「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】大澤真幸『自由という牢獄』

【要約】無際限に自由になったかと思われるときほど、実は自由ではなありません。なんでも選択できることによって、逆に自由を可能にする前提が崩壊しているからです。自由を可能にするためには、「他でもありえた」という根源的な偶有性に開かれ、逆に「まさにこの私」という責任を引き受けなければなりません。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=郵便的を経た後も、否定神学全開。

【感想】宮台真司は「偶発性」といい、大澤真幸は「偶有性」という。「偶然性」から自己のかけがえのなさを追究した九鬼周造からどれだけ隔てられているのか、というところは気になる。そんなに変わっていない気はする。

しかしこの偶有性という概念は、「排中律」を無効化して、超えていく理屈にはならないのかしらん。大澤は偶有性のことを「必然性と不可能性の双方の否定によって定義できる様相」と言っているけど、そうだとしたら、偶有性を認める世界では、大澤得意の否定神学的理論は使えないはずだ。あるいは、「否定の否定」が過剰さを産出してしまうという否定神学的な操作を成立させているのは、「否定」という操作をする際に、「必然性と不可能性」を都合良く認めたり認めなかったりしているからじゃないのか。「必然性と不可能性」の間を認めない「排中律」が成立しているのなら、「否定の否定」は、「ただの肯定」になるはずだ。「否定の否定」という操作が過剰さを産出するためには、「必然性と不可能性」の間に「排中律」が成立していてはいけない。だとすれば、「人格」や「自由」といった概念に過剰さをもたらしているのは、否定神学的操作そのものではなく、「排中律の破れ」ということになる。「否定の否定」によって過剰さがもたらされるのではなく、否定神学的操作を加えることによって、もともとあった「排中律の破れ」という事態があからさまに暴露されるということではないか。

【眼鏡論に使える】本書では「根源的偶有性」という概念を軸に、アリストテレスのいう「潜勢態」の議論に展開する。眼鏡的に言えば「眼鏡をかけている」と「眼鏡をかけていない」が偶有的であることを考えてみると、新城カズマが提唱した「未がねっ娘」という概念の重要性が際立つ。未がねっ娘とは、眼鏡っ娘という「現勢態=現実性」から純粋に独立した、「潜勢態(潜在的可能性)としての存在」である。それは「眼鏡をかけない」という可能性、つまり「眼鏡をしないでいる」という、己の内なる受動性のことである。アリストテレスの議論の含意は、「眼鏡っ娘への自由」は、それをなさない受動性を、つまり「未がねっ娘」を、超越論的な条件としている。こうした根源的偶有性を暴露する属性というのは、眼鏡くらいのものではないか。

大澤真幸『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』岩波書店、2015年

【要約と感想】大屋雄裕『自由とは何か』

【要約】自由について、伝統的に「消極的自由」と「積極的自由」など議論が積み重ねられてきましたが、現在は監視テクノロジーの発展によって全く別次元の様相を呈しており、今はアーキテクチャーについて真剣に考えるべき段階にあります。もはや自由意志がフィクションに過ぎないことは明確です。が、著者は近代が夢見たフィクションにまだ期待をかけています。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=法哲学の立場から見て、「自由意志」なり「人格」なりという概念が近代によって構成されたフィクションに過ぎないということが、疑う余地のない明確な形で記述されていた。今後はありがたく乗っかることにする。

【感想】「自由意志」や「人格」がフィクションであるという記述に対して、特に感慨はない。法学なら、それでいいでしょうとしか(「法」自体もフィクションだし)。しかし個人的な関心は、功利的なフィクションに過ぎなかった「人格」というものが過剰な現実性を獲得してしまうメカニズムにあるわけで。そういう関心からすると、法哲学という分野の人々が、あまりにも本質に触れたがらないことに(意図的か無意識かは知らないけれども)、ちょっとした苛立ちは感じる。まあ、そこは彼らの仕事ではないから、唖然としたところで仕方ないことは重々承知だけれども。
ここは、否定神学とか他者という分析装置を駆使して自由意志の前提条件に迫ろうとしている社会学の大澤真幸とか、「郵便的」という概念で過剰さが生じる原因の説明を試みた哲学の東浩紀のほうに、ある種の誠実さを感じるところではある。

