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プラトンの教育思想―善のイデアを見る哲学的対話法―

ソクラテスは教育で、プラトンは教育「論」

 このページでは、プラトンの教育論について考えていきます。
 ちなみに、ソクラテスについては彼の行った「教育」について考えるのに対し、プラトンについては彼が語った教育【論】について考えます。「教育」と「教育論」では、考えるべきことは全然違ってきます。というのは、「教育」は現実に行われた取り組みを指しますが、「教育論」の方は現実に行われるかどうかに関係なく頭のなかで考えられた思想を指すからです。実際に行われた「教育」と、頭のなかで構想された「教育論」では、評価する観点がまったく変わってきます。

ソクラテスの教育との比較

 ソクラテスとの比較で、まず事実として重要なのは、ソクラテス本人が自分の「教育論」をなに一つ残していないということです。ソクラテスは文章を書き残していないので、彼が何を考えていたかを本人の口から聞くことは、残念ながら絶対にできません。ただし、彼が実行したことについては、他の人が書き残した記録から推測することができます。特にプラトンが書き残した記録には、ソクラテスの言動が活き活きと描写されています。ソクラテスの人となりまで眼前にまざまざと思い浮かべることができるような、超一級品の文学作品です。プラトンの作家としての力量がズバ抜けていたことが分かります。が、逆に言えば、どこまでが実際にソクラテスが行ったことでどこからがプラトンの創作なのか、見極めることはとても難しいわけです。

プラトンの教育と、教育論

 一方、プラトンが実際に行った「教育」についても、そこそこ記録が残っています。プラトンは「アカデメイア」という学園を作り、そこで弟子たちを育成しました。プラトンが亡くなった後もアカデメイアは存続します。様々な史料が残され、そこで実際に行われていた教育の姿をある程度は再構成することができます。
 が、このページではアカデメイアで行われていた教育については直接触れません。考察の対象にするのは、プラトンが実際に行った「教育」ではなく、彼が構想した「教育論」です。

プラトンの教育論(本筋)

 そんなわけで、さっそくプラトンの教育論について確認していきましょう。プラトンはたくさんの本を書き残していますが、教育論に関しては、特に『国家』という本と『法律』という本が重要です。ただし、内容を精査すると、お互いに矛盾するような記述も多く、全体的・統一的・総合的に理解するのはなかなか厄介です。ということで、細かい矛盾には目をつぶって、まずは大雑把にプラトンが本当に言いたいことを理解することに努めてみましょう。

教育とは知識の獲得ではない

 まずプラトンは、教育に関して世間の人々が抱いている勘違いを糾弾します。世間の人々は、教育を「知識の獲得」と勘違いしています。当時、ギリシアでは自分を教師と称して、お金をとって教育をする人々が活躍していました。彼ら自称教師のことを「ソフィスト」と呼びますが、プラトンは彼らの教育を徹底的に批判します。ソフィストたちがやっているような、人間の外側から知識を注入しようとする試みを、プラトンは断じて「教育」だとは認めません(518B)。では、プラトンが主張する本物の教育とは何でしょうか?

哲学的対話法

 結論だけ示しておくと、プラトンが言う本物の教育とは、「哲学的問答法」です。この学問だけが人間を「確実な知識」へと導いてくれます。他の学問では、「確実な知識」へと辿り着くことは絶対にできません。
 しかし問題は、この教育の真の姿である「哲学的問答法」というものが具体的にどのようなものであるかが、プラトンの記述そのものからは分からないというところにあります。手がかりはたくさん与えられているので、少しずつ確認していきましょう。

「確実な知識」を求めて

 まず、先に「哲学的問答法だけが人間を確実な知識へと導いてくれる」と書いたわけですが、そもそも「確実な知識」とはどういうものでしょうか。実はプラトンは「確実な知識とは何か?」という問題に徹底的にこだわっていて、まずはこれを明らかにしないと彼の教育論そのものを理解することができません。
 まずプラトンが否定するのは「感覚」です。感覚を通じて「確実な知識」に到達することは絶対に不可能だと、繰り返し主張しています。例えば同じ対象を見るにしても、見る人の精神的状態が違っていたり、あるいは部屋の明るさなど環境が異なれば、人に与えられる感覚はまったく違ってきます。条件が違えば変わってしまうような曖昧なものを「確実な知識」と呼ぶわけにはいきません。
 つまりプラトンが言う「確実な知識」とは、どんなに環境や条件が変わろうが、場所や時代が違っていようが、絶対に変わることのない知識のことです。平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わらない知識、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わらない知識こそが、追い求めるべき「確実な知識」です。

数学の重要性

 そんな時代や場所によって変わらないような「確実な知識」が本当にあるのか?と聞かれたら、自信を持って「ある」と言いましょう。たとえば、「三角形の内角の和は二直角と等しい」という事実は、平安時代だろうが江戸時代だろうが平成だろうが変わりませんし、アメリカだろうが北朝鮮だろうが日本だろうが変わりません。「数学」の知識は、場所や時代によって変わることがないものと言えそうです。ということで、プラトンは「数学」を極めて重要視し、最終目的である「哲学的問答法」に到達する前に必ず「数学」を修得するべきことを主張しました。プラトンの言うことに従うなら、数学が理解できない人に学問をする資格はありません。
 (そして、このようにプラトンが数学を重視することに対して、ピュタゴラス派が極めて大きな影響を与えただろうことが指摘されています。たぶん、そうでしょう。が、このページでは検証しません。)

数学に足りないもの

 しかしプラトンは、数学では最終的な「確実な知識」には手が届かないと言います。確かに数学的な手続きを踏んでいけば、一つの決まったゴールに辿り着くことができます。数学の「手続き」や「ゴール」にはまったく問題がありません。問題は、「スタート」にあります。どうしてその「スタート」で良いのか、数学そのものは決して答えてくれません。確かに、いったん「スタート」が正しいと認めてしまえば、あとは決められた手続きに従えば一つの答えを出すことができます。が、しかし、その「スタート」そのものが正しいかどうかは、数学そのものの手続きでは決して分からないのです。
 たとえばユークリッド幾何学は、まずいくつかの定義と公準と公理を無条件に承認するところからスタートします。いったん定義と公準と公理を認めてしまえば、あとは手続きに従っていけば必ず一つの決まった答えに辿り着くことができます。しかしそもそも最初に承認した定義と公準と公理が本当に正しいかどうかは、ユークリッド幾何学の手続きでは確認することができません。そこは無条件に「信仰」するしかありません。プラトンはそれを問題視したわけです。本当に正しいかどうかを自分で確認してもいないものなんか、無条件に信じることなどできない、ということです。

演繹と前提さかのぼり法

 数学の方法とは、「演繹」です。ある前提が与えられると、そこから論理的な手続きを正確に辿りさえすれば、確実に真理を導き出すことができます。真理を導く手続きに「感覚」の手を借りる必要は一切ありません。「感覚」を必要とせずに真理を導き出せるところに、数学の素晴らしさがあったわけです。ところがこの「演繹」という手続きを進めるためには、まず何らかの前提が必要となります。まずは前提が与えられなければ、演繹という手続きを始めることすらできません。無条件な「前提」を必要とすることが数学の弱点だと、プラトンは見なします。「本物の知識」に辿り着くためには、「前提」そのものが正しいかどうかを確認するために、数学の「演繹」とは違う手続きが必要となります。その手続きをプラトンは「仮設廃棄」と呼びます。
 数学は何かを「仮設」するところから議論を始めるけれども、しかし本物の知識に辿り着くためには、その仮設を廃棄して、さらに根源的な仮設へと遡っていく必要があります。そうやって次々と仮設を廃棄していって、もうこれ以上は遡れないというところまで辿り着いた時、そこが究極的な出発点となるはずです。これは「演繹」という手続きとは、まったく反対の手続きです。一般的には「演繹」の反対は「帰納」ということになっていますが、プラトンには通用しません。プラトンにとっては、「演繹」の反対は「仮設廃棄」です。私個人は「仮設廃棄」という言葉よりも「前提をさかのぼる」と言ったほうが分かりやすいので、そう呼びます。「演繹」という言葉も分かりにくいので、「前提から引き出す」とでも呼びましょうか。

善のイデア

 このように、前提から結論を引き出す数学の手続きとはまったく反対に、前提をさかのぼっていくのが哲学的対話法という手続きです。そしていったん遡りはじめたら、究極的な始原に辿り着くまで遡りつづけなければなりません。プラトンの言うところによれば、この究極的な始原こそが「善のイデア」ということになります。
 ということで、結論だけ言えば「善のイデア」を認識することが教育の目的ということになるわけです。が、どのように具体的な哲学的対話を通じて「善のイデア」に到達するのか、それはプラトンの著作そのものから端的に引用することはできません。ここは、プラトンの著作の全体から総合的に感得すべきものということになるでしょう。事ここに至れば、もはや、プラトンの著作すべてが総合的に「教育」なのだと言うしかないところであります、恐縮です。

国家の存在意義としての教育

 ここまでして教育に注意しなければならないのは、プラトンにとっては、教育こそが国家が存在する理由だからです。国家は、ただ人々を生存させるために存在しているわけではありません。人々を善い人生へと向かわせるために存在しています。教育をしない国家は、国家としての存在価値がないわけです。
 しばしばプラトンの著書『国家』の主題は何かについて議論されることがありますが、私に言わせれば、その主題は「教育」で間違いありません。なぜなら、理想の国家について論じることはすなわち理想の教育について論じることだからです。教育に触れずに国家について語ることなど、プラトンには想像もできないことです。国家のあり方と教育のあり方は一体となって構想されなければいけません。その姿勢は最晩年の著作であろう『法律』でもまったく変わっていません。

プラトンの教育論(脇筋)

 さて、以上、プラトン教育論の本筋を確認したわけですが、この本筋から様々な教育的見解が派生します。脇筋とはいえ、教育論として無視できない内容が満載ですので、確認していきましょう。

体育と音楽・文芸

 さて、プラトンが数学を重視していたことはすでに確認しましたが、数学を学習する前の小さな子供たちには、まず体育と音楽・文芸を課すことを提唱しています。まず最重要ポイントは、「体育」といっても、体力を養うことを目的としていないということです。プラトンが「体育」を重視するのは、それが体力や健康の増進に役立つからではなく、「魂」を養うことに大きな意味があるからです。
 プラトンによれば、人間の魂は3つの部分が組み合わさってできています。すなわち、「理知的/気概的/欲望的」な部分です。この魂の部分のうち、「欲望的」な部分が突出するとケダモノのようなダメ人間になってしまいます。「理知的」な部分と「気概的」な部分が協力して「欲望的」な部分を押さえつけることで、立派な人間になることができます。そして数学は「理知的」な部分を成長させるのに大きな役割を果たすのですが、小さな子供にはまだ数学を理解することは不可能です。そこで、まずは「気概的」な部分を成長させ、これに「欲望的」な部分を押さえ込ませようとするわけです。この「気概的」な部分を成長させるために必要なのが、「体育」ということになります。だから「体育」とは体力や健康のために課すのではなく、魂の「気概的」な部分の成長のために課すべきものとなるわけです。
 しかし「気概」的な部分が突出して成長すると、単に粗野で乱暴な人間になってしまいます。これはプラトンの望むところではありません。そこで、「気概」的な部分を穏やかに落ち着かせるために、「音楽・文芸」を課すことにします。というわけで、この「音楽・文芸」も、単に子供を趣味人にするために課すわけではなく、「魂」の調和のために必要な学科ということになります。
 プラトンは、子供たちの魂の調和を図るために、まず「音楽・文芸」を課して気概的部分を手懐け、その後に「体育」によって気概的部分を発達させようと主張します。こうして気概的部分が調和的に発達して欲望的部分を押さえつけることに成功した後に、満を持して数学の勉強に入ろうというわけです。

エリート主義

 しかし、気概的部分が調和的に発達すれば問題ありませんが、うまくいかない場合もあるのではないでしょうか? プラトンは、うまく成長しなかった子供は、どんどん教育から脱落させていきます。欲望的部分が優位になってしまった人間は、それに相応しい低レベルな仕事に従事させればいいのであって、さらに高度な勉強をさせる必要はないというわけです。
 そんなわけで、プラトンの教育とは、万人に平等に与えられるものなどではなく、落ちこぼれを次々と排除して、最終的にエリートを選抜するものです。恐ろしいことに、この落ちこぼれの排除は、赤ん坊の誕生直後どころか、男女の結婚の過程から開始されます。赤ん坊は、誕生直後に精査され、ダメな赤ん坊は無慈悲に排除されます。ダメな赤ん坊が生まれてこないように、男女の結婚や性交渉も厳しく制限されます。プラトンの教育は、「優生主義」を背景にして成立しています。だから「数学なんてわかんない」なんてプラトンに言おうものなら、人間失格扱いになること間違いありません。

男女平等

 しかし逆に言えば、体育と音楽・文芸によって気概的部分を手懐け、さらに数学の学習にも素質を示すようであれば、男女の性差など問題になりません。優秀な女性は、とうぜん男性と混ざって高等教育を受けるべきだという話になります。プラトンが「理性」という観点から男女を完全に対等な存在と見ていることは、彼の教育論を考える上で重要な論点となります。

有害な物語の排除

 さて、小さな子供たちの教育を、まず音楽・文芸から始めるべきことは先ほど確認しました。どのような音楽・文芸を子供に与えるべきかについて、プラトンは極めて長い議論をしています。簡単にまとめると、教育にとって有害な物語は子供たちから遠ざけるべきだという議論です。人生経験が豊富な大人にとっては娯楽的作品であっても、何でも素直に受けとってしまう子供に対しては有害な影響を与えてしまうことがあると、プラトンは言います。具体的には、神々に関する物語が問題となります。
 このように有害な物語を排除しようとするプラトンの姿勢は、もちろん後の人々から批判の対象となりますが、彼の教育論を考える上で一つの重要な論点となります。

