「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』

【要約】ソクラテスは処刑されました。有力者たちに恨まれてしまったためです。なぜ恨まれたかというと、彼らが賢いように見せかけながら、実はまったく賢くないことを暴いてしまったからです。誰も「正義」とか「美」については何も知りません。それらは神だけが知る真実であり、人間には手が届きません。彼らは自分だけは世界の秘密を知っていると思い込んでいましたが、やはり勘違いに過ぎず、実際には何も知りませんでした。ソクラテスだけが「人間の身で神の知恵に届くはずがない」ということを知っていたのでした。
 裁判の結果、ソクラテスは死刑となり、牢屋で執行を待っていました。死刑前夜、旧知のクリトンがやってきてソクラテスに脱走を進めます。しかしソクラテスは「善く生きる」ことを目指すべきことをクリトンに納得させたうえで、自分を死刑に追いやった国法に従うことこそが「善く生きる」ことだということを納得させます。

【感想】何回読んでも、すげえな、としか。さすが、古典中の古典。芸術的な完成度も高いし、ソクラテスの卓越したブレないキャラクターの魅力はハンパないし。

 で、やっぱり私たちも、ソクラテスに死刑判決を言い渡すんだろうなあと。何回も殺すことになるんだろうなあと。共謀罪が成立した日に思う。

 気になるのは、「解説」でプラトンの芸術的センスを誉めるあまり、クセノフォンをディスっているところだ。解説者もプラトンによるソクラテス像に恣意的な脚色があることを認めつつもそれがいかに芸術的に優れた脚色かを賛美しまくる一方、クセノフォンに関しては視野が狭いとか単細胞とか口汚く罵る。ただ個人的には、クセノフォンのソクラテス像には相当程度の真実が含まれているようにしか見えない。解説者があまりにもプラトンが好きなのは良いとして、クセノフォンに対するディスり様にはそうとうの違和感がある。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 教育にまつわる発言がいろいろあって、ソクラテス本人の考え方の他、当時のギリシアの一般的な教育の在り様もある程度推測できる。

「また諸君が誰かの口から、私が自ら僭して人を教育すると称し、しかもこれに対して謝礼を要求すると聞かれたならばそれもまた同じく真実ではない。もっとも人が他を教育する能力を持っているならば、謝礼を受けるのは結構なことと自分にも思われる。(中略)もし彼が実際かくの如き術を解し、こんなに巧妙な教授をすることが出来るとすれば、もし自分がその術を解していたとすれば、私自身は自ら高しと自ら誇るであろう。しかしアテナイ人諸君、私はそれを解しないのである。」17-18頁

 ここでソクラテスが「教育する」と言っている言葉の中身には重々注意する必要がある。ソクラテスが「教育」だと思っているものは、「人間の内側から本来持っている徳を引き出す営み」である。そして自分はそんな能力を持たないことを明言し、さらにソフィストたちにもそんな能力はないだろうことを示唆している。しかしソクラテス以外の、特にソフィストたちが言う教育は、「外部にある知識を脳みそに叩き込むような営み」を指している。だからソクラテスは具体的にソフィストたちの名前を挙げて、彼らの言う「教育」が外部から知識を与えるに過ぎず、人間の内部から徳性を発展させるものではないことを示唆する。
 ここに「無知の知」の典型的な姿が見られる。ソフィストや、彼らに金を払って教育を受ける大衆は、「教育」とは何なのかを知ったつもりでいるけれども、ソクラテスにしてみればそんなものは「教育」でもなんでもない。じゃあソクラテスが「教育」を知っているかと言うと、もちろん知らない。「人間の内側から徳を引き出す営み」の技術などというものは神にしか手が届かない超人間的な術であって、人間には辿り着きようがない。
 ちなみにソクラテスの言う「徳」とは、もちろん東洋的な「外面的なルールに無条件に従うこと」ではなく、ギリシア語の「アレテー」を翻訳したもので、実際には「私が本来持っていた力を最高度に発揮する」というようなイメージを持つ言葉である。一人一人がもつ潜在的な可能性を最高度に引き出すことは、果たして外側から知識を付け加えることで可能になるのか。ソクラテスの問いは、現代にまで射程が伸びている。

