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世界を全て知ることはできるか?
かつてコメニウスは、「すべての人にすべてのことを教える」と言った。人間は世界を秩序ある全体として理解しうる、という見通しを持つことができた時代のことである。もちろんそれは、すべての人が実際にすべてを知っていたという意味ではない。世界の知は最終的には何らかの秩序のもとに統合されうる、という希望が成立していたということである。
17世紀のコメニウス汎知学の後も、18世紀、ディドロとダランベールの『百科全書』もまた、人間の諸知識を一つの体系として配置しようとした。そこでは、世界は無限に散乱した情報の集積ではなく、少なくとも原理的には、人間の知性によって見取り図を描きうるものとして想定されていた。
この見通しは、おそらく近代の自然哲学ともつながっていた。ニュートンの主著が『自然哲学の数学的諸原理』であったことが示すように、かつて自然研究は、哲学の外部にある専門科学ではなく、広い意味での哲学の内部に位置づけられていた。自然哲学は、自然界の個別事実を集めるだけでなく、それらを貫く原理を明らかにしようとする営みであった。ラプラスの悪魔に象徴される古典力学的な決定論も、この見通しの極限に位置づけることができる。もし宇宙のすべての粒子の位置と運動量を知る知性があれば、過去も未来も計算可能であるという発想は、世界が原理的には完全に記述可能であるという夢をよく示している。
しかし19世紀以降、この見通しは次第に揺らいでいく。自然哲学は、物理学、化学、生物学、地質学、心理学、社会学などの専門分野へと分化していく。scienceや scientistという語が近代的な意味を帯びるのも19世紀であり、学会、専門誌、専門職としての研究者が制度化されていく。こうして知識が増大し、研究が専門化するほど、一人の人間が世界知の全体を統括することは不可能になっていった。知の発展は、同時に知の分裂を生み出したのである。世界全体の知を統べる夢は、フランスのコント、イギリスのスペンサーあたりで潰えているだろう。
物理学史の側から見ても、古典力学的な世界把握はそのまま維持されなかった。19世紀の熱力学は、不可逆性、エネルギーの散逸、エントロピー、効率といった問題を前景化した。世界は、単に可逆的に計算可能な機械ではなく、時間の向き、損失、有限性を含んだ過程として現れるようになった。さらに20世紀の量子力学は、観測から独立した対象をそのまま完全に記述するという素朴な見方を揺さぶった。物理学をそのまま教育論に適用したいわけではない。確認しておきたいのは、世界を一望し、完全に記述し、統一的に把握できるという近代的な感覚が、自然科学の内部からも次第に難しくなっていったということである。
人格の統一性の根拠
この「世界を理解し尽くせる」という見通しの崩壊は、「人格の統一性」という観念の変化と表裏一体だったのではないか。古典的な教養(Bildung)の理念は、世界との関係を通じて人間の諸能力が調和的な全体へ形成される、という見通しを含んでいた。世界が秩序ある全体であり、人間がその世界を学ぶことによって自分自身を秩序ある全体へ形成していく。このとき、世界の統一可能性と人格の統一可能性は、互いに支え合っていたように見える。世界を知ることは、単に断片的な情報を増やすことではなく、自己を形成することであった。
しかし、知が専門分化し、世界が一つの見取り図へ回収できないものとして現れるようになると、人間自身もまた、一つの統一的な人格として理解することが難しくなる。ディルタイが自然科学とは異なる精神科学を基礎づけようとしたのは、人間の生、歴史、社会、表現を、自然科学的説明だけでは捉えきれないと考えたからである。だがその後、人間を扱う学問そのものも、心理学、社会学、文化人類学、歴史学、教育学、精神医学、言語学、メディア研究などへ分化していった。人間を一つの全体として把握する学問は、ますます成立しにくくなった。
20世紀心理学においても、人格の統一性は揺らいでいく。フロイトは、人間の自己を透明な理性的主体としてではなく、エス、自我、超自我、無意識、抑圧、防衛の葛藤として描いた。ミードは、自己を個人内部の実体ではなく、他者との相互作用の中で成立するものとして捉えた。サリヴァンは、人格を個人内部にある固定的実体というより、対人関係の反復的な様式として理解した。これらはそれぞれ異なる立場であるが、共通しているのは、人格を単一で透明な統一体として捉えることを難しくした点である。
