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【要約と感想】ネトゥルシップ『プラトンの教育論』

※プラトン教育思想の全体像を把握したい方は、こちらの記事のほうが役に立つかもしれません→「プラトンの教育論ー善のイデアを見る哲学的対話法

【要約】プラトン『国家』の各所に散らばって記述されている教育論を、一つにまとめて体系的に記述。

【感想】『国家』には幼児期の教育から高等教育まで様々なプログラムが提示されているものの、相互に矛盾していて統一性があるとは言いがたい。これを一つの体系にまとめようという試みは、けっこう誰にでも思いつきそうで、誰にでもできるというわけではない気がする。よくやったなあと。

個人的におもしろかったのは、プラトンが数学について述べている箇所を、大胆に科学全般に敷衍している発想だ。そしてさらに、諸科学を統合するのが「弁証法」の役割とするのは、独特の見解なんじゃないだろうか。諸科学は、なんらかの証明されていない仮説から出発して様々な知見を得るわけだが、出発点となった仮説自体を説明することは不可能だ。仮説は特異点のままで終わる。特異点を解消し、諸科学の出発点となる仮説そのものを乗り越えて「最高の非仮説的な原理へ到達」することを目指すのが弁証法ということになる。

まあ、それはそれでヒルベルトのプログラムぽい徹底した合理主義的な感じなどがとても面白いけれど。ただ、弁証法の体系を科学的論理的に固めすぎていて、相対的にエロスの重要性が低下していくのは気になる。そのあたり、訳者解説のほうはエロスに比重が傾いているのは、ちょっと興味深かった。

R.L.ネトゥルシップ『プラトンの教育論』法律文化社、1981年

【要約と感想】林竹二著作集1『知識による救い―ソクラテス論考』

【要約】アテナイでは、甚大な社会変動に伴って、従来の道徳規範は説得力を失いました。道徳規範の混乱に対する特効薬を示したのがソフィストたちで、彼らは初めて旧来の階級制度を超える普遍的な人間形成を行ったと言えます。しかしソクラテスはそこに根本的な批判を加えます。ソフィストたちは単に教育方法の変革によって事態に対応しようとしていましたが、ソクラテスは道徳の内容そのものを課題とします。そしてソクラテスは一人一人との直接的な対話を積み重ね、魂を向け変えることによって問題を解決しようとします。しかしそれは逆に人々の怒りを買い、ソクラテスの処刑という悲劇によって挫折します。ソクラテスの課題を引き継いだプラトンは、すべての人間に本物の道徳を備えさせることは断念せざるを得ず、習慣と訓練によって身につくような別種の道徳教育を考案せざるを得ませんでした。

【感想】ソクラテスとプラトンの関係について、独特の考え方を示しているように思う。個人的には、なかなか説得力を感じる。

まずソクラテスに関しては、バーネット=テイラー説を踏まえた上で、定説に若干の修正を加えている。定説ではソクラテスは自然学を離れて人倫の学を開始した人物ということになっているが、著者が主張するところでは、中年時のソクラテスは本格的に自然学に熱中し、他のソフィストと見分けがつかないと言われても仕方ないような状態にあった。これはアリストファネス『雲』を精査することによって導かれる結論となる。

プラトンに関しては、ソクラテスとの違いが強調される。特に「知識」と「真なるドクサ」の扱いと、それを踏まえた本物の教育(パイデイア)の構想に、両者の違いが浮き彫りになる。ソクラテスが一人一人との直接の対話を通じた魂の向け変えに徹底した一方、プラトンは一般大衆の教育可能性に対して悲観的だ。プラトンにとってしてみれば、尊敬するソクラテスに処刑判決を下したような無知蒙昧で愚かな一般大衆に、真の知識が身につくなどとはとうてい思われない。愚昧な一般大衆に徳を身につけさせるには、真の知識を呼び覚ますような哲学的方法はなんの役にも立たない。彼らには、政治的な制度の下、習慣と訓練によって暫定的な正しさ(真なるドクサ)を身につけてもらえれば充分だ。こうしてプラトンは、支配者向けの真なる徳と、一般大衆向けの暫定的な徳に、教育を分割することになる。