また、私が関わる教育学という領域は、著者が投げた地点から始まるという宿命を負った学問だ。著者は「個人を「自由な個人」として作り上げる最低限のパターナリズムを認める方向に解を求めようとしている」と言った上で「その「私の結論」を押しつけることは他者を他者として「自由な個人」として、扱っていないことになるだろう」と立ち止まって「だからここで私は、再び筆を措かなくてはならない」と韜晦するが、教育学はまさにこのアポリアを引き受けた上で、そのアポリアの上に構築されなければならない。「自由を強制することが教育である」という「諦め」からスタートさせられる辛さを、改めて確認させられた。

大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年

【要約と感想】大澤真幸『恋愛の不可能性について』

【要約】私とは、共約不可能な唯一的存在である。そして愛する相手も、共約不可能である。だから恋愛は、私の唯一性を否定する経験となる。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=「私」が記述の束に還元できない共約不可能な唯一的存在であることは、固有名詞が具体的記述の束に還元できないのと同じことである。それは「他者」にも言えることであって、だから私と他者はそもそも共約不可能な絶対的差異である。
そのような共約不可能な特異点を作り出す作業として否定神学的な操作(ヘーゲルの言う「否定の否定」など)が行われるわけだが、その形式が様々な領域(貨幣、表現、宗教、合理性など)で「余剰」を生み出す。個人的な関心に照らして、この操作こそが、自然科学や功利主義的構成では説明し尽くすことのできない「人格」や「自由意志」という概念にまとわりつく「余剰」を生み出す普遍的なやりかたなのだと把握した。

【感想】「否定の否定」という形式的操作でもって「無限」を理解可能にするという様式を身につけると、様々な領域に適用可能な分析の武器になることは分かるけれども。しかし直感的には、違和感がつきまとう。違和感を直感的に突き詰めていくと、「排中律」を無節操に運用しているところが怪しいような気がするわけで。「A」でなければ「非A」という「排中律」を前提として「否定の否定」が成り立つわけだけど、前提となっている「排中律」は、本当にあらゆる領域で無前提に使用してよいのだろうか? 本当は、実は「排中律」を成り立たせている「前提」のほうが真の問題を構成しているのではないか。たとえば「宇宙」は「閉じている」ことによって初めて「排中律」が成立するわけだが、仮に宇宙が破れていたりとか、膨張や収縮を繰り返していたりとか、時間軸が捻れていたりとかするとき、実は「特異点」は消失してしまうかもしれない。

【これは眼鏡論に使える】しかしこの否定神学的な思考様式は、眼鏡論を語るときに極めて有効な観点となる。「眼鏡をかけている(同一性)」ことと「眼鏡を外さない(否定の否定)」ことは、まったく違う出来事である。眼鏡っ娘が「過剰」なのだとすれば、その過剰さの産出過程に、きっと眼鏡の否定神学が関与している。

大澤真幸『恋愛の不可能性について』ちくま学芸文庫、2005年<1998年

【要約と感想】佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』

【要約】中世ヨーロッパで、古代ギリシアやローマの身体論を引き継ぎながら、女性に対する差別的な社会的地位の特殊性等が加味されて、独特な禁欲主義が始まりました。自分の中の「欲望」を剔出しようとする意志は、近代的自我発生の論理的前提となります。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=中世ヨーロッパの禁欲主義の源泉として、自分の肉体的欲望(主に性欲と食欲)を抑圧しようとする明確な論理と意志、そして社会的構造があったこと。修道院で決められていた具体的な戒律として、ダイレクトに男性器の状態に関心を寄せているところが、生々しくもあり、微笑ましくもあり。個人的には親鸞の女犯エピソードを思い出してしまう。
ともかく、古代ではそこまで禁欲主義的でなかったヨーロッパが、中世になってから修道院制度の整備に伴って禁欲主義に傾いていく流れは確認できた。

■要確認事項=しかし性的欲望を押さえつけて消滅させようとするのは、なにも中世キリスト教に限ったことではなく、中国や日本の仏教にも(そしておそらく世界的な宗教それぞれに)広く確認されることだ。世界的に広く確認できる普遍的な禁欲主義と中世ヨーロッパのそれとの違いは何なのか、本書だけでは見えてこない。

また一方で、性的欲望を押さえつけるのではなく、むしろ爆発させて無限のエネルギーを抽出し、それを自由自在にコントロールして還元することで肉体的超越および精神的覚醒を遂げようとする発想も普遍的に見られる。仏教の一部宗派とか、道教の一部宗派とか、キリスト教の一部宗派とか、精神分析学の亜種とか、有象無象の様々なカルトとか、SF風味エロ小説とかファンタジー風味エロマンガとか。これは禁欲主義とは一見正反対に見えるが、肉体のコントロールを通じた覚醒という意味では、実は同じコインの裏表に過ぎないと理解してよいのか、どうか。

