【要約】(前半)王権神授説はあらゆる点から見て、デタラメです。
(後半)あらゆる人間は自然法に従って自由に生きるという点で平等です。知性がない子どもは法を認識できず、従って自由もないので、両親が導き教育をしなければいけませんが、成人に至れば親と同じく自由です。各人の自由な労働から所有権が発生します。生命や自由や所有権を侵害された場合に各人には自分の権利を回復する権利が当然あるだけでなく、自然権に基づいて他者を罰する権利も持っています。しかし自然状態では確実に固有権(生命・自由・財産)を保障できるとは限らないので、人々は合意して社会状態に入り、一つの政府を作ります。政府の役目は、人々が自然状態で保有していた固有権を社会状態において確実に保障するために、ルールを作り、ルールに基づいて裁き、罰を実行することです。逆に言えば、固有権を保障できない政府は人民の合意によって変更されても文句は言えません。
【感想】本文中でもホッブズを批判しているが、個人的にはホッブズとロックの最大の違いは、ホッブズが「情念」に対する分析を丁寧に行った上でそれに基づいて自然状態を想定したのに対し、ロックが「情念」に対して一切の関心を払っていないところのように感じた。ロックが想定する自然状態下の人間はまさに「タブラ・ラサ(白紙説=生得観念の否定)」で、一切の情念を持っていないように見える。加えて、ロックの「タブラ・ラサ」と「情念」に対するスタンスは首尾一貫しておらず、ところどころに生得観念を前提して話を進めたり、自然状態から社会状態への移行に際しては「恐怖」や「不安」という情念を仄めかしながら「安全への志向」を持ち出したりする。論理の一貫性という観点から言えば、ホッブズの方が徹底しているように思える。また、自由と必然に関する哲学的考察についても、結論はともかくとして、ホッブズは原理的に検討したうえで議論を展開しているのに対し、ロックの方は無頓着に「自由」という概念に依っているように見える。だからホッブズの方は人間に必然的に生じて自分ではコントロールできない「恨みつらみ、嫉妬、軽蔑」という情念による闘争発生を必然と見たのに対し、ロックの方は情念を原因とする闘争発生を一切考慮しない。
先行研究ではホッブズとロックの違いを「生産力」に見ているようだが、個人的には極めて大きな違和感を持つ。「生産力」よりも「情念」や「自由と必然」に対する考え方のほうが決定的な違いのように見える。昭和の先行研究が「生産力」にやたらと注目するのは、もちろんロックを中産階級代表とみなしたい資本主義発達史的な関心によるのだろう。研究関心が偏ること自体は特に問題ないのだが、テキストの読み方も偏ることは自覚しておいた方がいい。
一方、ホッブズにはなくロックの方で手厚いのは、親子間の権力関係に対する洞察だ。ホッブズの方は子に対する生殺与奪権を親に無造作に与えている。しかしロックの場合は、論敵フィルマー理論の核心にある「アダムという父が持つ無限定の父権」を否定するためにも、父と子の間の権力関係を丁寧に解きほぐさなければならず、父権の内実を徹底的に限定していくことになる。この議論は、ホッブズにはいっさい見られない、ロックの決定的な特徴のように思える。そして、ロックが描く自然状態から社会状態への移行の記述が極めてアッサリ風味(しかも契約の単位は個人ではなく家族ではないか)なのに対し、父権を限定しようとする議論を綿密に展開しているのを見ると、先行研究が言うような王権神授説に対する社会契約説(人々の合意による政府の形成)の主張よりも、「アダム由来の父権」説に対抗する自然的家族観の提出の方が本質的に重要な話にも見えてくる。さらに「タブラ・ラサ」の原則が崩れる記述も、親に自然に与えられた子どもへの愛情、そしてそれに裏打ちされた、自由な市民相互の関係には解消されない子どもの自然な義務、という文脈で登場してくる。親や子どもに「自然」に与えられた愛情や尊敬の感情という議論は、本書の訳者が前面に打ち出す「神の作品」という観点から生じてくるもののようにも思う。ということで、本書は政治学(自由で平等な市民相互、あるいは市民と政府の間の権力関係)としてだけではなく、教育学的(親と子の間の権力と義務、およびその原則を超える自然の愛情)に読まれて初めて十全な意味を持つ、と主張したい。
【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