そう考えると、近代教育の「人格形成」や「教養」の理念は、単に人間の内面に関する教育論ではなく、世界そのものが理解可能な全体であるという認識論的前提と深く結びついていたのではないか。世界が一つの秩序ある全体として理解できるなら、その世界を学ぶ人間もまた、一つの秩序ある人格へ形成されうる。しかし、世界が専門分化し、知が分裂し、人間理解もまた諸学問へ分散していくと、人格を一つの完成された全体として語ることは難しくなる。[そこで人格は、もはや実体的な統一概念としてではなく、むしろ還元への抵抗として現れることになる。]
この認識の変化は、現代教育における自己マネジメントの問題につながる。世界を一つの全体として理解し、その理解を通じて人格を形成するという見通しが失われると、教育は次第に、限られた自己資源をどう運用するかという問題へ傾いていく。知識、能力、時間、経験、資格、スキル、キャリア、ポートフォリオ、自己分析、振り返り。これらは、世界を理解するためというより、自分を運用するための資源として扱われる。人格の完成ではなく、自己の管理。教養ではなく、自己改善。世界を知ることではなく、世界の中で自分を効率よく動かすこと。ここに、現代教育が自己マネジメントへと傾斜する大きな背景があるのではないか。
自力救済とカウンターとしての無力/他力
思想史を振り返ると、現代の自己マネジメントの考え方と同様に、人間の知、意志、能力、修行、理性、自己形成への信頼が強く打ち出される局面がある。しかし一方、それに対して人間の無力、有限性、できなさ、外部からの呼びかけを強調する思想がカウンターとして現れる局面もあるように見える。ここでいう「自力救済」とは、厳密な宗教教義としての用語ではなく、人間が自らの知、意志、努力、改善、修行、教育、自己管理によって自分を善くし、救い、完成させることができるという広い信念を指す。そして「他力」あるいは「無力」の思想とは、そのような自力への信頼が過剰になったときに、人間は自分自身の力だけでは知ることも、善くあることも、救われることも、完成することもできないと告げる思想を指す。
まず最初に、ソフィストに対するソクラテスを見てみよう。ソフィストは、弁論術、徳、政治的有能さ、教育可能性をめぐって、知と技術によって人間を有能にしうるという方向に位置づけることができる。一方、プラトン対話篇におけるソクラテスは、彼らの知や有能さの主張を根底から問い直す論敵として現れる。ソクラテスの「無知の知」は、人間の知への信頼を折る思想である。彼は、知っていると思っている者に対して、実は知らないのではないかと問いかける。この意味でソクラテスは、知による自己形成、弁論による有能化、教育による成功という発想へのカウンターとして読むことができる。
さらに彼の判断は、彼自身の言葉によれば、しばしばダイモニオンの示唆、より正確には制止に従っている。これは親鸞的な意味での他力本願ではないが、人間の知や技術によって自己の判断を完全に基礎づけるのではなく、自己の外部から到来する声によって行為が中断されるという点で、「他力的契機」と呼ぶことができる。ここで問題になっているのは、「知の無力」と「外部からの制止」である。
続いて、ペラギウスに対するアウグスティヌスを見てみよう。ペラギウスは、人間には自由意志があり、神が命じる以上、人間は善を選び、正しく生きることができると考えた。これは教育論的に見れば、人間は正しく教えられれば正しく生きることができる、努力すれば善くなれる、という楽観的な人間観として読むことができる。これに対してアウグスティヌスは、人間の意志は原罪によって傷ついており、自分の意志だけで善を選び、自分を救うことはできないと考えた。『告白』に見られるように、彼にとって問題は、善を知らないことだけではなく、善を知っていてもそれを欲することができないという意志の分裂であった。ペラギウスが自由意志による自力救済の可能性を強く打ち出したとすれば、アウグスティヌスはそのカウンターとして、意志の無力と恩寵の必要を示した人物として読める。ここで問題になっているのは、「意志の無力」と「外部からの恩寵」である。