自由と遊び

 さて、音楽・文芸と体育の課程を終えて素質があると認められた子供たちは、次に数学の勉強をすることになるわけですが、ここでプラトンは学習を強制するべきではないと主張します。子供たちの自発性に任せて、遊ぶように学習させるべきだと言います。理由は主に二つあって、一つは強制的に学習させられても身につかないという実践的な理由です。もう一つは、最終的に哲学的対話法を身につけなければならない人間にとって、強制されて学習するなどということはあってはならないという理念的な理由です。このあたりは、近年の学習指導要領の「新学力観」にも通じる論理で、彼の教育論を考える上で一つの論点となります。

実用主義の排除

 そうして子供たちは数学の学習を始めますが、プラトンが注意するのは、その数学が実用的なものではあってはならないということです。具体的には、商売に役立つために数学を身につけるわけではないということです。数学はあくまでも普遍的な知識への到達を目指し、魂を向上させるために身につけるべきものです。
この姿勢は最晩年の著作『法律』まで貫かれていて、数学だけに限った話ではなく、プラトンにとっての教育とは決して職業に就くための知識や技術を身につけるものではなく、「人間」となるための「普通教育」です。
 この実用主義・職業教育の排除は、近代的な普通教育の理念を考える上でも一つの論点となります。

学問の総合

 これまで「数学」と無造作に言ってきましたが、プラトンの言う数学は我々の考える数学とは範囲や内容が少しズレているかもしれません。プラトンは数学を、(1)算術(2)幾何学(3)立体幾何学(4)天文学というふうに発展していくものと構想しています。これは単純に見れば、一次元→二次元→三次元→円運動というカリキュラム構想となっています。
 そしてすべての課程を終えた際には、それらの学問をバラバラで雑多な知識として考えるのではなく、統一的・総合的に学問を把握することを求めています。単なる知識の習得ではなく、原理の理解を要求していると言えるでしょう。そうでなければ、次のステップである哲学的問答法を始めることなどできません。
 この論点は、学習指導要領の言う「深い学び」という言葉にも通じるものであり、彼の教育を考える上でも一つの論点となります。

まとめ:ソクラテスの教育との違い

 以上、プラトンの教育論について確認してきました。私が個人的に思うところでは、重要なのは、枝葉末節にとらわれず、まず論理の根幹をしっかりと把握することです。決定的に重要なのは、「善のイデア」に対する理解です。そして、それを踏まえると、雑多に伸びているようにしか見えない枝や葉についても理解することは容易であるように思います。逆に言えば、「善のイデア」について把握する前に細々とした論点に手を出しても、おそらく何も分からずに終わります。
 ちなみに、「善のイデア」の理解とは、教科書に書いてあることを頭で理解するような、そんなレベルの話ではありません。最終的には「生き様」の問題となります。ささっとレポートを書くためにインターネットを検索しまくっている限り、一生かかっても「善のイデア」を理解することはないでしょう。(まあ、理解しなかったところで、日常生活では何の問題もありませんけどね。なぜなら、プラトンの理屈では、理解するのは一握りのエリートだけで充分なのだから…)

ソクラテスとの比較

 で、ここがソクラテスと決定的に違ってくるところかもしれません。ソクラテスの行動を見る限り、彼にはエリート主義というものが見当たりません。老若男女、どんな人間に対しても分け隔てることなく接しているように見えます。ソクラテスは、誰でも必ず「人間並の知」には辿り着くことができると考えているように見えます。ただし、ソクラテスは「人間の知」と「神の知」を厳密に分けて、我々が到達できるのはしょせんは「人間の知」に過ぎないと自覚すべきことを唱えます。ソクラテスが言う「人間並みの知=無知の知」は、知ろうと思えば知ることができるような知識について語っているのではなく、人間の力では絶対に到達することが不可能であるような、原理的で絶対的な「無知」を相手にしています。人間がたどり着ける最高の知とは、「どんなに頑張っても絶対に知り得ないことがある」ということを知っているということです。
 それに対してプラトンは、「神の知」にまで到達しようと試みているように見えます。哲学的問答法は、そのための手段です。しかし問題は、本当に我々の力で「神の知」に到達できるかということです。これがおそらくソクラテスの言うとおり原理的に不可能であったことは、20世紀になってヒルベルトやフレーゲやラッセルやゲーデルら数学者の仕事によって明らかになっていくことでしょう(ただし「人間の知」を「有限の立場」と同じと見なすかどうかなど、なかなか厄介な話ではありますが……)。

参考文献:プラトン教育論の先行研究

稲富栄次郎著作集2『ソクラテス、プラトンの教育思想』
 プラトン『国家』の主題が教育にあると断じており、とてもありがたい本。著者は日本の道徳教育を作り上げる際にも大きな役割を果たしており、その理論的な土台としても注目される。

稲富栄次郎著作集9『人間形成と道徳』
 プラトンの教育論をどのように実際の道徳教育に活かすかという課題に果敢に挑戦している。

ネトゥルシップ『プラトンの教育論』
 プラトン『国家』の中に雑多に散らばっている教育論を統一的に理解しようとしている。

参考文献:プラトンの著作

 教育に直接関係するのは特に『国家』と『法律』だが、教育が主要テーマでないものであっても、その対話形式自体がすでに教育だったりするので侮れない。また内容的にも一貫して「知識とは何か」がテーマになっており、著作すべてが教育に関係しているとも言える。中でも『ゴルギアス』『プロタゴラス』『メノン』は、ソフィストを相手にしながら「本物の知識」とは何かを追究しており、教育論を考える上では外せない。さらに『テアイテトス』は産婆術についてのまとまった記述があり、プラトンの教育論を考える上でも重要な本となっている。まあ、全部読んでおこうということだな。

『ソクラテスの弁明・クリトン』
『パイドン』
『饗宴』
『ゴルギアス』
『プロタゴラス』
『パイドロス』
『メノン』
『国家』
『テアイテトス』
『法律』

参考文献:プラトンに関する先行研究

 『国家』はプラトンの著作の中でも特に重要なものと衆目が一致しており、先行研究も多い。そして『国家』の本質を教育論と見なさない立場であっても、もちろん教育を無視して『国家』を語れるわけがない。以下の文献は、教育そのものを追究課題としているわけではないものの、プラトンの教育論を考える上で参考になるような様々な視点を与えてくれる。

内山勝利『対話という思想』
納富信留『プラトン 理想国の現在』
納富信留『ソフィストとは誰か』
サイモン・ブラックバーン『プラトンの『国家』』

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

「学力」とは何か?―学校教育法の定義と背景―

「学力」とは何かについて考える前に

そもそも「学力とは何か?」という定義が怪しい

 世間では「学力低下」に関して様々な議論が行われていますが、しかし実は「そもそも学力とは何か?」について、人々の間で一致した定義があるわけではありません。勝手に自分の頭の中で思い込んだ「学力」について、それぞれ勝手に意見を述べているに過ぎないことが多いのですね。「学力」と言ったり言われたりした瞬間、何を対象にしているか分かったつもりになってしまいます。ここで、改めて定義を決めておこうと立ち止まる人々は、そう多くありません。しかし、「学力」の定義を共有していないとき、「学力が低下した」とか「低下していない」などと言い合っても、そもそも何を対象に議論しているのかが分かっていないのだから、話が噛み合うわけがありません。ひどい場合では、一人の論者が、文脈によって自分に都合良く「学力」の定義をコロコロ変えている場合だってあります。
 そんなわけで、「学力」に関して話をしようとする場合、まず「学力」という言葉で具体的に何を対象にしているのか、最初に明らかにしておく必要があります。誰かが「学力」と言っているとき(あるいは自分が「学力」と口走ってしまったとき)、そもそもその言葉が具体的に何を対象としているか、「ちょっと待てよ」と立ち止まって確認したほうがいいわけですね。

このページの「学力」とは何か?

 そういうわけで、このページでは、「学力」のことを「文部科学省が定義している学力」として解説しています。私自身が考える「学力」ではありません。

法律による「学力」の定義

学校教育法第30条

 日本では、2007年、法律によって「学力」が定義されました。そもそも「学力」という言葉自体が外国語に翻訳しにくいものではありますが、「学力」のような教育目的に関わるものを法律で決めている国は、他にはありません。このことは、日本の教育を考える上で、とても重要な事実です。
 教育の内容に関わることを法律で決めることが可能かどうか、あるいはいいことかどうかについて、本当は腰を据えて考察する必要がありますが、まずは文部科学省が何を言っているかしっかり確認しておきましょう。「学力」は、以下に引用する「学校教育法」第30条2項で規定されています。

前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。
(「学校教育法」)

 この規定の大きな特徴は、いわゆる「学力の三要素」と呼ばれるものが示されていることです。学力の3つの要素を、文部科学省自身は以下のようにまとめています。

(1)基礎的・基本的な知識・技能。
(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等。
(3)主体的に学習に取り組む態度。
(文部科学省「学習指導要領「生きる力」」)

 この学力の三要素は、「学習指導要領」の目標規定や「全国学力・学習状況調査」の方向性など、様々な場面で繰り返し用いられており、文部科学省の方針にとって最も重要な土台になっています。たとえば具体的には、各教科の目標や評価は全てこの学力の三要素に沿って記述されています。逆に言えば、国語や算数などの目標を理解するには、単にそれぞれの教科について知るだけでは不十分で、しっかり学力の三要素から理解しておく必要があるわけです。

文部科学省による「学力」定義の背景

 このように「学力」を定義した背景を、文部科学省自身は以下のように説明しています。要するに、世の中が変わったから、それに対応して教育も変わらなくてはいけないということで、法律によって「学力」の定義を行ったということになります。

知識基盤社会の到来や、グローバル化の進展など急速に社会が変化する中、次代を担う子どもたちには、幅広い知識と柔軟な思考力に基づいて判断することや、他者と切磋琢磨しつつ異なる文化や歴史に立脚する人々との共存を図ることなど、変化に対応する能力や資質が一層求められている。一方、近年の国内外の学力調査の結果などから、我が国の子どもたちには思考力・判断力・表現力等に課題がみられる。これら子どもたちをとりまく現状や課題等を踏まえ、平成17年4月から、中央教育審議会において教育課程の基準全体の見直しについて審議が行われた。
この見直しの検討が進められる一方で、教育基本法、学校教育法が改正され、知・徳・体のバランス(教育基本法第2条第1号)を重視し、学校教育においてはこれらを調和的に育むことが必要である旨が法律上規定された。さらに、学校教育法第30条の第2項において、同法第21条に掲げる目標を達成する際に、留意しなければならないことが次のように規定された。
(『言語活動の充実に関する指導事例集【小学校版】』)

 そんなわけで、「学力」の定義が適切かどうかは、現状を正確に把握しているかどうかが最重大ポイントになります。具体的には、上の文章に出てくる「知識基盤社会」とか「グローバル化の進展」というものを正確に捉えることができているかどうかが大事になるわけです。
 また、上の文章で「我が国の子どもたち」の「課題」と言っているのは、具体的にはOECD主催によるPISA調査の結果が芳しくないことを意味しています。特に「PISAショック」と呼ばれる出来事は、「学力」に関わる議論に大きな影響を与えました。だから文部科学省の教育方針を理解するためには、「PISAショック」について把握しておく必要があります。
 ということで、「学力」の定義が適切かどうかを判断するために、学力定義の背景となっている「知識基盤社会」と「PISAショック」を確認しておきましょう。

知識基盤社会

 「知識基盤社会」とは、英語ではknowledge-based societyであり、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増すような世の中を意味します。文部科学省自身は、「知識基盤社会」について以下のように述べています。

我が国が科学技術創造立国の実現に向けて世界をリードし、成長し続けるためには、イノベーションを絶え間なく創造できる人材の育成が求められている。「知」を巡る国際競争の激化や知識基盤社会の進展等により、産業構造の変化も急速に進んでいる現代においては、多種多様な個々人が力を最大限発揮でき、それらが結集されるチーム力が必要とされている。(知識基盤社会が求める人材像、2009年)

 つまり知識基盤社会に対応した人材を育成するとは、子供の自己実現や人格の完成を尊重するというよりは、日本が「世界をリード」したり「国際競争」を勝ち抜くために必要な人材を供給することを意味しているようですね。
 そして、文中で言われている「産業構造の変化」については、内容をしっかり把握しておく必要があります。おおまかには、製造業が衰退して、IT産業が発展することを意味しています。産業構造が転換すると、社会が必要とする人材が大きく変化します。社会が必要とする人材が変化すると、社会に人材を供給する教育も変わらなくてはなりません。教育の変化の背景には「産業構造の変化」があり、そういう事態を端的に表す言葉が「知識基盤社会」となるわけです。
(ちなみに2021年現在においては、「知識基盤社会」という言葉はほとんど使われないようになり、代わりに「Society5.0」という言葉が頻繁に使われるようになっていますが、伝えたいだろう内容はそんなに違っているわけではありません。)

