【要約】モナドは、あります。それは目で見たり手で触れたりできるような物質的な何かではなく、人はそれを魂とか精神などとも呼んだりするような形而上学的点ですが、現実に存在しているのは実はこれだけで、何かが何かであるのはモナドの「一」なる働きによります。モナドは独立に自存する単純な存在ですが、他の実体すべてを含んだ世界全体を独自の観点から表象し、固有の内的な欲求に基づいて即自的に変化しながら自己実現を目指します。あらゆるモナドは神によってプログラムされた予定調和の秩序に従って多様な世界全体の完全な完成に向かいます。人間の魂は特殊な道徳的理性を持ち、神の下で精神的共同体を構成するので、真の幸福は神への愛にしかありません。
【感想】何を目的にした論考なのかを全く明らかにしないでいきなり「モナド」の定義から始まるので、最初から置いてきぼり感が半端ない。いちおう一通り最後まで読み切って、全体像を低解像度のままなんとなく把握して、その後に構成を整理して解像度を上げていくと、まあ、存在論と倫理学を貫く世界観が垣間見えてくる印象ではある。で、垣間見た結果としては、真顔でよくもこんなデタラメが言えるものだと、呆れるしかない。予定調和とか最善な可能世界とか、SF作家として成功しそうなくらい想像力豊かですね~とは思うものの、現代的観点からは、どうしようもなく荒唐無稽でバカバカしく見えてしまう。いや、現代の私がそう思うだけでなく、どうやら当時の人も荒唐無稽だと批判しているようだ。そりゃそうだろう。個々の論点でナルホドと思うところもなくはないが、全体を無矛盾な論理体系として構築しようとした結果、辻褄合わせのために苦し紛れの屁理屈を言い出す羽目になって、屁理屈を擁護するために無駄な労力を割いているように見える。そして、無駄な労力のおかげで仮に論理体系そのものが無矛盾になったとしても、妥当性があるかどうかにはまったく関係がないのであった。そして妥当性はまるで欠けている、ファンタジーだ。
そういう現代的な感覚から見てトホホに思える屁理屈に目をつぶり、虚心坦懐に哲学史的な資料だと心して読めば、近代の入り口に立ちつつある香りが濃厚に漂ってくることは、あるかもしれない。少なくとも中世スコラ学が逆立ちしても捻り出せないであろうオリジナリティには満ち溢れている(しかし一方で、新プラトン主義やアリストテレスやボエティウスで十分というか、そっちのほうが世界を説明する理論として妥当性が高い気がしないでもない)。またあるいは著者の数学的・物理学的な業績については圧倒的すぎて私ごときが文句をつける余地など寸毫もないわけだが、それを踏まえた上で、本書のように限られた有限の前提から無矛盾な体系を構築して全世界を説明し尽くそうという「数学的に無矛盾な世界観」への欲望そのものが近代的に極めて大きな歴史的意義を持つということかもしれない。
またあるいは思考の生産性という観点からは、隙があること自体に意味があるのかもしれない。たとえばライプニッツ自身はモナドのような「形而上学的点」を打ち出しながらも、それを「社会的点」と見なす社会契約論的な政治論・社会論を残していないわけだが、ライプニッツの概念を援用して社会構成の理論を考えるのは面白いかもしれない。具体的には、モナド同士の完全な「平等」と「自由」、そしてそれぞれの「完成」を最も尊ぶ「多様性」という考え方は、近代民主主義的な社会を構成しようとする際には何かしら前向きな意味を持ちそうだ。一つ一つのモナドが内在的な法則に従って世界全体を反映しながら自己表現するという主張は、個々人の固有の尊厳と権利を保障する「人権」という概念となにかしら響き合うものがあるかもしれない。独立自存のモナドが調和して全体の秩序を成しているという考え方は、なにかしら民主主義と響き合う世界観かもしれない。
言っていること自体は無茶苦茶で荒唐無稽だけれども、思考の生産性という観点からは名著と呼ばれるに相応しいということか。
【個人的な研究のための備忘録】一性
ライプニッツは「一性」を表現するためにギリシア語由来の「モナド」という言葉を使い、「実体の原子」とか「実在的一性」とか「形而上学的点」とも言い換えているが、哲学史を踏まえれば、形式的には新プラトン主義者が言うところの「一」であり、内容的にはアリストテレスが言うところの「エンテレケイア=完全態」である。
「多なるものはその実在性を真の一性からしか得られない。真の一性は[物質とは]別のところに由来するが、それは数学的点とはまったく別のものである。数学的点は延長するもの[延長体]の端にすぎず、様態にすぎないから、数学的点から連続体を合成できないことは確かである。それゆえ、そうした実在的一性を見いだすために、私はいわば実在的で生きた点、すなわち実体の原子に頼らざるをえなかった。」97-98頁
「実体的形相の本性は力にあり(中略)アリストテレスはそれを第一エンテレケイアと呼んでいるが、私は、おそくらもっと理解しやすいように、原初的力と呼ぶ。」98頁
「さらには、魂もしくは形相によって、私たちのなかの自我とよばれるものに呼応する真の[統]一性が存在する。」105頁
