「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】増田ユリヤ『新しい「教育格差」』

【要約】現代の教育の最大の問題は「格差」です。格差を生む根底には、「他者を思いやる心」と「問題意識をもつ心」という2つの「思うこと」の欠如があります。

【感想】公立中高一貫校が広がって中学受験問題がPISA型学力に準拠するようになったり、専門家の科学的批判にもかかわらず全国学力・学習状況調査の悉皆調査が続いたり、非常勤教師の雇い止めが起こったり、校内暴力やいじめ問題が相変わらず解決しなかったり、男女格差では日本の酷さが際立っていたり、あるいは子どもの貧困化が進むなど、様々な問題が教育を覆っていることはよく分かる。ちょうど10年前に出版された本ではあるが、この10年間でまったく何も進展していないことを考えると、教育に携わる立場の人間としては忸怩たる思いにとらわれる。
が、10年間で何も進展していないとして、問題はどこにあるのか? 教育関係者が努力していないわけではない。ひょっとしたら問題の本質は、もはや教育関係者の努力が及ぶところにはないかもしれない。目の前の問題に対症療法的に当たっても、次から次へと新たな問題が沸き起こる。もはや「学校」というシステム自体が必要なのかどうか、「国民教育」という在り方自体が妥当かどうか、根本的な理念から考え直さなければならない時期にさしかかっているということなのかもしれない。そういう疑問に対しては、本書は何も応えてくれない。著者が言う「他者を思いやる心」と「問題意識をもつ心」は、確かに大切なものに違いないのだが、しかし教育問題の本質は本当にそこにあるのだろうか? まあ、このあたりを考えることは、私が取り組むべき仕事ではある。頑張ろう。

増田ユリヤ『新しい「教育格差」』講談社現代新書、2009年

【要約と感想】戸田忠雄『学校は誰のものか―学習者主権をめざして』

【要約】学校選択制にすれば、教育問題はすべてかたづきます。

【感想】すでに故人となっている著者の発言に対して厳しいことを言うのは恐縮ではあるが、思ってしまったので、書く。本書の内容は、論理矛盾が甚だしく、自己撞着に陥っていて、極めて問題が多い。決定的に問題なのは、「学習者主権」をタイトルに掲げているにも関わらず、実質的にはまったく「学習者主権」に向かっていないところだ。具体的には、著者は教育を「市場」に委ねれば「学習者主権」になると言っている。しかし「市場」と「主権」は、本質的にはまるで関係がない。もしも本当に著者が「学習者主権」を目指すのであれば、たとえば具体的には「教育委員会の公選制」を主張すればいいだけの話だ。しかしなぜか著者は「教育委員会の公選制」については検討の俎上に載せることすらせず、ひたすら「首長のリーダーシップ」ばかり主張する。論理的にまったく筋が通らない。だから、著者の中には「市場化」という結論が先にあって、「学習者主権」は後から付け足した言い訳のようにしか見えなくなるわけだ。
教育を「市場」に委ねるだけなら、「学習者主権」と言う必要はないし、言ってはならない。繰り返すが、「市場」と「主権」という概念には、論理的には何の関係もない。大雑把に言えば「市場」がなくとも「主権」は成り立つし、「主権」がなくとも「市場」は成立する。「市場=経済的自由」と「主権=政治的自由」は拠って立つところが根本的に異なっている。意図的かどうかは分からないが、「市場」と「主権」の違いを考慮に入れず、表面上は「政治的自由」を掲げながら実質的に「経済的自由」を滑り込ませようとするのは、結果的には欺瞞以外の何者にもならない。
「教育を市場に委ねよう」と言いたいのであれば、そう言えばいいだろう。確かに経済は経済(経世済民)としてしっかり検討する必要がある。教育の市場化についてメリットとデメリットを比較考量する作業は学問的にも実践的にも必要だろう。しかし単なる市場化の主張を「学習者主権」という美しい言葉で粉飾するのは、論理的にありえない。少なくともタイトルにつけてはいけない。「学習者主権」を謳いながら「学習指導要領の拘束性」や「教科書検定制度」などの政治的領域に切り込まないところに、欺瞞的姿勢が端的に表れている。

