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【要約と感想】高木清『15歳までの必修科目―非行臨床と学校教育の現場から』

【要約】愛情と信念を持って接すれば、非行少年も必ず更生します。そうならないのは、教育現場がおかしいからです。

【感想】まあ、言いたいことは分からなくもないし、少年鑑別所での粘り強い取り組みには頭が下がる。こういう誠実な人が現場に増えれば、鑑別所でも学校でも、救われる子どもは増えるだろう。それは間違いない。
だがしかし、教育制度についての勉強不足は、著しい。教育基本法に対する無理解には、唖然とせざるを得ない。真に受けるわけにはいかない。御本人が誠実であることはとてもいいことなのだが、だからといって不勉強であることが免罪されるわけではない。
たとえば「○○するべきだ」という文章があまりにも多すぎるが、大半は誰もが気づいていて文部科学省が既に着手しているものばかり(キャリア教育とか人権教育とかカリキュラム・マネジメントとかチーム学校とか能力別学級編成とか初任者研修とか)だし、そもそもこのような大量の要求によって現場が疲弊しているのだということには、気がついた方がいい。教育現場に「○○するべきだ」ということを言っても、誰も幸せにならない。「○○なんて、無駄だから、やらなくていいよ」と言ってあげるほうが、遙かに大切な時代なのだ。ほんとうに、無駄な行事や書類書きは、さっさとやめるほうがよろしい。

著者の真摯さと誠実さと熱意と粘り強さと愛情をしっかり受け取め、著者が多くの若者たちを救った具体例や経験に敬意を払いつつも、教育現場に対する具体的な提言に対しては見なかった振りをするべき本であるだろうと思った。個人的な成功体験は、必ずしも組織や制度全体の改善には結びつかない。具体的な改善については、皆で知恵を出し合っていかなければならない。

高木清『15歳までの必修科目―非行臨床と学校教育の現場から』海鳥社、2014年

山田喜一先生を偲ぶ

たいへんお世話になった山田喜一先生が、亡くなりました。あまりに突然のことで、呆然としています。

2011年から6年間、文京学院大学の教職課程センターで一緒に仕事をしました。公私の生活の激変に加え、東日本大震災によって日本全体が極めて困難な時期に、本当にお世話になりました。それまで公私ともにフラフラしていたのですが、山田先生の指導の下で立ち直った気がします。部下に仕事を自由に任せ、うまく運んだときは功績を認め、ミスしたときには自分がかぶって責任を取ってくれるという、上司として極めて理想的な方でした。「学生に力をつける」という運営方針が首尾一貫していて、言うことがコロコロ変わらないので、安心して仕事や研究に専念することができました。
現職に決まった時も、たいへん喜んでくれました。いつでもお話しできるだろうと思っていて、あれからあまりお話しする機会を持たなかったことが、今になって悔やまれます。

山田先生は都内の美味しい店をよくご存じで、様々な機会にいろいろなお店に連れて行ってもらいました。河豚や鱧など、なかなか口に入れる機会のないものを教えてもらいました。山田先生が語る武勇伝の数々は、田舎者の私にはにわかには信じがたいエピソード(東京下町の遊郭とかヤクザとか)が多く、驚いてばかりでした。
ご専門の地理学に対する造詣も極めて深く、様々なインスピレーションを頂きました。まず思い出すのは、家康の江戸都市計画をオランダ都市設計と絡める議論です。江戸は運河を張り巡らした水の都市なのですが、この計画は三浦按針などからアイデアを得ていたのではないかという仮説です。この話をする時はいつもとても楽しそうで、とても印象に残りました。都市計画全般や地政学に関する理論的な話も刺激的でした。恥ずかしながらそれまで地理学に対して大した関心を持っていなかったのですが、山田先生の話を通じて、地理学という学問の創造性が極めて高いことに初めて気づかされました。個人的には、内村鑑三や志賀重昂のような人が地理学を通じて明治日本に与えた影響を改めて考え直す機会になりました。