このアウグスティヌス的な問題は、のちにエラスムスとルターの対立にも反復されるように見える。エラスムスは、人文主義的教養、理性、穏健さ、自由意志を重んじた。彼にとって人間は、教育され、教養を身につけ、理性的判断を働かせることによって、より善くなる可能性を持つ存在であった。これに対してルターは、『奴隷意志論』において、人間の自由意志の力を強く否定した。人間は自らの意志によって神へ向かい、自らを救うことはできない。ここでも、人間の能力や教養への信頼に対して、救済における人間の無力が突きつけられている。ルターは、エラスムス的人文主義へのカウンターとして、人間の意志の無力を徹底させた思想家として位置づけることができる。
仏教思想においては、聖道門的な自力修行に対する法然・親鸞の他力本願が、この構図のもっとも明瞭な事例になる。聖道門の仏教は、戒律、修行、学問、瞑想などによって悟りへ向かう道を重視する。そこには、少なくとも原理的には、人間が修行によって悟りへ至ることができるという見通しがある。これに対して法然は、末法の世において凡夫が自力修行によって悟りを得ることの困難を見据え、念仏による浄土往生の道を示した。親鸞はさらに、自分が念仏する力すら自分のものではなく、阿弥陀仏の本願によるものだと考えた。もちろんここで言う他力本願とは、努力しなくてよいという安易な思想ではなく、自分の修行、自分の善、自分の努力によって自分を救おうとする発想そのものを折る思想である。ここで問題になっているのは、「修行の無力」「凡夫の無力」と、それにもかかわらず開かれる「他力による救い」である。
啓蒙思想に対するカウンターとしては、ルソーが重要になるだろう。百科全書派や啓蒙思想は、知識、理性、文明、教育によって人間と社会を改善しうるという希望を持っていた。ディドロやダランベールの『百科全書』は、人間知識を体系的に編成し、知の普及によって社会を変革しようとする大きな企てであった。これに対してルソーは、文明化や理性の発展がただちに人間を善くするわけではないことを問題にした。『学問芸術論』や『人間不平等起源論』に見られるように、ルソーは、文明の進歩がかえって人間を堕落させる可能性を問うた。彼は啓蒙を全面的に否定したわけではないが、理性と文明によって人間を改善できるという信頼への鋭いカウンターとして読むことができる。ここで問題になっているのは、「理性と文明の無力」である。
近代的自我へのカウンターとしては、フロイトを置くことができる。近代的主体は、自分自身を認識し、自分の意志によって行為し、自分を統御する存在として想定されてきた。しかしフロイトは、人間の心を意識的自我だけで説明することを拒んだ。無意識、抑圧、防衛、欲望、エス、自我、超自我の葛藤によって、人間は自分自身の主人ではないことが示される。フロイトは、自己理解や自己統御の可能性を完全に否定したわけではないが、少なくとも、自我が透明に自分を支配できるという信念を大きく揺るがした。ここで問題になっているのは、「自我の無力」である。
「できない」ことの再布置
このように見てくると、思想史上には、人間の自力への信頼が強くなる局面で、それに対して無力、有限性、できなさ、他力、中断を告げる思想がカウンターとして現れているように見える。ソクラテスは知の自力を折り、アウグスティヌスは意志の自力を折り、ルターは自由意志による救済の可能性を折り、法然・親鸞は修行の自力を折り、ルソーは文明と理性による人間改善の信頼を折り、フロイトは自我の自己支配を折る。
もちろん、これらを同一の思想として扱うことはできない。それぞれの歴史的文脈、宗教的背景、テキスト上の論点はまったく異なる。思想内容の同一性を主張したいのではなく、布置の類似した現象が反復して起こっていること、あるいは後の思想史から見てそのように整理できることについて確認しておきたいのである。そしてこの反復的な現象は、自己マネジメントへの志向が肥大化している現代教育の局面でも現れているのではないか。
教育哲学の文脈で即座に想起されるのは、ガート・ビースタである。ビースタは、教育が「学習」へと還元され、資格化、成果、測定、学習者中心、コンピテンシー、エビデンスの語彙の中で理解されることを批判した。彼が強調する「中断」や「主体化」は、教育を単なる能力形成や自己実現のプロセスとして見ることへのカウンターである。もちろんビースタは、知識や資格化を不要だと言っているわけではない。しかし彼は、教育には、子どもや学生を既存の秩序に適応させたり、能力を獲得させたりするだけでなく、その人が世界の中でどのように主体として現れるかという問題があると考えた。ここで問題になっているのは、教育を能力形成や学習成果へ還元することの限界である。
教育は自力救済だけで成立するか?