私としても、「真なるドクサ」の扱いに関して、ソクラテスの原則からの逸脱を感じていたわけだが。これまで見てきた先行研究では、この「真なるドクサ」に対して原理的なツッコミを入れたものを見たことがなかったが、本書のように「真なるドクサ」を教育原理に絡めながら、さらにソクラテスとプラトンの違いに話が及ぶに至っては、感心するしかない。なるほど、と。今後は、ありがたく引用させていただくことにしたい。

林竹二著作集 1『知識による救い-ソクラテス論考』筑摩書房、1986年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』

【要約】ソクラテス裁判は宗教裁判でした。それがこれまで分からなかったのは、ぜんぶキリスト教のせいです。

【感想】うーん。講談社現代新書は他の新書に比べてハズレ率が高い気がしているのだが。ソクラテスやプラトンの全体像を宗教の観点から捉えるという発想自体は、オルフェウス教の影響やアポロン信仰の点から考えても特に悪いというわけではないんだけれども。それはそれとして、本書はソクラテスの宗教について、なに一つ明らかにしていないと思うなあ。ソクラテスがシャーマンならシャーマンで別にかまわないわけだけれども、「ソクラテスの無限の欲望」と言い出されてしまうと、もはやポカーンとなるしかない。

保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』講談社現代新書、1993年

【要約と感想】稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』

【要約】ソクラテスの思想のエロスを代表するのが『饗宴』で、タナトスを代表するのが『パイドン』です。ソクラテスの生において、エロスとタナトスは一体となっています。エロスの延長線上、その頂点にタナトスがあります。ソクラテスの生は、その死によって完成されたのです。

【感想】個人的な感想では、常識的な意見が並べられてあって、特に驚くようなことはまったく書いてない。研究書というよりは、一般向けの啓蒙書のようだ。

が、産婆法の教育に関する記述は、ありがたい。「ソクラテスの産婆的対話法によって、人びとが内に宿しているものを分娩させ、自覚させるということは、いいかえればまた、彼らに真に自己の真面目を知らせるということにほかならないであろう。すなわちソクラテスの産婆的対話法は、要するに汝自身を知らせることをその究極の目標とするのである。」(110頁)と述べているわけだが。しかしおそらく、産婆法についてまとまった記述が唯一残されている『テアイテトス』をしっかり読んでも、こういう見解を引き出すことはできない。著者の産婆法に関する見解は、プラトンが自分で述べたテキストそのものから引き出せる事実を大幅に超過して、プラトン思想の全体構造から推量して構築されたものだ。

で、私も産婆法に関しては著者と同じように感じていたのだが、証拠となるテキストがプラトン自身にない以上、この意見を大きな声で言うことに躊躇していた。が、いまなら「稲富栄次郎氏もこう言っている」と胸を張って主張できる。ありがたい。しかしやはり、本物のプラトン研究者からは怒られそうな気もするのだった。

稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』福村出版、1973年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】内山勝利『対話という思想』

【要約】イデア論とか想起説とかいったものは、対話の流れの中から要請されるものであって、固定された学説=ドグマではありません。プラトンを理解するためには、確定された学説を見出そうとするのではなく、対話という形式自体がもつ意味について考る態度が必要です。

【感想】諸々の先行研究を読む前は、イデア論を相対化するという姿勢はとても自然に見えたわけだけど。しかし分厚い研究史を踏まえてみると、手を突っ込むと火傷必至の恐ろしい領域だと認識させられる。そんななかで、本書は対話という形式に着目することで、イデア論を相対化しようと試みている。その試みを説得力あるものに育てるためには、本当にたくさんの細かい手続きを踏まえなくてはならない。後期著作の位置づけや、「書かれたもの」に対するプラトンの評価など、厄介な問題が多い。たいへんだ。

とりあえず私としては、イデア論を相対化したほうが自分にとって都合がいいときには、本書の成果を援用することにしたい。ありがたや。

内山勝利『対話という思想―プラトンの方法叙説』岩波書店、2004年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」