ようやく退職されて自由になった矢先のことで、たくさん旅行の計画があっただろうに、無念だっただろうと思います。タイミング的に、再課程申請の激務がたたったのかなあなどと、どうしても想像してしまうところでもあります。
ご冥福をお祈りいたします。

【感想】戸田ひかる監督『愛と法』

戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『愛と法』を観てきました。(北区2019ねっとわーくまつり5/19)
『愛と法』は、男性同性愛カップルの弁護士コンビが、様々なしんどい裁判に関わりながらも、愛に溢れる日常生活を送る様子を描いた作品です。たいへん興味深く観ました。隅々まで愛に満ちあふれた映画で、とてもおもしろかったです。

彼らが関わった裁判は、無戸籍裁判とか、ろくでなし子猥褻裁判とか、大阪君が代不起立裁判とか、まさにマイノリティ=少数者に焦点が当たり、人権や憲法解釈の根幹に関わるものばかりでした。「少数者が不利益を被らないように最後の砦になるのが憲法の役目だ」という話は、私の授業(教育原理)の中でもしっかり行なっているつもりなのですが、その当たり前の人権感覚が失われつつあるという実感は、確かにあります。憲法の原理的な意義を理解していない学生が、本当に多いです。自分にできることは教育原理の授業だけではありますが、できることだけはしっかりやらないと、と改めて思った次第です。

車の中で「仕事ができないけどスーパーマンになれない…」と言って涙を流すフミのエピソードには、様々な意味で、胸が痛みました。自分一人でできることって、本当に限られているんですよね。しんどい人たちを救いたいのに、自分の力では何もできないという。私の目の前にもしんどい子たちがたくさんいるのですが、私の言葉は彼女たちに届きません。自分には何もできないという無力感は、フミと共有しているかもしれないと思いました。そしてその自分の弱さを率直に表現できて、涙を流すフミは、根っから優しい人なんだなと。この無力感に対する悔しさというものは、忘れてはならない感覚なのだと思います。たぶん。力が欲しいですねえ。

一方、二人や周囲の人々の日常生活を描くエピソードも、とても素敵でした。全編を通じて食事のシーンがたくさん登場するのが印象的でした。施設からひきとったカズマが独り立ちしていく過程は、とても勇気づけられました。幸せになって欲しいと心から思いました。
カズの歌も、とても素敵でした。Pictures and Memoriesの動画も、思わず家に帰ってから見てしまいました。多芸で、すごいなあ。

個人的に「子ども食堂」や社会的養護などに関わる機会が増えてきました。いま強く思うのは、周辺的な状況に追いやられている人々がますます不可視化されているということです。この作品は、しんどい人たちをまず可視化するための試みとして、とても尊いものだと思いました。「サバルタンは語ることができるか」などと韜晦している場合ではなく、可視化のための努力は地道に続けていかなければならないと思います。
カズとフミ、お二人の今後のますますのご活躍を祈りつつ、私は私にできる仕事を着実に進めていかねばならないと、改めて思ったのでした。

映画の内容とはまったく関係ないのですが、ろくでなし子裁判エピソードで、主人公の二人以上に山口弁護士が無駄に感じが悪く目立っていたのに、つい笑いました。

映画.com「「愛と法」戸田ひかる監督が語る”可視化”することの大切さ」
TOKYO RAINBOW PRIDE「ドキュメンタリー映画『愛と法』戸田ひかる監督インタビュー~人との「つながり」を大切に~」

教育原論(栄養)-5

栄養科 5/21

前回のおさらい

・ヘルバルト、ヘルバルト主義、フレーベル。
・働いたら負け?

