【要約】狂信的なキリスト教信者の旧約聖書の解釈はめちゃくちゃです。奇跡なんて起こるわけありませんし、預言者を自称している人たちはバカばかりですし、神がユダヤ人だけを選んだなんてことがあるわけないし、そもそも聖書は神の言葉ではありません。宗教なんてものは人々が道徳的に暮らすための方便として役に立てばいいのであって、そこに真実を求めようとするからおかしなことになります。真実とは本ではなく自然の中にあり、そしてそれこそが神でもあります。
人間が平和で文明的に暮らすためには人々をまとめる政府が必要ですが、だからといって個人がもともと持っている自然権をすべて譲り渡して放棄する必要もありません。あらゆるものが自然の法則に従わざるを得ないことを考えると、政府がどれだけ人々をコントロールしようと試みても、それが人間の本質に反している限り、うまくいくわけがありません。そして人間というものは欲することを考え、考えたことを言ってしまう本性を持つ生き物なので、それを止めようとしても無駄ですし、止めようとすると国家の方が壊れます。
【感想】そりゃあ発禁にもなるよなあと。無神論者のチャンピオンとしてスピノザの名前が轟いてしまう、ホッブズもびっくりの宗教論と政治論だ。
宗教論についてはその筋の人に任せておいて、個人的な研究上の興味関心は政治論にある。というのは、社会契約論が全面的に展開されているからだ。スピノザはひとまずホッブズの社会契約論をそのまま踏襲しているように見せて、それを明確に否定する。『エチカ』で詳しく述べることになる人間本性に基づいて、現実的には人間が自然権を100%放棄することなどありえないと主張する。というのは、人間には自己の本性を維持しようとする傾向性(コナトゥス)があり、どんな圧力を加わえてもその傾向性を変えることはできないからだ。さらに、政府の方も無敵の権力を持っているわけではなく、人間本性に反するような運用をするとたちまち人々から見放されて政権崩壊してしまうので、人間本性に配慮した枠の中での権力行使に禁欲せざるを得ない。ということで、自然権の完全な放棄は理論的には考えられるかもしれないが、現実の政治過程を考えた場合、人間本性の許す限りのところでバランスがとれて、一定程度の自然権は必ず各人に残る。そして各人に保持される自然権として要点になるのが「表現の自由」だ。人間の本性として、人間は欲望に基づいてものごとを考えるし、考えたことは表現してしまう。それは自然の摂理であって、国家が止めようとして止められるものではない。表現の自由を制限しようとする国家は、必然的に滅びる。
ただし現代的な観点から問題になるのは、私人間の自然権を調整する、いわゆる「公共の福祉」をどう考えるかだろう。確かにスピノザは政府と個人の間の権力関係については「表現の自由」は尊重されるべきだと結論した。しかし現代日本における「表現の自由」は、国家権力による抑圧というより(依然として重要な観点ではあるが)、私人間の権利調整のほうが難しい問題になっている。この「公共の福祉」という論点については、スピノザから回答を得ることはできない。とはいえ、もちろんそれはスピノザの視野が狭かったという話ではなく、「表現」というものの公共性と私事性の関係が現代日本とはまったく異なっているせいではある。「表現の自由」という自然権が私人の間で衝突したときは、スピノザが言うように「欲望は他人に何らかの損害を引き起す限りは之を抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守る」という原則で知恵を出し合うしかない。
【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
スピノザは、後半で展開する政治思想をダイジェストでまとめている。概略、ここだけ読めば、言いたいことは分かる。
が、細かく見ていこう。まず注目しておきたいのは、「自然権」の具体的な中身が、ホッブズのように単に生命を維持するということではなく、『エチカ』で具体的に展開する人間の本性であるコナトゥス概念を踏まえた形で、「自己の状態に固執する最高の権利」とされていることだ。私個人としては、これは「わたしがわたしでありたい」という再帰的な願いということで理解したい。そしてこの「わたしがわたしでありたい」という再帰的な願いは、各個人の資質や能力とは全く関係がなく、すべての人間(どころかあらゆる個物)に平等だというところが極めて重要だ。スピノザが「欲望と力」と言った場合、ホッブズのいう無軌道なやりたい放題ではなく、「わたしがわたしでありたい」という願いを意味していることには注意したい。
この際我々は、人間と自然に於ける他の個物との間に、また理性を付与された人間とまことの理性を知らない人間との間に、更に又魯鈍者乃至精神錯乱者と精神的健全者との間に何らの相違を認めない。事実各物が自己の本性の諸法則に従つて為すすべてのことを各物は最高の権利に従つて為してゐるのである。各物は自然から決定されてゐる通りに行動し、それ以外には行動し得ないのであるから。」下巻164-165頁