また、本書では禁欲主義の源泉をギリシャ・ローマの身体論(ヒポクラテスおよびガレノス)というヘレニズムの系譜に見出しているわけだが、ヨーロッパ文化のもう一つの起源であるヘブライズムに対する目配りが少ないのは、どうなんだろう? 本書にあるような禁欲主義の東方起源ということになると、ユダヤ教の禁欲的な戒律主義という伝統は必然的に問題になるべきもののような気がするが。なんとなく、ユダヤ起源を意図的に隠蔽することによって、ルネサンス的伝統を捏造しようとする作為みたいなものすら感じ取ってしまう、そんな構図にはなっている。こういう起源の話をする場合、ギリシャ・ローマの系譜を追うのはとても大事だけれども、同じ程度にユダヤの系譜に目配りするのも必要だよなあと思った。

【感想】性的欲望は、要するに自分の中の「他者」ではある。ありていに言えば、上半身と下半身では考えることがズレているということである。このズレを真摯に見つめることから「個人」の意識が芽生えるというのは、そんなに難しい展開ではない。「私(下半身)なのに私(上半身)ではない」という同一性の危機が訪れて初めて、「私(全身)とはなんだろう?」という同一性に対する自覚が生じる。
おそらくこの意識自体は、人間の身体の生物学的構造に即する限りでは普遍的なものなのだろうが。ヨーロッパだけが自発的に近代化(とりわけ原始的な個人主義思想の剔出)に成功したのは、ヨーロッパだけがこの自覚を制度化(告解制度など)できたから、ということで今のところ納得するしかないか。

佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ – 修道院の起源』中公新書、2014年

【要約と感想】篠原一『市民の政治学』

【要約】16世紀西洋に始まった「第一の近代」は、20世紀には「第二の近代」へと変容しました。第一の近代が揺らいでいる現在、新しいデモクラシーの形が必要とされています。その鍵が「討議」です。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=近代の始まりと終わりについての簡潔な見解。近代への道は中世後期(10世紀)から徐々に用意されていたが、16世紀に初期近代が開始され、18世紀半ばに本格的に確立した。まあ、教科書的にはこれで特に問題ない見解と言えますよね、という確認。ルネサンスに近代性を見るか中世性を見るかなんて、マニアックな関心だよなあ。

「ポストモダン」論のように近代が完全に終焉したと極論するのではなく、「第二の近代」というふうに近代を段階的な展開過程として捉える見方。注目する事象そのものは諸々のポストモダン論とそう変わらないけれど、断定口調で時代の断絶を煽るようなポストモダン論とは異なっていて。「第二の近代」と理解する方が、漸進的に議論を積み重ねていこうとする実践的な知恵に優れているように思う。

■図らずも得た知識=日本において「市民社会」概念が議論されていたこと。市民社会論の系譜を辿りつつ、「私」とも「公」とも異なる「公共」という第三の領域を際立たせるという論の運びっぷりは、抽象的に鮮やかで、とても参考になった。真似する。

【感想】今から13年前に出版された本だけど、ものすごく古く感じてしまうのは、現実の変化が早すぎるからなのか。イギリスのEU離脱とトランプ大統領誕生を目の当たりにすると、本書の内容は残念ながら牧歌的に見えてしまう。仕方ない。
筆者が推奨している「討議的デモクラシー」の概念にしても、twitter等でろくに相手の文章も吟味せずに短絡的に「敵-味方」感覚だけで条件反射で吹き上がっている人々を見ると、異なる価値観の人々の間での合理的な討議なんてものが可能かどうか、つい短絡的に悲観してしまう。いや、言葉を発せるだけ、まだマシなのかもしれない。誰の視界からも消えているような、左にも右にもなれない声なき人々の残念な姿を見ると、デモクラシーなんて言っている場合か、と意気消沈してしまう。日本はサバルタンだらけですよ。

短絡的には悲観的になっちゃうにしても、10年スパンで大局的に見たときには、まだ本書が言うところの「楽観主義」は有効であり得る。それを信じて、少なくとも自分の声が届く範囲では、合理的かつ誠実な言葉を吐き続けるしかない。

篠原一『市民の政治学―討議デモクラシーとは何か』岩波新書、2004年