PISAショックと全国学力・学習状況調査

 PISA調査とは、OECDが主催する「学習到達度調査(Programme for International Student Assessment)」のことです。16歳を対象とし(日本では高校1年生対象)、文章読解力や数学的・科学的リテラシーがどれだけ身についているかを調査しています。
 PISA調査を主催するOECDとは、「経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)」であり、つまり教育に関係する組織ではなく、経済発展に関係する組織です。PISA調査は教育的な観点から作られているというよりも、どれだけ経済発展に貢献する能力があるかという観点から作られていると言えるかもしれません。
 このPISA調査に関して、2003年と2006年の調査で日本の国際的順位が大幅に下がり、日本の教育関係者一同が衝撃を受けた事件を「PISAショック」と呼んでいます。既にゆとり教育に対する危惧が各方面から上がっていましたが、この結果を受けてゆとり教育見直しの方向性が決定的となりました。しかし2009年と2012年の調査では順位が上昇しており、しかもこの世代はゆとり教育を受けた世代だったこともあって、ゆとり教育の効果については改めて精査するべきだという意見も根強いところです。また2003年と2006年の調査が実態を反映しているかどうかも専門的には疑わしく、マスコミが大袈裟におもしろおかしく学力低下を騒ぎたて、それに教育産業が便乗して公教育を不当に貶めていた可能性は考慮した方がよいでしょう。
 また、文部科学省は「全国学力・学習状況調査」を2007年より毎年実施することにしました。小6と中3を対象とし、悉皆調査として始まりました(民主党政権下でいったん抽出調査となりましたが、自民党政権に戻ったときに再び悉皆調査となりました)。問題の特徴は、基礎基本を聞くA問題と、活用力を問うB問題に分かれていたことです(この区別は2019年になくなりました)。いわゆるPISA調査が聞くような問題は、B問題に相当します。日本の子どもたちは活用力が弱いという認識と、これからの世界で必要となるのはPISA型学力であるという認識の下、思考力・判断力・表現力の向上を目指した学習指導要領の方針が定着しているかどうかを調査することが目的とされています。この調査は、PDCAサイクルのCheck(評価)の指標として機能し、学校現場の実践を望ましい方向(文科省にとって)に促すための「政策立案のための調査」として期待されています。しかし中途半端なことに、テストの結果を個々の生徒の指導にも活かそうという「指導のための調査」という性格も併せ持たされているために、何がしたいのかわからないものになりつつあります。

PISA型学力

 このPISA調査で測定される能力は、学校で伝統的に育成されていた19世紀型の知識ではありません。21世紀の社会を生き抜く上で必要となる新しい能力が想定されています。具体的には、OECDが2003年に組織したプロジェクトDeSeCo(コンピテンシーの定義と選択:その理論的・概念的基礎)によって定義された能力概念が採用されています。このDeSeCoは「人生の成功と正常に機能する社会(持続可能な発展)のためにどのような能力が必要かという課題に対して、人がもつべき知識や技能を超える能力群」としてコンピテンシー(能力)を定義しようとしたもので、特に重要なキーコンピテンシーが3つ定められています。すなわち、
(1)社会及び個人にとって、価値のある結果をもたらすこと。経済的、社会的な有益性。
(2)多様な状況の重要な課題に直面した時、適応を助けること。人生の多様な領域に渡る判断能力。
(3)特定の専門家(産業や職業、社会階層など)のみではなく、すべての人にとって重要であること。
 とされています。これらの能力は、先に確認した「知識基盤社会」に対応する能力と言えます。文部科学省は学習指導要領改訂作業の過程で、このDeSeCoの議論を詳細に検討し、「生きる力」概念の練り直しに反映させています。

世間が言う「学力」とのズレ

 ここまで見てくると、文部科学省の言う「学力」と、世間一般で考えられている「学力」とは、ずいぶん中身が違っていることが分かります。世間で言う「学力」とは、学校の勉強を通じて身についた「テストによって点数をつけられる」ような尺度のことです。逆に言えば「学力が高くても世間では役に立たない」などという言われかたもするような尺度です。一方、文部科学省の言う「学力」とは、徹底的に「世界で役に立つ力」を意味しています。さらに言えば、「学力」とは「これから訪れるであろう未来の世界で圧倒的に役に立つ力」を意味しています。世間でしばしば言われるような「学力が高くても世間では役に立たない」などという言葉は、文部科学省の定義では絶対に聞かれるはずがありません。
 このズレを承知していないと、学力が低下したのかどうかなど「学力」に関する議論をしても、話が噛み合うはずがないのです。

学力論争

 そんな認識のズレによって、いわゆる「学力論争」という、不毛な議論が発生することになります。文部科学省による「学力」の定義が成される以前、1999年から2001年あたりにかけて、教育界を越えて広範囲に「学力論争」と呼ばれる議論が沸き起こりました。具体的には「学力低下」が問題となりました。大学生の学力が低下しているという大学教員の主張からはじまり、初等中等教育でも学力が低下しているという危惧に発展し、様々な独自調査が行われ、客観的に見ても日本人の学力が低下しているというデータが提示され、PISA調査でも国際的な凋落が明らかとなり、文部科学省の政策が多方面から批判されるような事態に展開しました。
 一般マスコミ等でも「ゆとり教育」を取りあげるようになり、2001年2月には読売新聞がアンケート調査、同4月にはテレビ朝日ニュースステーションがアンケート調査を行い、いずれも「ゆとり教育」に対して「学力低下」を危惧する反対意見が多数という結果が出ています。
 この結果、2003年には学習指導要領の解釈が一部変更され、2006年の学校教育法における学力定義に繋がり、2008年の学習指導要領改訂では学習時間が増加に転じるなど、いわゆる「ゆとり教育」の転換が起こったとされています。

 が、残念ながら、学力論争のさなかにあって「学力とは何か」について真剣に考えた人は、そんなに多くありませんでした。目の前のゆとり教育をどうするかという政策論議に集中した結果、原理的なところまで思考が及ばなかったのかもしれません。学習指導要領の一部改訂によって学力論争が一段落する2003年以降になって、原理的に「学力」について考え直そうという動きが出てきたように思います。
 そして、今後も定期的に同じような騒動が繰返されることが容易に予想できます。教育に携わる者は、目の前の一時的な現象に一喜一憂することなく、「学力」について原理的に考える力をしっかり蓄えておきたいものです。

様々な「学力」の定義

 以上、文部科学省が定義する「学力」について見てきました。一方、もちろん文部科学省の定義以外にも、様々な論者が様々な立場から「学力」を定義し、議論しています。参考までに、いくつか引用します。

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
「ここでは「学力」を英語の「achievement」として定義します。「学力」という言葉は、もともと「achievement」の翻訳語ですから、この定義に異議を唱える人はいないと思います。英語の「achievement」は、その名の通り「学校で教える内容」についての「学びによる到達」を意味しています。そして「学びによる到達」は、通常、テストで測定されます。「学力」という意味は、それだけの意味しか持っていません。この限定された意味で「学力」を定義したいと思います。」15-16頁
「学力は一種の貨幣なのです。」「第一に、学力は、貨幣と同様、評価基準として機能しています。」「学力は、むしろ、多様な異なる学びの経験を同一尺度で値踏みする評価基準であるところに機能的な意味を持っています。」「第二に、学力は、貨幣と同様、交換手段として機能しています。」「学力は、所有することを誰もが拒まない能力であることによって、受験の市場や労働の市場における交換手段として機能しています。学力は、入試や雇用の局面において、必ずしも一致しない採用者の要求と志願者の能力の関係を間接交換として合理化する機能を発揮しています。」「第三に、学力は、貨幣と同様、貯蓄手段として機能しています。」「学力も、貯蓄それ自体を欲望する唯一の教育概念であることによって、学習活動に計画性と継続性を与え、さらには貯蓄の欲望が投資としての教育活動の基礎になっています。」29頁

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
「学習してどこまで到達したかという、学んだ成果を示す「学力」のほかに、学ぶ力という意味での「学力」があり、この両者が一体となって、わが国では「学力」という言葉をかたちづくってきた」78頁

清水義範『行儀よくしろ。』ちくま新書、2003年
「学力なんて、学習したことをよく修得してテストでいい点が取れる、というだけのことなんですけど。そのいい点が取れる子は、知力が高いんでしょうか。」33頁
「人間にあらまほしきは知力である。学力は知力の一部分ではあるが、知力とイコールなのではない。」35頁

河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤左千夫『学ぶ力』岩波書店、2004年
「「学力低下」への危惧から、かつての行動主義に逆もどりしてしまいそうな昨今、ほんとうの「学力」というのは、社会の中で、文化的な実践の共同体に参加していく力であり、それはたんにいろいろな知識や技能の「リスト」を、反復練習で「習熟」していくことではありません。」149頁、佐伯執筆箇所

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
「人生のなかでの諸々の体験が、その人物の「人となり」、すなわち人柄や性格、あるいは容姿や体つきなどを形成していくのと全く同様の意味において、その人の「学力」は、その人物の経験の総体から導き出される。」26頁

斎藤孝『教育力』岩波新書、2007年
「「学力とは、そうやって点数ではかれるものばかりではない。本当の学力は違うのだ」と言う人もいるが、私の考えでは、学力ほどクリアに掴めるものはめったにない。算数や英語ができるかできないかというのは、きわめてクリアに点数に出るものなのだ。」95頁

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』東海教育研究所、2008年
「日本人の多くは、学校教育を通じて養われるものが「学力」だと信じて疑わぬようです。」(21頁)
「日本の学力観は「何を学んだか」を最重要視しますが、EUは学力観を「これから何ができるのか」にシフトしたのです。」12頁
「さまざまな人間のあいだで発揮される多様な能力――それを学力という。そう学力像は変わったのです。」16頁
「いまの日本に必要なことは、学力の詰め込みという教育観を変えることです。また受験や就職に役立つものが学力なのだという学力観を変えることです。」18頁

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「学力とは学ぶ力ではなく、学んで身につけた知的能力のことである。学校で教えていることとつながる知的能力である。社会や生産に直接役立つ知的能力のことではない。要するに、学力とは生徒(小学生から高校生ぐらいまでの)が身につけている知的能力なのである。世の中で知的能力の高い人を「あの人は学力が高い」とは言わない。学力は産業や行政や研究にすぐに通用する知的能力ではない。学校教育で言う知的能力のことである。」7頁

小笠原喜康『学力問題のウソ―なぜ日本の学力は低いのか』PHP新書、2008年
「「学力」は、単に個々人の表面的な能力の問題ではない。「ふるまい」の問題であり、「かかわり」の問題であり、「幸せ観」の問題である。ということは、すぐにその一人一人のかかわる共同体の問題となっていくことになる。」217頁

福田誠治『こうすれば日本も学力世界一―フィンランドから本物の教育を考える』朝日選書、2011年
「国民共通の基礎・基本という学力観は古い。学力はすでに国境を越えている。では人間共通の学力などあるのか、教育学的に見れば「人間誰もに共通する基礎・基本などない」と言うべきだろう。なぜなら、物理学者の基礎・基本、医者の基礎・基本、自動車運転手の基礎・基本、バレリーナの基礎・基本、そのようなものはまったく同一ではないと考えるべきだ。」234頁

苫野一徳『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』日本評論社、2013年
「そう、学力とは、とどのつまりは「学ぶ力」のことなのです。(中略)自分の直面した問題をどうすれば解決できるか考え、そのために必要なことを「学ぶ力」。これが学力の本質です。やがて忘れてしまうような知識の量は、学力の一部ではあっても本質ではないのです。」98頁

安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年
「「学力」は「学校の教育課程で育てられる能力」であり、それ以上でも、それ以下でもないと考え、子どもの「学力」を全体的かつ絶対的なものとして表しているわけではない、と見るべきだということです。」107頁

苫野一徳『教育の力』講談社現代新書、2014年
「現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、それはとどのつまり、「学ぶ-力」のことである、と。教育は、子どもたちに「学ぶ力」を育むことで、その後の長い人生において「自ら学び続ける」ことを可能にする、その土台を築く必要があるのです。(中略)このような「学力」観の転換は、知識基盤社会の進展に加えて、テクノロジーの進歩を背景に、もうずいぶん前からいい尽くされてきたことです。」58頁

池上彰『池上彰の「日本の教育」がよくわかる本』PHP文庫、2014年
「私たちが、ごく普通に使っている「学力」という言葉。学校の成績が良ければ「学力がある」といういい方をしますね。でも本来は、どんな意味なのでしょうか。文部科学省は、どう考えているのでしょうか。先ほどの指導要録についての「指導資料」をもとにまとめると、三つの「考え方」に大別できるといいます。「可能性を学力と見る考え方」と「習得した能力を学力と見る考え方」、それに「創造性を学力と見る考え方」です。」163頁

大迫弘和『アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア―「覚える君」から「考える君」へ―』日本標準ブックレット、2016年
「これからの学力とは「コミュニケーション力」によって形成されるような学力を言うのです。」68頁
「今から必要なのは「覚える君」の「学力」ではなく「考える君」の「学力」をいかに向上させるかの議論なのです。」75頁

梅原利夫『新学習指導要領を主体的につかむ―その構図とのりこえる道』新日本出版社、2018年
「もともと学力の論議は、子どもと地域の実態に応じて自由闊達に行なわれる中で、次第に合意が図られていくものであり、それぞれ固有の表現でまとめられていく。そこで重要なのは、教育に関わる者がそれぞれの実践を背景に多様な捉え方をし、交流していくことである。学力の法定化は、こうした多様さや柔軟さの発揮を抑え込もうとする役割を果たしている。」81頁

川口俊明『全国学力テストはなぜ失敗したのか―学力調査を科学する』岩波書店、2020年
「最初に、学力の正確な値を測定することは不可能であるということを確認しておきましょう。どのような学力テストであっても、私たちは学力の正確な値を観測することはできません。」68頁
「大規模学力調査の知見をもとに現行の全国学力テストの設計を見直したとき、最初に戸惑うことは、おそらくそれが何の学力を測っているのかわからないという点です。(中略)現行の全国学力テストでは、どのような学力を測るのかという肝心要の点が、ほとんど示されていません。」97頁
「ほとんどの人が、なぜ学力テストが必要なのか考えていないし、学力テストで能力を測定することの難しさについて知らないのです。」121頁

工藤勇一・植松努『社会を変える学校、学校を変える社会』時事通信社、2024年
植松「「学ぶ」ことや「学力」は、教えられたことを覚える力ではありません。自分で疑問を感じて、自分で考えて、自分で調べて解決する力です。」31頁

参考文献

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年
問題の本質は「学力低下」ではなく、産業構造の転換によって東アジア型教育の有効性が低下し、「勉強」の意義が見失われ、子供たちが「学びからの逃走」を起こしたところにある。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★★

