【要約と感想】梅田百合香『甦るリヴァイアサン』

【要約】三十年戦争やピューリタン革命の時代に生きたホッブズは、宗教の影響力を全面否定し、世俗の主権者が統治する国家理論を打ち立てました。ホッブズの言う「自然状態」は、自由意志を持たない人間は神と善悪の基準を共有できず、自然法を持たないという考え方に基づいています。善悪の基準=法は国家が成立した後に初めて登場します。平和に暮らしたいという人間の「希望」に支えられて熟慮の総和が「意志」となったとき、自己保存のための合理的な帰結として自然法が立ち上がり、神の意志と結びいた倫理的法則となります。一方、カトリックの言う「神の王国」は既に存在しません。自然法に従うべく自らの自然権を放棄する契約に基づいて国家が成り立ちますが、実際に権力を維持するためには軍事力が必要であり、それを支えるのは教育です。
 この自然状態の考え方を国際関係に適用する風潮がありますが、ホッブズ解釈としては間違っています。希望に支えられた「意志」によって自然法が立ち上がり、教育や文化や市民的活動などによって自然法の隣人愛精神が国家内部に根づくことで、国際関係は自然法以前の「自然状態」とは異なる秩序と平和を形成できるはずです。

【感想】現代に生きるわれわれにとっては「法=lex」と「権利=jus」が異なるのは当然の感覚だが、どうやらそれを明確に峻別し切ったのはホッブズらしいことが分かる。そして我々がlexとjusを峻別するのは「国家状態」にあることを当然の前提としているからであって、国家以前の「自然状態」にあってはlexとjusを区別する指標は存在しない。人間はサバイバルのために自分にできること=jusはなんでもするし、自分にできることは神に定められたこと=lexだからだ。しかし自分にできること(自然権)=jusを放棄して、主権者の定めたルール=lexに従うことを「意志」したとき、「国家状態」に突入する。できること=jusと従うこと=lexを区別しなければいけなくなる。こうなるとlexとjusがカバーする範囲の相違が問題となるが、基本的にホッブズは個人の内面をjusの範囲とし、外面に出る行動をlexの適用範囲とする。これをもって「個人の誕生」と見なすかどうか。逆に言えば、個人主義が誕生していないことのメルクマールをjusとlexの混同に置いてよいかどうか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 教育に関する言及がたくさんあり、しかも急所に刺さる論点として提示されている。

「ホッブズによれば、このような人民の指導は、根本的には、彼らの指導者となる人々の教育、すなわち「大学における若者の正しい教育にまったく依存している」のである。それにもかかわらず、イングランドの大学では、ここで教育を受けた多くの説教者たちや法律家たちが、まったく反対に、主権者の権力に反対する学説を人々に説いてきた。したがって、ホッブズからすれば「正しい教育」が施されてきたとは言いがたく、まずは大学が、そこで学ぶ将来のエリートたちに主権者への服従義務を教育するよう改革されねばならないのである。」82頁
「彼にとって、軍事は教育と密接にかかわる問題であった。」84頁
「一人一人の兵士の強さを統一するにはどうすればいいのか。それは、一人一人の兵士の国家および主権者に対する服従心を養うしかない。それをもたらすのは武力ではなく、教育である。ホッブズは、国の平和と主権者権力の定着に必要なのは教育であると主張する。」99頁

 結局もっともらしい理屈を並べても、問題を実際に解決するためには人々に受け入れられる必要があり、それは「教育」という形でしか実現しない。ホッブズの言う社会契約説を見えない土台で支えるのは「教育」であり、おそらくそれはロックやルソーの社会契約論にも当てはまる。だからルソーは『社会契約論』を世に問うたのとまったく同じ年に『エミール』を用意しなければいけなかったのだ。
 そしてそれぞれの論者の社会契約説の性格は、それぞれの論者の教育論の性格を素直に反映する。ルソーは自立した個人としての人間、ロックは経済的主体としての市民、ホッブズは絶対主権者に従う臣民だ。ということは、逆に言えば、教育論を欠いて社会契約説の理屈やメカニズムだけ云々してもあまり意味がないということになる。

梅田百合香『甦るリヴァイアサン』講談社選書メチエ、2010年