とはいえ、もちろんまずは政治学的な議論は丁寧に押さえておかなければならない。押さえるべき要所はホッブズ理論との違いであり、「自然状態」「戦争状態」「社会状態」の定義と相互の関係に対する理解がポイントとなる。
ホッブズは「自然状態」と「戦争状態」を重ねて同じものと見なしたが、ロックは「自然状態」であっても「戦争状態」になるとは限らないと考える。後のルソーも、ロックの理屈とはかなり異なる議論を展開するが、「自然状態」を「戦争状態」と理解しない点においてはロックに通じる。それを前提に、ロックは「社会状態」を描く。
つまり社会状態において各個人から政府に委託されているのは「立法権」(ルールを決める)と「司法権」(ルールに従って裁く)であって、生命権はともかく所有権や財産権も手つかずで各人の元に残っている。さらに親と子の間の関係も手つかずで残り、政府のルールではなく自然法に従うことになる。(ただし自然法に従わない他者を裁く権利が本来的に各人にあるので、親と子の関係が自然法から逸脱している家庭に対しては政府が関与する余地が生じる)。この結論はもちろん主権者に絶対的な力を与えたホッブズとはまるで違ったものになっている。そして所有権や財産権が手つかずで残ったことが後に資本主義発達史的に深刻な問題になったのと同じく、親子関係が共同体から切り離されて「自然(の愛情)」と見なされたことが教育の場面で深刻な問題になっていく。
しかし当座の問題は、どうして「自然状態」から「社会状態」に移行するのか、その理屈とメカニズムである。
「従って、人が、政治的共同体へと結合し、自らを統治の下に置く大きな、そして主たる目的は、固有権の保全ということにある。自然状態においては、そのための多くのものが欠けているのである。」442頁
そして「ルール」と「審判」と「強制執行者」がいないのが根本的な問題だ、と話が続くわけだが、「情念(つまり人間に課せられた生物学的な必然)」から話を起こすホッブズに対して、ロックはあくまでも「権利(つまり人間に許された自由)」から話を進めようとする。だから、自然状態から社会状態へ移る際に「不安」とか「恐怖」などの情念を持ち出してくる展開には、唐突感が否めない。ここを「権利」の理屈で推し進められると首尾一貫した強力な理論になるわけだが、それはルソーが後に『社会契約論』で達成することになるだろう。
【個人的な研究のための備忘録】人格
ホッブズは「人格」という言葉を連発したが、ロックは散発するにとどまる。
解説によれば上記引用部の「身体」の原語はpersonsだ。前後の文脈から「人格」と訳さなかったのだろう。実際、personをどう訳すかは、かなり難しい。
上記引用文で使用される「人格」という言葉は、日本語の文章の中に置かれるとかなりの違和感を醸し出す。現代日本語における「人格」という言葉は人柄とか性格のような意味を含みこむが、上記引用文の「人格」にはそういう意味合いが一切ない。ここでの「人格」は、ホッブズが『リヴァイアサン』で使用していたのと同じく、「何らかの裏付けがある権力や権威に基づいて行動を起こす主体」という意味を持つ。以下もまた同じである。
「(前略)われわれにも、彼が、どのようにして、また、まずまずの分別をもって、すべての王の権威を、一人の人格の中では必ずしも合致しない別々の権原であるアダムの自然の支配権と私的な支配権と、つまり父たる地位と所有権との双方から引き出すことができるかわからないであろう。」153頁
「すべての権力は神の定めにより相続を通してアダムから伝えられたものであり、農園主は、自分の家で生まれたか自分の金銭で買ったかした家僕に対して権力をもつのだから、彼の人格も権力も神の命じたものであることが証明されるなどとすることは、まったくもって賞賛に値する議論だと言う他ないであろう。」230-231頁
「しかし、われわれの著者は、『パトリアーカ』の十九頁において、「神は、ある特定の人を王たるべき者に選ぶときはいつでも、その認可では父親しか名指してはいないにせよ、彼の子孫も、父親の人格のなかに十分に含まれるものとして、その認可の利益に浴するように意図しているのである」と語っている。」273頁
「なぜなら、イスラエルの民がエジプト虜囚から脱してダビデの下に戻った四〇〇年の間、イスラエルを支配した士師たちの間で、父の死後、息子の誰かがその統治を引き継ぐほどには、子孫は「父親の人格のうちに十分に包含されている」『パトリアーカ』一九頁ということは決してなかったからである。」276頁
「われわれの著者は、『パトリアーカ』一九頁で「神の認可においては父親しか名指しされていないにせよ、子孫も父親の人格のなかに十分に含まれている」と述べている。」279頁
