらゆる準備をなし、しかもそれをできるかぎりたくさん用意するのである。」79頁

(2)労働軽視と労働重視
プラトンやアリストテレスは、消費生活に必要な労働に価値を認めない。それは奴隷が負担するべき作業だと考え、立派な市民は労働から解放されて観想的な生活を送るべきだと主張している。プラトン描くところのソクラテスも同様の主張を繰り広げる。一方、クセノフォン描くところのソクラテスは、生活に必要な金銭取得のための労働を積極的に推奨している。単に金を稼ぐために推奨するだけでなく、個人の精神的な幸福に加えて人間関係を円満にするためにも労働を推奨する。ヘシオドス的な労働観が表われているようにも読める。

「それでは、自由の身分でそして身内の者だというわけで、君は彼らが食べて寝る以外のことはしてならないと考えるのか。そしてほかの自由の身分の者で食って寝るだけの生活をしている者を、生活上役に立つ仕事を知っていてこれに励む者よりも、一層高等な生活、一層仕合わせな身の上と、君は見るのか。それともまた、怠惰と投げやりとは、知るべきことを学び、学んだことを記憶し、身体を健康かつ強壮ならしめ、生活に有用な物質を獲得してこれを貯えるのに、甚だ人間の役に立つが、勤勉と心遣いとはなんの役にも立たぬと、君は認めているのか。」
「怠けているのと、有益な仕事に励むのと、人間はどちらが一層分別があるのであろうか。仕事をするのと、怠けていて物質の論議をしているのと、どちらが一層まともな人間であろうか。」106-107頁

(3)本質主義と功利主義
プラトン対話編で活躍するソクラテスは、物事の本質をとことん突き詰めることによってソフィストたちの詭弁をやりこめていく。一方、クセノフォン描くところのソクラテスは、相手を説得する際、本質を追究するのではなく、功利主義的な理由を前面に打ち出してくる。たとえばデルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という箴言の解釈に対し、ソクラテスは「己の力量を弁えないと失敗する」というような、功利主義的な解釈を示す。研究者たちがクセノフォンよりもプラトンを高く評価するのは、こういった功利主義的な描写がソクラテスの本質を歪めていると見なされているからだ。
いちおう、本質を追究する姿勢は、クセノフォン描くところのソクラテスにも見ることができる。しかしその場合の本質とは、プラトンが掲げるイデア的な普遍不動の真実というよりは、常に人間の立場から見た本質だ。クセノフォンが描くソクラテスは、イデアリストではなく、プラグマティストである。

(4)普遍重視と活用重視
プラトンとクセノフォンが決定的に異なっているのは、知識に対する態度だ。プラトンは未来永劫絶対不変の確実な知識を追究し、数学に真理のモデルを見出した。しかしクセノフォン描くところのソクラテスは、あっさり数学的真理を放棄している。

「彼はまた、正しく教育された人間は、各々の問題についてどの程度までこれに習熟すべきかを教えた。たとえば、幾何学は、必要の生じた際に正確に土地を測量して、これを引きとり、または譲渡し、あるいは分割し、または資産を明示できる程度にまで、これを学ぶ必要があるといった。しかもその習得は大変容易で、測量に心をむける者は、土地のひろさがどれくらいであるかを知ると同時に、測量法の知識も得て来れるのであった。けれどもむずかしい作図の問題に入るまで幾何を学ぶことは、彼は賛成できないとした。なぜなら、一つにあこれがなんの役に立つとも思えないからだと言ったが、しかも彼自らは決して幾何学を知らぬものではなかったのである。しかし、もう一つには、彼の言うのに、この種の勉強が優に人間の一生をついやすに足り、それ以外のたくさんの有用な学問を全然さまたげてしまうからであった。」229頁

クセノフォン描くところのソクラテスは、数学は実際の経済活動に「役に立つ」から学ぶべきと主張し、それ以上の学習は無駄であると言明する。幾何学と同様に、天文学や算術も、役に立つから学ぶべきであって、それ以上の知識追究は意味がないと見なしている。
また例えば「善」に対して、プラトン描くところのソクラテスからは逆立ちしても出るはずがないセリフを吐く。

「そうすると、何のために善いものでもない善い事を知っているかとたずねているのなら、そんなのは私は知らないし、また知ろうとも思わん。」148頁

プラトン描くところのソクラテスが絶対的な普遍的真理を求めて「善のイデア」に辿り着くのに対し、クセノフォン描くところのソクラテスは、そんなものに微塵も関心を寄せない。徹底的に個別具体的な状況に寄り添って、人間の立場からの「善」を追究しようとする。

こうして見ると、プラトンの描くソクラテスは、やはり歴史的なソクラテスをそのまま再現しているというよりは、ピュタゴラス学派に数学的な真理観を学んだプラトンの立場を色濃く反映していると見る方が良さそうな気がする。本来のソクラテスは、やはり徹底的に「人間の立場」に立ち、神の視点に立つことを斥け、個別具体的な状況に寄り添う姿勢を貫いたのではないか。