それから、本書内で足立区教育委員会が「競争」を持ち込んだことをやたらと褒めているが、本書が出た直後、その「競争」が原因となって学習者をないがしろにする詐欺的事件が発生してしまった。教育者倫理に照らして極めて残念なことではあったが、本書が語る理屈が現実には機能しないことを、事実が証明してしまったといえる。2000年から導入が進んだかに見えた学校選択制も、ここ10年くらいは離脱する自治体が増加している。市場論者の理屈どおりには物事が進まなかったという証拠だろう。
まあ著者が学校選択制導入に前のめりになったのも、著者が「高校」の校長経験者であって、小学校や中学校の事情に疎かったという可能性を考慮する必要があるのかもしれない。高校でうまくいく政策が、小学校や中学校でも同様にうまくいくとは限らないことを想像しなければならないのだった。

【今後の研究のためのメモ】
本書は「教育」の現状を批判するために、教育界隈のあり方を「宗教」になぞらえる。

「教育好きの国民にとって学校は、その本山であり教会のような存在だ。したがって、学校は「学校教」とでもいうべき宗教的な要素をたぶんにもっている。教師は教室の僧侶であり司祭であり、教科書という教典を使って国が作った教義を述べ伝えていく。道元は「正師を得ざれば学ばざるに如かず」(『学道用心集』)といっているが、学校教師は教員免許を与えたからこそ「正師」なのであって、塾とか予備校講師はいくら実力があっても「正師」ではないとされる。
学校教師は「正師」であるからこそ聖職者とみなされるのであり、同じことを教えても学校外教育機関たとえば塾やパソコン教室の講師は聖職者とはみなされない。学校教師は聖職者である以上、「信徒」である児童生徒・保護者など学習者側は、「先生」に無条件かつ全幅の信頼を寄せなければならない。信徒であるから先生を批判することなど、あってはならないこと。先生への絶対の尊敬と無条件の信頼がなければ、学校教育いや学校教は成り立たない。その背景として、日本にはユダヤ・キリスト・イスラムのような唯一絶対神の伝統がないから、容易に神の代わりに教師がこの世の権威になりやすい土壌がある。」(68-69頁)
「ふつうの社会人は信頼に値する仕事をしたことにより、評価され信頼されるようになるのであって、その逆ではない。こんな社会の常識が通用しない教育界は宗教の世界なのか、そして教師は文字どおりの聖職者なのか。教師だけに信頼と尊敬が先になされるべきだという以上、教職は聖職者に近い職業だといわざるをえなくなる。」(90頁)

注目すべきは、言っている内容が正しいかどうかというよりも、「教育」を「宗教」と比較する語り口であり、レトリックだ。「教育」を「宗教」になぞらえて語りたくなるような誘引がどこにあるかだ。
もしも教育界に起きている「宗教まがい」の現象を本当に理解しようと思ったら、おそらく著者のように一神教と比較するのではなく、「儒教の宗教性」について真剣に考察する必要がある。あるいは「教育」という言葉に含まれる漢字の「教」が、同様に「宗教」という言葉に含まれる漢字の「教」でもあるという厳然たる事実について真剣に考えるべきなのだ。そういう原理的な考察を怠って、単に「教育」を「宗教」になぞらえて揶揄した気持ちになっているようでは、「教育」に対しても「宗教」に対しても失礼な話だ。
まあ、「教育」を「宗教」になぞらえて語りたくなる欲求が表に現れた例としては、本書はひとつのサンプルにはなる。

