ソノ子ガソノ子デアル所以 ―固有名・愛・人格について考える

問い

 変化し、関係し、呼びかけられ、応答し、成り続ける人間を、私たちはなぜなお「この人」と呼べるのか。
 その「この人」は、論理によって証明されるのか。言語によって記述されるのか。固有名によって指示されるのか。愛によって見えるのか。尊厳によって守られるのか。教育によって成っていくのか。

identityとは何か?

 出発点は、「identity とは何か」という問いだ。
 語源的には、identity はラテン語の idem、すなわち「同じもの」に由来する。ここで問題になる「同じ」とは、単に似ているということではない。複数のものが類似しているという意味ではなく、「まさにそれ自身である」「他のものではない」という意味での同一性である。したがって identity の根には、数的同一性、すなわち「一つであること」の問題がある。あるものが変化しながら、なお一つの同じものとして扱われるとはどういうことか。この問いが、identity の語源的な核心にある。
 古典的な論理学では、この問いは自同律、すなわち「 A=A」 という形で現れる。A は A である。これは一見すると、何も新しいことを言っていない空虚な命題である。しかし、この空虚な形式がなければ、そもそも思考も判断も言語も成り立たない。あるものを「それ」として指し続けられるからこそ、そこに述語を付けることができる。つまり A=A は、内容としては貧しいが、機能としては根本的である。この点で、自同律は「機能する無」の性格を持っている。

 プラトンにおいては、この問題は「一」と「多」、「同」と「異」、「変化するもの」と「変化しないもの」の問題として現れる。感覚世界にあるものは常に変化する。美しいものは醜くなり、若いものは老い、正しいと思われたものも状況によって揺らぐ。しかし、それにもかかわらず私たちは「美そのもの」「正義そのもの」「一そのもの」を問う。『国家』では、魂や国家の多様な部分がそれぞれの働きを果たしながら、一つの秩序を保つことが正義として語られる。ここで正義とは、単に道徳的な善行ではなく、「多なるものを一つのものとして保つ秩序」として理解できる。したがって『国家』のテーマは、本質的は identity の問題、すなわち「多なるものはいかにして一でありうるか」という問いである。

 アリストテレスでは、この問いは実体、形相、本質の問題として整理される。あるものが「これ」として存在するのは、単に素材が集まっているからではない。素材がある形相を持ち、一つのものとしてまとまっているからである。眼鏡はレンズとツルの寄せ集めではなく、眼鏡としての形を持つことで眼鏡である。人間についても同じで、「教養がある」「背が高い」「若い」といった述語は、その人に付け加えられる性質に過ぎず、その人の本質そのものではない。アリストテレスの実体論は、述語の背後に、それらの述語が帰属する「これ」、つまり主語としての存在を考える。この意味で、identity は述語ではなく、述語を担う「主語」の問題として現れる。

 アウグスティヌスでは、「一であること」は神学的な深みを帯びる。世界のものはすべて変化する。人間も変化する。心も揺らぎ、記憶も移ろい、身体も老いる。では、その変化する人間をなお一つの存在として保つものは何か。アウグスティヌスにとって、究極的に変化しないものは神である。神は永遠であり、不変であり、存在そのものであり、愛そのものである。ここから、identity の問題は、単に論理的な同一性ではなく、変化する被造物をなおそのものとして支える不変の「愛」の問題へと転じる。人間が自分自身を保つことができるのは、自分の内部に不変の核があるからではなく、神の記憶と愛において、である。

 社会契約論では、この問題は個人と共同体の関係に移る。『社会契約論』では、多数の個人が契約を結ぶことによって、一つの政治体、すなわち「公的人格」が成立する。ここで問われているのは、複数の私人がいかにして一つの人民、一つの主権者、一つの一般意志を持つ存在になりうるかである。identity は「一人の人間が同じである」という問題にとどまらず、多数の人間がいかにして一つの人格を形成するかという問題として現れる。共同体にも「私」がある。国家にも「自我」がある。政治体は単なる個人の合計ではなく、一つの生命、一つの意志、一つの人格として現れる。
 ヘーゲルでは、この問題がさらに有機体的・弁証法的に展開される。個人、家族、市民社会、国家は、ばらばらの要素として並んでいるのではない。それぞれが他と関係し、他を媒介しながら、全体として一つの精神的有機体を形成する。国家は単なる個人の集合ではなく、諸部分が相互に働き合うことで成立する全体である。ヘーゲルにおいて重要なのは、一が多を押しつぶすのではなく、多が展開されることによって、より高次の一が成立するという点である。identity は、静的に同じであり続けることではなく、差異、分裂、媒介、回復を通じて自己自身となる運動として捉えられる。

