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【要約と感想】安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか―教育を生物学的に考える』

【要約】勉強できるかどうかは、だいたい遺伝で決まります。さらに人間は、獲得した知識を他の個体に「教育」という形で伝えていくほぼ唯一の生物ではありますが、実は教育による学習というものは生物学的に見ると簡単に成立するものではありません。
この2つの科学的知見を土台にして考えると、教育とは子供の適性を無視してあらゆる情報を教え込もうとすることではなく、子供が本来持っている可能性を存分に発揮するためにこそ行なわれるべきものだと分かります。人間は一人ひとり違っていてちっとも構わないし、違っているからこそ世の中は成り立つのです。遺伝子に対する科学的知見は、決して差別に結びつくのではなく、むしろ個性を尊重する姿勢へと繋がります。自分の可能性(遺伝子)を最大限に発揮するために、張り切って学習に励みましょう。

【感想】「教育学者」をコケにしているところに関しては、教育学者として言いたいことはある。かつて「生物学を土台とした社会的教育学」なるものが日本でも大流行した歴史があるのだが、どうやら著者はご存知ないようだ。あるいは、「それは村井教育学のことではあっても、私が知ってる教育学とは違うものだよね」とは言いたくなる。たとえば広田照幸あたりは、著者も納得してくれそうなこと(学校にはできないことがたくさんあるとか)をたくさん言ってるはずだ。いやはや。

まあそういう些細な専門的ツッコミどころを抜きにすれば、最先端の科学的知見をとても分かりやすく、しかも実践に落とし込めるように工夫して説明しており、まさに新書として期待されている役割を存分に発揮している、良書だと思う。若い人が自分の個性や進路について真剣に考えるきっかけになるかもしれないし、そうあってほしい。
教育の起源や学校の起源に関しても、これまでの教育学者の漠然とした知見に対して生物学的な観点からスマートに裏付けを与えてくれる。切れ味が鋭く、なかなか爽快ではある。かつての大雑把な進化心理学の水準を遙かに超えて、数々の実証的データを下敷きにし、さらに最新の脳科学の知見とも結びついてきて、納得感は極めて高い。きっと今後の教育学は、生物学と脳科学の知見を踏まえないと成立しないようになっていくだろう。

とはいえ本書の結論は、別に改めて「遺伝」なるものを持ち出さなくても、既に教育学で確認されていることばかりなようには思う。
たとえば本書では「自己実現」という言葉を使っていないが、本書の結論はほぼヘーゲル哲学の言う弁証法と同じものとなっている。すなわち、即自(遺伝子で決められた私)と対自(社会関係の中の私)の間の葛藤を経て即且対自(個性を実現した私)にアウフヘーベンするという、弁証法的な自己実現の論理だ。
またあるいは、アリストテレスの言う「可能態(エネルゲイア)から現実態(エンテレケイア)へ」と言ってもいいのかもしれない。人間はそれぞれユニークな遺伝子を持った可能態ではあるが、その可能性が十全に発揮されて現実態に至るかどうかは本人の学習と環境如何にかかってくる。またアリストテレスの「形相/実質」の議論は、生物学の「遺伝子/表現型」の二項対立図式とも親和性が高い。
そして最終的に、ソクラテス=プラトンの言う「ほんものの幸せとは、私が私であること」という命題に落ち着く。(本書でもソクラテスの「エロス」概念に触れているが(37頁))。
本書は用語こそ最新の科学の言葉を使ってはいるが、やはりその知見を現実社会と繋ぐために解釈する段になると、ヘーゲルやアリストテレスやソクラテス=プラトンの掌の上で踊ることになるのだった。あるいは450年前のモンテーニュの洞察を振り返ってみてもよい。

「生まれつきの傾向は、教育によって、助長され強化されるが、改変され克服されることはほとんどない。今日でも、何千という性質が、反対の教育の手をすりぬけて、あるいは徳へ、あるいは不徳へと走っていった。」モンテーニュ『エセー』第3巻第2章

 本書は、モンテーニュが450年前に書き残した経験的知見を科学的に裏付けたものと言っていいのかもしれない。

【今後の研究のための個人的メモ】
まあ突き詰めれば村井教育学という特異な学統に対する恨み辛みのような気もしないではないのだけれども、教育学に対する批判は記憶しておきたい。

