【要約と感想】スピノザ『国家論』

【要約】国家権力を語る際には、哲学者のように夢見がちな空想ではなく、経験と実践を第一にリアリスティックに考えましょう。『エチカ』で示したように人間の本性を捉えれば、人間というものは理性というよりは欲望と感情で動くものです。だから、人間の欲望と感情のメカニズムを踏まえて制度を組み立て、運用しないと、国家は滅びます。
 人間も含めたあらゆる個物は自然の法則に従い、生まれ持った欲望と力を自由に使います。しかし人間は協力したほうがより安全で文化的に生活できるので、自由に使えるはずの自然権を抑制するようになりますが、人々が相互に援助して作る権力とはそういう安全にお墨付きを与えるべき役割を持っています。ゆえに国家権力は人々より強力な力を持ちますが、人間の自然(つまり自由)に反してまで権力を行使することはできません。
 国家の形態には君主制・貴族制・民主制の3種類がありますので、人間の本性と自然の法則を踏まえ、それぞれの形態で具体的によりよい国家の制度と運営の在り方を考察します。(未完)

【感想】本文でも明確に言われているように、本書の総論は『エチカ』の欲望論・自由論に『神学・政治論』の自然権論・国家論を掛け合わせて成り立っている。スピノザの他の本と比較して、とてもとっつきやすい。一方、各論に入ってからは、ところどころ見るべきところはあるものの、現代の政治学の水準から見ると物足りない感じは否めない。マキアヴェッリを高く評価しているところがあって、空想論ではなくリアリスティックに現実政治を観察しているスピノザの姿をうかがい知れるのがおもしろいくらいか。
 しかし本書は、当時のオランダが置かれた状況を視野に入れると、とたんに抜き差しならないものに見えてくる。本書に限らず、『エチカ』にせよ『神学・政治論』にせよ、単に学問としての学問ではなく、現実と切り結ぶ意志が明確にあったのだろう。未完のまま終わってしまって、スピノザの民主制論が読めないのが残念だ。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
 本書には『神学・政治論』と違って社会契約論が見当たらないという評価があるらしいが、個人的に思うところでは、確かに「契約」という言葉そのものは出てこないけれども、スピノザ流社会契約論の一端はしっかりうかがえるように思う。

人類に固有なものとしての自然権は、人間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をともどもに確保し、自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意志に従って生活しうる場合においてのみかんがえられるのである」第2章第15節

 まずスピノザにとっての「自然権」は、特に人間に限ったものではなく、無機物ですら「自分を維持しようとする傾向」として持っている。だから上記に引用したところで「人類に固有なものとしての自然権」とわざわざ言っているのは、人類には他の個物と異なる理性があって、その理性によって相互に自然権を抑制し合うことを想定しているからだ。それを踏まえれば、あえて「契約」という言葉を使っていなくても、何らかの合意を経て社会が形成されたとみなしているということで、まったく問題ないだろう。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 国家を人体の比喩として理解するような表現がたくさん見られた。

「人間が共同の権利を持ちそしてすべての人々があたかも一つの精神によってのように導かれる場合においては(後略)」第2章第16節
国家の体躯あたかも一つの精神によってのように導かれねばならず、したがってまた国家の意志はすべての人々の意志とみなされなければならぬから(後略)」第3章第5節
「国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定される(後略)」第3章第7節
「要するに王は国家の精神として、またこの会議体は精神の外的感覚あるいは国家の身体として考えられるべきである。」第6章第19節
「このようにして統治権すなわち国家は常に一にして同一なる精神にあることができるのである。」第7章第3節
「国家の外形は常に一にして同一でなければならず、したがって王は一人にして一系、統治権は不可分でなければならぬ。」第7章第25節

 国家を人体の比喩で捉えることはもちろんプラトン『国家』以来の西洋哲学の伝統で、スピノザに限った話ではない。ここにも見られるということだけ押さえておく。

【個人的な研究のための備忘録】立憲主義
 立憲主義的な表現が見られる。

「思うに国家の諸基礎は王の不変の決定とみなされなければならず、したがって王の役人たちは王が国家の諸基礎に矛盾するようなことを命じた場合は、その命令の実行を拒んでこそ真に王に服従することになるのである。」第7章第1節

 ここで言う「国家の諸基礎」が現在の憲法に当たる。憲法に反する命令は君主でも行えないという立憲主義が示されている。

【個人的な研究のための備忘録】大学
 思いがけず、大学に関する記述があったのでサンプリングしておく。

「国費によって建てられる諸大学は精神を涵養するためによりはこれを抑制するために設立される。しかし自由国家にあっては学問ならびに技芸は、公然と教師として立つことを希望者の誰にでも許し、しかもそれをその者の費用その者の責任において行わせる時に最も繁栄する。」第8章第49節

 スピノザは国立大学を保守的・国権的な立場を擁護するものとして捉える一方(実際伝統的に高位聖職者養成機関として機能してきた)、私立の教育機関の自由な活動が学問や技芸を発展させると考えているようだ。そもそも考えてみれば、スピノザ自身も大学にポストを得て活動したわけではなく、レンズ磨き(?)などをしながら自由な学究生活を続けていた。デカルトもそうだ。いま自分は「費用」を出してもらってのうのうと研究しているわけだが、自活しながらやっていた人たちには頭が下がる。

【個人的な研究のための備忘録】マキアヴェッリ
 マキアヴェッリに対して好意的な表現がある。スピノザに限らず、マキアヴェッリを権謀術数の徒ではなく、共和制の擁護者として考える立場は根強くある。『君主論』だけでなく『ディスコルシ』とか『フィレンツェ市史』などを見ると、確かに共和制にシンパシーを感じているだろうと思える。スピノザも共和制に共感する立場としてマキアヴェッリを評価しているということだろう。

「マキアヴェリはおそらく、自由な民衆が自己の安寧をただ一人の人間に絶対的に委ねきることをいかに用心しなければならぬかを示そうと欲したのである。」第5章第7節

スピノザ/畠中尚志訳『国家論』岩波文庫、1940年