「彼が権力を要求しうるのは、法の権力を付与された公的人格としてだけであって、従って、彼は、法のうちに表明された社会の意志によって動かされる政治的共同体の表象、化身あるいは代表と考えられなければならない。」476頁
論敵フィルマーの引用文を含めて「人格」という言葉が使用される場面では、必ず「権力」や「権威」や「地位」が問題とされ、それを「表象」「化身」「代表」する何らかの具体的な身体がイメージされている。だから一人の身体がイメージできる場合には日本語の「人格」という言葉で違和感はないが、一人の身体の境界を越えて「権力」や「権威」や「地位」が拡大して使用される際に「人格」という言葉が使われると、現代日本人の感覚からは違和感を覚えることになる。個人的にはだから「人格」という訳語は不完全で不適切であり、他に良い言い回しがあるはずだと、前々から思っている。
【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
「人格」という概念に深く関わってくるのが、「人間の尊厳」という概念だ。しかしこの「人間の尊厳」という概念を問題にしたいのは、「尊厳」の原語がdignityだとして、それが実質的には神と獣の中間にある人間の「地位」を表現しているに過ぎないと思えるからだ。
上記引用文はロックのオリジナルではなくフッカーからの引用である。ここで訳者が「人間の尊厳」と訳している言葉は、おそらく「人間の地位」と言っても通用するような、ルネサンス以来の伝統的な用法に従っているように見える。これがいつからルネサンス的な「地位」という意味合いでは不十分で、近代的な「尊厳」というニュアンスを帯びるようになるのか、実は見極めが難しい。個人的には、フッカーやロックの段階では「尊厳」という意味合いは極めて薄く、単に「地位」と考えたほうがよいのではないかと感じている。一人一人のかけがえのない「尊厳」となるのは、古代以来の「獣/人間/神」というヒエラルキーが無効になってから後のことで、具体的にはルソーとカント以降になるのではないか、という直感がある。
【個人的な研究のための備忘録】子どもの権利
で、教育学を専門とする私の価値観から言えば、本書の見どころは、市民同士あるいは市民と政府の権利関係を明らかにした政治学だけではなく、親(特に父)と子の権利義務関係を詳細に記述したところにあると思う。
「子供というものは、自然の定めによって弱く生まれつき、自分を自分で扶養することはできないから、その自然の成り行きを定めた神自身の命により、両親によって養育され扶養される権利を、それも、単なる生存への権利だけではなく、両親の条件が許す範囲で最大限の生活の便宜と安寧とを与えられる権利をもつ。」170頁
「もし、神と自然とが子どもたちに与え、両親に対しては義務として課した権利、すなわち両親によって扶養され維持される権利がなかったならば、父親が息子の財産を自分の孫に優先して相続することも理に適うことになろう。」171頁
「彼[アダム]以来、世界には彼の子孫が住むようになったが、彼らは、すべて、知識も知性もなく、弱く無力な幼児として生れ落ちる。しかし、この不完全な状態の欠陥を補うために、成長と年齢とによる進歩がその欠陥を取り除くまでは、アダムとイブ、それ以降はすべての両親が、自然法によって、自分たちが儲けた子供たちを保全し、養育し、教育する義務を課せられることになった。ただし、その場合にも、子供たちは、両親の作品ではなく、両親を創造した全能の神の作品であり、両親は、子供たちのことについて、この全能の神に責任を負わなければならないのである。」357-358頁
「従って、子供たちに対して両親がもっている権力は、自分たちの儲けたものたちが幼少で不完全な状態にある間はその面倒を見なければならないという彼らに課せられた義務から生じる。子供たちがまだ無知で未成年のときに、彼らの精神を陶冶し、彼らの行動を律してやるということは、理性が親にとって代わり、親のその種の苦労を軽減してくれるまでは、子供たちの欲するところであり、また、両親の義務である。」359頁
「人間が、自らの意思を導くべき知性をもたない状態にある間は、彼は従うべき自らの意志を何一つもつことはない。その場合には、彼に代わって知性を働かせてくれる者が、彼の代わりに意志せざるをえず、また、彼の意志に支持を与え、彼の行動を規制しなければならない。しかし、彼が、自分の父親を自由人にした状態に達すれば、息子としての彼もまた自由人になるのである。」360頁
