「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】上尾信也『音楽のヨーロッパ史』

【要約】書影の帯には「のだめカンタービレでクラシックにハマった人へ」などと書いてあるけれど、そういう人を落胆させ、憤慨させる本です。クラシック中心の音楽史を完全否定しています。帯のコピーを作った人は、内容をしっかり読まずに目次だけ見て適当に作ったか、軽薄な流行に乗せられる人々を意図的に騙して「ざまあみろ」とほくそ笑んでいるか、どちらかでしょうね。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=ルネサンス期のヨーロッパ音楽は、ビザンティン帝国やイスラーム文化の影響なしには考えられない。十字軍を通じ、楽器や演奏技法などがイスラームやビザンティン帝国から西方にもたらされた。オスマン・トルコの軍楽は、ルネサンス以降のヨーロッパ音楽に多大な影響を与えた。

宗教改革は印刷術によるプロパガンダ合戦だっただけでなく、情緒と感情の優越を競う音の戦争でもあった。

【感想】この前読んだ岡田暁生『西洋音楽史』に対する不満は、この本で解消される。中世ヨーロッパ音楽に対するイスラームやビザンティンの影響が的確に指摘されていて、「ヨーロッパ」がしっかり相対化されている。タイトルが『ヨーロッパの音楽史』ではなく『音楽のヨーロッパ史』となっている所以か。おそらく「音楽史」という表題では、ヨーロッパを相対化することが難しい。「ヨーロッパ史」とすることで、ヨーロッパを相対化しようとする意志が可能となる。

また、『西洋音楽史』が19世紀クラシックの内的発展を一生懸命に語っている裏で、実際にはナショナリズムの進展に伴って音楽が外在的にしていたことを、本書は教えてくれる。具体的には「国歌」のあり方。本書の最後の一文、「音楽によって無自覚に感情や感覚を支配されるのではなく、音楽を奏し聴く個人個人が音楽を自律的に支配することこそ、音楽の力を自らの内にしたことになる。」という言葉は、なかなか「ヨーロッパ史」的に含蓄が深い。

上尾信也『音楽のヨーロッパ史』講談社現代新書、2000年

【要約と感想】岡田暁生『西洋音楽史』

【要約】いわゆるクラシック音楽は、普遍的でも不滅でもなく、「時代を超越」しない民族音楽の一種です。しかし敢えてそれが普遍的だったり「時代を超越」しているように見える理由を挙げるとしたら、「書かれている」からです。このように西洋音楽を相対化することで、時代との相克がはっきりと見えてきます。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=クラシックは、べつに普遍的でもないし、時代を超越しているわけでもない。

音楽を一心不乱に傾聴するような生真面目な鑑賞態度は、19世紀のドイツで生み出された特殊な歴史的産物である。バッハが急に持ち上げられるようになったのも、内向的なドイツのナショナリズム高揚と関係がある。同時代のフランスやイタリアの音楽を視野に入れると、まったく別の様相が見えてくる。

【感想】「クラシック以外は音楽と認めない」なんて野蛮なことを平気で言っちゃうような知り合いがいた。おそらく彼はそう主張することでマウンティングしてるつもりなんだろうけれど、逆に中二病にありがちな教養の欠如が露呈しちゃうわけで。本書は、そういう独りよがりな人にちゃんとした大人の教養を身につけてもらうために存在している感じはする。

とはいえ、個人的な関心からして気になることは、やっぱり「西洋」の定義とルネサンスの意味。たとえば本書で語られることは専らイタリアから西の地域に限られていて、ビザンティン帝国はまったく視野に入っていない。まあ、本書はそういう類の課題設定をしているわけではないから、それで問題ない。とはいえ、現在の我々の常識における観念的な「西洋」を基準として、そこから逆算したところで成立しているような語り口であることも明白であって。ビザンティン帝国やトルコの文化まで視野に入れたとき、特にルネサンス期の語り口は変わるんではないかという気もする。また一方で19世紀についての語り口は、ナショナリズムという切り口が加わるとまるで違うものになるような気もする。ということは、そのあたりに「近代」とか「ヨーロッパ」というものの成立を考える上で、何かしらのフックがある。

それから、音楽について語る人は、語彙がとても豊富。大いに見習っていきたい。

岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』中公新書、2005年

【要約と感想】浅野和生『ヨーロッパの中世美術』

【要約】世界史の教科書はヨーロッパ中世美術をまったく理解していません。中世的な「神に捧げる作品」からルネサンスの「人間性の開花」という教科書的な理解は、間違っています。中世の美術も人間くさいし、ルネサンス美術もキリスト教の影響下にあります。中世美術のレベルは、従来言われているほどには低くありません!