「教育は人間を「よくする」ためではなく、それ以前に「生きるため」「生き延びるため」、そして「命をつなぐため」にうまれたということになります。」(16頁)
「教育の本来の目的は、人格形成といった抽象的な目的や、自分だけのためなのではなく、他者のため、他者と共に生きるためにあるということになります。」(17頁)

さしあたって教育学者として簡単に反論しておくとすれば、「人格形成」という言葉と観念に対する著者の知見は視野狭窄だろうというところか。「人格形成」とは、実質的には最新の脳科学が言う「社会脳=デフォルトモード=自己と他者の区別」を成立させる営みだろう。人間にとって「自己の形成」と「他者との共存」は密接不可分な関係にあり、「人格形成」とはそのような人間性と社会との関係をも含み込んだ弁証法的な概念であったはずだ。単に「抽象的」と切り捨てられると、「え?」となる。まあ、「人格の形成」の掛け声ばかり大きくて中身の伴わない昨今の教育論だけ見ていると、そう思ってしまうのも無理はないかもしれないけれど。

安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか―教育を生物学的に考える』講談社現代新書、2018年

【備忘録と感想】関東地区私立大学教職課程研究連絡協議会2019年度「合同研究大会」

関私教協2019年度「合同研究大会」(2019年5/12於東京都市大学世田谷キャンパス)に参加してきたので、備忘録がてら感想を記す。

苧坂直行「新しい社会に求められる資質と能力~ワーキングメモリと社会脳の視点から」

ご専門の認知心理学の話だった。とても面白く聞いた。分野の最先端を行く人の話は、やはり端々の言葉に宿る知性と教養が段違いだ。個々の心理学的事例がお馴染みのものばかりだったのは、おそらく素人にも分かりやすく話そうとしたからだろう。

で、話の焦点は「認知脳=ワーキングメモリ/社会脳=デフォルトモード」の二項対立的(シーソーモデル)な論理だった。古典的な心理学で扱ってきた「注意(外部環境への気づき)」に当たるのが認知脳で、「自己-他者意識」を対象とするのが社会脳ということだ。従来の心理学では「単独脳」の解明に力を注いできたが、現代の認知心理学では「複数脳」を対象とした研究が発展しているのだそうだ。従来の単独脳研究では「認知脳」の働きしか究明できなかったが、複数脳研究が進展することで新たに「社会脳」の働きが明らかになってくる。
そして心理の三層構造の話で「生物的意識→知覚・運動的意識(認知脳)→自己他者意識(社会脳)」という話があったが、そこで「自己他者意識=社会脳=リカーシブな意識」という説明が出た時には少し興奮してしまった。「リカーシブな意識」というキーワードが、私が常々考えてきた「人格とは<再帰的な一>のことだ」という命題と共鳴したからだ。

そして個人的に思いだしたのは、近年、人間の人間たる所以を「社会性」に求める議論が各分野で広く行なわれているということだ。肉体的に優位にあったネアンデルタール人(旧人)が、より劣るはずのクロマニヨン人(新人)に負けたのは、集団を形成する社会性という点では圧倒的に新人のほうが優れているとか。あるいは教育の世界でも、個々の能力を競争的に上げるよりも、集団の能力を共同的に開発した方が効率が高いとか。(まあ、そんなことはギリシア時代にアリストテレスが既に見抜いていたことではあるが。)
そして今回の講演で聞いた「単独脳」から「複数の脳が一つの心に」という話から、ユングの共同無意識とか「幼年期の終り」とか「ブラッドミュージック」とかエヴァンゲリオンの人類補完計画を想起するのであった。

いろいろインスパイアされたし、日本を代表する碩学と面と向って話ができる機会もめったにないので、お話しを伺ってしまった。で、認知心理学の知見においても「自己を確立する」ことが極めて重要だと考えていることを再確認できたのは大きな収穫であり、励みであった。そしてもちろん「自己」は単独で確立できるものではなく、「他者」があって初めて成立するものだ。「社会脳」の研究は、そういう「自己と他者の相互関係―リカーシブな自己」の謎を解き明かす重要な知見を与えてくれることが分かった。
まあ、思い返してみれば、認知心理学はピアジェやヴィゴツキーからそういうことを言っているわけではあるが。