大野晋、上野健爾『学力があぶない』岩波新書、2001年
文科省官僚による硬直した中央集権的な教育行政が、現場の教師の創造性を奪い、学力低下をもたらすと主張。少人数学級や現場による教科書採択による、個を尊重する教育を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★

戸瀬信之、西村和雄『大学生の学力を診断する』岩波新書、2001年
大学生の数学力が崩壊したことを、具体的な調査と客観的なデータで訴えた。具体的な問題として経済資本と文化資本による階層分化を挙げ、大学の少科目入試と、義務教育の授業時間削減を批判。基礎学力の重視を提言。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★★★

苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』岩波ブックレット、2002年
客観的な調査によって、学力が低下傾向にあることを示すとともに、もっと本質的な問題として家庭環境による格差拡大を提示した。格差拡大が学習成果や学習行動だけでなく、学習意欲にまで影響を与えていることに警鐘を鳴らす。
学力低下の危惧 ★★★★★
人格よりも知識 ★★★

河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤左千夫『学ぶ力』岩波書店、2004年
「学力低下」を心配している人々を笑い飛ばすような内容。学びは合理的に追究するのではなく、役に立たないことを楽しもうと勧めている。これから本当に必要なのは「学力なしで何とかする学力」と言う。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★

山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房、2005年
学力論争とは単に学校や教育の内部で終わる話ではありません。本質的には、近代を続行するのか、それとも近代から降りるのかという社会システム選択の問題です。
学力低下の危惧 ★★★★
人格よりも知識 ★★★★

諏訪哲二『学力とは何か』洋泉社、2008年
「ゆとり教育」のせいで学力が下がったのではなく、学力が下がったから「ゆとり教育」に切り替えなければならなかった、と判断し、「ゆとり教育」の理念には理解を示す。学力低下を主張する人々に対して、学校が行っている人格形成という仕事を理解していないと批判する。
学力低下の危惧 ★
人格よりも知識 ★

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年
学力低下の実態が、実は家庭の文化資本の格差を原因とした学力間格差の拡大であると示す。学力を上げるためには、学校を媒介として子どもの「社会関係資本」を高めることが重要と示唆する。
学力低下の危惧 ★★
人格よりも知識 ★★★

育成を目指す資質・能力とは―知識から21世紀型能力へ―

簡単にまとめれば

 受験競争に特化した表面的な「知識・内容=コンテンツ」を身につけても、社会に出てからまったく役に立たないので、ホンモノの「資質・能力=コンピテンシー」を持った人材を育てましょう。「知識から能力へ」と教育の重点が変わります。ということ。

 まあ「知識から能力へ」という合い言葉だけ見ればそんなに難しく感じませんが、しかし「じゃあ能力って具体的に何?」と考えたときに難しくなり始めるんですね。というわけで、学習指導要領の記述を確認しながら、文部科学省が何を考えているか吟味していきましょう。

コンピテンシー(能力)を伸ばす

 ただコンテンツ(知識)を身につけるのではなく、コンピテンシー(能力)を伸ばすためには、具体的に何をどうすればいいのでしょうか?

学習指導要領の記述

 学習指導要領の前文は、以下のように述べています。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

 学習指導要領の今時改訂の土台にある思想は、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換です。それは「何を教えるか」から「何ができるようになるか」という転換ですし、さらに言えば主語の転換です。「何を教えるか」の主語は「教師」ですが、「何ができるようになるか」の主語は「児童生徒」です。要するに、教師から子供へと、主役を転換しようということです。子供を主人公として捉えようということです。児童中心主義です。「育成を目指す資質・能力」と言ったとき、まず踏まえておかなければならないのは、子供が中心であるということです。
 さて、子供を中心にしたとして。次に「何ができるようになるか」を明らかにするには、「育成を目指す資質・能力」の具体的な中身を明確にしなければなりません。そのために具体的にどう教育課程を編成すべきかは「カリキュラム・マネジメント」に関わる仕事です。学習指導要領は、以下のように方針を示しています。

1 各学校の教育目標と教育課程の編成
教育課程の編成に当たっては、学校教育全体や各教科等における指導を通して育成を目指す資質・能力を踏まえつつ、各学校の教育目標を明確にするとともに、教育課程の編成についての基本的な方針が家庭や地域とも共有されるよう努めるものとする。その際、第4章総合的な学習の時間の第2の1に基づき定められる目標との関連を図るものとする。(4-5頁)

 各学校が具体的に最初に行うことは、(1)教育目標を明確にし、(2)教育課程編成の方針を家庭や地域と共有することですね。カリキュラム・マネジメントの基本です。そしてその際に「関連を図るもの」として、特に「総合的な学習の時間」が上げられていることに要注目です。

総合的な学習の時間を中心にする

 さて、「総合的な学習の時間」についての「第4章第2の1」は、以下のように書かれています。

各学校においては、第1の目標を踏まえ、各学校の総合的な学習の時間の目標を定める。(144頁)

 おっと、またたらい回しですが、「第1の目標」とはどういうことか、確認すれば以下のように書かれています。

探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 探究的な学習の過程において、課題の解決に必要な知識及び技能を身に付け、課題に関わる概念を形成し、探究的な学習のよさを理解するようにする。
(2) 実社会や実生活の中から問いを見いだし、自分で課題を立て、情報を集め、整理・分析して、まとめ・表現することができるようにする。
(3) 探究的な学習に主体的・協働的に取り組むとともに、互いのよさを生かしながら、積極的に社会に参画しようとする態度を養う。(144頁)

 要するに、各学校が学校目標を定め教育課程編成を行う際には、総合的な学習の時間を中核に位置づけるように構成する必要があるということが説かれているのだと理解すればよさそうですね。

教科等横断的な視点

 そして『学習指導要領』は続けて具体的な教育課程編成について以下のように注意を促しています。カリキュラム・マネジメントの指針でも強調されていた「教科等横断的な視点」についての記述です。

2 教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成
(1) 各学校においては、生徒の発達の段階を考慮し、言語能力、情報活用能力(情報モラルを含む。)、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力を育成していくことができるよう、各教科等の特質を生かし、教科等横断的な視点から教育課程の編成を図るものとする。
(2) 各学校においては、生徒や学校、地域の実態及び生徒の発達の段階を考慮し、豊かな人生の実現や災害等を乗り越えて次代の社会を形成することに向けた現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力を、教科等横断的な視点で育成していくことができるよう、各学校の特色を生かした教育課程の編成を図るものとする。(5頁)

 ここでは、教科等横断的な視点から「資質・能力」を育成するべく教育課程を編成することが求められています。そして教科等を横断しながら育成するべき資質・能力が具体的に列挙されています。確認しますと、
(1)-1:言語能力
(1)-2:情報活用能力(情報モラル含む)
(1)-3:問題発見・解決能力
(2):現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力
 となっています。

 そして極めて重要なことは、これら資質・能力が、各教科固有の「見方・考え方」を働かせる「深い学び」を通じて育成されていくことが期待されているということです。注意したいのは、「教科等横断」に関してしばしば見られる、「コンテンツで横断する」という勘違いです。
 「コンテンツで横断する」とは、例えば、「音楽で海を扱う単元があるから、理科でも海を扱って、社会でも海を扱おう」という考え方です。これを実践すること自体は別に悪くはないのですが、文部科学省が本当に狙っている「教科等横断的な視点」になっていないことも事実です。というのは、文部科学省が「教科等横断的な視点」として本質的に求めているのは、「コンピテンシーによる横断」だからです。「海というコンテンツ」で教科等を横断することは、「言語能力というコンピテンシー」で横断することとは、まったく別のことです。

 では「コンピテンシーで横断する」とはどういうことでしょうか? ここに「教科の本質」が深く関わってきます。
 たとえば「言語能力というコンピテンシー」を育成しようとするとき。国語科は国語科の本質を通じて子供たちの言語能力を育てます。数学科は数学科の本質を通じて子供たちの言語能力を育てます。音楽や家庭科等も、また同じです。各教科が、それぞれの教科の本質を通じながら言語能力を育成していきます。そして国語科には国語科の特性があり、数学科には数学科の特性がある以上、各々の教科が育成する言語能力はそれぞれ違っているはずです。各教科で異なる観点から言語能力を育成していきますが、最終的にはそれらが一体となって子供の言語能力が全体的に成長していきます。それを最終的に完成させるのが「総合的な学習の時間」ということになります。これが「コンピテンシーで横断する」ということです。

 教科等横断的な視点については別のページに詳しくまとめてありますので、ご参照下さい。→【参考】教科等横断的な視点とは何か?

「教科を教える」から「教科で学ぶ」へ

 「コンピテンシーで教科等を横断する」ことを実現するためには、各教科が子供たちにどのような能力を育てるのか、「教科の本質」をしっかり認識する必要があります。単に「コンテンツ」を教えるのではなく、コンテンツを通じてコンピテンシーを伸ばすことを意識しなければいけないわけです。
 これを私はスローガン的に【「教科教える」から「教科学ぶ」へ】の転換というふうに呼びます。従来のコンテンツ重視の教育では、各教科ごとに特有の知識を与えることが教科の中心的役割と思われていました。しかしこれからは、教科特有の知識を与えることも重要ではありますが、それを通じて「能力を育てる」こともさらに重要であることを意識しなければなりません。そのためには、どうしても各教員が「教科の本質」をしっかり捕まえておく必要があるわけです。そしてこの「教科の本質」を踏まえた授業が、「見方・考え方」を働かせるような「深い学び」を実現します。だから「主体的・対話的で深い学び」というものに対する洞察が必要になってくるわけですね。→【参考】主体的・対話的で深い学びとは

どうしてコンピテンシー?

 以上、各学校や各教員に何が求められているかは確認できました。しかし考えてみれば、そもそも、どうして「コンテンツからコンピテンシーへ」と転換する必要があるのでしょうか。従来の知識中心の教育では本当にダメなのでしょうか?
 そんなわけで、さらに突っ込んで、教育原理的に学習指導要領の思想背景を確認していきましょう。

学習指導要領解説 総則編の記述

 『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の狙いが以下のように示されています。

② 育成を目指す資質・能力の明確化
中央教育審議会答申においては、予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力を身に付けられるようにすることが重要であること、こうした力は全く新しい力ということではなく学校教育が長年その育成を目指してきた「生きる力」であることを改めて捉え直し、学校教育がしっかりとその強みを発揮できるようにしていくことが必要とされた。また、汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流を踏まえつつ、知識及び技能と思考力、判断力、表現力等をバランスよく育成してきた我が国の学校教育の蓄積を生かしていくことが重要とされた。
このため「生きる力」をより具体化し、教育課程全体を通して育成を目指す資質・能力を、ア「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」、イ「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)」、ウ「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」の三つの柱に整理するとともに、各教科等の目標や内容についても、この三つの柱に基づく再整理を図るよう提言がなされた。(3頁)

 ここで言われている「汎用的な能力の育成を重視する世界的な潮流」とは、具体的にはOECDで議論されているキー・コンピテンシーを指しています。そして文部科学省は、この「世界的な潮流」を参考にした上で、学校教育法第30条に定められた「学力の三要素」に対応して「資質・能力の三要素」を設定したようですね。「資質・能力」を設定するに当たって、いったいどのような「世界的な潮流」をどのように参考にしたかは、平成26年3月31日「論点整理」に見ることができます。

論点整理(平成26年3月31日)の記述

 学習指導要領改訂に向け、教育課程に関する学識経験者を集めて開催された「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」では、以下のような提言が行われました。

今後、学習指導要領の構造を、
① 「児童生徒に育成すべき資質・能力」を明確化した上で、
② そのために各教科等でどのような教育目標・内容を扱うべきか、
③ また、資質・能力の育成の状況を適切に把握し、指導の改善を図るための学習評価はどうあるべきか、
といった視点から見直すことが必要。
← 従来の学習指導要領は、児童生徒にどのような資質・能力を身に付けさせるかという視点よりも、各教科等においてどのような内容を教えるかを中心とした構造。そのために、学習を通じて「何ができるようになったか」よりも、「知識として何を知ったか」が重視されがちとなり、また、各教科等を横断する汎用的な能力の育成を意識した取組も不十分と指摘されている。
世界的潮流として、OECDの「キー・コンピテンシー」をはじめ、育成すべき資質・能力を明確化した上で、その育成に必要な教育の在り方を考える方向。(アメリカを中心とした「21世紀型スキル」、英国の「キー・スキルと思考スキル」、オーストラリアの「汎用的能力」など。)
日本でも比較的早い時期から「生きる力」の理念を提唱しており、その考え方はOECDのキー・コンピテンシーとも重なるものであるが、「生きる力」を構成する具体的な資質・能力の具体化や、それらと各教科等の教育目標・内容の関係についての分析がこれまで十分でなく、学習指導要領全体としては教育内容中心のものとなっている。
← より効果的な教育課程への改善を目指すためには、学習指導要領の構造を、育成すべき資質・能力を起点として改めて見直し、改善を図ることが必要。

 以上の記述から、『学習指導要領解説 総則編』にあった「汎用的な能力の育成を目指す世界的潮流」が、OECDの言う「キー・コンピテンシー」をイメージしていることが明らかとなります。そしてOECDの「キー・コンピテンシー」については、以下のように言及していることを確認できます。

特に、OECDの「キー・コンピテンシー」の概念については、グローバル化と近代化により、多様化し、相互につながった世界において、人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力として定義されており、OECD生徒の学習到達度調査(PISA)にも取り入れられ、大きな影響を与えている。
この「キー・コンピテンシー」の概念については、具体的には、次のような内容で構成されている。
・ 言語や知識、技術を相互作用的に活用する能力
・ 多様な集団による人間関係形成能力
・ 自律的に行動する能力
・ これらの核となる「思慮深く考える力」(9頁)