しかしより本質的には、不登校という事象を考えてみたい。現代教育は、子どもや学生に、主体的に学び、自己を調整し、目標を立て、振り返り、改善し、キャリアを形成することを求める。その意味で、現代教育は世俗化された自力救済の構造を持っている。しかし不登校は、この循環に乗ることができない、あるいは乗らないという形で現れる。もちろん不登校を安易に美化することはできないし、本人や家庭の苦しみを抽象化してはならない。しかし、不登校を単なる不適応や支援対象としてのみ見るのではなく、自己改善を命じる教育的循環への中断として読むことはできる。ここで問題になっているのは、「自己改善の無力」である。
ここから立ち上がる問いは、教育は「自力救済=できる」の思想だけで成り立ってよいのか、ということである。もちろん教育は、人間が何かを知り、理解し、行為し、成長していく可能性への信頼なしには成り立たない。学べばできるようになる。支援すれば変わる。環境を整えれば参加できる。目標を立て、実行し、振り返り、改善すれば前に進める。現代教育は、この「できる」への信頼を前提としている。しかしその信頼が強くなりすぎると、教育は「できない」ことに耐えられなくなる。できないことは、ただちに課題として発見され、支援対象として整理され、改善計画の中に組み込まれる。そこで一度たちどまって問われるべきなのは、教育には「できるようにする」技術だけでなく、「できないことに耐える」思想が必要なのではないか、ということである。
この問いは、現代教育における自己マネジメントの問題と深く関わっている。今日の教育では、自己を計画し、実行し、評価し、改善することが求められる。主体性、自己調整、キャリア形成、ポートフォリオ、振り返り、PDCAといった語彙は、人間を「自分で自分を成長させる存在」として捉える。この構造は、世俗化された自力救済の思想として見ることができるかもしれない。自分を理解し、自分を管理し、自分を改善し、自分をよりよくしていくことが求められる。しかし、自己を改善し続けなければならないという命令は、いつしか自己を救うどころか、自己を終わりのない循環の中に閉じ込める。そこで浮かび上がる問いは、教育は自己改善のサイクルをよりよく回すことだけを目指してよいのか、それともそのサイクルから一時的に降りる契機を持たなければならないのか、ということである。この契機を、比喩的に「PDCAからの解脱」と呼んでみたい。
もちろん「解脱」は教育目標として掲げられるべきものではない。教育の目的はPDCAから解脱させることである、と言えば、それ自体がまた新たな教育的操作になる。解脱を目標にした瞬間、解脱もまた計画され、実行され、評価され、改善される対象になってしまう。だからここで必要なのは、解脱を処方箋としてではなく、現象を記述するための言葉として扱うことである。実際、教育の中には、自己改善の循環が中断される瞬間がいくつもある。不登校、沈黙、拒絶、無気力、燃え尽き、立ち止まり、わからなさ。これらをただちに失敗や不適応として処理するのではなく、自己改善を命じる教育の循環に対する中断として読むことはできないか。この問いが、「PDCAからの解脱」という言葉の核心にある。
この問題を考えるときに参考となるのは、思想史の中で繰り返し現れるように見える「自力」へのカウンターである。ソフィストに対するソクラテスは、知や弁論の能力への信頼を問い直した。ペラギウスに対するアウグスティヌスは、人間の自由意志による自己救済の可能性に対して、意志の傷つきと恩寵の必要を説いた。聖道門的な自力修行に対する法然・親鸞は、修行できない凡夫に開かれた他力の道を示した。これらを同じ思想内容へ還元することはできない。しかし、それぞれの歴史的文脈において、人間の知、意志、修行、能力への信頼が過剰な説得力を持つとき、その自力を折る思想がカウンターとして現れているように見える。この見え方を、現代教育に向けて問い直すなら、自己を改善し続ける力への信頼が強まる時代において、「できない」「わからない」「自分では救えない」という契機をどう考えるか、という問題になる。