戸田忠雄『学校は誰のものか―学習者主権をめざして』講談社現代新書、2007年

【要約と感想】岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』

【要約】日本人には昔から「マネジメント」の概念がなく、太平洋戦争に惨敗したのもそれが原因です。同じ過ちを教育で繰り返しています。「マネジメント」の概念なしで教育論議を行なうと、日本が滅びます。
精神主義に陥らないで現状を直視しましょう、経済学の言葉で教育を語りましょう、原因と結果の関係を認識しましょう、目的と手段を峻別しましょう、心や意識の問題にせずシステムを改善しましょう、同質性の信仰に依拠せず集団意思形成に時間をかけましょう。

【感想】ビジネス書でよく見る類の、日本人は雰囲気に流されて精神論で物事を解決しようとするとか、自由と責任に対する感覚が鈍いとかいう「ダメな日本人あるある」の話ではある。教育に関する具体的な話では「ふーん、そういう考え方もあるのか」という気づきは、なくもない。
まあ、2006年に教育基本法が改正され、教育行政の条文に従って政府や自治体が「教育振興基本計画」の策定をするようになってから、いわゆる「エビデンスに基づく計画」を日常的に目にするようになった上に、最新の学習指導要領では「マネジメントの観点」が強調されて経済学用語で教育が語られるようになっており、本書の記述そのものはずいぶん古く感じるものではある。まあ、「マネジメント」や「エビデンス」といった言葉が積極的に教育文書に導入されるようになった時代の雰囲気を語る証拠文献という、史料的な意義を持つ本の一つということでいいのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】
著者は日本の教育論議が論理的に行われていないことを表現するために「教育教」(36頁)という言葉を使い、さらに「教育の目的を「心」や「人格」に置く」(37頁)ことが国際的な常識に反すると述べるために、以下のように主張する。

西欧・欧米では、義務教育段階の学校教育の役割は、一般に「知識・技能」の習得と考えられており、「心」の教育は「家庭」や「宗教」の役割と思われていることが多い。(37頁)

まあ、百歩譲って著者の見立てが正しいとしても、あるいは正しいとしたら、本書の本質的な問題は「宗教」の役割がまったく視野に入っていないことだ。特に「教育教」というふうに「教育」を「宗教」になぞらえておきながら、「教育」と「宗教」の関係を論理的に捉えていないことで、物事の本質がまったく見えてないように思えるわけだ。教育にとっても失礼だし、宗教にとってはもっと失礼な話だと思う。日本人と西洋人の宗教観の違いを考慮に入れずに「教」を語ることは、それこそ「日本を滅ぼす教育論議」になりかねないだろう。「教育」の「教」が「宗教」の「教」でもあることの意味を真剣に考えればもうちょっと意味のある議論にできるだろう、というのが教育哲学からの知見だ。

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社現代新書、2006年

【要約と感想】高橋哲哉『教育と国家』

【要約】戦後教育を批判する人々は、少年犯罪がまったく増えていないにも関わらず散発的に起きた犯罪を利用したり、伝統でもない伝統文化を捏造したりして、教育基本法を変え、教育勅語体制を復活させ、国旗・国歌を強制し、政権に従順で無批判な国民を作ろうとしています。権力が教育に干渉することは極めて恐ろしいことです。そもそも法律で教育を規定して行政が積極的に介入することで、本当に人々が幸せになれるものなのか、疑いがあります。

【感想】教育基本法が改正される前に出版された本で、道徳が教科化されるに至った現在においては、個別具体的な話はもちろん既に古くなっているのだが、教育と国家権力の関係についての考察は原理的・普遍的であって、論理的には古くなっているようには思わない。国家権力が教育を恣意的に牛耳ることの恐ろしさについては、事あるごとに確認していく必要と意味がある。
とはいえ一方で、「学校教育」の歴史的な在り方自体が問い直しの対象となっている現在においては、「教育と国家権力」という問題の立て方自体も相対化されつつある。むしろAmazonとかGoogleのような、国家権力とは無関係な巨大国際企業が作り出す現実のほうが、いまや「教育の自由」にとっては脅威になりつつあるのかもしれないのだった。
そしてそうやって「教育と国家権力」という問題の立て方を相対化するという脱・政治的な語り口自体が政治的に狡猾であることも忘れてはならないだろう。教育に関わる立場の者が「教育と国家権力」という問いから本質的に無関係ではいられないということを改めて自覚する上で、本書の存在意義はあるのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のためのメモ】
本書は教育基本法改訂に対して疑義を呈する立場から書かれており、教育基本法条文に対する言及が多い。私が研究の対象としている第一条「人格の完成」にも言及している。