 かなり具体的な記述となっていますね。注目は、ここで育成される資質・能力が「人生の成功と正常に機能する社会のために必要な能力」と定義されていることです。この文章が言う「成功」とは具体的にどのような状況を指すのか、あるいは「正常に機能する社会」とはどのような社会なのか、十分に吟味する必要があるでしょう。検討会でも、「キー・コンピテンシー」をどのように捉えるのかに対して、たとえば経済色が強いのかそうでないのかについてなど、委員の間で見解の相違が見られます(17頁)。経済発展を最優先に考えた能力育成なのか、そうでないのかで、ずいぶん結論は変わってきそうです。
 もちろん検討会は無批判にOECDの見解を取り入れたのではなく、他の様々な能力観と比較対照しながら「生きる力」概念の分析に取り組んで、最終的に以下のように整理されることとなりました。

そのための一つの方策として、育成すべき資質・能力を踏まえつつ、教育目標・内容を、例えば、以下の三つの視点を候補として捉え、構造的に整理していくことも考えられる。
ア)教科等を横断する、認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル(コンピテンシー)等に関わるもの
① 認知的・社会的・情意的な汎用的なスキル等としては、例えば、問題解決、論理的思考、コミュニケーション、チームワークなどの主に認知や社会性に関わる能力や、意欲や情動制御などの主に情意に関わる能力などが考えられる。
② メタ認知(自己調整や内省・批判的思考等を可能にするもの)
イ)教科等の本質に関わるもの
具体的には、その教科等ならではのものの見方・考え方、処理や表現の方法など。例えば、各教科等における包括的な「本質的な問い」と、それに答える上で重要となる転移可能な概念やスキル、処理に関わる複雑なプロセス等の形で明確化することなどが考えられる。
ウ)教科等に固有の知識・個別スキルに関わるもの(21頁)

 ここに見られる見解が、『学習指導要領』本文には「教科等横断的な視点」および「深い学び」という形で落とし込まれています。逆に言えば、「教科等横断的な視点」や「深い学び」とは何かを本質的に理解しようと思ったら、この記述まで遡る必要があるわけですね。

様々な21世紀型学力

 以上、学習指導要領の背景にある能力観について見てきました。「論点整理」等では、PISAだけでなく、様々な21世紀型学力も検討されていますので、代表的なものをざっと見ておきましょう。

年月主体提言内容
1996文部科学省生きる力確かな学力、豊かな心、健やかな体
1998大学審議会答申課題探求能力
1999日本経営者団体連盟エンプロイヤビリティ(雇用されうる能力)
2001OECD-PISAリテラシー
2003内閣府-人間力戦略研究会人間力知的能力要素、社会・対人関係的要素、自己制御的要素
2004厚生労働省就職基礎能力
2006経済産業省社会人基礎力前に踏み出す力、考え抜く力、チームで働く力
2006OECD-DeSeCoキー・コンピテンシー
2008「学士課程教育」に関する中教審答申学士力教養を身に付けた市民として行動できる能力として、知識・理解、相同的な学習経験と創造的志向、汎用的技能、態度・志向性
2011「キャリア教育・職業教育」に関する中教審答申基礎的・汎用的能力人間関係形成・社会形成能力、自己理解・自己管理能力、課題対応能力、キャリアプランニング能力

 共通しているのは、従来型の能力ではこれからの新しい社会(知識基盤社会、高度情報化社会)には対応できないという認識でしょう。産業界が教育に要求しているのは、従来のハードスキル(目に見える知識・技能)だけでなく、ソフトスキル(目に見えない人格特性)も含めた総合的な能力の開発です。受動的な順応性ではなく、能動的な創造性や個性が求められているわけです。「生きる力」も、同じ特徴を持っていますね。

批判的な吟味

 以上、文部科学省の見解を確認してきました。以下、私の個人的な見解を記しておきます。

「人格の完成」との関係

 個人的に特に気になるのは、教育の目的である「人格の完成」と、ここで議論されている「資質・能力」の関係性です。注目したいのは、検討会自身が以下のように言明した点です。

今後、育成すべき資質・能力の検討に当たり、まず留意すべきことは、教育基本法に定める教育の目的を踏まえれば、育成すべき資質・能力の上位には、常に個人一人一人の「人格の完成」が位置付けられなければならないということである。
あわせて、教育基本法に定める教育の目的の一つとして、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の育成があることを踏まえ、自立した民主主義社会の担い手として求められる資質・能力の育成は、公教育の普遍的な使命であることに留意しつつ検討を行うことが必要である。(10頁)

 他、「人格の完成」という理念に対して、委員個人の意見としては大きな関心が払われていることがわかります(15頁)。私が勝手に推測するに、これはおそらく安彦忠彦氏の発言でしょう。しかし、この見解が『学習指導要領』本文にしっかり反映しているかどうかについては、個人的には心許ないところです。いちおう前文には教育基本法の目的と目標には触れられているものの、単にアリバイ的にお題目として掲載されているように見えてしまいます。というのは、「人格の完成」と「育成を目指す資質・能力」との内的連関、あるいは教育原理的な結びつきが、まったく見えてこないからです。そしてそれは、「人間形成とは何か?」を統一的に記述する教育哲学が『学習指導要領』に欠けているせいでしょう。「育成を目指す資質・能力」を把握する限りでは、AIにも対抗可能な高機能な自律型有機生命体を計画的に作ろうとする意図は見えるものの、それを無条件に「人間」と呼んでいいかどうかは判然としません。まあ、『学習指導要領』はあくまでも教育課程編成のための大綱的な基準に過ぎないから、教育哲学が欠けていることそのものに罪はないかもしれませんし、高度な教育的配慮から意図的に記述を避けている可能性もあるでしょう。ただその教育哲学の欠如の原因が、経済原理による教育の乗っ取りにあるとしたら、大問題です。

コンピテンシー・ベースへの転換と言うが

 文科省は、今回の学習指導要領の主要論点を、コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへの転換だと言います。しかし振り返ってみれば、同じ事は明治時代の注入主義(コンテンツ・ベース)から開発主義(アビリティ・ベース)への転換に既に見られます。あるいは、100年以上前にジョン・デューイが遙かに体系的な哲学を背景に主張しているところです。しかも文科省がデューイの教育理論をどう捉え、かつて自分自身が放棄したことをどのように反省しているかは、まったく明らかにしていません。かつてコンピテンシー・ベースの教育を放棄した理由、あるいはうまく機能しなかった原因を顧みずに、本当に学習指導要領が目指すコンピテンシー・ベースの教育など実現できるのか、なかなか不安なところではあります。過去の総括が欠けているところに、未来への展望は開けないように思うからです。

参考文献

 学習指導要領の方向性に親和的な本。引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類。教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければならないこと、そして具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣と説く。
国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

 新学習指導要領が何を目指しているのか、ものすごくよく分かる。現役の教師だけでなく、学生にとっても読みやすそうだ。教員採用試験対策にもいいんじゃないか。
特に良いのは、文科省が立場的に書けないようなことが、本書ではしっかり書かれているところだ。具体的には、これまでの教育が産業社会に従属してきたことの明瞭な指摘と、背景にブルーナーの復権があるという記述が腑に落ちた。

奈須正裕『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社、2017年

 著者は、学習指導要領改訂のために「資質・能力」を検討した文部科学省の有識者会議で座長を務めた。が、その主張は、必ずしも学習指導要領の内容と親和的ではない。むしろ批判的とすら言える。特に「資質・能力」と「人格」との関係に対する理解については、決定的な隔たりがある。「資質・能力」の何がどのように問題なのかを考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれる本。
安彦忠彦『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり-人格形成を見すえた能力育成をめざして』図書文化、2014年

 学習指導要領の方向性に懐疑的な本。「資質・能力」の育成は、単に産業界の要請に応える人材育成に過ぎないという懸念を随所に見ることができる。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。
日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年

 新学習指導要領が育成を目指すという「資質・能力」というものが、どのような思想的背景から生まれてきたのか、歴史的な経緯をふまえた上で分かりやすく論点を整理しており、読書案内も充実していて、勉強になる。「知識=実質的陶冶」と「能力=形式的陶冶」の関係について、多面的多角的に考察するヒントがたくさん含まれているように思う。
松下佳代編著『<新しい能力>は教育を変えるか 学力・リテラシー・コンピテンシー』ミネルヴァ書房、2010年

■佐藤学「21世紀型の学校カリキュラムの構造 イノベーションの様相」東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年 13-25頁。
 冷戦体制の崩壊とグローバル化という世界情勢の変化に伴って世界の教育がどのように変化したか、コンパクトに概観できる。変化の方向は4つ。(1)知識基盤社会への対応(2)多文化共生社会への対応(3)格差リスク社会への対応(4)成熟した市民社会への対応。なんとなく大雑把には、政府の「教育振興基本計画」の内容と対応しているように見える。が、日本の教育改革は世界水準から見て15年遅れという「ガラパゴス的状況」にあるという指摘は、なかなか重い。

 

主体的・対話的で深い学びとは―アクティブラーニングを超えて―

簡単にまとめれば

 テストのための勉強はくだらないので、ホンモノの力をつけてください、ということ。

 そのために押さえるべきポイントは、
(1)従来の「アクティブ・ラーニング」には、勘違いが多かった。
(2)これからは「深い学び」を前面に打ち出す。
の2点です。

アクティブだけではダメ

 これまで「アクティブ・ラーニング」と呼ばれていたものが、今回の学習指導要領からは「主体的・対話的で深い学び」と呼び直されています。単に言葉が変わっただけでなく、内容も大きく変わりました。「アクティブ・ラーニング」というと、とにかく子供を活動させればいいかのように勘違いしがちでした。しかしこれからの「主体的・対話的で深い学び」では、子供が活動するかしないかに関わらず、「深い学び」が実現できているかどうかが決定的に重要になります。そしてもちろん「深い学び」を実現するために子供の主体的・対話的な活動が有効であることに変わりはありませんが、逆に言えば単に主体的・対話的な活動をするだけでは充分ではありません。
 そんなわけで、ポイントは「深い学び」の理解にあります。文部科学省がどう言っているか、学習指導要領を読みながら確認していきましょう。

学習指導要領の記述

 まず『学習指導要領』総則「第3の1」には、以下のような文章が示されています。

第3 教育課程の実施と学習評価
1 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善
各教科等の指導に当たっては、次の事項に配慮するものとする。
(1) 第1の3の(1)から(3)までに示すことが偏りなく実現されるよう、単元や題材など内容や時間のまとまりを見通しながら、生徒の主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を行うこと。
特に、各教科等において身に付けた知識及び技能を活用したり、思考力、判断力、表現力等学びに向かう力人間性等を発揮させたりして、学習の対象となる物事を捉え思考することにより、各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方(以下「見方・考え方」という。)が鍛えられていくことに留意し、生徒が各教科等の特質に応じた見方・考え方を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう過程を重視した学習の充実を図ること。(7-8頁)

 この記述の中で最大限に注意したいのは、「深い学び」という概念を理解する上で「見方・考え方」という言葉が重要な位置づけを持たされていることです。この教科に特有の「見方・考え方」をしっかり理解しているかどうかが、「深い学び」を実現する上で決定的な鍵を握っています。(ちなみに各教科に固有の「見方・考え方」については、『学習指導要領』の各教科ごとの目標に示されています。)

アクティブ・ラーニングとの違い

 「見方・考え方」が重要だということを踏まえた上で、具体的にどうするべきか、『学習指導要領解説』を見ながら確認していきましょう。

学習指導要領解説 総則編の記述

 『学習指導要領解説 総則編』では、今時改訂の基本方針について、以下のように示し、授業改善の方向について具体的に示唆しています。文部科学省が学校や教師に具体的に何を求めているかが分かります。特に従来の「アクティブ・ラーニング」との違いについて意識しながら読んでいきましょう。

今回の改訂では「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進める際の指導上の配慮事項を総則に記載するとともに、各教科等の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」において、単元や題材など内容や時間のまとまりを見通して、その中で育む資質・能力の育成に向けて、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進めることを示した。
その際、以下の6点に留意して取り組むことが重要である。
ア 児童生徒に求められる資質・能力を育成することを目指した授業改善の取組は、既に小・中学校を中心に多くの実践が積み重ねられており、特に義務教育段階はこれまで地道に取り組まれ蓄積されてきた実践を否定し、全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はないこと。
イ 授業の方法や技術の改善のみを意図するものではなく、児童生徒に目指す資質・能力を育むために「主体的な学び」、「対話的な学び」、「深い学び」の視点で、授業改善を進めるものであること。
ウ 各教科等において通常行われている学習活動(言語活動、観察・実験、問題解決的な学習など)の質を向上させることを主眼とするものであること。
エ 1回1回の授業で全ての学びが実現されるものではなく、単元や題材など内容や時間のまとまりの中で、学習を見通し振り返る場面をどこに設定するか、グループなどで対話する場面をどこに設定するか、児童生徒が考える場面と教師が教える場面をどのように組み立てるかを考え、実現を図っていくものであること。
オ 深い学びの鍵として「見方・考え方」を働かせることが重要になること。各教科等の「見方・考え方」は、「どのような視点で物事を捉え、どのような考え方で思考していくのか」というその教科等ならではの物事を捉える視点や考え方である。各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり、教科等の学習と社会をつなぐものであることから、児童生徒が学習や人生において「見方・考え方」を自在に働かせることができるようにすることにこそ、教師の専門性が発揮されることが求められること。
カ 基礎的・基本的な知識及び技能の習得に課題がある場合には、その確実な習得を図ることを重視すること。(4頁)

 まずこの一連の記述に、これまでの「アクティブ・ラーニング」に関わって現場で発生した混乱に対する反省と配慮が見られることに注目しましょう。たとえば「ア」で示された「全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はない」という文言は、「アクティブ・ラーニング」という表面上の言葉に右往左往した教育現場に対して釘を刺した強い表現です。「イ」で示された「授業の方法や技術の改善のみを意図するものではなく」という文言も、文部科学省の意図を読み誤って表面的な理解をしがちな教育現場に対する強い表現です。現場が本質的なところに目を向けずに表面的なところばかりにこだわっているという苛立ちすら伺えます。「エ」は、生徒を活動させるような授業を毎度毎度やらなければいけないという誤解に対して釘を刺したものです。生徒が主体的に活動する機会は長い目で単元を見て適切に設定すればいいのであって、毎回必須なわけではありません。「カ」に関しては、80頁でも「例えば高度な社会課題の解決だけを目指したり、そのための討論や対話といった学習活動を行ったりすることのみが主体的・対話的で深い学びではない点に留意が必要」というように釘を刺しています。

 まとめると、子供の動きさえアクティブであればいいという姿勢は、どうやら教育の本質を捉えていなかったようです。

 それでは文部科学省の本来の意図はどこに示されているかというと、中核の部分は「オ」の記述にあります。「見方・考え方」という概念の理解が、主体的・対話的で深い学びを考える最重要ポイントになるという記述です。「教科等の学習と社会をつなぐ」という言葉に見えるとおり、それは「社会に開かれた教育課程」を成功させるポイントでもあるし、したがって「カリキュラム・マネジメント」を実現する要点でもあるわけです。つまり、今回の学習指導要領において決定的に重要なポイントです。

「深い学び」とは何か?

