「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】田中美知太郎『ロゴスとイデア』

【要約】「事物そのものに直接向かわずに言語のうちに事物を探求する」と言うことで、何をしようとしているのか。そしてイデアという現実離れした考え方が必要になるのは、どうしてか。これらは一見すると現実にまったく影響を与えない抽象的な考察に見えるが、実際にはこういった哲学的問題を根本から考えることが、強力な光の照射となって、暗がりに隠れて見えなかった現実を把握することが可能となる。

【感想】全体的な完成度の高さに、感服するしかない。戦時中にこれほど地に足の着いた体制批判が可能であったということにも、驚く。70年後のいま読んでも、決して古びていない。今でも古びない要因は、著者が流行の思想に乗って著述作業をしているのではなく、自らの根源的な問題関心に忠実に則り、さらにそのような個人的な問題関心を他者にわかりやすく伝えるために文体形式に意識的に工夫を加えているところにある。個人的な問題は時代を超えていつまでも現在の問題であり続け、他者に向けてわかりやすく語ろうとする試みは時代を超えて機能する。プラトン思想の外在的な解説ではなく、プラトンを噛み砕いて消化した上で、自分の言葉として語っている。それは「あとがき」で自ら「対話」と自称するだけの意識的な方法論を伴っている。

内容としても、いわゆるイデア論を徹底的に認識論の面から分析しているのが興味深い。最近のプラトン解説本は、イデア論に真正面から認識論で挑むのは分が悪いと認識されているのか、現象学的な手段を援用しながら価値論の方から迫ろうとするものを散見する。それはそれで意味のある仕事だし興味深く読めるわけだが。しかし本書のように何の衒いもなく真正面から認識論に突入していくのは、むしろ新しい。そして凄い。おそらく著者は、認識論を真正面から突破した上でなければ「善」について語る資格はそもそも得られないと考えているのではないか、という感じがする。

というわけで、これは哲学研究者の仕事ではなく、哲学者の仕事であるように思った。

【これは眼鏡論に使える】認識論の方向からイデア論を突き詰めることは、「眼鏡っ娘」とは何かを考える上でどうしても避けては通れない道である。我々はどうして「個々の眼鏡をかけた女性」を個別に認識するのではなく、抽象的に「眼鏡っ娘」と認識するのか。また、どうして眼鏡をかけている女性に対して「お前は眼鏡っ娘じゃない」と思ってしまう時があるのか。このような認識のプロセスを解き明かすうえで、イデア論に対する理解は決定的な霊感を与えてくれる。本書も、眼鏡論に大きな霊感を与えてくれる。

田中美知太郎『ロゴスとイデア』文春学藝ライブラリー、2014年<1947年
■オリジナル:田中美知太郎『ロゴスとイデア』岩波書店、1947年

【要約と感想】サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

【要約】総論賛成、各論是々非々。イギリス経験論から見ると、プラトン『国家』の論述運びはデタラメだらけではあるが、根源的な問いをどこまでも追求していこうとする粘り強い姿勢自体が素晴らしい。

【感想】イギリス経験論の立場からしてみれば、プラトンの論説は独りよがりな妄想に満ちている。認識論も、倫理説も、政治論も。認識論に関しては、プラトンが具体物と抽象概念を「繋ぐもの」に関心を寄せないところに、著者は激しい不満を見せている。倫理説に関しては、プラトンが「共感(イギリス的な伝統だな)」という概念を欠いていることに激しい不満を示す。政治論に関しては、民主主義を頭ごなしに否定する態度はもちろん、その原因となっている「個人に多様性を認めない」という姿勢に特に納得がいかないようだ。この批判は、イギリス経験論的な思考の流れからは当然の帰結のように思える。著者が判断を補強するために引用するもの、定番のカントではなく、ホッブズやヒュームやワーズワースからのが目立つのも興味深い。おおむね、「イギリス人がプラトンを読んだらこうなる」あるあるになっているように思った。

と、様々な不満をオブラートに包みもせずぶっちゃけてるとはいえ、著者は最も根底の部分でプラトンに敬意を表してもいる。著者とプラトンが、ほんものの探求とはなんらかの固定した知識を誰かから客体的に学び取るようなものではなく、みずから主体的・能動的に考える姿勢にあるという洞察を共有しているからだ。

笑ったのは、ある哲学者が行政組織から教育成果に関する質問を受けたときの答え。「哲学を教えるただ一つの方法は、二千年前にソクラテスによって発見されているし、自分はそれを捨てるつもりはない。ソクラテスが発見したのは、みずから考える活動。つまり、比較考量し、問いかけ、実践し、想像し、反応することが絶対に必要だということである。丸暗記することも、パワーポイントもこの過程の出発点以上のものではありえない」(229頁)。私もこう応えていきたい。