「実体の原子、すなわち部分を全然もたない実在的一性だけが、作用の源泉であり、事物の合成の絶対的第一原理であり、いわば、実体的事物の分析の究極的要素である。これは、形而上学的点と呼ぶことができよう。」105頁
このあたりは古代後期のボエティウスの議論に既視感が濃厚ではあるのだが、少なくともキリスト教中世やスコラ学には見えなかった議論で、ライプニッツが復活させたこと(しかも本人がそれを自覚している)には近代的な意義はあるのかもしれない。しかも数学的な微分積分の創始者であるライプニッツが「数学的点」と「形而上学的点」の違いを明確に理解していることは、実は「人格」とか「個性」という概念の展開を考える上で重要かもしれない。ここは侮れない。
こういう古代の個体化議論の影響に配慮する一方、古代の「原子論」の影響も視野に入れておく必要がある。原子論は、アリストテレスやボエティウスとは異なる学統に属するデモクリトスやそれに影響を受けたエピクロス派に特有の議論だった。この派閥はルネサンス期にルクレーティウスが再発見・再評価されてから目立ち始め、モンテーニュには色濃い影響を確認することができる。そしてエピクロス主義は、デカルトやスピノザ、ホッブズと同時代のガッサンディによって本格的に復権する。ライプニッツも、この古代原子論やガッサンディに言及している。
「ガッサンディ派が彼らの原子に付与している持続を、形相に与えるだけのことだからだ。」99頁
で、近代に関わる問題は、原子論が物理的な現象の説明に留まらず、その想像力の射程が政治的・社会的な議論に及ぶかどうかだ。原子論に反対するストア派やカトリック神学は、政治や社会を有機体的な宇宙秩序(コスモス)と理解し、一人一人の人間を単位とした政治や社会を構想しなかった。それが近代の入り口に差し掛かった段階(1642年の清教徒革命)で、ホッブズがリヴァイアサンにおいて個人(実際には小家族だったかは問題になるが)を単位として社会を構成する論理を提示した。そして実は、その社会契約的なアイデアそのものは古代のエピクロスにもそっくりそのまま見いだせる。エピクロス派は単に物理学的な原子論を主張しただけでなく、政治的・社会的な単位としての「個人」も剔出していた。だとしたら同様に、「モナド」という概念でもって物理的・精神的な個体化の論理を打ち出したライプニッツが、国家共同体を個体化の論理で構成する議論を打ち出したってよかったはずだ。しかしライプニッツには、政治的・社会的共同体をモナドから構成しようとする発想はまったく見られない。むしろ中世キリスト教的な宇宙秩序による説明に終始しているような印象がある。どうしてモナドを国家論に適用しなかったか。まさかホッブズやスピノザ、そしてジョン・ロックが展開した社会契約論の議論を知らなかったわけではあるまい。
【個人的な研究のための備忘録】完全性
さて、古代哲学のアリストテレスやボエティウスが扱った「一性」の概念には「完全性」の概念も密接に関係していたが、ライプニッツもその議論を踏襲している。
「どの実体も自分に可能な最高の完全性に達しなければならず、その完全性は実体に内包されている」134頁
「神がきわめてよく配慮されたので、物質のいかなる変化によっても、理性的魂からその人格の道徳的性質が失われることはない。すべては、宇宙全般の完全性に向かっているだけでなく、これら被造物一つ一つの完全性にも向かっている」102-103頁
ちなみにライプニッツは「完全性」の概念を定義して「完全性とは、事物のもつ限界や制限を除いて厳密な意味に捉えた積極的実在性の大きさに他ならない。」(38頁)と言っている。
引用部で特に個人的に注目したいのは「人格」という用語が絡んでいるところだ。原文でどうなっているか確認しておきたい。
また、この「完全性」の概念が「愛」の概念とも絡んでいるところは注目しておきたい。
ここで言う「愛」が、愛する者の「喜び」という感情を含みつつも、愛されるものの「完全性」から定義されていることに大着目だ。「好き」という感情と「愛」という概念の決定的な違いは、おそらくここにある。「完全性」という概念は、「愛」を理解する上でそうとう重要だ。
また、ライプニッツが「完全性」の概念に絡めて「多様性」を尊重しているところはユニークなオリジナリティとして大いに注目しておきたい。
「神の至高の完全性からして、神は宇宙をつくり出すにあたって可能なかぎり最善の計画を選んだということになる。そこには最大の秩序とともに最大の多様性がある計画だ。」87頁
本書は「一と多」や「完全性と多様性」という、一見すると矛盾する対概念の止揚を目指した、古くはプラトン『国家』『パルメニデス』やアリストテレス『形而上学』の意図を引き継いだ論考と言える。そういう意味では、中世で忘れられていた古代哲学の問題意識を復活させたものとして大きな意義を持っているのかもしれない。
【個人的な研究のための備忘録】同一性
本筋とは直接的には関係ないが、アイデンティティという概念の理解に絡んで、ライプニッツが「川」の比喩を用いているところはメモしておく。
■ライプニッツ/谷川多佳子・岡部英男訳『モナドロジー』岩波文庫、2019年