【要約と感想】トマス・モア『ユートピア』

【要約】私の考えた最強の国家には私有財産がないので、みんな幸せです。

【感想】でも奴隷はいるのだった。
 さて、薄いわりに読み応えのある古典で見どころが盛りだくさん。労働、生産、分配、貨幣、交易、外交、行政、学術、治安、刑罰、婚姻、戦争、宗教と一通りの国家論が語られるが、中でもやはり最大の注目論点は「私有財産」の否定だろう。旧ソビエト連邦など共産圏の研究者がモアに注目するのも、もちろんこの主張のおかげだ。当然マルクスのような経済学的背景はないのだけれども、そのぶん素朴な倫理観と庶民的な常識に訴えかけてきて、現代においても説得力を失っていないと思う。というか、格差拡大を容認(というか促進)しながら公共性の基盤を破壊しようとする新自由主義が跋扈している現代においては、モアの主張は重要性を増してすらいるかもしれない。まさに原始蓄積が進行している様を生々しく描いて鋭く告発する本書は、経済的格差が存在する限り永遠に重要な古典であり続けるのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】囲い込み
 中学社会科の教科書にも出てくるイギリスの「囲い込み」という現象について、私はうっかり後の経済学者による分析によって明らかになったものだと思い込んでいたが、実際には同時代のモアにも明確に気づかれていた。

「(前略)イギリスの羊です。(中略)百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」31頁

 経営者(モアの場合は土地所有者)による合理的な営利活動が浮浪者や窃盗犯の増加という反道徳的な社会現象と明確に関連付けられ、そのネガとしてユートピアの私有財産否定が表現されていることには注意しておきたい。

【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
 中世までは人間の生命を最優先に尊重しようという見解はまず見られないのだが、モアには明確に見られる。

「私は、金を盗った為に命を奪られるということは、決して正しいことでも道理にかなったことでもない、と思っております。世界中のあらゆる物をもってしても、人間の生命にはかえられない、というのが私の意見なのです。」38頁

 エラスムスの平和主義的な態度も思い起こさせる表現だ。これがルネサンス一般の趨勢なのか、それともエラスムス周辺に限られた見解なのかは、検討を要する(少なくともマキアヴェッリには見られない)。
 これに関して、一か所にだけ登場する「尊厳」という単語にも註も臆しておきたい。

「動物の霊魂も、人間の霊魂には尊厳の点ではるかに劣り」201頁

 しかしこの「尊厳」の原語がdignityだった場合、それを「尊厳」と訳すべきか「位階」と訳すべきかについては注意深い検討が必要だ。上記引用文の場合は「位階」でも意味は問題なく通じる。これを「尊厳」と理解したくなるのは、モアが人間の生命を最優先に尊重する姿勢を見せているからだろうか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 ユートピアには「学校」の具体的な描写がまるで登場しない。モアの関心には「学校」という施設・組織がまったく上がってきていない様子だ。
 いちおう単語として「学校」が出てくる文章はサンプリングしておく。

「殆ど全世界の者が、生徒に口でいってきかせるよりも、むしろ鞭にものをいわせたがる悪い学校教師に似ています。」25頁

 この文は窃盗犯に対して極刑で臨む姿勢に対して批判を加える文脈で出てくる。モアは極刑では窃盗は減らないと主張しており、それは同時に体罰では子どもに言うことを聞かせられないという姿勢となる。エラスムスは明確に体罰を批判しているが、モアも体罰に批判的だと考えて間違いないだろう。
 一方、どうやらユートピアにも「学校」は存在して、そこでは「仕来り」や「規則」を教わることになっているようだが、しかし重要な知識を実体験から身につけることになっているのには注目したい。

「農業は男女の別なくユートピア人全般に共通な知識となっている。彼らはみなこの道における熟練者である。すべて子供の時から教えこまれるが、学校で従来の仕来りや規則を教わる一方、また他方では都市の近郊に遊びがてら連れ出され、人々のやっているのを見るばかりでなく、実際に自分たちの体を働かしてやってみることによっても習得するのである、」98頁