今回の目標

・「義務教育」や「教育を受ける権利」の思想を理解しよう!(つづき)

義務教育の思想(つづき)

社会権としての教育

社会権:形式的に自由が与えられるだけでなく、全ての人が実質的に自由を使いこなすことができるように、強者に対してハンデを設け、弱者に対して様々なアドバンテージが与えられます。具体的には、生存権、労働基本権、教育を受ける権利があります。
・たとえば、最低賃金や労働時間の設定、労働組合の結成等により、成人の労働環境が守られ、児童労働の自然発生を抑制することができます。
・工場法制定など、児童労働の撤廃に向けての具体的な動きも必要です。
・誰が責任を持つのでしょうか?←「国家」の積極的な関与が期待されます。

コンドルセ marquis de Condorcet

・1743年~1794年、フランス出身。
・愛称:公教育の父。
(1)子供の学習権。
(2)教育費無償。
(3)ライシテ:政治的中立や宗教的中立。

ロバート・オーエン Robert Owen

・1771年~1858年、イギリス出身。
・キーワード:性格形成学院。
・工場法の展開

1802年徒弟の健康と道徳に関する法律制定。
1819年繊維工場では9歳以下の労働禁止。16歳以下は1日12時間以内に制限。
1833年12時間労働。9歳未満の労働禁止。13歳未満は週48時間。
1844年女性労働者の労働時間制限。
1847年若年労働者の労働時間を1日10時間に制限。
1870年教育法制定。公費による学校設立。

教育権の構造

・教育に関わる4つの立場「子供/親(保護者)/教師/国家」が、それぞれどのような「権利/義務」を持っているかを明らかにするのが「教育権の構造」です。それぞれが教育で果たすべき役割が明確になります。

子供の学習権

・子供は学習権を持っています。教育を受ける権利があります。
・学習する権利が保障されなければ、自分にどのような自由や権利があるかすら分からなくなってしまいます。
・この場合の教育とは、普遍的(身分や性別等に関係ない)な「普通教育」であり、人格の完成を目指す教育です。特定の知識や技術を身につける職業訓練ではなく、「人間」になるための教育です。

日本国憲法第26条-1
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

親の教育義務

・親には、子供を教育する義務=子どもの権利を保障する義務があります。

日本国憲法第26条-2(前半)
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
教育基本法第5条-1
国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

親の教育権

・子供を教育する第一の権利は、親にあります。
・しかしその自由は無限に認められるのではなく、あくまでも「子供の学習権」を保障するために与えられているという責任が伴っています。
→親には「監護権」が与えられますが、それはあくまでも「子の利益」のためです。

民法第820条、822条
*民法第820条:親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
*民法第822条:親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
教育基本法第10条-1
父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

国家による親への支援

・どんな貧乏な親でも義務を果たすことができるよう、国家が支援する必要があります。社会権としての教育を保障します。

日本国憲法第26条-2(後半)
義務教育は、これを無償とする。
教育基本法第5条3・4
3  国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4  国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。
教育基本法第16条-4
国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

国家による教育介入の制限

・国家はあくまでも親に対する支援者であって、積極的に教育の内容へ介入することは期待されていません。自由権としての教育を保障します。
*教育基本法が「準憲法的性格」を持っていることを再確認してください。

教育基本法第14条-2、第15条-2
*14条-2:法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
*15条-2:国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
教育基本法第16条-1
教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
外的事項と内的事項

・国家は外的事項には積極的に関与すべきですが、内的事項に関与することには抑制的であるべきです。
*外的事項:財政的措置=学校設立費・水光熱費・授業料・教科書代、法的措置=就学義務・学校制度・教員資格・機会均等、教育環境整備=教員配置・補助員配置・衛生的配慮
*内的事項:教育内容、教育課程、教育方法。

教師の教育権

・教師は、親でもないのに、どうして権力を持ち、どういう根拠で子供を指導することができるのでしょうか。
→医師は、親でもないのに、どうして権力を持つのでしょうか?
・営造物理論、特別権力関係論:学校は刑務所等と同じなのでしょうか?
・親の教育権が信託されるから、教師は力を持つと考えることができそうです。