「それ以後は、父親と息子とは、ちょうど家庭教師と成人後の生徒との場合がそうであるように、ひとしく自由となり、ともに同じ法の臣民となるのである。そこでは、彼らが、自然状態の下で自然法の支配下にあろうと、あるいは、確立された統治の実定法の支配下にあろうと、父親に、息子の生命、自由、資産に対するいかなる統治権も残されてはいないことに変わりはない。」362頁
「このように、分別のつく年齢に達した人間の自由と、その年に達しない子供の両親への服従とは十分に両立し、十分に区別しうるのだから(後略)」363頁
「神は、自分たちが儲けた者に配慮することを両親の務めとし、また、子供たちがその下にあることを必要とする限り、子供たちの幸福のために神の叡智の計画に従って権力を用いさせるために、両親に彼らの権力を和らげるにふさわしい優しさと思いやりとの性向を与えたのである。」365-366頁
「いや、この権力は、何か特別な自然の権利によって父親に属するというよりは、子供たちの保護者である限りで父親に帰属するものであるから、彼が子供たちへの配慮をやめれば、彼は子供たちに対する権力を失うことになろう。その権力は、子供たちに対する養育や教育とともにあるものであり、それらと不可分に結びついているからである。」366頁
「未成年者の服従は父親の手に一時的な支配権を与えるが、それは、子供の未成年期が終わるとともに終わってしまう。」370頁
以上、親と子どもの間の権力関係に関する文章を抜粋したが、全体を一瞥してまず気がつくのは、「神」とか「自然」という言葉が連発されている点だ。ロックは、一般的な市民の間にあるような契約に基づく権力関係を、親子関係には認めない。それはまず論敵フィルマーの王権神授説を否定する決定的な論点になるからだろう。しかしさらに重要なのは、これこそがロックにおける「自然法」の核心をなす論点だからではないかとも思える。ロックは「家族」というものを共同体から切り離して独立した組織と見なして議論を進めるが、論敵フィルマーにはそうした発想がそもそもあり得ないし、おそらくホッブズにもない。フィルマーやホッブズにとって、家族はそのまま政治的共同体へと連続・拡大していく組織だ。また一方、ロックは社会契約説の契約単位として「個人」ではなくどうやら「家族」を想定しているであろう記述も散見される。というのは、ロックの議論に従えば「家族」とは「神」に設計されて「自然」の愛情に満ちたものであり、政治体のように契約に基づいて人工的に作られたものではない。この家族に関わる議論を展開する過程で、「子どもの権利」と「親の義務」が剔抉されてくる。この発想と論理展開は、前近代までには見られない、ロックにオリジナルなものだと思う。
上記引用文で、父親に与えられた「権力」が子どもに対する教育の「義務」に基づいて生じたと喝破しているのは、極めて重要だ。たとえばこの論理の系として、課せられた「義務」が終了すること(子育ての終了)があれば、自ずから与えられた「権利」も消失する。さらに、神と自然によって課せられた「義務」を果たさない者からは「権利」を剝奪することも可能となる。また課せられた義務の一部は「教育を他人に手に委ね」ることで社会的に共同化できるが、それは法的には「権利」を「他人に譲り渡す」ことと表現できる。要するに、近代的な「国民の教育権論」の原型がここに見られる。そして重要なのは、この子どもの権利と親の義務に基づく「教育権論」が承認されて「家族」が成り立つことで初めて社会契約説も可能になる、という論理構成をロックが展開しているということだ。つまり、政治学(市民同士の権力関係、および市民と政府の権力関係)に対して、教育学(親と子の間の権利義務関係)の方が論理的に先行するのだ。
ただ気になるのはこれと矛盾する発言をロックがしていることだ。
ロックが言うように「権力を譲渡することはできない」とすれば、権力の一部をなしていた教育を他人と共有化することができなくなる。さて、この前半と後半の矛盾をどう理解するか。
【個人的な研究のための備忘録】社会有機大切
ホッブズが社会有機体的な観点ばりばりの議論を展開したのに対し、ロックにはそういう素振りは極めて少ないのではあるが、しかし一部ぽろりと触れている記述がある。
勢いあまって出てしまった余計な言葉なのか、ロックの論理に有機的に結びついて必然的に出てきた言葉なのか、気になるところだ。
■ジョン・ロック/加藤節訳『完訳 統治二論』岩波文庫、2010年