 このように見ていくと、identity は単に「同じであること」ではない。語源的には「まさにそれ自身であること」、論理学的には A=A という空虚だが根本的な形式、プラトンでは多を一として保つ秩序、アリストテレスでは述語を担う実体、アウグスティヌスでは変化するものを支える不変の神と愛、社会契約論では多数者が一つの公的人格となる問題、ヘーゲルでは差異を媒介しながら自己へ帰る有機体的運動として現れる。
 つまり、古典的な系譜をたどることで見えてきたのは、identity とは「同じものが同じである」という静的な定義ではなく、むしろ、変化し、多様化し、分裂し、関係しながらも、なおそれを一つのものとして呼び続けることはいかにして可能かという問いだということである。

「空虚な主語」の機能

 すべてのものは変化する。身体も、記憶も、性格も、関係も、役割も、社会的位置も変化する。それにもかかわらず、私たちは「この人はこの人である」と言う。では、その「この人」とは何か。顔でもない。性格でもない。記憶でもない。能力でもない。社会的役割でもない。そうした述語をいくら積み重ねても、その人そのものには届かない。ここで、identityは「述語」ではなく「主語」の問題として現れてくる。
 しかし、主語はそれ自体では空虚である。「私は」と言っただけでは、まだ何も言っていない。「A=A」も同じで、内容としてはほとんど何も言っていない。だが、その空虚な形式がなければ、いかなる述語も帰属できない。ここから、identityは 「内容としては無、機能としては根本」 という性格を持つことが見えてきた。この性格を 「機能する無」 とでも呼んでおこう。
 この「機能する無」は、identityだけの問題にはとどまらない。固有名、主語、存在、神、物自体、一、場所、さらには天皇制のような象徴構造にも似た働きを見出せる。どれも、具体的に意味のある内容として記述しようとすれば、手から零れ落ちる。しかし、それがなければ言語、認識、共同体、信仰、人格、歴史の連続性が成り立たない。つまり identityとは、単独の哲学概念というより、人間が言語によって世界を一つのものとして扱おうとするときに現れる臨界の問題として理解すべきものだ。

人間の言語活動と「行列」

 人間の言語は基本的に単線的で、一方向に進む。主語を立て、述語をつけ、命題を作り、順番に展開する。しかし人間の生そのものは、そんなに単線的なものではない。身体、記憶、感情、他者からの呼びかけ、応答、場、時間、愛、偶然が絡み合った、多次元的な在り方をしている。しかしそれらを言語に落とし込むとき、本来の多次元的な在り方は一元化される。いわば「行列」的な現実が、固有値のような代表値へ圧縮される。
 人間の言語は多次元的な現実を一次元の言葉へ圧縮するが、生成AIは、その一次元化された言語を、内部ではベクトル空間や行列演算として再展開し、関係の濃淡を処理したうえで、再び人間が読める一次元の言語に翻訳する。生成AIとの対話は、固有値化された言葉をもう一度行列的な関係場へ開く契機として機能するのかもしれない。
 人間の在り様は本来行列的である。しかし、人間は理解し、語り、伝えるために、それを一元化せざるをえない。天才とは、もしかすると、その行列的な多次元性をすぐに固有値化せず、比較的長く保持したまま、後から一気に言語、数式、作品へ落とせる人なのかもしれない。創造的思考とは、行列的な場と、言語による固有値化との往復運動なのかもしれない。