教職の専門性

・安心して権利を信託してもらうためには、教師は教育のプロフェッショナルでなければなりません。教師が教育のプロである根拠を「教職の専門性」と呼びます。
・教師はどのような点で教育のプロなのでしょうか?
(1)教える内容:教科、教育課程、学習指導要領
(2)教え方:教授法、教育理論
(3)子供の個性:心理学、教育相談
(4)集団:学級経営、特別活動、いじめ防止
(5)プロとしての自覚:教職基礎論

復習

・義務教育の思想について確認しておこう。
・教育権の構造を確認して、教師の立場を自覚しよう。

予習

・「人格」や「個性」という言葉について考えてみよう。

【要約と感想】渡部信一『日本の「学び」と大学教育』

【要約】90年以降の大学改革の流れで、FDとかPDCAとかeポートフォリオとかアクティブ・ラーニングとかが導入されましたが、それらは所詮は西洋近代の延長線上にある工学的アプローチに過ぎず、原理的な限界があり、このままでは時代の変化(グローバル化、予測不可能化、デジタル化)に対応できず、大学は滅びます。重要なのは、曖昧で複雑なものをそのまま総合的に理解することであり、状況や環境との相互作用であり、具体的で現実的な文脈を伴った身体性であり、決まった一つの答えを出すのではない「良い加減」です。これを取り戻すためには、最新の認知科学の知見を踏まえると、日本の伝統的な「学び」が極めて有効です。

【感想】御多分に漏れず、私もPDCAとかアクティブ・ラーニングの掛け声に巻き込まれているわけだが。それら工学的アプローチの限界を認知科学の立場から明らかにしてくれたのは、とても心強い。代替案として「日本伝統の学び」をクローズアップしたのも、具体的で、面白い。ぜひ自分の授業デザインに取り入れていきたいと思う。
とはいえ、西洋近代の知恵を丸ごと捨て去るのも如何なものかと思う。著者の言うように、それぞれの良いところを「良い加減」でチャンポンにするような知恵が必要なのだろう。そしてその知恵こそ、ヘルバルトが言う「教育的タクト」であり、ペスタロッチーが体現していた技術に他ならないだろうとも思うわけだ。

【今後の研究のための個人的メモ】
工学的アプローチに対する批判は、心強い。自分で言うのもどうかなという時に、積極的に引用していきたい。

「目標に向けて合理的に人間づくりをするという臣での「教育」は一五世紀の西欧において錬金術をモデルにした考え方であり、一九世紀半ば以降の学校教育制度の発展とともに広がっていったにすぎない。」p.80
「例えば、本来は工場での「物づくり」のために開発された「PDCAサイクル」と呼ばれる生産工程・業務管理を行なうためのシステムが、「人づくり」という捉え方から学校現場へ導入された。(中略)このシステムを「教育」に導入することにより、まさに工場における「物づくり」と同じように効率的に「人づくり」が可能になるというのである。」p.81

「結局、「アクティブ・ラーニング」が「きちんとした知」を教師のコントロールのもとで「学ばせよう」としている限り、外見的には「身体を動かすことによって学ぶ」という点では類似しているように見えたとしても、伝統芸能における「学び」とは本質的に異なっているのである。例えば、「効率的なアクティブ・ラーニングの実施」という発想をもっている限り、それは「よいかげんな知」を「しみ込み型の知」で身につけるという基本的な枠組とは大きくかけ離れたものにならざるを得ない。」p.88

「私が「ポートフォリオ評価」など近代教育における評価に対して懸念するのは、「学習者中心主義の立場に立ち学習者自身の自己評価を大切にする」という発想をもちながら、結果的にはすべて教師が想定した枠組みの中でのみの評価に陥ってしまうということである。」p.103

渡部信一『日本の「学び」と大学教育』ナカニシヤ出版、2013年