また、ソクラテス=プラトンの「哲学的問答法」の本質を理解する際にも、「認知脳/社会脳」の二項対立図式は一つの示唆を与えるように思った。というのは、論理的な領域には認知脳が対応するが、それを超越する原理的理解に対しては「対話的」な社会脳が対応すると考えられるからだ。一人の論理(単独脳)では答えに辿り着かなくとも、複数による対話(複数脳)であれば答えに辿り着く。実はソクラテス=プラトン「哲学的問答法」の本質は、認知心理学的洞察と共鳴しているのかもしれない。
認知心理学は、横目にちらちら見ながらも、本格的な勉強の優先順位としては上げずに敬遠してきた領域だったので、今回の話を聞いて、ちょっと優先順位を上げていこうかなと思ってしまった。

松田恵示「社会のシステムの変化と資質・能力の育成―AI時代の教育の視点から―」

AIによって教育がどう変わるかという教育界喫緊のテーマだった。面白く聞いた。まあ「教育の情報化から教育の高度情報化へ」という内容は、アンテナを張っている人にとってはお馴染みのテーマではあるだろう。私としても知識をしっかりアップデートしているつもり(NHKの「人間ってナンだ?超AI入門」を見るくらいだけど)ではあったが、改めて「私の方向は現在のトレンドとズレていないな」と安心する機会になった。
そしてAI化のトレンドの基礎を踏まえつつも、「産業界からの圧力」に対する違和感を教育者として表明してくれたのは、とても心強かった。やはり教育には経済とは異なる教育の論理があるはずだ。

そしてやはり碩学と直接お話しができる良い機会なので、「Agency」について詳しく伺った。個人的にも様々な機会に「Agency」という言葉を聞くようになって(たとえばONGのシンポ)、気になっていたのだが、本公演でも「責任主体」という日本語で説明された。先生のお話によれば、やはり直接関わっているのはOECDということだった。そして、従来から使われているCharacterという言葉は個人の内部的な性向を指し示すのに対し、Agencyは他者や社会との繋がりが意識されている言葉ということだった。確かにそうだ。これは苧坂氏の「単独脳から複数脳へ」の流れと完全に響き合っている話だ。
OECDの背景にあるAgency思想の源について調べるのは、私自身の仕事だ。それはおそらく教育基本法第一条「人格の完成」の捉え方にも影響を与えることになるはずだ。

市川伸一「習得における「主体的・対話的で深い学び」~教授と活動のバランスに配慮した授業づくり」

いちばん教育現場に近い話で、いわゆる「アクティブ・ラーニング」をテーマとした内容だった。従来のアクティブ・ラーニングがいかに誤解にまみれて型に嵌まっていたかという指摘から始まったが、いやいや、良かった。アクティブ・ラーニングに対する私の解釈と、だいたい同じ方向を向いていることを確認できた。

まあ「教えて考えさせる授業」というのは、理屈としてはよく分かる。具体的な実践の数々を見ても、成果が上がっているのは、よく分かる。が、自分自身の授業で実現しようとすると、これがなかなか難しい。私も自分自身の「授業デザイン」を工夫していかなければならない。がんばろう。たとえば、私は100名近くのマスプロ授業を持っていて、これまではなかなか双方向型の授業を好走するのが難しかったのだが、いまはGoogle アンケートを活用するとそこそこ上手く双方向の「教えて考えさせる授業」になるような手応えを感じつつあるのだった。

そんなわけで、研究大会後の情報交換会でも有益な情報(IBは筑波大附属坂戸とか、国泰寺の近くのタケノコが美味しいとか)を得たり、流経大で私の授業を取ってくれた学生が現在では立派な研究者に成長していて教育者冥利に尽きたりとか、様々にインスパイアされて帰ってきたのでありました。研究と授業、さらに頑張りましょう!>私

【要約と感想】志水宏吉『公立小学校の挑戦―「力のある学校」とはなにか』

【要約】いま全国的に学力格差が広がっていますが、その問題を克服している力のある学校もあります。教員同士が「集団」として一丸となり、いわゆる「しんどい子」を中心にした「集団づくり」に力を入れている学校は、学力が高くなります。経済資本や人的資本のハンディを克服するポイントは、「社会関係資本」です。