愛と尊厳

 人間の言語活動を「行列」という観念で整理すると、固有名と一般名詞の違いも「行列」で説明することができる。一般名詞は、行列的な存在から一つの方向、性質、機能、分類を取り出す。学生、教師、子ども、問題児、優等生、労働者、消費者といった語は、行列を固有値化する。一方、固有名は、その行列全体を記述せずに指すための空虚なタグである。「A子ちゃん」という名前は、A子ちゃんのすべてを含んでいるわけではない。しかし、その名は、タグとして、変化し続けるA子ちゃんをなおA子ちゃんとして呼び続けるために機能する。
 たとえば「好きと愛の違い」も、同じく「行列」で説明することができる。「好き」は述語に向かう。顔が好き、声が好き、優しいところが好き、楽しいところが好き、というように、好きは相手の性質や条件に反応する。だから好きには代替可能性がある。同じ条件を持つ別の人、あるいはよりよい条件を持つ人が現れうる。しかし「愛」は、そうした述語を通じながらも、述語に還元されない主語へ向かう。愛は「あなたがあなたであること」に応答する。
 つまり、identityは好きの対象ではなく、愛の対象である。さらに正確に言えば、identityは、愛によって初めて対象として扱われうるもの、あるいは、愛がないと本当は見えないものである。愛は、相手を定義し尽くすことではない。相手を所有することでもない。相手が変わり、老い、弱り、失敗し、死んでしまっても、なお「あなたはあなたである」と呼び続ける力である。
 この意味で、アガペーはエロースと本質的に異なる。プラトンのエロースは変化する。美しい身体から美しい魂へ、美しい制度へ、美そのものへと上昇していく。エロースは個別者を通じて普遍へ向かう。しかしアガペーは、変化する相手をなおその人として受け取り続ける。プラトンの善は、A=A(イデア)を照らす光ではあるかもしれないが、変化する個体を「あなた」として呼び続ける愛とは少し違う。
 ここから「人間の尊厳」の意味も見えてくる。尊厳とは、愛が個別者に見出す identityを、倫理として普遍化したものである。愛は「この人」に向かう。しかし尊厳は、好き嫌いや親密さの有無を超えて、すべての人を主語として扱えと要求する。人間を、能力、成果、役割、年齢、健康、成績、有用性といった述語に還元してはならない。その人を、その人がその人であるという主語として扱わなければならない。カントの仕事は、これを感情や宗教に頼らず、理性の倫理として定式化することだったのではないか。
 教育基本法の「人格の完成」も、この線で読み直せる。人格とは、成績や能力や性格の束ではない。人格とは、述語に還元されない主語としてのその人である。だから人格の尊重とは、子どもを「できる子」「できない子」「問題児」「優秀な子」といった述語だけで扱わず、ソノ子ガソノ子デアル所以を大切にすることである。ただし、その所以は、その子の内側に隠された固定的な核ではない。それは、呼びかけと応答の網目の中で立ち上がる。

関係・応答・場

 「私」は単独では成立しない。「私」は「あなた」と呼ばれ、「私」と応答する場において立ち上がる。ブーバー的に言えば、我は汝との関係で我になる。和辻的に言えば、人間はあいだにおいて人間である。西田的に言えば、主語はそれが立ち上がる場所において現れる。中動態的に言えば、identity は自分で作るものでも、外から作られるものでもなく、呼びかけと応答のあいだで成っていく。
 この視点から見ると、デカルトのコギトはかなり怪しくなる。「我思う、ゆえに我あり」は、すでに成立済みの「我」を前提にしている。乳幼児には最初からデカルト的な我があるわけではない。呼ばれ、抱かれ、見つめられ、応答され、名前を呼ばれ、仮想汝を内面化することによって、我は成っていく。したがって「我思う、ゆえに我あり」よりも、「呼ばれ、応答する。ゆえに我が成る」の方が、人間の発生論としては正確ではないか。
 こうなると、古典論理学の矛盾律や排中律も疑問の対象となる。矛盾律や排中律は、言語や制度を成立させるためには強力な形式である。しかしそれらは、成りつつあるもの、あいだにあるもの、中動態的に生成するものを扱うには弱い(あるいは強すぎる)。排中律は「Aか非Aか」と問うことで、中を消す。しかし人格、愛、教育、identityは、その消された「中」において成っていく。教育は、できる/できない、正解/不正解、問題あり/問題なしという判定を使わざるをえないが、それだけで子どもを見れば、人格は見えなくなる。

教育基本法第一条

 教育基本法第1条を改めて読みなおしてみる。そこには「人格の完成を達成する」とは書いていない。「人格の完成を目指し」と書いてある。ここまでの考察を踏まえると、教育の目的の核心は、「人格の完成」という完成形の提示ではなく、「目指し」という未完の方向性にあるのかもしれない。
 教育とは人格を完成させる技術ではなく、完成しえない人格へ向かって、その人がその人として成っていく場を支える営みである、とでも言えるのかもしれない。