ただし難しいなと思うのは、クセノフォン描くところのソクラテスはあくまでも「顕教」であって、プラトンは「密教」を伝えているのではないかということだ。もしもソクラテスが本当に個別具体的な人間の立場に立ったのであれば、クセノフォンに対してはクセノフォンの立場で理解できる範囲での働きかけに終始した一方、プラトンに対してはプラトンの個性に即した形で働きかけただろう。だとしたら、確かにクセノフォンが理解したソクラテスもソクラテスの真実の一面を表わしている一方で、プラトンが描いたソクラテスもソクラテスの真実の一面を確かに捉えていることになる。そしてクセノフォン自身が証言しているように、ソクラテスは幾何学や天文学や算術の深奥を極めることに意味がないと言いながらも、本人は実際には学問を修めているのだ。実際に幾何学や天文学の普遍的な真理の一端を理解していたとしたならば、プラグマティックなクセノフォンには活用的な知識観で以て働きかけた一方で、普遍主義的なプラトンには普遍的な真理観で以て働きかける能力があったことになる。

ともかく両者に共通しているのは、ソクラテスが信念の人であり、自分も他人をも裏切らず、最後の最後まで徹底的に誠実に生きた、希有な人間だったということだ。

あと、『弁明』において、職人たちが物事の普遍的な真実をまったく理解していなかったという話が出てくるが、プラトン対話編では分からなかったその具体的な対話の内容は、本書でしっかり確認することができる(155頁あたり)。

クセノフォーン『ソークラテースの思い出』佐々木理訳、岩波文庫、1953年

【要約と感想】『イソップ寓話集』

【要約】イソップ寓話と呼ばれるものの中には様々な成立過程を経てきた話が混在していますが、本書は基本的な史料批判を加えた上で11部に分類し、訳出しています。巻末付録にはイソップ寓話を引用した古典一覧の表も付いており、辞典的に使用する際にも極めて有用です。この労力には頭が下がります。逆に言えば、子供に童話を読み聞かせる目的で買うような本ではありません。

【感想】まあ、まず思ったのは、玉石混淆というか、よくできた話と、まるで意味をなさない話とのギャップが凄いということだ。子供向けにアレンジされて人口に膾炙している話は、さすがに出来が良いものばかりであるように思うけれども、半分くらいは読む価値のない話のように思ってしまう。そう感じてしまうのは、話者と読者を隔てる二千年以上の時のせいなのかもしれないけれど。
あと、一般的に広まっている話とイソップの原典が異なっている話が多いことにも気がつく。たとえば一般的に「アリとキリギリス」として知られている話は原典では「蟻と蝉」となっていたり、「金の斧」として知られている話で登場するのは泉の精ではなくヘルメス神だったりする。「ウサギとカメ」の競争の話も、一般的に知られているものとはニュアンスが微妙に違っていたり。まあ、ちょっとしたトリビアにしか使えない知識かもしれないけれども。
それから、生まれ持った分を守るべきことを強調するあまり、後天的な努力を揶揄し非難するような話が極めて多いことにも気がつく。羊や驢馬や狼や烏やライオンが、もともと持っていた性質を超えて高望みすることで、次々と悲惨な目に遭う。こういった話には、身分制原理が社会を支配していた名残を見出さざるを得ない。持って生まれた性質はどんなに努力しても変わらないという「諦めの境地」を強調するライトモチーフは、現代的には「努力に何の意味もない、勝負は生まれた時に決まっている」というメッセージとして流通してしまう。まあ、21世紀の教育的な観点から見て不適切なのは、あくまでも時代の問題であって、イソップ寓話固有の問題ではないけれども。
いろいろ思うところはあるけれども、こういう洒脱な知恵が2500年前に共通教養となっているギリシア文化の奥深さには、率直に驚かざるを得ない。ホメロスの叙事詩、アイスキュロスの悲劇、ソクラテスの教育、プラトンの哲学等々と並んで、ギリシア文化の底なしの深さの一端を味わえる一冊であることには間違いがない。

中務哲郎訳『イソップ寓話集』岩波文庫、1999年

【紹介と感想】荒木紀幸『新モラルジレンマ教材と授業展開 考える道徳を創る(中学校)』

【紹介】新学習指導要領は「考え、議論する道徳」というキーワードを打ち出していますが、道徳の教科書は相変わらず特定の徳目を一方的に上から注入するような旧態依然のクローズエンド型教材に終始していて、これでは子供の道徳的判断力が育つわけがありません。本当に「考える道徳」を創るためには、教師や教科書が一方的にあらかじめ決まった答えを教えるのではなく、オープンエンド型の教材を使用し、子供たちが主体的に道徳的判断力を鍛えるような授業を行なうべきです。
本書は実際に中学校の道徳の授業で使用できるオープンエンド型の教材を多数用意し、授業の狙いや展開、板書の仕方、教材の特徴や注意点等を添え、「考える道徳」を創るためのヒントを提供しています。

【感想】これまで時間をかけて着実に積み重ねてきた実践経験を土台にしている上に、コールバーグの道徳性発達理論を背景にして議論を組み立てているため、論理的にも実践的にも説得力が高い。昨今の「道徳の教科化」によって、こういった説得力のある道徳的判断力養成のモラルジレンマ実践が増えるのか、それとも旧態依然の徳目注入主義が跋扈するのか、あるいは面倒臭い道徳教育を忌避する傾向が続くのか、実態を注目していかなくてはならない。

荒木紀幸編著『考える道徳を創る 中学校 新モラルジレンマ教材と授業展開』明治図書、2017年