 農業に関する知識の話ではあるが、「遊び」と絡めながら「やってみることによっても習得する」というアクティブラーニングの手法が示されている。このアイデアが16世紀前半に明確に打ち出されていることには注目しておきたい。
 一方、農業のような実学とは異なる「教養」と「学問」にも言及されている。

「ユートピア人がこういったいろいろな考え方をもつようになったのは、一つには、今いったような種類の迷妄とはおよそ縁遠い、彼ら独自の法律・習慣をもった、国家の中で育てられたせいもあるが、一つにはまたすぐれた教養と学問の力にもよるのである。(中略)けれども、ユートピアでは国民全部が子供の時には学問を学ばなければならないのだ。」131頁

 どうやら子どもの頃から「教養」と「学問」を身につけることになっているとのことだが、スコラ的に概念を弄することは明確に批判され、自然科学を踏まえた実学を身につけるべきことが強調されている。
 さらに宗教を語る段になると、教育に当たっていたのが宗教者であることが明らかになる。どうも学校教師という役割はユートピアでは居場所を持たないようだ。

「青少年の教育の任に当るのも司祭たちである。彼らは正しい心や風俗について教えることに熱心なばかりでなく、学問を教えることもこれに劣らず熱心である。子供たちの頭がまだ柔かくてしなやかな間に、国家の発展に必要適切な正しい信念をたたき込むために、彼らは懸命な努力をする。」207頁

【個人的な研究のための備忘録】快楽とエピクロス主義
 本書には「快楽」についてそこそこのボリュームで語るのだが、内容はあからさまにエピクロス主義を彷彿とさせる。魂の物質性を明確に排除している点はエピクロス主義とは一線を画しているものの、「幸福」という概念との絡みなどの基本線はエピクロス主義と基本的な発想を同じくしているように思える。もちろんルネサンス期にはルクレティウスなどを通じてエピクロス主義の考え方は既によく知られており、それを踏まえている可能性は極めて高い。

「彼らにとって一番根本的な問題は、人間の真の幸福はなにを、それがただ一つのものかそれともそれ以上のものかはともかく、その基盤としているか、ということである。しかし、この点における彼らの考えは、快楽を弁護する人々、つまり人間の幸福のほとんどすべては快楽にあるとする人々の考えに、あまりに偏りすぎているように思われる。そして、さらに驚くべきことは、彼らがこのような人間味豊かな考えの根拠を、じつにその峻厳無比な宗教に求めていることである。」134頁
「そういうわけで、この問題を十分に考えた結果、人間のすべての行為は、いやそのすべての徳そのものでさえ究極的には快楽をその目的ともし、幸福の源ともしていると、彼らは考えるのである。」139頁
「健康を人間の主な快楽と考えている人々は非常に多いのである。この点ユートピア人は例外なしに、皆これを人間最大の快楽、いや、いわばあらゆる快楽の根源とさえも考えているのである。」147頁

 このような「快楽」と「幸福」に対する姿勢がどの程度エピクロス主義の影響を受け、同時代のルネサンス作家と比較してどのような性格を持ち、後のホッブズやロック、ヒュームやベンサムやミルなどイギリス経験論者にどう引き継がれていくか、要検討事項になる。

【個人的な研究のための備忘録】技術
 「印刷術」につしては、フランシス・ベーコンやモンテスキューなども極めて高い評価を与えているが、モアもご多分に漏れない。同時代の人々にとっても画期的なテクノロジーであったことは踏まえておいてよい。

「けれどもその彼らにしてなおわれわれに対して感謝してしかるべき技術が二つある。印刷術と製紙術がそれである。」157頁

【個人的な研究のための備忘録】人格 
 「人格」という言葉がいくつか出てきたのでサンプリングしておく。後のホッブズの用法とはずいぶん異なる。

「糸の細い織物をきればそれだけ自分たちの人格の値打も高くなると思っているのである。」140頁
人格と勇気に秀でた人」185頁
「その人格の故にのみかくも尊い地位につくことができたという人」210頁
「なまなかな人格をもってしては不可能なのだ。」210頁

トマス・モア『ユートピア』岩波書店、1957年