ここで、現行教育基本法を見直してみると、そこでうたわれている「人格の完成」には二つの側面があることがわかります。一つは、修養をした結果、人格が完成されるという儒教的なニュアンスがあります。もう一つの側面としては、西洋のカント的な人格主義のニュアンスも含まれています。(115頁)

著者はこう言って、前者の「儒教的なニュアンス」に関しては議論を展開せず、後者の「西洋のカント的な人格主義」について話題を広げ、この対抗概念として和辻哲郎などが日本の共同体的な倫理を持ち上げることを批判していく。その構成自体に言うことはない。
私がメモしておきたいのは、教育基本法第一条に現れた「人格の完成」という文言は周知のとおり田中耕太郎の「キリスト教」的な立場から滲み出てきたもののはずであって、基本法制定の経緯を踏まえていれば「儒教的なニュアンス」など思いもよらないはずにも関わらず、著者が「儒教的なニュアンス」を感じ取っているという事実だ。
そう言うのは、著者の勉強不足などを指弾したいわけではなく、何の予備知識や前提もなく無心に教育基本法第一条「人格の完成」という文言を眺めた場合、そこに「儒教的なニュアンス」を感じ取る人が実際にいるのだと、一つの証拠というか言質というかを得たという思いがするからだ。法律制定当時の経緯を越えて、昭和・平成と展開してきた「人格の完成」という文言そのものを考察しようとするときに、参照に値する一つの言質となるのかもしれない。
まあ、著者が本書で主張したい内容とは本当に無関係のところで、ただ私個人の研究的な興味関心に引っかかったというだけの話ではある。

高橋哲哉『教育と国家』講談社現代新書、2004年

【要約と感想】菊池良生『傭兵の二千年史』

【要約】傭兵は、古代ギリシアやローマの時代からフランス革命まで、2000年にわたって軍制の基本要素でした。しかし絶対王政下での常備軍設置など様々な軍制改革が行われる過程で傭兵制度の持つ意味が徐々に変化し、最終的にはフランス革命戦争において王家の欲望に奉仕するためではなく「国家のため」に戦う軍隊「国民軍」が誕生し、さらにはフランス以外の諸国家においては反ナポレオンのためにナショナリズムが勃興し、傭兵制度は無用のものとなりました。現代の傭兵は国家的枠組を逃れるロマンティシズムに満ちたものですが、それは食い扶持を求めて已む無く陥る従来の傭兵人生とは関係のないものです。

【感想】スイスの傭兵については様々な本から摘み食いして知っていたつもりだったけれども、マキアベッリのころのイタリア傭兵事情とかドイツ南部のランツクネヒトに関する知識はとても新鮮だったし、傭兵部隊の雇用体制とか実際の部隊運用とか兵站とか輜重とか経済基盤に関して基礎的な知見を得ることができたように思う。またオランダやスウェーデン、さらにプロイセンの軍制改革について、図らずもコンパクトな知見を得た。勉強になった。
封建体制から近代中央集権国家に移行する際、経済史では絶対王政を経由するステップが必要不可欠だという議論がある(それは日本近代史では徳川政権を封建制と見るか絶対政と見るかの議論として白熱する)わけだが、軍制という観点からも絶対王政を経由することが実際問題として必要なステップと分かったことが最大の収穫かな。とすると、日本近代史に関しても、長州奇兵隊や幕府歩兵隊、あるいは赤報隊等新政府軍に参加した草莽軍隊の位置づけや性格が個別具体的には大問題となるわけだ・・・

菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書、2002年