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=写本の値段が、人件費と材料費を考えると、一冊あたり数百万円すること。

■要検討事項=中世ヨーロッパの美術のレベルは低くないと本書では強調しているけれど、すみません、主観的には下手にしか見えません。
あと、ビザンツ帝国に関しては改めてしっかり理解する必要がある。

【感想】本書の関心は「中世とルネサンスの連続性と断絶性」に貫かれていて、決して中世が暗黒時代でなかったことについては、一定程度の説得力を持つように読める。そしてルネサンスが客観的な基準でもって中世と断絶しているわけではなく、プロパガンダ的な意図でもって恣意的に中世と切り離されているという主張も、よく分かる。ルネサンス期はむしろ中世との連続性の相で理解する方が実践的だという見解も、分かる。そうなれば、実際にヨーロッパ近代が駆動するのは18世紀半ば以降ということで、腑に落ちる。

しかし、それでもやっぱりルネサンス期に対しては、他の時期には認められない何かしらの独特さを感じざるを得ない。本書でも最後にその決定的に重要な核心に触れられているけれど。たとえばミケランジェロのピエタのすごさは、もちろん超絶技巧にもあるけれど、本質的にはキリストを弱々しく表現しているのがすごいんだと思う。人間の弱さとか醜さというものを、神の立場から俯瞰するのではなく、人間として直視するような。そういう意味で、ルネサンスの特徴を語る本書のオチには、深く頷く。

もうひとつは、ビザンティン帝国の存在。本書は「ヨーロッパの中世美術」と銘打ちながら、かなりの分量をビザンティン帝国の美術に割いている。これは少なくとも日本人が明治以降に理解している「ヨーロッパ」ではない。現在でも、日本人が理解するヨーロッパからは、正教会が完全に欠落している。たとえば正教会のクリスマスに驚く日本人が毎年のように大量に現れる。ビザンツ帝国をヨーロッパの概念に含めているかそうでないかで、「中世」や「ルネサンス」や「近代」や、あるいは「ヨーロッパ」や「アジア」に対するイメージは決定的に変わる。日本人の通俗的な中世理解やヨーロッパ理解は、なるほど表面的で貧弱ではある。(良いか悪いかは別にして)

そんなわけで、本書は冒頭で「中世とはいつのことか」と問題意識を明確にしているけれども、同時に「ヨーロッパとはどこのことか」も明確にする必要がある気がする。私が思うに、ルネサンスとは、ビザンティン帝国の伝統を完全に忘却して、あたかも最初から存在しなかったかのように振る舞い、自分たちの起源がギリシャ・ローマにあるかのように捏造する歴史観の要だ。明治以降の日本人は、完全にこの歴史観に浸っている。「中世」も問題だけれども、同様に「ヨーロッパ」も問題なのだ。

ビザンティン帝国の重要性を再確認する上でも、この本を読む意味は深かった。

浅野和生『ヨーロッパの中世美術―大聖堂から写本まで』中公新書、2009年

【要約と感想】大澤真幸『自由という牢獄』

【要約】無際限に自由になったかと思われるときほど、実は自由ではなありません。なんでも選択できることによって、逆に自由を可能にする前提が崩壊しているからです。自由を可能にするためには、「他でもありえた」という根源的な偶有性に開かれ、逆に「まさにこの私」という責任を引き受けなければなりません。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=郵便的を経た後も、否定神学全開。

【感想】宮台真司は「偶発性」といい、大澤真幸は「偶有性」という。「偶然性」から自己のかけがえのなさを追究した九鬼周造からどれだけ隔てられているのか、というところは気になる。そんなに変わっていない気はする。