サイモン・ブラックバーン/木田元訳『名著誕生4 プラトンの『国家』』ポプラ社、2007年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】斎藤忍随『プラトン』岩波新書

【要約】ソクラテス=プラトンの思想の根底にあるのは、アポロンの神話やデルポイ神殿に色濃く見られる「死の思想」です。人間は必ず死ぬという事実に直面したとき、プラトンの思想の本当の意味が見えてきます。

【感想】60頁くらいまで、プラトンやソクラテスの話題にならない。なかなか主人公が出てこないということで、どこの『ダンガードA』かと。

まあ、主人公たちが出てこないのは、一方で社会史的な背景をしっかり記述してあるということではある。ギリシアにおけるアポロン神の位置づけ、デルフォイ神殿の意味など、やたら勉強になった。そういう意味では、ある程度ソクラテスやプラトンについて知っている中級者向けの本と言える。イデア論に関してもさらっと触れられるだけではあるが、著者の立場が濃密に込められているようには読めた。

斎藤忍随『プラトン』岩波新書、1972年

【要約と感想】納富信留『プラトン 理想国の現在』

【要約】『ポリテイア』という本は、政治的に読まれるか、非政治的(倫理的)に読まれるか、意見が対立しています。そこで西洋と日本で『ポリテイア』という本がどのように受容されたかを調べました。日本ではプラトンの「イデア」から「理想」という言葉が生まれ、それが現実を支える大きな力となってきたことが分かりました。この「理想」という言葉のあり方を真剣に考えると、プラトン思想を現代で読む意義が改めて浮かび上がります。

【感想】とても面白く読んだ。まず、近代日本思想史に密接に絡んでくることをまったく想定していなかったが、その部分が予想外に面白く、勉強になった。「理想」という日本語の変遷について、本書はプラトン『ポリテイア』を軸に検討されているわけだが、改めて近代日本思想史全体の文脈の中で調べてみる価値があるなあと思った。

それから、『ポリテイア』を政治的に読むか、倫理的に読むかについて。個人的には圧倒的に「教育的」に読みたいわけだが。しかしそう主観的に結論を出すわけにはいかない、重厚な議論の積み重ねがある領域なんだなあと、改めて痛感する。「「ポリテイア」とは、言葉で可視化された「正しさ」そのもののモデルなのである。」(209頁)という結論に、もう、なるほどなあと。

気になるのは、宇宙=ポリス=個人の三層を貫く構造として「正しさ」を捉えるという論理が、明治中期から流行する国粋主義とソックリという点だ。三宅雪嶺や陸羯南は、宇宙=国家=個人を貫く理論を以て「ナショナリズム」を構築する。特に三宅雪嶺がどこから宇宙論的な霊感を得たか、かなり気になるところだ。プラトンの影響があるのか? 調べてみようと思った。

納富信留『プラトン 理想国の現在』慶應義塾大学出版会、2012年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】田中美知太郎『ソクラテス』

【要約】ソクラテスはどういう人物で、どうして処刑されねばならなかったのか。ソクラテスの思想だけの問題ではなく、時勢にも恵まれていなかった。

【感想】60年前の本ではあるけれど。教えられることが主に2点あった。

ひとつは、ソクラテスに関するクセノフォンとアリストパネスの証言を肯定的に受け止める態度。けっこう多くの研究者がクセノフォンを馬鹿にしたりアリストパネスを一笑に付したり、その証言をまともに取り上げないし、そうするのにも正当な理由はあるわけだけれど。本書はプラトンの証言を相対的に扱い、クセノフォンやアリストパネスを真剣に扱うことで、生産的な議論に結びついているように思った。感心した。

もう一つは、平等に史料に接する態度と密接に関わるわけだけど、若かりしソクラテスに関する推測。アリストテレス以降、ソクラテスが自然学を無視して倫理学に集中していることが定説となっているけれど。実はソクラテスの若い頃は、アリストパネスが描くように、実際に自然学に傾倒していたのではないか。確かにプラトンが出会ってからのソクラテスと、アリストパネスが知っているソクラテスとは、年齢がまったく違っており、関心領域がまるでズレていてもおかしくないわけで。老齢のソクラテスの姿勢を若年時にまで投影することは、確かに根拠がないよなあと。感心した。

*後記(2017.8.21):後に気づいたが、著者が示したこれらの見解は、バーネット・テイラー説を下敷きにしたもので、他にも教育哲学者には広く受け容れられている見解のように見える。例えば林竹二や村井実は、ここで見られるソクラテス像を示している。が、後の哲学畑の人々は、バーネット・テイラー説への距離感の故なのかどうか知らないが、こうした見解を表立って主張することは少ないような気がする。どうだろうか。

田中美知太郎『ソクラテス』岩波新書、1957年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」