ここで「できないことに耐える」という言葉が重要になる。それは、できないままでよいという安易な肯定ではない。努力しなくてよい、支援しなくてよい、成長しなくてよい、という話でもない。そうではなく、できなさをただちに改善課題へ変換しないということである。できない子ども、学校に行けない子ども、言葉にできない学生、理解できない教師、成果の出ない実践、すぐには変わらない現実。その前で、教育者自身がすぐに有能であろうとしないこと。すぐに解決しようとしないこと。すぐに意味づけようとしないこと。それでも見捨てないこと。教育とは、できるようにする希望によって成り立つが、同時に、できないことに耐える営みでもなければならないのではないか。
すぐにわかってたまるか
そしておそらくこの問いは、AI時代の教育にとって重要な意味を持ってくる。生成AIは、わからなさを急速に処理する。要約し、説明し、比較し、整理し、例を出し、すぐに答えらしきものを提示する。もちろんそれは便利であり、教育にとっても大きな可能性を持つ。しかし、すぐに説明され、すぐに整理され、すぐにわかったことにされることは、本当に「わかった」ということでよいのだろうか。教育における理解は、単に情報が整理された状態ではない。わからないが気になる。言葉にならないが引っかかる。時間をおいて戻ってくる。別の経験と結びつく。ある日、ようやく腑に落ちる。こうした遅い理解の時間を、教育はどのように守ることができるのか。AI時代における教育の問いは、速くわかる技術をどう使うかだけでなく、すぐにはわからないことに耐える力をどう残すかでもある。
さらに、この「すぐにはわからないことに耐える」という問題は、人間理解の問題でもある。学生を成績、出席状況、主体性、発達特性、家庭背景、診断名、ポートフォリオ、アンケート結果によって把握することはできる。しかし、それによってその人がわかったことになるわけではない。むしろ人間は、こちらの理解や分類が押し返されるところで「相手」として現れる。相手だから抵抗するのではない。抵抗するから相手として立ち上がる。壊れたマウスが道具としての透明性を失い、急にこちらの意図を阻むものとして現れるように、学生の沈黙や不登校や拒絶も、制度の側から見れば機能不全でありながら、同時に相手が現れる瞬間でもある。教育は、抵抗を消す技術ではなく、抵抗によって現れた相手にどう応答するかを問う営みではないか。
この相手性の問題は、人格の問題にも接続する。人格は、内面の奥に固定的な実体として存在するものではないかもしれない。むしろ人格は、観測され、分類され、評価され、要約されることに対して、「それは私ではない」と抵抗するところに立ち上がる。SNS的現代では、人は観測されることで人格像を与えられる。AI時代には、人は要約されることで理解されたことにされる。教育制度の中では、人は評価されることで学習者として位置づけられる。しかし、その観測された像、要約された像、評価された像に対して、なお「それだけではない」と言いうるところに人格があるのではないか。人格とは、相手性が倫理的強度を帯びた抵抗である、という問いがここに生じる。
このように整理してくると、ここで立てようとしている問いは、単にPDCA批判でも、AI批判でも、不登校論でも、仏教思想の応用でもない。根本にあるのは、教育が人間を「できるようになる存在」としてだけ捉えてよいのか、という問いである。教育は、人間の可能性を信じる営みである。しかしその信頼は、できない者、わからない者、変われない者、学校に行けない者、自分をうまく管理できない者を追い詰めることがある。だから教育には、「できる」の教育学と同時に、「できないことに耐える」の教育学が必要なのではないか。すぐに改善してたまるか。すぐにわかってたまるか。すぐに相手を理解したことにしてたまるか。この抵抗の中に、AI時代の教育思想のひとつの出発点があるのではないか。