 続いて『学習指導要領解説』は、「主体的」「対話的」「深い学び」がそれぞれ具体的にどのようなものかについて、以下のように示しています。

主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の具体的な内容については、中央教育審議会答申において、以下の三つの視点に立った授業改善を行うことが示されている。教科等の特質を踏まえ、具体的な学習内容や生徒の状況等に応じて、これらの視点の具体的な内容を手掛かりに、質の高い学びを実現し、学習内容を深く理解し、資質・能力を身に付け、生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続けるようにすることが求められている。
① 学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しをもって粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているかという視点。
② 子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているかという視点。
③ 習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているかという視点。(77頁)

 ここで示された内容のうち、(1)の主体的な学びと(2)の対話的な学びについては、これまでの学習指導要領や「アクティブ・ラーニング」という言葉でも示されてきた内容と言えます。決定的に目新しい部分はありません。目新しいのは、(3)の「深い学び」に関する記述です。実際に「解説総則編」においても、「深い学び」に関する記述が手厚くなっています。たとえば以下の通りです。

主体的・対話的で深い学びの実現を目指して授業改善を進めるに当たり、特に「深い学び」の視点に関して、各教科等の学びの深まりの鍵となるのが「見方・考え方」である。各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方である「見方・考え方」は、新しい知識及び技能を既にもっている知識及び技能と結び付けながら社会の中で生きて働くものとして習得したり、思考力、判断力、表現力等を豊かなものとしたり、社会や世界にどのように関わるかの視座を形成したりするために重要なものであり、習得・活用・探究という学びの過程の中で働かせることを通じて、より質の高い深い学びにつなげることが重要である。(77-78頁)

 「見方・考え方」とは、単に「物事」を知るだけでなく、「物事を本質的に捉える概念や方法」を働かせることを強調する言葉です。テストで結果として正解を書けることが重要なのではなく、学びの過程を経ることによって、生活や世界の見え方が変化し、生活の仕方や世界への関わり方が変化するような効果が期待されています。この期待が学習指導要領本文では「過程を重視した学習の充実」という表現となっています。逆に言えば、過程ではなく結果を重視するような学習、要するにテストだけできればよいという姿勢は、浅い学びということになります。カリキュラム・マネジメントのCHECK指標に「全国学力・学習状況調査」の点数を安易に用いるのが危険なのは、過程ではなく結果を重視する浅い学びを助長する恐れがあるからですね。
 さらに、この記述の中に「社会の中で生きて働くもの」とか「社会や世界にどのように関わるかの視座を形成したりする」という表現があるように、「深い学び」は「社会に開かれた教育課程」の理念を実現する上で決定的に重要な役割を果たします。どれだけスクール・マネジメントをしたり制度改革をしたりしても、最終的に授業の中で子供を成長させることができなければ何の意味もありません。「社会に開かれた教育課程」という理念を一人ひとりの子供の成長に落とし込むのは、最終的には「深い学び」の働きとなります。
 そして「深い学び」を実現させるために、各教員は教科特有の「見方・考え方」について真剣に考える必要があります。国語科には国語科特有の「見方・考え方」があり、家庭科には家庭科特有の「見方・考え方」があります。各教科それぞれに固有の「見方・考え方」があります。それぞれの教科を通じてそれぞれ固有の「見方・考え方」を身につけることが、最終的には「これからの時代に求められる資質・能力」の獲得へと結びついていくことになります。
 この視点は、カリキュラム・マネジメントを考える上で決定的に重要になります。たとえばカリキュラム・マネジメントにおいて「教科等横断的な資質・能力」を育成すると言う場合、それぞれの教科がそれぞれ固有の「見方・考え方」を追求することで教科等横断的な資質・能力の育成を実現していくことが求められています。逆に言えば、とってつけたような合科教授をでっち上げる必要は特にないわけです。必要なのは、それぞれの教科に固有の「見方・考え方」の本質を追究する姿勢です。それぞれの教科が「教科の本質」を追究して、一人ひとりの子供に「見方・考え方」を身につけさせることで、「育成すべき資質・能力」が総合的に伸びていくわけです。逆に言えば、各教員が「教科の本質」を理解していないとき、カリキュラム・マネジメントは失敗に終わります。

まとめ

 以上、学習指導要領と解説編の記述を踏まえながら、「主体的・対話的で深い学び」について見てきました。そして分かったことは、これは単なる表面的な技術改善などではなく、学習指導要領の理念である「社会に開かれた教育課程」や「カリキュラム・マネジメント」を実現する上での、決定的に重要な、絶対に欠くことができない、必須の条件であるということです。つまり「社会に開かれた教育課程」や「カリキュラム・マネジメント」は、管理職が構想して書類を書いて終了などという課題ではなく、一人ひとりの教員が「教科の本質」をしっかりと把握するところから積み上げていかなければ成功しないということです。従来の「アクティブ・ラーニング」という言葉では、これが伝わりません。だから、今回の学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」という言葉に変わった上で、特に「深い学び」に焦点が当たった記述になっているわけです。

参考文献

■田村学『深い学び』東洋館出版社、2018年

 主体的・対話的で深い学びの中でも特に「深い学び」とはどういうことかに焦点を当てて解説を加えた本。具体的な実践例も豊富に示されていて、新学習指導要領が目指す理念を具体的な授業実践に落とし込む際には大いに参考になると思う。文科省の施策の背景や学習指導要領改訂の経緯も簡潔にまとめられていて、理論的にもわかりやすい。

■田村学著・京都市立下京中学校編『深い学びを育てる思考ツールを活用した授業実践 公立中学校版』小学館教育技術MOOK、2018年

 「主体的な学び」や「対話的な学び」が比較的イメージしやすい言葉なのに対して、「深い学び」はなかなか分かりにくい。この「深い学び」を具体的な実践で実現しようとするとき、本書で示された各種の「思考ツール」が役に立つ。本書は実際の授業で様々な「思考ツール」を活用した例が紹介されており、実践面で参考になるかもしれない。

■小針誠『アクティブラーニング―学校教育の理想と現実』講談社現代新書、2018年

 教育方法の歴史を明治・大正期から掘り起こし、現在のアクティブ・ラーニングの試みが実は150年前から行なわれ、なおかつ失敗続きであったことがよく分かる一冊。この失敗の歴史から教訓を得ないかぎり、21世紀もおそらく同じ失敗を繰り返すだけだろう。文科省が「アクティブ・ラーニング」という言葉の使用をやめて「深い学び」と言い出した理由も、本書と同様の見立てに由来すると思われるが、単に言葉を代えただけでは問題は本質的には解決しない。

■『新教育課程ライブラリII Vol.3 「深い学び」を深く考える』ぎょうせい、2017年

 『学習指導要領』本文が公布される直前に出ているので微妙なニュアンスの違いはあるかもしれないが、従来のアクティブ・ラーニングとの違いを認識する上では間違いなく参考になる。個別具体的な実践例が豊富というより、従前のアクティブ・ラーニングと今時の「深い学び」の違いを浮き立たせたり、現場でよく見られる勘違いを修正するような、理論的な話が多い印象。共通して、子供が活動することだけが「深い学び」ではないことが強調されている。

 

カリキュラム・マネジメントとは―3つの指針と学校運営の要点―

簡単にまとめれば

 学校にも民間企業の経営ノウハウを導入しましょう。PDCAサイクルを確立し、資源の有効活用を考え、校長のリーダーシップを強化して、学校や教育活動の中に経営(マネジメント)の考え方を根付かせましょう、ということ。

 これだけなら特に難しくありませんが、じゃあ具体的にどうやって経営(マネジメント)しようかとなったとき、様々な問題が出てきます。学校と民間企業では様々な条件が違うのだから、とうぜん経営の仕方も変わってくるはずです。そのあたり文部科学省がどう言っているのか、学習指導要領に沿って確認していきましょう。

具体的に何をすればいいんですか?

 まず大雑把に、学校や教師が何をやらなければいけないのか、確認しましょう。

カリキュラム・マネジメントの3指針

 まず初めに、具体的にやるべきことが3つあることを認識しましょう。『学習指導要領』は、カリキュラム・マネジメントについて以下のように述べています。

各学校においては、生徒や学校、地域の実態を適切に把握し、教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと、教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと、教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」という。)に努めるものとする。(4頁)

 カリキュラム・マネジメントの指針が具体的に3つ示されています。まとめれば、次のようになるでしょう。

(1)教科横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。

 学校に求められているのは、要するにこの3点です。
 が、この3指針の詳細な検討は、後回しにします。というのは、3指針を実行する前に認識しておかなければならない重要ポイントがあるからです。

そもそも、なぜカリキュラム・マネジメントをやるのですか?

 文部科学省や教育委員会に命令されたからカリキュラム・マネジメントをやるのだと思ってはいけません。むしろ、学校や校長の自由が増えたからやらなければいけないのです。
 昭和の学校と比較して、現在の学校や校長の裁量権は大きく拡大しています。自治体によっては、予算や人事に対する校長の裁量権が認められ始めています。文部科学省や教育委員会に方針を決定してもらっていた時には各学校が自主的にマネジメントをする必要などありませんでした。逆に言えば、文科省や教育委員会から方針が与えられない時には、各学校が自主的・自律的にマネジメントを行なっていかなければならないわけです。
 ちなみに学校の自由や裁量権が増えたというのは、1998年の中教審・教育課程審議会の答申で「教育課程の大綱化・弾力化」の方向性が示されたのと同時に、地方分権化と規制緩和の流れの中で「学校の自主性・自律性確立」への動きが強まったことを踏まえています。
【参考】コミュニティ・スクール(学校運営協議会)とは何か?

 さてそういうわけで、各学校は、文部科学省や教育委員会の下請機関ではなく、自主的・自律的にマネジメントを行なう組織へと変わる必要があります。もはや上意下達の時代ではありません。学校を自主的に運営する力が、これまでになく要求されています。
 そしてカリキュラム・マネジメントは、昭和的な「文部省や教育委員会の命令の枠内での学校運営」から21世紀的な「地域や子ども本位の学校運営」へと変わるための鍵を握っている概念です。

学校運営とカリキュラム・マネジメント

 ということで、学校運営について、総則「第5学校運営上の留意事項」が述べていることを確認しましょう。

各学校においては、校長の方針の下に、校務分掌に基づき教職員が適切に役割を分担しつつ、相互に連携しながら、各学校の特色を生かしたカリキュラム・マネジメントを行うよう努めるものとする。また、各学校が行う学校評価については、教育課程の編成、実施、改善が教育活動や学校運営の中核となることを踏まえつつ、カリキュラム・マネジメントと関連付けながら実施するよう留意するものとする。(11頁)

 ここで示されているのは、カリキュラム・マネジメントの実践が、学校運営そのものと密接な関係を持っているということです。
 具体的には、まず校長にはスクール(学校)をマネジメント(運営)する強力なリーダーシップが求められていることが分かります。実際、校長の役割と位置づけが、昭和の時代とはずいぶん変わってきています。文部科学省は、校長に、教師のリーダーとしての役割ではなく経営者としての才能を求めています。
 そして続いて、校長のリーダーシップの下、有機的な組織として学校が機能することが期待されています。有機的な組織として学校が機能するためには、各教職員を適切に配置して役割分担を明確にすると共に、相互の関係性を明らかにして協力体制を推進するような組織作りを進めていかなくてはなりません。カリキュラム・マネジメントを実現するためには、カリキュラムそのものを考える前に、前提として、「組織作り・学校づくり」が極めて重要な工程になるわけです。こういった校長のリーダーシップや組織作りに関する議論に、民間企業で蓄積されたマネジメントに関わる経験や理論が参照されているわけですね。
 さらに学習指導要領は、「学校評価」をどう位置づけるかという課題を示しています。マネジメントとは、具体的には一連のPDCAサイクルを構築することですが、「学校評価」とは「C」(つまりCheck)にあたるものです。この「C」のあり方は、マネジメントそのものの性質を左右する極めて重要な要素です。この点も「解説」の記述を踏まえて、後に改めて確認することにしましょう。

小まとめ:具体的に何をするのか

 以上、学習指導要領の記述から読み取れたことを確認しましょう。
 まずカリキュラム・マネジメントとして学校に求められていることが3つありました。改めて確認すると、
(1)教科等横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。
の3点です。
 ただし、この3指針を実現する前提として、スクール・マネジメント=学校運営が適切に行われている必要があります。学校運営のポイントは次の3つでした。
(1)校長のリーダーシップ。
(2)組織作り・学校づくり。
(3)学校評価。