「故に各々の人間の自然権は、健全な理性に依つてでなく、反つて欲望と力とに依つて決定される。実際すべての人間が理性の諸規則・諸法則に従つて行動すべく自然から決定されてゐるわけではないのである。むしろ反対に、すべての人間は全く無智の状態で生れるのであり、そして彼らが真の生活方法を知り又有徳の状態をかち得るまでには生涯の大部分(たとへ彼らがうまく教育された場合でも)が経過するのである。だがそれにも拘はらず彼らはそれまでの間生活をし、且つ自己を出来得る限り維持せねばならぬのであり、そしてそれを欲望の衝動のみに従つてせねばならぬのである。自然は彼らに対して他の何物をも与へなかつたし、又健全な理性に従つて生活する実際の力を拒んだのであるから。」下巻165-166頁
「これからして、すべての人間がそのもとに生れ、又多くの場合そのもとに生活してゐるところの自然の権利及び自然の法則は、誰もが欲せず、誰もが為し得ないことのほかには何ごとをも禁じないとふことが帰結される。」下巻167頁
またここに子どもの姿と教育について触れられていることも頭の片隅に置いておきたい。
続いて、ホッブズの理屈が展開される。ここだけ切り取って理解するとホッブズとの違いが分からなくなってしまうので、この後で否定されることを前提に読んでいく必要がある。
「即ち各人がその有するすべての力を社会に委譲すればよいのであり、かくて社会のみが万事に対する最高の自然権を、換言すれば最高の統治権を保持し、各人は之に対して自由意志に依つてなり或は重罰への恐れに依つてなり従ふべく拘束されることになるのである。かうした社会の権利関係を民主制と名づける。」下巻173頁
ここまではホッブズの理屈をそのまま祖述しただけだが、ここからその否定に入る。
「かくして、我々の見るところに依れば、統治権の権利と力は充分大きいものであるけれども、然しそれは統治権を握る者ならその欲するいかなることをでも無制限になし得ると言つたほど大きいものではないのである。」下巻193頁
ホッブズの理屈は理屈としては正しいのだが、ただそれだけで、人間の本性を踏まえた現実の政治過程においては実現不可能だ、というのがスピノザの主張である。だからこのスピノザの主張を擁護するためには、人間の本性が丁寧に論述されていなければならない。実際、スピノザは繰り返して人間の本性について語るし、主著『エチカ』全編がその根拠となっているといってよいだろう。
【個人的な研究のための備忘録】神の法
スピノザは以上の社会契約論的の帰結を、ユダヤ人の「神の法」にも適用する。
「ヘブライ人たちの各者も、預言的に啓示された宗教が彼らの間で法的効力を持つ為には、先づ自己の自然権を放棄し、すべての者が、共通の同意を以て、神から彼らに預言的方法に於て啓示された命令にのみ服従すべく決心することが必要であつた。このきは民主国家に於て行はれるやり方と全く同様である。といふのは、民主国家ではすべての者が、共通の同意に依つて、理性の指令にのみ従つて生活すべく決意するのであるから。」下巻252頁
本書が1944年に出版されたことを考えると、かなりすごいことを言っている。ここでスピノザがユダヤ教に対して述べている理屈が、太平洋戦争最中の日本の神道にも適用されたらどういう帰結になるか。もちろん文部省は1890年「教育勅語」以来、そして特に1937年「国体の本義」と1941年「臣民の道」ではオカルト的に、日本人にとっての「神の法」は自然状態に先立つと主張し続けてきた(つまり文部省の見解では、縄文時代と弥生時代は存在しない!)。しかしスピノザは、「神の法」が自然状態に先立つわけはないと言っているし、本書はそれを1944年に世に示した。社会契約論(およびそれに基づいた共和制)というものがある特定の日本人論者にとって蛇蝎のごとく忌み嫌われたのは、おそらく現実の革命に結びつくかどうか以上に、「自然状態」という概念が日本の皇室の正統性にとって致命的だからだ。
【個人的な研究のための備忘録】子ども
子どもに関する記述があった。
素朴な形ではあるけれど、「子どもの最善の利益」を目的とする両親の教育権という発想が生じている。近代の法理論では「子ども」がほとんど眼中に置かれない中、スピノザがこういう考えを既に持っていたことは頭の片隅に置いておきたい。
【個人的な研究のための備忘録】分業
分業の観念そのものは古くから見られるが、社会契約論の理屈に組み込まれるのはスピノザ特有か。ホッブズ、ロック、ルソーの理屈を確認しておきたい。
【個人的な研究のための備忘録】教育
意外な文脈から教育に言及している。新約聖書の福音記者が、「使徒」なのか「教師」なのかという文脈である。
ここで言っている「教授方法」というものがどのレベルのものなのか気になって仕方がないが、スピノザのテキストからはこれ以上のことは分からないのであった。
■スピノザ/畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―上巻』岩波文庫、1944年
■スピノザ/畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―上巻』岩波文庫、1944年