PDCA四苦からの解脱
仏教には「四苦」という考え方がある。生老病死である。生まれる苦、老いる苦、病む苦、死ぬ苦。人間はこの苦しみの輪をぐるぐると回り続ける。これが輪廻である。そして仏教は、この輪廻の苦からどう逃れるかを大きな問題としてきた。つまり解脱である。
ところで現代人にも四苦がある。Plan、Do、Check、Actである。
計画する苦、実行する苦、評価される苦、改善させられる苦。これが現代の四苦である。人間はこの苦しみの輪をぐるぐると回り続ける。これがPDCAである。そして現代教育は、この輪廻から逃れるどころか、むしろそれを高速で回すことを子どもや学生に求めているように見える。
まずPlanの苦がある。目標を立てなければならない。将来の自分を描かなければならない。課題を発見しなければならない。「あなたはどうなりたいですか」「何を身につけたいですか」「そのために何をしますか」と問われる。まだ何も始まっていないのに、すでに現在の自分は未来の自分に縛られている。目標を持てと言われる。夢を持てと言われる。主体的に計画せよと言われる。なかなかしんどい。
次にDoの苦がある。立てた目標は実行しなければならない。計画したからには行動しなければならない。努力しなければならない。挑戦しなければならない。学びを深めなければならない。主体的に取り組まなければならない。Planの段階ではまだ紙の上で苦しんでいればよかったが、Doになると身体を動かさなければならない。しかも、自分で立てた目標なのだから文句は言いにくい。自分で決めたことなのだから、やるしかない。ここに、主体性の恐ろしさがある。
そしてCheckの苦が来る。これがいちばんきつい。振り返らなければならない。自己評価しなければならない。何ができて、何ができなかったかを明らかにしなければならない。ルーブリックに照らされ、ポートフォリオに記録され、アンケートに答え、コメントを書き、達成度を数値化される。自分という存在が、できたこととできなかったことの一覧表になっていく。Checkとは、自分の不足が可視化される苦である。
最後にActの苦がある。改善しなければならない。次に活かさなければならない。同じ失敗を繰り返してはならない。よりよい方法を考えなければならない。ここで一見、苦しみは終わるように見える。しかしActは終わりではない。Actは次のPlanへの入口である。改善したら、次の目標が生まれる。次の目標が生まれたら、また実行し、評価され、改善させられる。つまりActは解放ではない。次のPlanへの転生である。
こうして人は、PDCAの輪廻を回り続ける。
もちろん、PDCAそのものが単に悪いわけではない。工場の品質管理や業務改善に使うなら、それは大いに役に立つ。授業改善にも、学校運営にも、研究計画にも、一定の意味はある。問題は、PDCAが人間そのものにまで入り込んでくることである。自分を計画し、自分を実行し、自分を評価し、自分を改善する。自己理解、自己管理、自己分析、自己調整、自己実現。気がつけば、自己とは生きるものではなく、運用するものになっている。
現代教育は、しばしば「できる」ことを目指す。わかるようになる。できるようになる。主体的に学べるようになる。自分の課題を発見できるようになる。自分で目標を立てられるようになる。自分で振り返り、改善できるようになる。教育とはそのような営みだと言われれば、その通りである。教育は、人間が変わりうることへの信頼なしには成り立たない。
しかし、「できる」が強くなりすぎると、教育は「できない」ことに耐えられなくなる。できないことは、ただちに課題になる。行けないことは、登校支援の対象になる。黙っていることは、表現力の不足になる。やる気が出ないことは、自己管理の問題になる。わからないことは、説明不足か努力不足になる。どんな苦しみも、やがて改善計画の中に回収される。