 この要点をしっかり踏まえた上で、続いて「学習指導要領解説」の記述を見ながら、さらに具体的に文部科学省の言い分を確認していきましょう。

具体的に何をするべきか、もっと細かく知る

今時改訂の趣旨との関連

 『学習指導要領解説 総則編』は、カリキュラム・マネジメントに関して、以下のように今時改訂との関連について述べています。

総則については、今回の改訂の趣旨が教育課程の編成や実施に生かされるようにする観点から、①資質・能力の育成を目指す「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善を進める、②カリキュラム・マネジメントの充実、③生徒の発達の支援、家庭や地域との連携・協働を重視するなどの改善を行った。
(中略)
カリキュラム・マネジメントの充実
カリキュラム・マネジメントの実践により、校内研修の充実等が図られるよう、章立てを改善した。
・ 生徒の実態等を踏まえて教育の内容や時間を配分し、授業改善や必要な人的・物的資源の確保などの創意工夫を行い、組織的・計画的な教育の質的向上を図るカリキュラム・マネジメントを推進するよう改善した。(7頁)

 「カリキュラム・マネジメント」が今回の改訂の目玉であることが強調されています。そしてカリキュラム・マネジメントが、校内研修の充実を意図しつつ、章立てそのものを変更するような原理として学習指導要領を貫いていることが表明されています。その章立てそのものの変更は、以下のように説明されています。

また、総則の項目立てについても、各学校におけるカリキュラム・マネジメントを円滑に進めていく観点から、教育課程の編成、実施、評価及び改善の手続を踏まえて、①中学校教育の基本と教育課程の役割(第1章総則第1)、②教育課程の編成(第1章総則第2)、③教育課程の実施と学習評価(第1章総則第3)、④生徒の発達の支援(第1章総則第4)、⑤学校運営上の留意事項(第1章第5)、⑥道徳教育に関する配慮事項(第1章総則第6)としているところである。各学校においては、こうした総則の全体像も含めて、教育課程に関する国や教育委員会の基準を踏まえ、自校の教育課程の編成、実施・評価及び改善に関する課題がどこにあるのかを明確にして教職員間で共有し改善を行うことにより学校教育の質の向上を図り、カリキュラム・マネジメントの充実に努めることが求められる。(41頁)

最優先でやるべきこと:目標の再検討

 続いて、「カリキュラム・マネジメントの充実」とは具体的にどういうことか、以下のように示しています。ここでようやく各学校が具体的に何をどうするべきかが見えてきますので、丁寧に確認していきましょう。まずは学校づくりです。

ア 生徒や学校、地域の実態を適切に把握すること
教育課程は、第1章総則第1の1が示すとおり「生徒の心身の発達の段階や特性及び学校や地域の実態を十分考慮して」編成されることが必要である。各学校においては、各種調査結果やデータ等に基づき、生徒の姿や学校及び地域の現状を定期的に把握したり、保護者や地域住民の意向等を的確に把握した上で、学校の教育目標など教育課程の編成の基本となる事項を定めていくことが求められる。(41頁)

 まず求められているのは「学校の教育目標」の再点検です。ここがまず極めて重要なポイントです。従来の教育目標は、ややもすれば明治時代の三育主義に由来するような「(知)かしこい子・(徳)やさしい子・(体)たくましい子」といった標語を何十年も変わらずに掲げていることがあるわけですが、文部科学省が求めているのは、これの見直しです。学校づくりは、目標の策定から始まります。
 というのも、そもそもマネジメントとは、なんらかの目標を実現するために行うものです。目標が決まっていない組織でマネジメントが機能するはずがありません。マネジメントを適切に行うためには、まずは適切に目標が設定されている必要があります。そう考えたとき、明治時代の三育主義のような教育目標が本当に適切なのかどうか、極めて疑わしいわけです。そしてその目標を定めるとき、ただの思いつきとか、どこかの教育原理書から引っぱってきた先人の言葉とかではなく、しっかりと現実に基づいている必要があります。地域の実態や、目の前の子供たちの個性や持ち味に基づいている必要があります。現実に基づいて、地に足の着いた、本当に意味のある目標を設定できて、初めてマネジメントすることに意義が生じます。そしてこの目標設定の際、「保護者や地域住民の意向等を的確に把握」という言葉に見られるように、「社会に開かれた教育課程」の理念をしっかり踏まえることを、文部科学省は求めています。
 ちなみに現実を踏まえた目標設定のため、文部科学省は「各種調査結果やデータ等」の活用を求めていますが、その内容として具体的には「全国学力・学習状況調査」が想定されているでしょう。「全国学力・学習状況調査」が、比較や競争のための試験ではなく、あくまでもマネジメントを適切に回すための参考資料であることは、教育に携わる者としてはしっかり認識しておきたいものです。

優先的にやるべきこと:組織の再編

 続いて、カリキュラム・マネジメントを充実するための組織作り・学校づくりについて、以下のように述べています。

イ カリキュラム・マネジメントの三つの側面を通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと
(中略)
組織的かつ計画的に取組を進めるためには、教育課程の編成を含めたカリキュラム・マネジメントに関わる取組を、学校の組織全体の中に明確に位置付け、具体的な組織や日程を決定していくことが重要となる。校内の組織及び各種会議の役割分担や相互関係を明確に決め、職務分担に応じて既存の組織を整備、補強したり、新たな組織を設けたりすること、また、分担作業やその調整を含めて、各作業ごとの具体的な日程を決めて取り組んでいくことが必要である。
また、カリキュラム・マネジメントを効果的に進めるためには、何を目標として教育活動の質の向上を図っていくのかを明確にすることが重要である。第1章総則第2の1に示すとおり、教育課程の編成の基本となる学校の経営方針や教育目標を明確にし、家庭や地域とも共有していくことが求められる。(41-42頁)

 『学習指導要領』本文でも示されていた、スクール・マネジメントとしての組織作りについて、具体的に触れられているところです。校内組織の再編や部署の新規創出、役割分担の明確化や日程調整など、校長のリーダーシップや調整役としての管理職の役割が重要であることが分かる記述となっています。この記述だけ読むと、もはや小手先の手直しで許されるようなレベルではなさそうです。学校組織を全体的に、総合的に、根本的に、徹底的に見直すことが求められているようです。
 つまり、もう既存の学校をイメージしてはダメだということです。具体的には、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)やチーム学校といったような、これまでにはなかったような新しい学校の姿を、文科省は打ち出してきています。この新しい体制にのっとって、学校組織のありかたを根本から変えていく必要があるということになります。そして新しい学校組織は、あくまでも既に確認したような「学校目標」を実現するための組織として構想されなければなりません。ここが「経営者としての校長」の腕の見せ所となるわけです。
 そして一方、各教員の意識のあり方にも変革が要求されています。各教員はマネジメントのサイクルに巻き込まれ、学級王国の王様としてではなく、「組織の一員」の自覚を持って働くことが求められていくことになるでしょう。

確実にやるべきこと:3指針の詳細

 さて、目標が定まり、組織が改まって、マネジメントを遂行するための前提条件が揃いました。いよいよマネジメント遂行です。文部科学省は、マネジメントの指針として3つの柱を立てていることは既に見ました。確認すると、
(1)教科等横断的な視点で教育課程を編成する。
(2)教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する。
(3)実践を可能とする資源(人・金・物・時間・情報)を確保する。
の3点です。

(1)教科等横断的な視点

 まず「解説編」は、(1)教科等横断的な視点について以下のように述べています。

(ア) 教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと
(中略)
その際、今回の改訂では、「生きる力」の育成という教育の目標が教育課程の編成により具体化され、よりよい社会と幸福な人生を切り拓くために必要な資質・能力が生徒一人一人に育まれるようにすることを目指しており、「何を学ぶか」という教育の内容を選択して組織していくことと同時に、その内容を学ぶことで生徒が「何ができるようになるか」という、育成を目指す資質・能力を指導のねらいとして明確に設定していくことが求められていることに留意が必要である。教育課程の編成に当たっては、第1章総則第2の2に示す教科等横断的な視点に立った資質・能力の育成を教育課程の中で適切に位置付けていくことや、各学校において具体的な目標及び内容を定めることとなる総合的な学習の時間において教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習が行われるようにすることなど、教科等間のつながりを意識して教育課程を編成することが重要である。(42頁)

 文部科学省は、カリキュラム・マネジメントを実践する大前提として、まず「育成を目指す資質・能力」を明確に設定することを求めています。「育成を目指す資質・能力」についての理解が欠けているところにカリキュラム・マネジメントはあり得ません。というのは、「育成を目指す資質・能力」とは、教育のPDCAサイクルで言えば「P」に当たる部分だからです。まず「P」が設定されていなければ、PDCAサイクルも始まりようがありません。そしてこの「育成を目指す資質・能力」は、既に前提条件として確立してあるはずの「教育目標」を踏まえれば、自ずと設定されるはずのものです。
 PDCAの「P」を理解した後は、「教科等横断的な視点」に立って、総合的な学習の時間を効果的に使いながら教育課程編成をしていくことを求めています。教科横断的なカリキュラムを構成する際には、「総合的な学習の時間」こそが主役になるべきだと主張しているわけです。逆に言えば、どうやら「総合的な学習の時間」のあり方を再検討しなければ、カリキュラム・マネジメントは始まらないようです。皆さんの学校では、「総合的な学習の時間」の内容が「育成を目指す資質・能力」としっかり噛み合っているでしょうか?
 「総合的な学習の時間」と「教科等横断的な視点」を具体的にどのように構想するかは別のページにまとめましたので、そちらをご参照ください。→【参考】教科等横断的な視点とは何か?

(2)PDCAサイクル

 文部科学省は続けて(2)「教育実践の質の向上のためにPDCAサイクルを確立する」について説明します。

(イ) 教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと
各学校においては、各種調査結果やデータ等を活用して、生徒や学校、地域の実態を定期的に把握し、そうした結果等から教育目標の実現状況や教育課程の実施状況を確認し分析して課題となる事項を見いだし、改善方針を立案して実施していくことが求められる。こうした改善については、校内の取組を通して比較的直ちに修正できるものもあれば、教育委員会の指導助言を得ながら長期的に改善を図っていくことが必要となるものもあるため、必要な体制や日程を具体化し組織的かつ計画的に取り組んでいくことが重要である。
こうした教育課程の評価や改善は、第1章総則第5の1のアに示すとおり、学校評価と関連付けながら実施することが必要である。(42-43頁)

 「P」については既に前節で確認しました。引用個所は、カリキュラム・マネジメントに係る一連のPDCAサイクルのうち、とくにCHECK(評価)とACTION(改善)について具体的に示された記述として読むべきところです。PDCAサイクルがうまく回るかどうかは、適切な「C」と現実的な「A」にかかっています。不適切な「C」と妄想的な「A」は、PDCAサイクルを破壊します。
 「C」に関して、評価の基準として独自にルーブリックを開発する学校も一部にはあるでしょうが、具体的に活用されることが想定されているデータは「全国学力・学習状況調査」でしょう。この調査は、学力が上がったとか下がったとか一喜一憂するために行われているのではなく、目標に照らして実践が適切に行われているかを確認するために行われています。ですからこの調査を教員の給料査定に直結させるのは、愚の骨頂と断言して間違いありません。調査結果は、あくまでもPDCAサイクルの「C」に利用する資料と理解し、カリキュラム・マネジメントに活かしていきましょう。
 (ただし評価の基準として悉皆調査である「全国学力・学習状況調査」を採用することが適切かどうかは、カリキュラム・マネジメントというものの効果や是非や善悪を判断する上で、極めて重要な論点となります。後に改めて原理的に検討しましょう。)
 「A」に関しては、実効的で現実的な対応が求められています。まあ、問題や課題が見つかったら、できることはすぐに対応しましょう、難しそうなら計画的に粘り強く取り組みましょう、ってことですね。そりゃそうですね。そのために、行動できる組織作りが必要となることは言うまでもありません。

(3)実践を可能とする資源を確保する。

 そして3指針の3つめは、「資源」の確保です。文部科学省は以下のように述べています。

(ウ) 教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくこと
教育課程の実施に当たっては、人材や予算、時間、情報といった人的又は物的な資源を、教育の内容と効果的に組み合わせていくことが重要となる。学校規模、教職員の状況、施設設備の状況などの人的又は物的な体制の実態は、学校によって異なっており、教育活動の質の向上を組織的かつ計画的に図っていくためには、これらの人的又は物的な体制の実態を十分考慮することが必要である。そのためには、特に、教師の指導力、教材・教具の整備状況、地域の教育資源や学習環境(近隣の学校、社会教育施設、生徒の学習に協力することのできる人材等)などについて客観的かつ具体的に把握して、教育課程の編成に生かすことが必要である。
本項では、こうした人的又は物的な体制を確保することのみならず、その改善を図っていくことの重要性が示されている。各学校には、校長、副校長や教頭のほかに教務主任をはじめとして各主任等が置かれ、それらの担当者を中心として全教職員がそれぞれ校務を分担して処理している。各学校の教育課程は、これらの学校の運営組織を生かし、各教職員がそれぞれの分担に応じて教育課程に関する研究を重ね、創意工夫を加えて編成や改善を図っていくことが重要である。また、学校は地域社会における重要な役割を担い地域とともに発展していく存在であり、学校運営協議会制度や地域学校協働活動等の推進により、学校と地域の連携・協働を更に広げ、教育課程を介して学校と地域がつながることにより、地域でどのような子供を育てるのかといった目標を共有し、地域とともにある学校づくりが一層効果的に進められていくことが期待される。(43頁)