「けだし私が歩き廻りながら鞅掌するところは、若きも老いたるも、諸君のすべてに向って、身体と財宝とに対する顧慮を、霊魂の最高の完成に対するそれよりも先にし、またいっそう熱心に、することがないように勧告すること(後略)」38頁

 というわけで、ソクラテスが考えている教育とは「霊魂の最高の完成」に至る技術だ。しかしその術を知らないソクラテスは、ただ「勧告」することしかできない。
 ちなみに教育基本法第一条「人格の完成」はキリスト教に由来すると理解されているが、しかし「完成」という概念そのものは古代ギリシア(つまりキリスト教誕生前)に既に現れていることについては注意しておいていいのかもしれない。

「彼らの如き智慧をも彼らの如き愚昧をも持たずに自らあるがままにあるのと、彼らの持つところを二つながら併せ持つのと、私はいずれを選ばんとするか、と。そこで私は、私自身と信託とに対して、自らあるがままにある方が私のために好い、と答えたのであった。」23頁

 ここで表現されている「自らあるがまま」という言葉を、現代的に「私らしい私」と解することができるのであれば、近代的自我にまで手が届いている。
 ただしソクラテスが、「霊魂の最高の完成」を全ての人間に共通の普遍的な状態と考えているのか、それとも個々の違いを保持したままの個性的な状態と考えているのか、テクストだけからは明示的に読み取れない。しかし『クリトン』で死後の世界にも固有名詞を使って議論を進めているところを見ると、後者なのではないかという感触もなくはない。「霊魂の最高の完成」が具体的にどういう状態を指しているかで、話は大きく変わってくる。

プラトン/久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき』

【要約】反復継続的な暴力である「いじめ」は、反復継続的に通うことを強制する「学校」という場が引き起こしています。「ひとり」であることに耐えられない子供たちは、特定の一人を標的として分離することで、集団の一員であることに安住します。特定対象への執拗な暴力は、自分が「みんな」の側にいることを固定するために反復継続されます。であるなら、いじめが終わるのは、「みんな」という帰属性を求めず、「ひとり」でいられる力を持ったときでしょう。

【感想】命の危険を感じるくらいなら、学校なんか行かなくていい。そう大きな声で言えるようになったのは、そんな昔の話ではない。著者のような人たちが真剣にいじめ問題に取り組んでいるなかで、そういう認識ができあがっていった。

そもそも「学校」という組織は、産業革命の進行に伴って必要となった「過渡的な形態の組織」である可能性が高く、人間の成長にとって不可欠な役割を果たすかどうかは、極めて怪しい。「教育」が必要かもしれないとして、その役割を「学校」が一元的に独占するのは絶対に避けられないことなのかどうか。あんな狭い空間に人間が何十人も強制的に集められ、毎日顔を合わせることになったら、子供だろうがなんだろうが、万人の万人に対する闘争が勃発し、ある種のリバイアサンが誕生するのは不可避だろう。
いじめが発生するたびに、「学校なんか解散してしまえばいい」と思ってしまう自分がいるが、本書はその気持ちを半分だけ代弁してくれる。いじめをなくそうと思ったら、学校を解散するのがいちばん簡単だ。

もう半分は、それでも学校は必要だという、ある種の感覚。民主主義的な精神を涵養する教育を考えたときに、民間経営の塾ではダメだろうという直感。実は、民主主義的な精神を育てるというのは、「いじめ」が不可避的に発生するような場を敢えて作り、子供をその環境に強制的に閉じ込めた上で、万人の万人に対する闘争を意図的に発生させ、子供の人間関係調整能力を発達させようという、ものすごい過酷な試練なのではないか。

そういう意味でいうと、民主主義的精神を育てようと意図的に構成された学校では、実は必然的にいじめ発生に直面するリスクが高くなる。デモクラシーという目的が放棄されない限り、構造的に「いじめ」を終わらせることは不可能だろう。しかしそのリスクを低めることはできる。リスクを低めるための技術を蓄積することはできる。教師にできることは、その技術を多面的に活用し、万人の万人に対する闘争からリバイアサンを生み出すのではなく、「一般意志」を作り上げることなんだろうと思う。

芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき-根本的解決への提言』彩流社、2007年

【要約と感想】加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』

【要約】日本型いじめの根本的な原因は、集団主義的な社会構造が壊れたにもかかわらず、それに替わる道徳モデルとなるべき個人主義が未成熟な点にあります。「いじめをゼロ」にとか「みんな仲良く」のような思考停止したスローガンでは現実は変わりません。子ども同士の人間関係を本質的に考えることで、いじめを克服する根本的な力を育てることが大事です。

【感想】マスコミが流すいじめ報道には、しばしば「学校や教師や教育委員会を槍玉に挙げておけ」というような、視聴者が喜ぶだけのストーリーに構成するという、いい加減なところがある。で、学生たちの理解を見ていると、ほとんどがマスコミ報道を鵜呑みにしている。そしてそういう誤解を自分の都合のいい教育制度を作るために利用する人たちがいるという。

いじめを受けて苦しんでいる子供を全力で守るのが教師の重要な役割であることはいいとして。でもそれは、いじめをなくすこととは違う。いじめを受けている子も、いじめをしている子も、どうしたら人間的に成長できるかという、もっと本質的な教育学的問題が忘れられてはいけない。そういうことを改めて考えさせてくれるし、読みやすい。「友達なんかいなくていい」と言い切ってくれる教育本は、なかなか少ないような気がする。教師や学生向けには、良い本じゃないかな。

加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?―透明な暴力と向き合うために』日本図書センター、2011年

【要約と感想】桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』

【要約】ルソー特有の矛盾は、ものごとを論理的に突き詰めた末に、論理の限界に突き当たったことに由来する。ルソーを学ぶということは、まずルソーの自己言及の輪に絡め取られることだ。ルソーが「自伝」ジャンルの確立者ということは、そういうことだ。

■図らずも知ったこと=ルソーは「音楽辞典」で、「趣味」とは「理性には眼鏡の役割をする」と言っている。つまり眼鏡とは、理性にとって趣味のようなものだったのだ。

【感想】「自分が主人だと錯覚しながら教師に従う」とか「自由への強制」とか「自分で自分に法を与える」とか、なるほど自己言及性の問題だ。「一般意志」というものも、民主主義的な手続きの問題というより、再帰的な自己というふうに捉えれば、論理的に説明できそう。そしてその論理は自己実現という教育的概念にも反映する。「告白」という自己言及的制度も、そうか。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年

【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

【要約】ルソーの政治社会思想に焦点を当て、現代政治哲学の成果も交えながら、特に「一般意志」について詳しく解説してくれる教養本。自然的自由を市民的自由へと変換してしまう道筋が、社会契約論の醍醐味。しかしルソーの思想は多義的で矛盾を含むものであって、一貫的な体系性はもともと期待してはいけない。「人間」と「市民」という先鋭化した両極でブレまくる姿こそ、我々がルソーに求めているものかもしれない。

【感想】個人的には、「一般意志」を、あらゆる具体的な属性を剥ぎ取られた理念人の持つ意志というふうに考えるのが、一番落ち着く。男でもなく女でもなく、金持ちでも貧乏でもなく、年寄りでも若者でもなく、手があるのでもないのでもなく、健康でも病気でもなく、日本人でもインド人でもない、そんなふうに具体的な属性を全て喪失した、理念的な「点」としての人間。そういう理念人が持つであろう意志を「一般意志」とすると、誰にでも普遍的に当てはまるような抽象的な共通点が見つかる。その普遍的で抽象的な共通点を憲法として構成した上で、あとは属性を元に戻してやって、多数決で具体的な法律を決めていくという感じ。まあ、ロールズの手続きとほぼ同じだけど。

具体的な人々の個人差を放置したままで集合的人格を構成するには、アクロバティックな飛躍が必要になる。ルソーの言う一般意志は、そのあたりの手続きがかなり杜撰な気はする。いったん個人差を解除するような手続きが挟まれば、多少はハードルが下がりそう。

とはいえ、「自然的自由」を「市民的自由」へ転換するという論理が、強烈な発明なのは間違いない。わがままで自分勝手だからこそ、進んで協力する。日本や中国やインドからはこんな発想は出てこない。近代ヨーロッパの面目躍如だ。

仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』NHK出版 生活人新書、2010年