ここで少し、立ち止まってみたい。
もしかすると、ある子どもが学校に行けないということは、単なる不適応ではないのかもしれない。もちろん、不登校を美化するつもりはない。本人も家族も苦しんでいる。学習の保障も、居場所の保障も、生活の支援も必要である。そんなことは大前提である。
しかしそれでも、不登校という現象には、現代教育の病弊がどこかに映り込んでいるのではないか。学校に行けない子どもは、もしかすると、PDCAの輪に乗れない子どもである。あるいは、その輪を身体で止めてしまった子どもである。目標を立て、努力し、評価され、改善する。その循環が当たり前になった教育の中で、行けない、できない、動けない、言葉にならないという現象が起きている。それは単なる欠如ではなく、「もうこれ以上、自分を回せません」という身体からの知らせなのかもしれない。
だとすれば、教育に必要なのは、PDCAをさらに高速で回すことだけではない。むしろ時には、その輪から降りることが必要になる。私はこれを「PDCAからの解脱」と呼びたい。
解脱と言っても、悟りを開けという話ではない。まして、学校をやめろ、努力するな、成長するな、という話でもない。そうではなく、自分を改善し続けなければならないという命令から、ほんの少し身を引き剝がすということである。できないことを、すぐに課題にしない。わからないことを、すぐに説明しない。動けないことを、すぐに支援計画へ変換しない。沈黙を、すぐに表現力の不足にしない。相手を、すぐにわかったことにしない。
教育には、「できるようにする」力が必要である。しかし同じくらい、「できないことに耐える」力も必要である。すぐに改善しないことに耐える。すぐに答えが出ないことに耐える。すぐに登校できないことに耐える。すぐにわからない子どもに耐える。そして何より、すぐに有能な教師になれない自分に耐える。
AIの時代には、この問題はいっそう切実になる。AIは、すぐに答える。すぐに要約する。すぐに説明する。すぐに比較する。すぐに見取り図を出す。便利である。ありがたい。私も使う。しかし、だからこそ教育は、「すぐにわかってたまるか」という感覚を失ってはいけない。人間は、そんなにすぐにはわからない。世界も、そんなにすぐにはわからない。子どもも、学生も、教師も、そんなにすぐにはわからない。
わかったつもりになることは簡単である。評価することも、分類することも、支援計画を立てることも、以前よりずっと簡単になっている。しかし、相手とは、こちらの理解を押し返してくるものである。すぐにはわからないからこそ、相手なのである。すぐにわかってしまうものは、もはや相手ではなく対象である。
だから教育は、これからますます、「できるようにする教育」だけでは足りなくなる。必要なのは、「できないことに耐える教育」である。もっと言えば、「すぐにはわからないことに耐える教育」である。目標を立て、実行し、評価し、改善することは大切である。しかし人間は、その輪の中だけで生きているわけではない。
たまにはPlanしない。Doしない。Checkされない。Actさせられない。ただ、いる。ただ、待つ。ただ、わからないままにしておく。ただ、相手が相手として現れるのを待つ。それは、現代教育における小さな解脱である。
PDCAから解脱した先にある教育は、何もしない教育ではない。むしろ、急いで何かをしすぎない教育である。人間をすぐに改善対象にしない教育である。できなさを欠陥としてだけでなく、相手が現れる場所として受け止める教育である。
教育は、人間をできるようにする。しかし教育は同時に、人間ができないことに耐える。AIが可能にしたインスタントな時代だからこそ、この二つのあいだで、もう一度、教育というものを考え直す必要があるのではないか。