しかしこの偶有性という概念は、「排中律」を無効化して、超えていく理屈にはならないのかしらん。大澤は偶有性のことを「必然性と不可能性の双方の否定によって定義できる様相」と言っているけど、そうだとしたら、偶有性を認める世界では、大澤得意の否定神学的理論は使えないはずだ。あるいは、「否定の否定」が過剰さを産出してしまうという否定神学的な操作を成立させているのは、「否定」という操作をする際に、「必然性と不可能性」を都合良く認めたり認めなかったりしているからじゃないのか。「必然性と不可能性」の間を認めない「排中律」が成立しているのなら、「否定の否定」は、「ただの肯定」になるはずだ。「否定の否定」という操作が過剰さを産出するためには、「必然性と不可能性」の間に「排中律」が成立していてはいけない。だとすれば、「人格」や「自由」といった概念に過剰さをもたらしているのは、否定神学的操作そのものではなく、「排中律の破れ」ということになる。「否定の否定」によって過剰さがもたらされるのではなく、否定神学的操作を加えることによって、もともとあった「排中律の破れ」という事態があからさまに暴露されるということではないか。

【眼鏡論に使える】本書では「根源的偶有性」という概念を軸に、アリストテレスのいう「潜勢態」の議論に展開する。眼鏡的に言えば「眼鏡をかけている」と「眼鏡をかけていない」が偶有的であることを考えてみると、新城カズマが提唱した「未がねっ娘」という概念の重要性が際立つ。未がねっ娘とは、眼鏡っ娘という「現勢態=現実性」から純粋に独立した、「潜勢態(潜在的可能性)としての存在」である。それは「眼鏡をかけない」という可能性、つまり「眼鏡をしないでいる」という、己の内なる受動性のことである。アリストテレスの議論の含意は、「眼鏡っ娘への自由」は、それをなさない受動性を、つまり「未がねっ娘」を、超越論的な条件としている。こうした根源的偶有性を暴露する属性というのは、眼鏡くらいのものではないか。

大澤真幸『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』岩波書店、2015年

【要約と感想】大屋雄裕『自由とは何か』

【要約】自由について、伝統的に「消極的自由」と「積極的自由」など議論が積み重ねられてきましたが、現在は監視テクノロジーの発展によって全く別次元の様相を呈しており、今はアーキテクチャーについて真剣に考えるべき段階にあります。もはや自由意志がフィクションに過ぎないことは明確です。が、著者は近代が夢見たフィクションにまだ期待をかけています。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=法哲学の立場から見て、「自由意志」なり「人格」なりという概念が近代によって構成されたフィクションに過ぎないということが、疑う余地のない明確な形で記述されていた。今後はありがたく乗っかることにする。

【感想】「自由意志」や「人格」がフィクションであるという記述に対して、特に感慨はない。法学なら、それでいいでしょうとしか(「法」自体もフィクションだし)。しかし個人的な関心は、功利的なフィクションに過ぎなかった「人格」というものが過剰な現実性を獲得してしまうメカニズムにあるわけで。そういう関心からすると、法哲学という分野の人々が、あまりにも本質に触れたがらないことに(意図的か無意識かは知らないけれども)、ちょっとした苛立ちは感じる。まあ、そこは彼らの仕事ではないから、唖然としたところで仕方ないことは重々承知だけれども。
ここは、否定神学とか他者という分析装置を駆使して自由意志の前提条件に迫ろうとしている社会学の大澤真幸とか、「郵便的」という概念で過剰さが生じる原因の説明を試みた哲学の東浩紀のほうに、ある種の誠実さを感じるところではある。

また、私が関わる教育学という領域は、著者が投げた地点から始まるという宿命を負った学問だ。著者は「個人を「自由な個人」として作り上げる最低限のパターナリズムを認める方向に解を求めようとしている」と言った上で「その「私の結論」を押しつけることは他者を他者として「自由な個人」として、扱っていないことになるだろう」と立ち止まって「だからここで私は、再び筆を措かなくてはならない」と韜晦するが、教育学はまさにこのアポリアを引き受けた上で、そのアポリアの上に構築されなければならない。「自由を強制することが教育である」という「諦め」からスタートさせられる辛さを、改めて確認させられた。

大屋雄裕『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、2007年