【要約と感想】田中浩『人と思想ホッブズ』

【要約】ホッブズは民主主義思想家の元祖ですが、日本では絶対君主主義の権化と誤解されています。ホッブズに至るイギリス政治思想史の研究を怠っているせいです。ホッブズが民主主義者であることを理解するためには、ピューリタン革命前夜のイギリス政治体制の矛盾と課題を正確に認識する必要があります。
 ホッブズの思想は古代エピクロスから決定的な影響を受けており、それが同時代の思想家と際立って異なっている理由です。またルネサンスと宗教改革の思想を体系化し、カトリックの伝統を振り切って、後のロックやルソーに連なる近代的な政治思想を確立しました。

【感想】初心者向けの本である割には、繊細な論点に対して大胆に断定が下されていて、そのぶん話は分かりやすくなっているのだろうけれども、眉に唾をつけながら読む必要もありそうだ。たとえばピューリタン革命については、それを「市民革命の元祖」と見なすかどうか以前に、そもそも「革命」と見なすのかどうかですら議論がある(単なる「内乱」という見解もある)わけだが、そういう論点はバッサリと切り捨てられ、完全に「市民革命の元祖」と見なして話が進む。そういう歴史の単純化は、もちろんホッブズを「民主主義者」と理解する上で決定的な背景となる。逆に言えば、その背景がなくなれば、ホッブズを「民主主義者」とは考えられなくなるかもしれない。
 かつて日本では「日本資本主義発達史論争」というものがあり、明治維新を絶対主義段階と見なす講座派と独占段階にあると見なす労農派に分かれて激しい議論が繰り広げられたわけだが、同じようにイギリスのピューリタン革命(1642年)も、国王処刑という見た目のド派手さに目を奪われて「市民革命」と言いたくなるところ、実質的には伝統的に弱いイギリス王権が大陸の30年戦争に感化されて宗教政策で強権的に出た挙句に貴族層・ジェントリ層からカウンターを食らっただけであって、実は内乱進行の過程においてスコットランド・ウェールズ・アイルランドに対する支配は強化されるなど、むしろ国権の方は伸長しているように見える。これを本当に「市民革命」と評価してよいのか(まあ、民権と国権の伸長は理論的にも実践的にも矛盾するものではないが)。ホッブズにしても、やりたい放題の貴族層や教会勢力の無軌道ぶりの方を「秩序維持」の観点から苦々しく思っていて、貴族と教会の両方をいっぺんに無効化することを目指して神を必要としない「合意」によって権力の基盤を理論づけ、結果として「絶対王政」を正当化する理屈を打ち出しているように見える。仮に結果としては本書の言うような「民主主義」の論理として機能したとしても、ホッブズの本来の意図としてはそうだったようには思えない。そういう意味では、本書はピューリタン革命に関して労農派で、私は講座派という感じだ。まあこのあたり、ヘンリー8世の治世をどう評価するかとか、ジェントリ層の勃興をどう考えるかとか、本書でも丁寧に検討しているコモン・ローの伝統をどう理解するかとか、考えるべき要素が多すぎて、単純化するのが危険なことは自覚しておいて。
 さてしかしもちろんそういう歴史的経緯に対する関心は、ホッブズの時代を超える思想的評価を左右するものではない。近代政治思想史において極めて重要な役割を果たしていることそのものは間違いない。ホッブズ本人の意図として絶対王政の確立を仮に目指していたとしても、その理屈として貴族と教会の支配を排除して「一つの主権」を民衆の「合意」から積み上げて理論化したことは、近代民主政確立のための大きな一歩となった。また本書ではエピクロスとの関係について詳しく書いてあって、勉強になった。特にメルセンヌのサロンにおけるガッサンディとの関係は、類書では言及されることがなく、様々なインスピレーションが湧いてくる。

【個人的な研究のための備忘録】古代エピクロスの影響
  著者の卒論がエピクロスとの関係を扱ったもののようで、本書でもかなり詳しくエピクロスからの影響について語られる。やはりルクレティウスを経由していることなど含めて、なかなか勉強になる。

「われわれが西洋哲学史の著名な教授たち(中略)の著作を読むと、そこにはいずれも、ホッブズの政治思想にはエピクロスの影響がある、という指摘がみられる。(中略)
「人間論」から「社会契約論」を通じて「国家の設立」までを説明するホッブズの政治思想には、エピクロスの政治思想の影響が決定的なものであることがわかる。」118-119頁
「そこ(メルセンヌのサロン)でホッブズは、古代ギリシア・ローマの歴史や哲学にくわしいガッサンディと意気投合し、恐らく、かれから、エピクロスの唯物論や哲学思想を詩の形で書いたルクレティウスの『事物の本性について』という本を紹介され、それが、ホッブズが、母国の危機にさいして、国家論や政治論を各時の貴重な知的財産として用いられたのではないかと思われる。」121頁
「こうした人間論(「認識論」)からはじめて「道徳哲学」、「社会哲学」、「政治哲学」へと積みあげていく体系的手法の創始者は、近代においては、ほかならぬホッブズその人であったが、そのホッブズにヒントを与えたのが、エピクロスであった。エピクロスを発見したこと、それがホッブズを、世界の大思想家へと押し上げた理由であった。」124頁

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスと宗教改革
 ルネサンス及び宗教改革との関係も、順接的なものとして評価されている。そしてこの場合のルネサンスとは一般的なプラトン・アリストテレスの再評価ではなく、「エピクロスの発見」だということは忘れない方がいいのだろう(からメモしておく)。一方、宗教改革との関連については、ルターやカルヴァンの考え方を引き継いだというよりは、30年戦争のような宗教戦争が巻き起こす大混乱を目の当たりにしてドン引きしていたというのが本当のところではないのか。宗教に対しては確かに聖書主義的なアプローチを見せているが、聖書至上主義のルターやカルヴァンよりも、単に都合の良い言質を引き出す源泉として合理的に聖書を使うエラスムスやモンテーニュのほう(つまり人文主義)に似ていると思う。

「「自己保存」という「理性の哲学」(自然法)と「聖書」(啓示)にもとづいて宗教を論じたホッブズの学問的方法は、別の言葉で言えば古代ギリシア・初期ローマの思想にもとづいたルネサンス的思考とルターやカルヴァンなどの宗教改革的思想とを組み合わせた思想的大建築物である、ということができよう。(中略)ホッブズこそが、「ルネサンスと宗教改革の精神」を近代において最初に体系化し、それによって、かれは、その政治思想体系をのちのロックやルソーの近代政治思想へとつなぐことができたのである。」143-144頁

田中浩『人と思想ホッブズ』清水書院、2006年