【感想】本書のキーワードは「集団」だ。具体的には教員同士の「集団」の質と、子どもたちの「集団」の形成が、学力向上にとって決定的な鍵を握る。
教員同士の集団の質としては、「個々の教師は、自分らしさを保ちながら、しかもチームワークで動いている」(56頁)という文章が象徴的だ。「集団主義」とは「全体主義」の対極にあるものだ(59頁)。人格の尊厳を土台とした集団(societyとかassociation)形成が重要なのだ。個々の人格を無視した集団は、目的意識を欠落させたただの大衆(mass)となる。残念ながらassociationとmassの区別をつけずに「集団」を即座に否定する論調も散見されるところだが、本来の「集団」とは「個」を活かすものだ。
そして子どもたちの集団づくりも、人格の尊厳を保証するところから成立する。ただ単に同調圧力を強めるということではない。

とはいえ、疑問もなくはない。「長時間労働にもかかわらず、皆はつらつと仕事をしている」(55頁)という記述に対しては、本書発行から16年を経た現在では、やはり疑問を感じざるを得ない。教師の長時間労働が前提となる実践では、やはり手放しで賛同するのは難しい。真似できると思えない。良質な労働環境を確保しながら同じ成果を挙げていくための知恵と工夫が必要となっている。

ちなみに本書は志水宏吉『学力を育てる』のダイジェスト版に当たる。本書は小学校の事例だけを扱っているが、『学力を育てる』のほうでは同じ学区の中学校の事例も加わって、話に厚みがある。

志水宏吉『公立小学校の挑戦―「力のある学校」とはなにか』岩波ブックレット、2003年

【要約と感想】佐藤優・杉山剛士『埼玉県立浦和高校―人生力を伸ばす浦高の極意』

【要約】ホンモノのエリートに必要なのは、理系や文系などに関係なく、自分をマネジメントできる「総合知」です。受験勉強も含め、一見役に立たないようなことも、総合知を磨くのに役立ちます。文系でも数学を捨ててはいけません。

【感想】数学や理科を捨てるような受験テクニックに特化した新興進学校を揶揄しつつ、総合的な知力を磨く伝統的進学校(浦和高校も含め、灘や桜蔭)の教育方針を称揚している。まあ、私も御多分に漏れず地方公立名門校(愛知県立岡崎高校)を出て現役で東大(理科Ⅰ類)に合格している手合いではあるので、言いたいことは肌感覚で分かってしまったりする。数学を完全に捨てて私立文系に進んでも、確かに本書の言う「ホンモノのエリート」になることはないだろう。まあ、それが良いことか悪いことかは、また別の議論になるのだけれども。

本書で一番感心したのは著者が浦和高校の生徒に直接アドバイスするパートで、特に在日二世の子に話しかけた内容には不覚にもうるっときてしまった。とても良い大人のアドバイスだと思った。

とはいえ、著者(佐藤優)の見解には同意できるところと「おや?」と思うところが混在しており、本書でも「怪しいな…」と思ったところは何点かあるのだが、一番おかしいと思ったのは大学の「作問力」に関する話だ。著者(佐藤)は、大学は生き残りをかけて独自の大学入試問題を作るべきだと主張するのだが、現実の国際的・国内的なトレンドはAO入試全面導入に向かっている。一発入試で学力を推測するのではなく、高校生活全般で培った人間力を計測する方向に向っているのだ。そして加えて、大学が独自に入学許可基準を設定するのではなく、高校が設定した卒業認定基準に準拠する方向へと向っているのだ。本書は、こういう総合的な学制改革(大学カリキュラム改革+高校カリキュラム改革+大学入試改革)の情報をアップデートできていないように読めたのだが。さて、教育に関する「情報」に精通していないのは、私のほうなのかどうか。【参照:センター試験廃止で大学入試は「カオスな世界」になるのか?

佐藤優・杉山剛士『埼玉県立浦和高校―人生力を伸ばす浦高の極意』講談社現代新書、2018年

【要約と感想】R.P.ドーア『江戸時代の教育』

【要約】日本が植民地化されなかったのは、江戸時代の教育のおかげかもしれません。たとえば経済的合理主義と実用主義に基づいた教育が庶民に行き渡っており、個人的な向上という観念が根付き始めていたことは、明治以降の国民教育のすみやかな浸透にとって有利な条件でした。また儒学が普遍的な原理を志向して創造性を発揮する余地を残していた上に、実績による競争原理が一定程度導入されていたことは、明治維新期の変革にはずみをつけました。
とはいえ、日本人が純粋に「学ぶこと」を喜びを感じる民族であったことが、教育にとってはとても幸せなことでした。