 『学習指導要領』の本文では使用されていなかった「資源」という言葉が、解説編では使用されていますね。ここ、注目です。確かにマネジメント用語としては「資源」という単語のほうが相応しいでしょう。
 ちなみに「資源」とは、一般的に言えば、人・物・金・時間の4つになるでしょう。民間企業は、「利潤を上げる」という目標を達成するために、この限られた「資源」をやりくりします。この「限られた資源のやりくり」こそが日々のマネジメントの本体です。仮に無限の資源が与えられるのなら、目標を達成するためにそんなに苦労はいりません。与えられる資源が少ないからこそ、マネジメントの才能が必要となってくるわけです。
 そして一般企業は「人・物・金・時間」の4つの資源をやりくりして目標に迫っていくわけですが、学校に与えられる資源は極めて限られています。たとえば民間企業は必要とあれば「物」と「金」を新たに調達することができますが、学校にはそれが許されていません。また「人」に関しても、民間企業は自分たちで採用しますが、公立の校長先生には「人」を自力で調達することが許されていません。民間企業と比べたとき、学校は「資源の調達」という点で極めて不利な状況に置かれています。だから民間企業と同じ理屈で教育のマネジメントを語ることは、本来的に不可能なのです。
 その現実を踏まえた上で、学校が持つ資源のうち、もっともカリキュラム・マネジメントの充実に必要な資源は、なんといっても「人」です。言い換えれば、「教師の指導力」そのものです。だから教育のマネジメントの世界で「資源の確保」と言ったとき、校長先生=経営者に期待されていることは、民間企業の社長のように金や物を潤沢に揃えることではなく、教師自身の指導力の増強です。というわけで、校長先生=経営者が「人」という資源の増強のために具体的にできることは、まずは校内研修の充実です。そして教師が自発的に研修に参加できるような環境作りです。
 学校が「人」の次にマネジメントしやすいのは、「時間」です。たとえば教師の指導力を資源として確保するためには、本来の業務ではない雑用に追われる無駄な時間をどんどんカットしていけばよいわけです。教員がやらなくなった仕事を処理するには、学校外の様々な資源を投入すればよいでしょう。教員の負担軽減を目指して学校外の様々な資源を確保し活用するために、学校運営協議会制度(いわゆるコミュニティ・スクール)などの整備が提言されています。カリキュラム・マネジメントを充実するには、コミュニティ・スクールや「チーム学校」等の制度的条件の整備が必要不可欠であることを示唆しています。
 (しかしまあ、考えてみれば、条件整備という点では、そもそも本質的には教員の数を増やすことで対応すべき課題であるはずです。あるいは、一方で教員免許更新講習みたいに教員の負担を増やしておきながら、もう一方でマネジメント努力によって負担を減らそうとするのは、整合性に欠けているようにも見えます。人もカネも出さずに、負担ばかり増やしておいて、一方で「与えられた資源を有効活用して乗り切れ」と指令しているわけだから、現場の先生たちに酷な感じがしてしまいますね。政策担当者がしっかり頭を使っているかどうか、疑問が残るところではあります。)

カリキュラム・マネジメント3指針のまとめ

 以上、カリキュラム・マネジメントの具体的な指針について確認しました。まとめれば、子供の資質・能力を育むという目標を明確にし、その目標を達成するために資源を確保・調達し、限られた資源を有効活用しましょう、ということになります。そしてその構造は形式的には民間企業のマネジメントのあり方と同じですが、中身はまるで違っています。特に確保・調達できる資源の質と量に決定的な制限があるのが、学校マネジメントの特徴です。この構造を理解しておくと、マネジメントに詳しいはずの民間企業出身の校長が、現実には学校マネジメントをめちゃくちゃにしてしまうカラクリが見えてくるかもしれませんね。

前提としてやるべきこと:学校運営や学校評価

 最後に、カリキュラム・マネジメントと学校運営(スクール・マネジメント)の改革について、確認しましょう。文部科学省は以下のように学校運営改革の必要性を強調します。

カリキュラム・マネジメントは、本解説第3章第1節の4において示すように、学校教育に関わる様々な取組を、教育課程を中心に据えて組織的かつ計画的に実施し、教育活動の質の向上につなげていくものである。カリキュラム・マネジメントの実施に当たって、「校長の方針の下に」としているのは、学校の教育目標など教育課程の編成の基本となる事項とともに、校長が定める校務分掌に基づくことを示しており、全教職員が適切に役割を分担し、相互に連携することが必要である。その上で、生徒の実態や地域の実情、指導内容を踏まえて効果的な年間指導計画等の在り方や、授業時間や週時程の在り方等について、校内研修等を通じて研究を重ねていくことも重要であり、こうした取組が学校の特色を創り上げていくこととなる。
また、各学校におけるカリキュラム・マネジメントの取組は、学校が担う様々な業務の進め方の改善を伴ってより充実することができる。この点からも、「校長の方針の下」に学校の業務改善を図り、指導の体制を整えていくことが重要となる。(118頁)

 カリキュラム・マネジメントを充実させるためには、校務分掌のあり方や、校内研修のあり方、様々な業務(要するに雑用)の進め方の改善を伴う必要があることが指摘されています。ここに、校長の資質として、単に教育者としての能力だけでなく、組織を作る経営者としての能力が要求されてくるわけです。校長には、一般企業の経営にも通じる「組織論」や「マネジメント」に対する知識が必要となると同時に、人間的な総合力としてのリーダーシップが求められることになります。
 さらに「解説」は、法律に定められた学校評価との関連についても言及します。

また、各学校が行う学校評価は、学校教育法第 42 条において「教育活動その他の学校運営の状況について評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずる」と規定されており、教育課程の編成、実施、改善は教育活動や学校運営の中核となることを踏まえ、教育課程を中心として教育活動の質の向上を図るカリキュラム・マネジメントは学校評価と関連付けて実施することが重要である。
学校評価の実施方法は、学校教育法施行規則第 66 条から第 68 条までに、自己評価・学校関係者評価の実施・公表、評価結果の設置者への報告について定めるとともに、文部科学省では法令上の規定等を踏まえて「学校評価ガイドライン」(平成 28 年3月文部科学省)を作成している。同ガイドラインでは、具体的にどのような評価項目・指標等を設定するかは各学校が判断するべきことではあるが、その設定について検討する際の視点となる例が12 分野にわたり示されている。カリキュラム・マネジメントと関連付けて実施する観点からは、教育課程・学習指導に係る項目はもとより、当該教育課程を効果的に実施するための人的又は物的な体制の確保の状況なども重要である。(118-119頁)

 法律に定められている以上、学校運営の一環として「学校評価」を粛々と行う義務があるわけですが、これをカリキュラム・マネジメントとの関連で把握せよという要求です。校長先生の経営者としての能力を把握しようというわけですね。
 これまでは、文部科学省は学校に対して「P」の部分で統制をしようとしてきました。しかし21世紀に入るころから、民間企業の成果を取り入れて、「P」についてはある程度の自由裁量ができるようにする代わりに、「C」の部分で統制を図ろうとする体制にシフトしてきました。そっちのほうが金がかからないし、効果が上がることが分かってきたからでしょう。逆に言えば、「P」の部分の裁量権が増えたからといって、本当に教育が自由になったと考えてはいけないということです。実は強制されなくとも、自発的に「忖度」するような状況が生まれているかもしれませんね。おっと、個人的な意見に踏み込み始めてしまったので、文部科学省の言い分を確認するのは終わりにしましょう。

まとめ

 「学級王国」という言葉に端的に表れているように、これまでの学校教育では、「王様」である各教員がそれぞれ創意工夫することが期待されていたかもしれません。また、各教科はそれぞれ独自に工夫を凝らして発展を続けていきましたが、逆に言えば、全体的・総合的な「カリキュラム」は見えにくくなっていたかもしれません。が、今後の学校は「チーム」として機能しなければなりません。個々の教員は役割分担をしながら組織の一員として働くことが期待されますし、各教科は一体となって「カリキュラム」を構成しなければなりません。そして組織が機能するためには、リーダーが適切なマネジメントを遂行する必要があります。
 しかし、一般企業と異なり、これまで学校の文化にはマネジメントの考え方が根付いてきませんでした。だから、学校を「チーム」にするためには、既存の学校文化の常識を根底から疑って、組織の構造そのものを抜本的に改革していく必要があるわけです。カリキュラム・マネジメントは、形式的に書類を作ってどうにかなるような問題ではなく、学校の体制と教員の意識を根底から変革するように迫っています。

教員採用試験に出る問題

教職教養

 カリキュラム・マネジメントは、教員採用試験にも出題されます。教師を目指している人は、学習指導要領の記述を中心にしっかり押さえておきましょう。

【北海道・札幌市 2020年】
次の文は小学校学習指導要領(平成29年告示 文部科学省)の第1章「総則」の第1の4である。これを読んで、問1、問2に答えなさい。
各学校においては,児童や学校,地域の実態を適切に把握し,[教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと],教育課程の( 1 )を評価してその改善を図っていくこと,教育課程の実施に必要な( 2 )を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して,教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」という。)に努めるものとする。
問1 空欄1、空欄2の当てはまる語句の組合せを選びなさい。
ア.1-実施状況 2-字数又は教材
イ.1-実施状況 2-人的又は物的な体制
ウ.1-実施時数 2-字数又は教材
エ.1-実施時数 2-人的又は物的な体制
オ.1-学習状況 2-人的又は物的な体制

 答えは「イ」ですね。まあ単に学習指導要領を丸暗記していれば解ける問題ではありますが。

小論文など

 そして「カリキュラム・マネジメント」は、教員採用試験の小論文のテーマとして出しやすいものです。というのは、教員としての自覚を測りやすいテーマのひとつだからです。
 教員採用試験の小論文の鉄則は、評論家のような態度で客観的に書くのではなく、教育に携わる当事者として主体的に書くということです。教育現場には評論家など必要ありません。実際に動ける人が欲しいのです。それを見るための小論文です。
 その鉄則さえ承知していれば、「カリキュラム・マネジメント」がテーマとして出たときに、書くべきことは自ずと見えてきます。評論家のように背景や理屈を長々と述べるのはアウトです。書くべきことは「人が最大の資源」であることを自覚して「研修」に積極的に取り組む意欲であるとか、「教科等横断的な視点」において「教科の本質」が決定的に重要なことを自覚して「深い学び」を実現するための努力と研鑽を惜しまないこと、などです。自分の意欲や姿勢を前面に打ち出し、どのような実践に落とし込むかを示すことです。
 「カリキュラム・マネジメント」が論題に出たら、教育に対する自分の姿勢を示す絶好のチャンスだと思いましょう。

参考文献

■長田徹監修『カリキュラム・マネジメントに挑む―教科を横断するキャリア教育、教科と往還する特別活動を柱にPDCAを!』図書文化、2018年

 カリキュラム・マネジメントのPDCAサイクルを実効化するためのは「Check」の質が決定的に重要なのだが、類書では「Plan」や「Do」ばかりに力が入っていることが多い。本書は「C」をどのように可視化・数値化し、効果的な「Action」に結実させるかが具体的に示されていて、とても参考になる。

■髙木展郎監修・矢ノ浦勝之著『学習指導要領2020「カリキュラム・マネジメント」の進め方: 全国先進小学校実践レポート』小学館教育技術MOOK、2018年

 小学校の具体的な実践報告。カリキュラム・マネジメントを成功させる上で学校目標を従来の「知・徳・体」形式からコンピテンシーベースへと転換することが決定的に重要であることがよく分かる。「資質・能力」をベースに学校のグランドデザインを構想することで、変な工夫をしなくても自ずと「教科等横断的」な編成に結びつくことも分かる。

■田村学編著『カリキュラム・マネジメント入門―「深い学び」の授業デザイン。学びをつなぐ7つのミッション。』東洋館出版社、2017年

 小学校でのカリキュラム・マネジメントについての入門書。中でも「カリキュラム・デザイン」の具体的な方法について、具体的な実践例を土台として説明しているところが特徴。生活科と総合的な学習の時間を中心として、教科横断的な資質・能力をどのように育むかが、7つの観点から具体的にまとめられており、具体的な実践の参考にしやすそう。

■田村知子『カリキュラムマネジメント―学力向上へのアクションプラン』日本標準ブックレット、2014年

 極めて具体的で実践的なチェックシートもついていたり、先進的な実践例のどこがどう凄いかも丁寧に解説されていて、さらに理論的な背景もコンパクトに説明されており、どうして今の学校にカリキュラムマネジメントが必要なのかにも現実的な説得力があり、「いっちょカリキュラムマネジメントでもやってみるか」と思っている向きにはとても参考になるのではないか。

田村知子編著『実践・カリキュラムマネジメント』ぎょうせい、2011年
 学習指導要領に「カリキュラム・マネジメント」という言葉が登場するよりも随分前に出版された本だが、理論と実践が噛み合った内容となっており、必ずしも古くなっていない。カリマネ草創期の熱意を感じられる良書だと思う。

山﨑保寿『「社会に開かれた教育課程」のカリキュラム・マネジメント―学力向上を図る教育環境の構築』学事出版、2018年
 カリマネの前提となる「学校運営」について、学校研究体制の充実や管理職の役割確立が重要だとしている。管理職向けの本。

『新教育課程ライブラリVol.5 学校ぐるみで取り組むカリキュラム・マネジメント』ぎょうせい、2016年
 『学習指導要領』本体や、中教審答申や、「審議のまとめ」が発表される以前の特集で、具体的な実践例というよりは、そもそもの概念定義や意義、歴史的な経緯についての話から始まっている。カリキュラム・マネジメントが学校経営論とカリキュラム論を結ぶ学際的な領域から登場してきた分野であることなどがわかる。

『総合教育技術 2017年 11 月号』小学館、2017年
 カリキュラム・マネジメントが特集されている。『学習指導要領』の本文を踏まえて、具体的な取組みのあり方が示されている。カリキュラムのデザインの仕方が、教科単元配列表の作成など、具体的で詳細に示されている。