【感想】もう50年近く前の本だ。明治維新で教育が途切れていると見るのではなく、江戸時代と近代を連続的に捉えようとする視点は、石川謙の仕事と本書が常識にしていったのかもしれない。今ではお馴染みの論旨になっている。

経済的合理性と業績主義=メリトクラシーの展開に焦点を当てて江戸時代と近代教育の連続性を捉えようとする理論枠組は、極めて明快だ。が、使用している史料はほぼ刊行済みの資料集ばかりだ。もっぱら刊行済資料の読み取りと理論仮説の検証に終始する。足で史料を稼いで新しい知見を加えるというタイプの地道な研究ではない。また著者がイギリス人だけあって、イギリスとの比較教育史的な見解とユーモアも多々示される。本書の持ち味と限界は、このあたりの方法論に由来するだろう。

この50年の間に寺子屋や藩校など江戸時代の教育に関わる様々な新史料が発見され、様々な知見が加わっている。このような地道な史料捜索の努力を本書に見ることはできない。また講座派や労農派が積み重ねてきた江戸時代の経済史的な背景についても触れられておらず、もっぱら教育関係史料に依拠しているのも、本書の限界だろう。江戸時代と近代の連続・非連続を議論の対象にするなら、やはり日本資本主義論争の成果を踏まえておく必要があったのではないか。

とはいえ、本書の見解を根本的に覆すような画期的な新発見があったかというと、必ずしもそうとは言えないだろうとも思う。本書が示した理論枠組は、50年経った今でも基本的に有効なようにも思う。今でもなお読む価値があるかと聞かれれば、「あるんじゃないの?」と言うしかないのだった。

【今後の研究のための個人的メモ】
Educationという言葉の意味に関して、ネイティブの見解が示されているところは、なかなか興味深い。

「Education(教育)という語は英米人にとって一般に「学校で行なわれる事」、更に厳密にいえば「何らかの正式かつ規則的な手順に従って児童の能力、知識ないし態度の発展に影響を与えようとする意識的な行為」を意味し、この意味では親による人格づくりを主な内容とするupbringing(養育)や純粋に知的錬成を主眼とするstudy(学習)とは明瞭に区別される。一八世紀末以来「教育」という日本語は――近代日本においても今なお使われているのと――大体において同じ意味で用いられることが多くなる。」p.30

また、江戸時代の学習手法として、現在で言うところの「アクティブ・ラーニング」が常識的であったことは、改めて思い起こされてよいかもしれない。

「彼らとて、もし問われれば、児童にとって何か他の形での組織的訓育が必要であろうということをおそらくは否定しなかったかもしれないが、彼らの関心は主として教義の「学問」learningにあった。」p.31
「講釈」というような一斉教授の形態について、「それは、個々の生徒の能力に応じて教材を類別することを不可能にするもので、従って学生にとって有害である。それは形式的な衒学ばかりを教え、独自の探求を行なう能力を失わせ、生徒を受動的な学習機械に変えてしまう、と徂徠は説く。」p.129

また、ネット上には江戸期の識字率を80%と見積もるような驚くべき常識外の見解を示している文章も散見されるが、本書の著者が「就学率」を慎重に見積もっていることは、押さえておきたい。

「従って維新当時のこの種の教育の普及状況について量的な推定を行なうことはむずかしい。最も事実に即した推定は、日本の全男児の四〇%強、女児の約一〇%が家庭外で何らかの改まった教育を受けていたというところだろうと思われる。」p.235

そしてまたナショナリズムについて、明治以後に「想像の共同体」が成立するという議論が90年代に流行ったが、著者が江戸期から「想像の共同体」が成立しつつあったと言っていることには、注意しておいていいかもしれない。

「更に、個人的な向上という観念が普及していれば、国家としての向上という観念もそれだけたやすく理解され、受入れられることができたのである。」p.269
「寺子屋教育の内容の中にも、人が単に将軍の城下の町人や岡山藩主の百姓ではなく、日本国の一員であるという意識を児童に植付けるだけのものがあった。児童は国内の遠く離れた地方の地名や産物のことを習った。」p.273

R.P.ドーア/松居弘道訳『江戸時代の教育』岩波書店、1970年